これは「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「シンポジウム2 高松塚古墳の出現」のメモである。 シンポジウムの参加者は松本清張氏、斎藤忠氏、井上光貞氏、伊達宗康氏である。
松本清張氏、斎藤忠氏、井上光貞氏、伊達宗康氏の意見はピンク色の文字で、その他ネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見はグレイの文字でしめす。
・高松塚盗掘穴の石は残っていた。朱雀はないのではなく、漆喰がはがれている。(伊達宗康氏) ・絵を描くときには南側があいていたと思われるので暗くはなかった。(伊達宗康氏) ・床面に棺座とか棺台のようなものはなかった。(伊達宗康氏) ・高句麗壁画古墳には壁画に柱が描かれているものがあるが高松塚には描かれていない。(伊達宗康氏) ・高句麗とはちがった簡素な棺室。(伊達宗康氏) ・墳丘基底部の切石には文字はなかった。(伊達宗康氏) ・羨道(えんどう)はない。(伊達宗康氏) ・終末期には羨道が短くなったり、なくなっていく。(松本清張氏)
羨道、墓道、玄室の意味は下記イラストがわかりやすい。
柏原私立歴史資料館 説明板より
・高句麗、百済、扶余、公州には高松塚のような横口式石槨はない。(斉藤忠氏) 日本には薄葬令の規定があったため、簡素な石室となったのではないだろうか。
・島根県には横口式の石棺でありながら、石室のような恰好を示したものがある。大阪の横穴式石室で奥の方にああいうものを特に設けて棺を設置しているが、そういうものの影響をうけているかもしれない。(斉藤忠氏) ・高松塚の様な横口式石槨に羨道をつけたものは河内にある。 羨道がなくて似ているのは、平城宮跡のカラト古墳。

石のカラト古墳
石のカラト古墳は上円下方墳で7世紀終り~8世紀初頭に造られた古墳と考えられている。
被葬者は天武天皇の皇子で、長皇子(?~715年。弓削皇子兄)6月4日薨去や穂積皇子(?~715年)ではないかと考えられている。
・鬼のまな板、厠は石をくりぬいて石槨にしている。これは飛鳥と法隆寺付近にでているだけ。(伊達宗康氏)
鬼の厠
鬼の俎
牽牛子塚古墳も巨石をくりぬいて2つの石室を作っている。
牽牛子塚古墳
法隆寺付近にある石をくりぬいて石槨にした古墳と何という古墳だろうか。
・岩屋山式と呼ばれる切石の横穴式石室では羨道部の端を外に出していたと考えられるるものがある。扉はある。(西宮古墳、ムネサカ古墳、岩屋山古墳など)(伊達宗康氏)
・中尾山古墳は規模が小さくて棺が入らないので蔵骨器が入っていたのではないか。 中尾山古墳で古墳と火葬墓の接点になる。古墳でないとはいいきれない。(伊達宗康氏)
この本が出版された昭和47年当時はわかっていなかったのかもしれないが、中尾山古墳は八角墳であり、火葬墓であることから真の文武天皇陵とする説が有力視されている。
中尾山古墳
・墳丘のマウンドの築き方が版築工法で寺院の基壇の築き方と共通する。 版築工法は前期、中期でも普通にあるが後期のものは前期、中期のものとは異なる。 最近の鍬で掘ったら固くて鍬先がまがるほど。(伊達宗康氏)
・漆喰を塗った古墳は壁画を描く前提のようなかんじがする。(井上光貞氏)
・畿内で漆喰を塗った古墳は30例ほどある。 間隙を詰めるための漆喰、壁画を描くための漆喰の2種類がありそう。 阿武山古墳は壁画のためではなく、間鍬を詰めるものだと思う。もし壁画があれば色はそのまま残ると思う。 聖徳太子廟は間隙を漆喰で詰めている。描くという発想ではなく、壁面をきれいにするという詰め方。寺院建築で壁画が描かれ、その後古墳に壁画を描くという発想になったのではないか。(伊達宗康氏)
阿武山古墳 今城塚古墳歴史観にて撮影(撮影可)
・九州辺りにも装飾古墳以外でも漆喰を塗った古墳はある。(斉藤忠氏)
・牽牛子塚や文殊院西にはなかったとはいいきれないかもしれない。古くから口があいていたので、退色、風化したかもしれない。(伊達宗康氏)
・棺台は聖徳太子廟、天武持統合同陵(阿不幾乃山陵記による)にはある。高松塚にはないが、そのかわり床面を漆喰で固めている。
・九州の装飾古墳は6世紀から7世紀。(斉藤忠氏) 王塚古墳は6世紀中ごろ。
・九州の装飾古墳は高句麗の影響があると言われるが、絵柄に高句麗の影響はないと思う。 龍ヤガマの絵はあるが形がそれらしいと言うだけで、ほとんど自由画。シロウトが描いたもの。 高松塚の者は専門の画家(高句麗系の黄文連集団の画師?)が描いた。 畿内のほうは朝鮮からの直輸入、北九州はそうではなかったという気がする。 九州のは武人、高松塚は風俗画でまったくちがう。(松本清張氏)
しかし、以前にもご紹介した竹原古墳は、高松塚古墳壁画に描かれているようなさしばを持つ人物、四神図などが描かれており、高句麗の影響を受けているようにも思われる。
。・
・線刻の壁画は大阪のほか、鳥取、香川(太刀をさした人物像)、埼玉(地蔵塚)でもでている。 北九州のは民間人による直接の交流、畿内のは正常な国際ルートの基で発達した絵画(斉藤忠氏)
柏原私立歴史資料館 説明板より 高井田横穴墓 壁画
柏原私立歴史資料館 説明板より 高井田横穴墓 壁画
高井田横穴墓 説明版より
柏原私立歴史資料館 高井田横穴墓 壁画(レプリカ)
柏原私立歴史資料館 高井田横穴墓 壁画(レプリカ)
高井田横穴墓 説明板より 照明が暗くてよく見えなかった。
・原田大六氏が次の様に言っている。 磐井の墓が反乱軍の対象ということで、それまで外にあった石人、石馬が壊された。それ以降、筑紫では外部の装飾が地下の壁画になった。(松本清張氏)
・原田氏のように簡単に言い切れるかどうか。 ただ磐井でも見られるように、北九州あたりに新羅などと交渉をもって畿内に対抗する意識を持つものはあったかもしれない。(斉藤忠氏)
岩戸山古墳は 6世紀前半に築造された前方後円墳で、被葬者は筑紫君磐井と考えられている。 磐井は527年(継体天皇21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を妨害し、翌528年(継体天皇22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱である。 磐井は物部麁鹿火によって斬殺されたと伝わる。
松本氏がおっしゃっている石人石馬は上記動画7:45辺りに登場する。 墳丘・周堤・別区から出土した100点以上の石製品が100点以上出土しており、人物・動物・器財などが実物大で作られている。
原田大六氏はこれら出土した石人石馬を、破壊されたものだと考えたということだろう。
:岩戸山古墳 石製品 (模造品)
・法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。 たとえば塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に壁画を描くのも異端である。 斎藤氏は皇族以外に考えられないというお考えだが、私は中央政府の遺志に高速されずやれると思う。 特に都が奈良に移ってからは。(松本清張氏)
夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)
夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)部分
・私は松本清張氏のような考え方はしない。(井上光貞氏)
・山口県萩の見島古墳には平安時代の貨幣が副葬されていた。この辺りは平安時代まで古墳が存続していた。
調べたら貞観永宝のようである。
・牽牛子塚古墳、中尾山、菖蒲池など時代差はなさそうだが個性を持っている。(伊達宗康氏)
・後期古墳は6世紀末。七世紀の前半に切石が登場する。(伊達宗康氏)
・石舞台や聖徳太子墓は内部がきちんとした切石。(松本清張氏)
石舞台古墳
聖徳太子廟 ※明治時代にコンクリートで塞がれたので中に入ることはできない。
https://www.rekishijin.com/11948 (内部 近つ飛鳥博物館再現展示)・丸山古墳、石舞台、水泥古墳などは7世紀おわりまで。その後は墓室が小さい古墳になる。 地方では金鈴束、観音塚など大型前方後円墳が残っている。(斉藤忠氏)
丸山古墳
・高松塚の被葬者は皇族ではないか。 天武持統陵の天武は乾漆棺に安置されて、瑪瑙石で切石の様に築いている。(阿不幾乃山陵記) 金箔・銀箔を用いるのは東アジアの壁画古墳の中でも珍しい。(斉藤忠氏)
・高松塚は8世紀をかなり下っていると思う。 永秦公主墓の壁画は初唐(706年)だが高松塚の壁画の顔は盛唐期にかなり近いのではないか。 樹下美人図や吉祥天図のように太っていない。また群像を描いているのが似ている。 永秦公主墓系壁画が日本にきてから和様化されるまでに期間を考えると、720年~730年ごろではないか。(松本清張氏)
薬師寺 吉祥天図
・奈良時の墳墓は元明・元正陵、石のカラト古墳、黄金塚しかない。これからもでる可能性は薄いのではないか。
・南京の登県で、6世紀中ごろの壁画がある。玄武も描かれている。四神や日月星辰は北魏、唐などにもいろいろある。高句麗だけでなく、百済を背景にした南朝も考えてみてはどうか。 百済にも壁画古墳はある。公州では四神が描かれている。扶余にもある。日月星辰の信仰は中国にずっとあり、後代まで続いている。(斎藤忠氏)
・石槨の切石は百済っぽく、画の内容は高句麗っぽい。(伊達宗康氏)
・永泰公主墓の図柄が高松塚のものににている、さしばも描かれている。高松塚は永泰公主墓を手本にしている。髪型は国籍不明だといわれるが。(松本清張氏)
・永泰公主墓を粉本にしたのではんく、前からこういう粉本があって永泰公主墓にも高松塚にも応用されたのではないか。
・群像は永泰公主墓に似ているというよりは、藤原京時代の左右均整を重んじた風潮によるのではないか。(伊達宗康氏)
・永泰公主墓と違い、高松塚はやまと絵風。眉の書き方など。
確かに眉がちがう。
・高松塚壁画には仏教の影響がない。寺がたくさんあり、持統天皇が火葬、仏教の最盛期になぜ地下の墳墓は仏教の影響がないのか。 記紀に登場する黄泉の国のような暗い印象もない。(松本清張氏)
このシンポジウムが行われたとき、キトラ古墳はみつかっていなかったが、キトラ古墳には十二支が描かれており、中国の仏画にも十二支が描かれていた。
地獄の法廷を描いた中国の仏画
製作年代、作者などわからないのが残念なのだが、いわゆる地獄絵のようである。
中央に閻魔大王が描かれている。 閻魔は、仏教における冥界の王である。
日本の地獄絵は鬼が亡者を責めるものがほとんどだと思うが、ここでは獣面人身の者が地が亡者を責めている。
絵が小さいのでわかりにくいが、羊、牛、馬、虎、鶏、辰のような顔をした人(神?)が確認できる。
するとキトラ古墳は仏教における冥界で獣面人身の者たちが、キトラ古墳の被葬者を責めるの図のようにも思えてくるのだが、どうだろう。
西福寺 地獄絵
日本の地獄絵も撮影可能で撮影させていただいた写真をじっくり見てみると、動物が描かれているものがいくつか見つかった。 長くなるのでまたあらためてご紹介することにして、1枚だけここに張り付けておく。
西福寺 地獄絵 これは牛のようにみえるがどうだろうか。
・高句麗、東アジアでも壁画は仏教関係は少ない。 6世紀の水泥古墳に蓮華文が入っている程度。九州の装飾古墳にも仏教色がない。(斉藤忠氏)
・万葉集にも仏教の影響は少ない。(井上光貞氏)
水泥古墳 石棺に蓮華文がはいっている。
・日本の古典を見ると、高松塚壁画に描かれた女性の服装のイメージが浮かんでこない。 この服装は高句麗式。 続日本紀をよむと、文武・持統あたりから、色についてはやかましくいっている。色物をきてはいけない、公式の場面呑み官位に応じた色の衣服を着けよなどとある。高松塚の様なカラフルなファッションはありえただろうか。持統、文武朝には結髪の令がしばしばでているが高松塚女性の髪型は結髪の令によるものか。 また絵空事を描いた可能性もある。(松本清張氏)
古典に記されたファッションとはどのようなものだろうか?
・高松塚の男性にはヒゲがある。(伊達宗康氏)
向かって左から2番目の人は顎髭を生やしている。  向かって右の人は顎髭を生やしているように見える。
・推古12年(604年)、黄文の画師を定む、とある。動乱におわれて高句麗の技術者があの頃きたのは事実。 高句麗の人は中国に行けなかったとも考えられる。隋と高句麗は好戦し、結局土井らも亡びた。初唐期では高句麗の亡人を受け入れられなかったのではないか。(松本清張氏)
亡人とは死者のことだが、どういう意味だろうか。
・黄文連は新撰姓氏録では高句麗の画師となっている。(井上光貞氏)
黄文連の連は「むらじ」とよむのだと思う。
ヤマト政権は、5世紀〜6世紀にかけて氏姓制度と呼ばれる支配の仕組みを作った。 豪族たちは血縁や政治的な関係を基準に構成された氏(うじ)と呼ばれる組織に編成され、氏単位でヤマト政権の職務を分担し、大王は彼らに姓(かばね)を与えた。 大和政権の中枢は、臣(おみ)・連(むらじ)の姓を与えられた氏が担い、臣・連の中でも特に有力な豪族を大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)と言った。
『新撰姓氏録』山城諸蕃によれば、黄文連は、高句麗の久斯祁王の後裔とあるそうである。
『日本書紀』『聖徳太子伝暦』などによれば、604年に黄文画師(きふみのえかき)、山背画師(やましろのえかきが制定されたとある。
天武天皇元年(672年)の壬申の乱当時、黄書大伴というものが大海人皇子(後の天武天皇)の舎人で、のちに山背国(山城国)国司に就任、正四位を賜っている。天武12(683年)、黄文造は連(むらじ)姓を賜った[3]。
・黄文本実は後に文武家事等の山造師(葬送儀礼に関わっている。)(井上光貞氏)
・黄文連造大伴が画師の大将。 702年、申正月、黄文本実が殯官の事を司るとある。黄文連は葬送事務、儀礼執行に関係がある。 黄文系集団の主張が配下の画師を動員して墳墓の壁画を描かせたのかもしれない。(松本清張氏)
黄文本実は707年の文武天皇の崩御に際しては、志貴皇子・犬上王・小野毛野・佐伯百足とともに殯宮の行事を勤めている。 文武天皇の真陵は火葬墓であること、八角墳であることなどを理由に中尾山古墳が確実視されているが 中尾山古墳を発掘調査したところ、石室に壁画はなかった。
・百済の画氏は早くから渡来してきている。黄文画師の高句麗系技術集団で遅れてやってきたが、新しい技術を携えてやってきて、百済系画氏を圧倒したのかもしれない。 法興寺の丈六の大仏を入れたとき止利は技術をほめられている。 鳥羽の表では王辰爾だけが解読した。(松本清張氏)
止利とは鞍作止利の事だと思う。 605年、推古天皇は一丈六尺の金銅仏と繡仏を各1体ずつの制作を命じ、止利をは造仏の工(担当者)に任じた。 606年、仏像は完成したが、金銅仏の高さが法興寺(飛鳥寺)の金堂の戸より高く、戸を破壊しないと堂内に入れられなかったが、止利の工夫によ って、戸を壊さずに安置することができたという。
具体的にどのような工夫をしたのかについては記されていないようだが、ネットを検索すると光背をはずしたのではないか、というものがあった。
この功績により止利は大仁の冠位に叙せられ、近江国坂田に水田20町を与えられた。 またこの仏像の制作を聞いて、高句麗王が黄金300両を貢したと、日本書記にはある。 このことから、止利は高句麗系と考えられているのかもしれない。
王辰爾の話は「鳥羽之状事件」と呼ばれる。 570年、上表文を携えた高句麗の使節がやってきたが、誰もそれをよむことができなかったが 572年、王辰爾が解読した。 上表文はカラスの羽に書かれており、羽の黒い色に紛れて読めなかったが 王辰爾って羽を炊飯の湯気で湿らせて帛に文字を写し取ることで、解読し、敏達天皇と大臣・蘇我馬子から賞賛された。(日本書記)
上表文を以ってきたのは高句麗の使節だが、王辰爾は第16代百済王・辰斯王の子・辰孫王の後裔である。 松本清張氏は、なぜ高句麗からの帰化人が新しい技術を携えてやってきて、百済系画氏を圧倒した例として王辰爾をあげているのか、わからない。
・黄文は姓が同一系かどうかを決めるのに問題が残る。造とか連とか。(井上光貞氏)
・松本清張氏は百済が古いというが、そうでもない。天智天皇代、白村江で敗れて以降もかなり入ってきている。 僧侶では百済僧、高句麗僧の両方が飛鳥にいる。 黄文にこだわりすぎないほうがいい。(斉藤忠氏)
・広く考えると問題が絞れなくなる。かなり憶測があっても絞ったほうがいい。(松本清張氏)
松本氏は作家らしい、斎藤氏は考古学者らしい意見だな、と思った。 これについては、私は松本氏の意見よりも斎藤氏の意見に同意する。
先ほども書いたが、黄文本実は707年の文武天皇の崩御に際し殯宮の行事を勤めている。 文武天皇の真陵は火葬墓であること、八角墳であることなどを理由に中尾山古墳が確実視されているが 中尾山古墳を発掘調査したところ、石室に壁画はなかった。
「殯宮の行事を勤めている」という事は、古墳造営に関わっているということだが、彼がかかわった中尾山古墳(真の文武陵)には壁画はなかったので、 黄文本実や黄文氏が高松塚古墳壁画を描いたという証拠がないということになる。 勿論広く見ると焦点は絞れないが、絞った焦点が間違っていれば、結果がちがってきそうだ。 分からないものは分からないとしておくのも科学的な態度ではないかと思う。 ただし、黄文本実や黄文氏が高松塚古墳壁画を描いたと仮定してみると、どうなるかと考えることは有意義かもしれない。 多くの点で辻褄が会えば、高松塚古墳壁画を描いたのは黄文氏である可能性は高くなるかもしれない。
・高松塚の横雲の線はフリーハンドではない。ミゾひき。太陽と月はコンパスを用いている。(松本清張氏)

高松塚 日像
高松塚 月像
・日・月の大きさはどちらも7.5cm(斉藤忠氏)
・九州の装飾古墳の円文や同心円文はコンパスを使っているが、円の中心にコンパスの脚をたてたあとがある。(松本清張氏)
・高松塚は金箔、銀箔をはっているのでコンパスの跡はわからない。(伊達宗康氏)
・天武持統陵は高さは50m。(井上光貞氏)
・高松塚は5m。(伊達宗康氏)
・文武天皇陵も大きい。同時代でありながら墳墓に大小があるのは階級の差ではないか。(松本清張氏)
下は梅原氏の「1尋=2m」で換算した古墳の大きさである。
※被葬者の名前は参考までに書いたが確定しているわけではない。
薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m) 牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m) ※石敷・砂利敷部分を含むと32m 越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m) 野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m) 阿武山古墳(中臣鎌足/669)・・・・・・・・・封土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域 御廟野古墳(大田皇女/672)・・・・・・・・・下方辺長35尋(70m)※上円下方墳と見做す場合・高さ4尋(8m) 中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m) 高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m) キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m) 岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m) 園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m) 束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・対角長15尋(30m) 鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m) 栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、真の文武陵は中尾山古墳である可能性が大きい)径14尋(28m)、高さ1尋(2m)
井上光貞氏は天武持統陵の高さは50mとおっしゃっているが、高さは9mである。 伊達宗康氏が高松塚を5mとおっしゃっているのはそのとおり。 松本清張氏は文武天皇陵も大きいとしておられるが、高さは2mである。
ただ、私も実際にこれらの古墳を見に行ってみて、天武持統陵や文武天皇陵は大きく、高松塚は小さく感じた。 その理由は天武持統陵や文武天皇陵には木が生い茂っていることが関係していそうだ。 また、もしも中尾山古墳、高松塚古墳のように丘陵の上に築かれているとすれば、木が生い茂っていることもあって、高さをどこからはかっていいのかがわからない。
・高松塚古墳は決して小さくない。(伊達宗康氏)
これは上の比較表を見れば一目瞭然で、伊達氏のおっしゃるとおりである。
・年代で決定的なのは鏡だと思う。少なくとも上限はわかる。 海獣葡萄鏡は初唐ぐらいから作られている。 高松塚のものは法隆寺の五重塔から出たものよりタイプが古い。(井上光貞氏)
・日本で出土したもので高松塚と同形のものはない。中国に照会してもらうことになっている。(伊達宗康氏)
高松塚古墳出土鏡の年代については中国の墳墓から出土した海獣葡萄鏡との比較などから、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後などとしている[27]。
このように高松塚出土の海獣葡萄鏡の年代については、現在でも諸説あって定まらない。
同型鏡が中国の7世紀末の古墳(独弧思貞(どっこしてい)墓(689年)・十里鋪337号)から出土しているので、704年に帰国した遣唐使が持ち帰ったものではないかとする意見もあるが 689年に築造された古墳から出土したからといって、689年に近い年代に製作されたとは言い切れないと思う。 例えば、500年ごろに製作され先祖代々伝えられていた海獣葡萄経を副葬品として689年におさめるなんてことも考えられないでもない。 また、独弧思貞墓が689年に築造されたものだとしても、同じ鋳型をつかって689年以降に造られた可能性が排除できないもちろん704年に遣唐使が持ち帰った説については、朝鮮半島の人々が献上物として、日本にもたらせた可能性もあるとの反論がある。
・岸俊男氏は「天武持統陵が藤原京の朱雀大路の線上にのる」とおっしゃっている。(聖なるライン) 直木孝次郎氏は「線ではなく、ゾーン」だとおっしゃっている。(ホーリーライン)
1969年に岸俊男は、日本の藤原京遺跡のメインストリートである朱雀大路の延長線上に、檜隈前大内陵、菖蒲池古墳、中尾山古墳が存在することを指摘した[8]。1972年に発見された高松塚古墳の壁画をもとに直木孝次郎がそれぞれの古墳の被葬者を推測したところ、マスコミはその直線を「聖なるライン」と名付けて報じて世間の注目を集めたが「聖なるライン」説の意義は学術的には評価されなかった[8]。その後、藤堂かほるが藤原京大極殿の真北に天智天皇陵があることから、その造営時期を文武天皇の時代とする説を発表したところ、猪熊兼勝がそれを承けて「聖なるライン」説に大極殿、天智天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳を加えた、新しい「聖なるライン」説を提唱した。猪熊によれば、それらの遺跡は、すべて東経135度48分19-29秒の範囲にあり、誤差は10秒以内に収まることから「聖なるライン」は意識的に作られたものであり、計画したのは天武天皇だと主張している[8]。
ゾーンとは「地域」や「区域」という意味である。 直木孝次郎氏のホーリーラインについては調べたりないせいか、わからなかったが、「古墳が線上に並んでいる」のではなく「古墳がある区域があるにまとまってある」という印象をもっている。 というのは、聖なるラインから外れた所にも古墳は多く、また聖なるライン上から中尾山古墳、高松塚古墳、キトラ古墳などは若干ずれているからだ。(これについては誤差のうちだという反論はあるとは思う。)
・中国では、これは(古墳の立地の事をおっしゃっていると思う。)あくまで北。南に墓を作ることはほとんどない。なので藤原京の南の線上というのは疑問。 高句麗の輯安(集安)も南の開けた土地にというのはない。新羅の慶州にもない。(斉藤忠氏)
・藤原京の場合は、北が低く平地になっていて、南が山という立地条件もある。藤原京の地勢から見て墳墓の地は北には求められない。(伊達宗康氏)
地図むかって右に藤原京跡とある。どういうわけか、藤原京跡を中央にもってくることができなかった。(すいません)
・藤原京は四神相応のちに造られている。北は耳成山、西は飛鳥川。北は山、東は道、西は川(井上光貞氏)
・藤原京の西も東も川はある。(伊達宗康氏)
・北に山(玄武)、東(青龍)と西(白虎)に丘陵があり、南(朱雀)の平坦地を抱えるようにつきでている。(松本清張氏)
・松本清張氏がオッ射程るのは四神の思想。風水ではない。 風水とは風を蔵し水を得るということ。三方山に囲まれて南で水を得る。(斉藤忠氏)
四神相応の地は、北に丘陵、東に川、西に大路、南に湖沼のある地のことをいうのだと思っていた。
藤原京の北には井上氏がおっしゃっているように耳成山、東には米川、西には紀路(現在の近鉄橿原線、橿原神宮前駅から線路沿いに南へ、飛鳥駅に向かう道)がある。 南にも石川池などいくつかの池が存在している。
しかし、諸氏の発言を聞いていると、私の認識の方が間違っているかもと心配になってきた(汗)
中国や韓国における風水の四神相応は、背後に山、前方に海、湖沼、河川の水(すい)が配置されている背山臨水の地を、左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいう。この場合の四神は、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。 どうもこれを読むと、東西南北は関係ないようだ。
・朝鮮では現在でも築墓は、風水によっている。前方後円墳の向きがバラバラなのは、風水によって築造されたからではないか。(松本清張氏)
・九州の装飾古墳はいたるところにある。そうすると高松塚古墳のような古墳がもっとあってもいいような気がする。(松本清張氏)
・古墳かなと思って掘ったら山だったというケースが多い。(伊達宗康氏)
1⃣金達寿氏の説
①文武陵(中尾山古墳)には壁画はなかった。
・奈良・中宮寺の天寿国曼荼羅繍張の下絵は高麗加西溢が書いた。百済系東漢末賢、漢奴加己利らとの合作。
・今井啓一氏 高松塚古墳壁画を描いたのは高句麗系絵師の黄文本実と断定 文武陵も黄文本実が手掛けたので高松塚古墳と同様な装飾がなされているはずといっている。
黄文本実は707年の文武天皇の崩御に際して、志貴皇子・犬上王・小野毛野・佐伯百足とともに殯宮の行事を勤めている。 しかし、文武陵は発掘調査の結果、火葬墓で八角墳の中尾山古墳が有力視されており、中尾山古墳には水銀朱が塗布されていたが壁画はなかった。
中尾山古墳
中尾山古墳 石室内部
・樋口清之氏、長谷川真氏、高松塚の女性像は朝鮮高句麗と同質としている。
高松塚女子像
09:09あたりの人物像は高松塚古墳壁画の女性のファッションににている。
⓶帰化人史観
・小林幸雄氏 画家が粉本(手本)を忠実に再現したもの・高松塚古墳の発見のニュースは、すでに韓国において異常な反響をまきおこしているとつたえる。今後、日本の学界が、この壁画の系統観について、高句麗説から唐説へ動くことを予想すると、それがまた政治的にとりあつかわれることを恐れる。はじめに高句麗説を出した人は、おそらくそこまでは考えなかったのであろう。しかし、慎重さを欠いていたことになろう。(小林幸雄氏)
・ところが、婦人の衣服は唐のものよりも高句麗に近い。 同時にそれは日本の女子埴輪の衣服とも似ている。そこで、この壁画田粉本を忠実に再現したものだとすると、その粉本は中国でも北方の服装を描いたものにしなければなるまい。』(小林幸雄氏)
・中国か高句麗か、どちらの影響を受けているか、という点で論議が高まっているが、私は中国説をとっている」(樋口隆康氏)
・小林氏からこういう説が出るのは、その裏に皇国史観・帰化人史観があるからではなかろうか。
帰化人史観という言葉は初めてきいた。
近代には外国人が日本国籍を取得することを法律上帰化というが、日本史上で帰化人といえば、主として平安時代初頭までの人々を指すのが普通である[1]。日本語の帰化人という言葉は「古代にあって、国家統一以降に渡来した人の男系子孫」という意味以外に使われることは誤用を別にすればない[2]。「帰化」の語はもとは中華思想から出た語であるが、日本では中国の慣例に従って用いたにすぎず、とくに王化を強調する意図はない[1]。「帰化」という用語は長らく、日本国家に朝貢・奴隷化した人々を指す用語とされた[3]。こうした通説を批判した上田正昭は、「日本人の一部にはいまだに『帰化人』を特殊視したり、あるいは極端に差別されていたかのように考えたりしている人々がある。しかし、そのような見方は不当な認識にもとづくものであり、民族的差別を合理化する結果になる。こういう考えは、古代の支配者層が抱いていた蕃国の観念や近代日本の為政者がつくりだした民族的偏見にわざわいされているものである」として、「帰化」の用語にまとわりつく差別性が近代の産物であることを指摘した[4]。金達寿は、帰化人を在日朝鮮人のイメージに投影した張本人と目されているが、実際は、古代の帰化人と近現代の在日朝鮮人とが無関係であることを指摘しており、古代の帰化人は日本人の祖先である可能性はあっても在日朝鮮人の思想ではないと主張し、帰化人を在日朝鮮人に投影する思考の在り方を根本的に批判した[5]。また金達寿は、日本国家が成立する以前と以後で、渡来人と「帰化人」の用語を使い分けることを提案おり、帰化人の用語を使用するべきではないと主張したことはない[6]。一方、こうした渡来人観・帰化人観に対しては、「渡来」は単に来たという意味が強く、日本に定着して在来の日本人の一員となった人々という意味が弱いという批判がある[7]。
a日本史上で帰化人といえば、主として平安時代初頭までの人々を指す。 b日本語の帰化人という言葉は「古代にあって、国家統一以降に渡来した人の男系子孫」という意味。 c「帰化」の語はもとは中華思想から出た語であるが、日本では中国の慣例に従って用いたにすぎず、とくに王化を強調する意図はない。 d「帰化」という用語は長らく、日本国家に朝貢・奴隷化した人々を指す用語とされた。 e日本人の一部にはいまだに『帰化人』を特殊視したり、あるいは極端に差別されていたかのように考えたりしている人々がある。しかし、そのような見方は不当な認識にもとづくものであり、民族的差別を合理化する結果になる。こういう考えは、古代の支配者層が抱いていた蕃国の観念や近代日本の為政者がつくりだした民族的偏見にわざわいされているものである」(「帰化」の用語にまとわりつく差別性は近代の産物) f金達寿(このコラムの著者)は、帰化人を在日朝鮮人のイメージに投影した張本人と目されている。 g実際には、金達寿は ・古代の帰化人と近現代の在日朝鮮人とが無関係であることを指摘している。 ・古代の帰化人は日本人の祖先である可能性はあっても在日朝鮮人の思想ではないと主張 ・帰化人を在日朝鮮人に投影する思考の在り方を根本的に批判した。 ・日本国家が成立する以前と以後で、渡来人と「帰化人」の用語を使い分けることを提案している。 ・帰化人の用語を使用するべきではないと主張したことはない i「渡来」は単に来たという意味が強く、日本に定着して在来の日本人の一員となった人々という意味が弱いという批判がある。
このウィキペディアの金達寿氏の記述はおおむね正しい思われる。 金達寿氏はこのコラムで、次のように書いておられるからだ。
・かりにそうして「略奪されて連れてこられた」として、では彼らを「略奪」し、「連れて」来たのはいったいどこにいた、どういうものであったのか。 ~略~ 「いわゆる朝鮮からの帰化人」といわれるもののほか、そんなものはどこにもいはしなかったのである。(p238より引用)
・今日にみられるような「日本人」「朝鮮人」など、その当時はまだどこにもいはしなかったのだ。人種。種族というものと、それから歴史的に形成された民族・国民戸を混同していることから来た初歩的な誤りであるが、しかし、にもかかわらず、これまでそれを積極的にただそうとした歴史学者や考古学者は一人もいないといっていい。(p238より引用)
・日本の原住民は貝塚時代の住民はとにかくとして、扶余族(高句麗族)が北鮮まで南下して以来、1600~1700年前から朝鮮からの自発的な、また族長に率いられた家族的な移住者は陸続としてつづき、彼らは貝塚人種と違って相当の文化を以って降り、数的にも先住民を追い越す程度の優位を占めたものと思われる。(坂口安吾氏)
まず日本には縄文人が住んでいて、そこへ 紀元前14000年頃渡来系弥生人がやってきたとするのが近年の定説になっている。
渡来系弥生人は半島ではなく、大陸からやってきた人々が多かったようで、彼らは稲作技術のおかげで人口を増やした。 しかし、縄文人と弥生人はどちらか一方が相手を滅ぼすということはなく、混血して原日本人を形成したようである。
ところが、現日本人の形成は古墳時代かも、と思える記事がある。
(1)Y染色体ハプログループD1a2aの縄文系』と『(2)ハプログループO1b2の弥生系』を起源とする東京大学名誉教授埴原和郎が唱えた「二重構造モデル」が主流であったが、最新のゲノム解析で『(3)ハプログループO3a2cの古墳系』からなる「三重構造モデル」であることが証明された。
現代の日本人は縄文人、北東アジア、東アジアの三つの祖先集団を持つことが遺伝情報の解析で判明したとする研究成果を、金沢大などのチームが発表した。弥生時代、古墳時代と進む間に縄文人と大陸系の渡来人が混ざった可能性があるという。論文が米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」に掲載された。
富山市の小竹貝塚から出土した縄文土器(左)と人骨(金沢大学の中込滋樹客員研究員提供)
金沢大の 覚張(がくはり )隆史助教(考古分子生物学)らのチームは、縄文、古墳時代の人骨計12体の遺伝情報を解読し、既に報告がある縄文、弥生時代の人骨計5体の結果と共に解析した。
その結果、長崎県佐世保市で出土した弥生時代の人骨2体は、遺伝情報の約6割が縄文人由来で、約4割は中国・ロシア国境などの北東アジア由来だった。金沢市の古墳時代の人骨3体は東アジア由来が6割以上で、縄文人は15%まで下がり、現代の平均的な本州の日本人に近いという。
チームは、縄文~古墳時代に大陸から複数回の集団の渡来があり、古墳時代以降は渡来が少なかった可能性があると分析している。
・高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たちであったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、それらに横のツナガリがあったであろう。(坂口安吾氏)
へつづく~
「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。
なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので(つまり私は後だしじゃんけんをしていることになる 笑)、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。
基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。
本は返却期限がきて図書館に返したのだが、再び借りることができたので、再開する。
1⃣尾崎喜左雄氏の説-2
⑪35センチ尺
・墳丘・・・尋・・・192cm・・・晋尺一尺24cm✖8
175cm・・・35cm✖5
石室・・・尺・・・唐尺一尺30cm
・尋の175cmを墳丘に使用していると同時に、35cmを単位とする尺度を石室に使用している。
墳丘は尋、石室は尺でつくった。
35cmのほか、石室に30cmの基準数も求めえている。
・30cmは正倉院所蔵の物指の長さに合わせたのだろう。唐尺とみられる。
・関野貞博士は、法隆寺の建物から曲尺(建築土木用の尺)一尺一寸七分六厘という単位数を検出されて、これを高麗尺(高麗尺による測地用の尺)一尺と見られた。これは唐尺一尺を曲尺九寸八分と見ての唐尺1尺2寸分であり、令の雑令にいう大尺である。したがって、高麗尺は令の大尺であるとされたわけである。唐尺をなお三〇センチとした場合は、大尺は三六センチになるのであって、これを高麗尺とするならば、三五センチの基準数は高麗尺とはいえないことになろう。(p224より引用)
数回読み直してみたが、全く理解できない文章だった。(汗)
仕方がないので、 「大尺(高麗尺による測地用の尺)=36cm」であるならば、35cmの基準数は高麗尺ではない」ということのみを理解して次に進もう。(汗)
・長谷川輝夫氏・・・曲尺一尺一寸七分3厘(四天王寺の研究から)【30.3cm✖1.173=35.5419cm】 藤島亥次郎氏・・・曲尺一尺一寸七部六厘(韓国皇龍寺の研究から)【30.3cm✖1.176=35.6328cm】 曲尺一尺一寸五分六厘(皇龍寺の塔から)≓35cm 【30.3cm✖1.156=35.0268cm】 米田美代治氏・・・曲尺一尺一寸五分八厘(韓国の石製層唐から)≓35cm【30.3cm✖1.158=35.1874cm】
後の文章に、尾崎氏はこのように書いておられる。 「35cmすなわち曲尺一尺一寸五分五厘」 つまり、35cm=曲尺1尺1寸五分五厘ということだ。 曲尺1尺の長さは、35cm÷1.155≓30.3cm
曲尺1尺=30.3として計算したのが【】内の数値である。
ちなみに関野貞氏説の曲尺一尺一寸七分六厘の計算は【30.3cm✖1.176=35.6328cm】で、藤島氏説と同じになる。
・試みに高句麗の古墳で玄室が曲尺一尺一寸四分を基準数としていることを検出してみた。狩谷棭斎は高麗尺は東魏尺から転訛したもので、東魏尺の一尺はほぼ曲尺一尺一寸四分に当たるということからである。この結果、東魏尺が高句麗に入ったことはほぼ推定されるのであるが、この長さが曲尺一尺一寸五分六厘になったものであるか否かははっきりしない。(p224より引用)
狩谷棭斎(1775年ー1835年)は江戸時代後期の考証学者である。 その狩谷棭斎氏の説が a.高麗尺は東魏尺から転訛したもの b.東魏尺の一尺はほぼ曲尺一尺一寸四分 という事だと思う。
そして尾崎氏は高句麗の古墳の玄室を計算して、曲尺1尺1寸4分という基準数を検出したので、 狩谷棭斎氏の説「a.高麗尺は東魏尺から転訛したもの」「b.東魏尺の一尺はほぼ曲尺一尺一寸四分」は正しいといえるが 「b.東魏尺の一尺はほぼ曲尺一尺一寸四分」が「藤島亥次郎氏が検出した曲尺一尺一寸五分六厘(皇龍寺の塔から)」へ変化したかどうかまではわからない。 こういうことだろう。
・一尺一寸五分六厘(≒35cm)という単位数は百済にも新羅にも存在している。百済や新羅の支配者はその単位の尺度を採用していたのだろう。
・この一尺一寸五分六厘(≒35cm)に近似な数値が群馬県の古墳から検出されている。
・飛鳥寺では曲尺一尺一寸六分、曲尺一尺一寸七分が報告されている。 時代とともにだんだん長くなったのではないかと思えるが、これが高麗尺であるという確証はない。 晋尺と唐尺の中間の尺度があったということで、これが高麗尺であろうと考える。
「⑥晋尺」のところで、私は次のように書いた。
「既にのべた石室の設計は新来尺で1尺=35cmだったが、墳丘は在来尺でつくられているのだった。 つまり在来尺とは晋尺だということだ。 検索すると西晋 1尺=24.2cm、東晋 1尺=24.5cmと出てくる。
尾崎氏は一尋=192cmと説明されている。
192cm÷24cm=8尺となるので、晋尺では8尺を一尋としていたということだろうか。
これについてはここで尾崎氏は言及しておられない。」
つまり、群馬県の古墳の設計について、尾崎氏は次のように考えておられるということだろう。 石室・・・新来尺・・・1尺=35cm・・・高麗尺か? 墳丘・・・在来尺・・・1尺=24cm・・・1尋8尺=192cm・・・晋尺 ・群馬県横穴式古墳石室で方形のものを、長さと幅の比の値は4(細長い)から1(正方形)までほぼある
この比1.5を境として、これより大きい物は未加工の石材使用が多く、35cmの単位数が検出される。 1.5以下のものは切組積みで精巧なものが多く、30cmの単位数が検出される。
・左右壁下の線が両方とも外〇(漢字よめず。すいません)の弧で対照的に設計されているものはほとんど30cmの単位数。
・方形の平面の物は巨石を使用する傾向。
・外〇の弧のものには小型の石材で積み上げたものが多い。 高句麗の古墳と百済の古墳との差をもったもののよう。 高句麗の古墳と百済の古墳の差を持つとはどういう意味だろうか。ちょっとわからない。
・6世紀末から7世紀前半の飛鳥の仏教文化の主流は北(北魏、朝鮮半島経由)から伝わった。 法隆寺金堂の釈迦、薬師三尊像は北魏式。聖徳太子の仏教の師は高麗僧・恵慈で高句麗から伝えられた傾向が強い。
・群馬県の横穴式石室の出現は一峰二ツ岳爆裂以前。 爆裂による噴出降下した厚さ2mの浮石層に埋没した古墳、破壊された古墳の石室から35cmの単位数が検出されている。 その爆裂は七〇〇年前後と推定しているが、『日本書記』には文武三年(六九九)に全国的な大地震があった由を記しており、その地震の原動力を火山活動に求めるならば、二つ岳の爆裂もその一環であり、天智八年(六六九)のことであるかもしれない。(p225より引用)
尾崎氏は669年に何があったのかについては記しておられず、検索しても地震の記録はわからなかった。
・従って、35cmの単位数をもった尺度は高句麗文化の影響をもったもので、高麗尺といえるだろう。
・大宝律令に規定されている尺度の1尺2寸を大尺とするが、大尺と高麗尺は根本的に異なるもの。
「⑨唐尺の曲尺(30cm弱)・大尺(36cm)」のところに、私はコトバンク大尺の記述のまとめとして次の様に書いた。
〇令は、大尺は測地尺として用い、他は小尺を使うと規定した。
〇小尺一尺二寸=大尺一尺
〇大尺は、令制以前から存在したとみられる高麗尺
〇和銅六年(七一三)令が改定されて、小尺を大尺とした。(天平尺)
〇和銅の大尺(天平尺)は、のちの曲尺の源流となった。
ただし、天平尺は曲尺よりもやや短い。天平尺一尺=曲尺の九寸八分(二九・七センチメートル)程度。
コトバンクは大尺を高麗尺だとしているが、尾崎氏は根本的に異なるというのだ。 その理由はどういうものだろうか。
・ただし、高麗尺受容時の長さははっきりしていないが、35cmの単位数がでており、新羅にも百済にも近似の数値がでている。35cm近似の数値で受容されたのだろう。
これはこの記事の「⑪35センチ尺』に書いた、次の内容をさすものと思われる。
藤島亥次郎氏・・・曲尺一尺一寸五分六厘(皇龍寺の塔から)≓35cm 【30.3cm✖1.156=35.0268cm】 米田美代治氏・・・曲尺一尺一寸五分八厘(韓国の石製層唐から)≓35cm【30.3cm✖1.158=35.0874cm】
・35cm近似の数値で受容された高麗尺だが、飛鳥寺では曲尺一尺一寸六分【30.3cm✖1.16=35.148cm】 および一尺一寸七分【30.3cm✖1.17=35.451cm】になっている。 35cm=曲尺一尺一寸五分五厘【30.3cm✖1.155=34.9965≓35】から曲尺一尺一寸六分【30.3cm✖1.16=35.148cm】ないし七分【30.3cm✖1.17=35.451cm】に変化したのだろう。 これがやがて大宝律令制定頃には、曲尺一尺一寸七部六厘【30.3cm✖1.176=35.6328cm】に近い寸法になっていたのではないか。
・681年に造られた山ノ上古墳は石室構築に唐尺を使用している。 の「⑨唐尺の曲尺(30cm弱)・大尺(36cm)」のところに、尾崎氏の発言として次のように書いた。
・高崎市山名町 山ノ上古墳(隣接して墓碑があり、681年に造られた古墳とみられる。)
石室全長 5.40m (30cm✖18=540cm)
玄室長さ 2.70m (30cm✖9=270cm)
幅 1.80m(30cm✖6=180cm)
長さと幅の比 270:180=1.5:1
・本薬師寺の塔の心礎も薬師寺の西塔の心礎も唐尺を使用している。すでに680年代、唐尺が使用されていたことが推定される。
薬師寺は680年、飛鳥の藤原京にで造営がはじまり、8世紀初めに現在地の西ノ京へ移転した。
本薬師寺東塔跡の心礎
薬師寺 中央が西塔 本は1972年初版だが、このとき西塔は再建されていなかった。薬師寺西塔が再建されたのは1981年
・薬師寺は唐の様式の伽藍配置、山ノ上碑は放光寺僧の建立なので、山ノ上古墳も僧が作った?
仏教関係者は律令規定以前に唐尺が使用されていた傾向がある。 他方では高麗尺が使用されている。(群馬県多野郡吉井町大字多比良 35センチを単位数とした高麗尺でつくった石室がある。)
・高麗尺一尺を曲尺一尺一寸五分六厘とみるか、曲尺一尺一寸七分六厘と見るかは議論のあるところだが 曲尺一尺一寸七分六厘とするのは、雑令の「一尺二寸を大尺とする」と定めたことから出発している。 曲尺一尺一寸五分六厘は藤島亥治郎氏によって新羅の慶州の皇龍寺塔(645年)で検出されている。 日本でも645年以前に存在していたかもしれない。
⑫高松塚の尺度
・高松塚石室内法の長さ 2.655m 幅 1.035m 高さ 1.134m
高麗尺使用ともいう。現地(現地とは何を指すか?調査チーム?)では唐尺と考えられている。
・実測値のみで考えるのは資料が少なくて危険。長さ、幅、とも各三様の実測値が望ましい。 a.設計と経始と用石の設置の段かいにおいて誤差が生じる可能性がある。 b.故意に一方をゆがめて作り上げている傾向がある。
・長さ2.655mは35センチの整の倍数は求められない。 30センチの9倍(270cm-4.5cm=265.5cm)にはやや小さいがその差は4.5センチ。 4.5cmを9等分すると5ミリ。(4.5÷9=0.5cm) これは一尺を30cmとした場合の一尺における差 29.5cmを一尺とした場合は、2.655mは9尺。
・幅1.035mは30センチでは整の倍数は求められない。 同じ石室を築造するのに異なった尺度を用いることはないだろう。 103.5cm÷30cm=3.45 (29.5cm✖3.5)+0.25=103.5cm 幅は29.5cmの3.5倍とみていいだろう。
・高さ 1.134m 29.5cm✖4-4.6=118cm-4.6cm=113.4cm 高さは床面によって差がある。 床面が凸凹している、ということだろうか。そういうことであれば、確かに何か所かはかってみるのがよさそうに思える。
・高松塚は29.5センチを一尺とし、長さ9尺、幅3尺5寸、高さ4尺として作られたと推定する。
・正倉院の御物では、29.5cm一尺の物指の存在がある。惟も唐尺と呼んで差し支えない。
・横穴式石室は奥壁の石の両端に側壁側の端をかけて作るのが一般的で、石室の幅は狭くなる傾向がある。
たぶん、こういう事だと思う。↑
・松本楢重氏によれば、正倉院の御物には次の様な物指があるという。 29.50cm
29.55
29.60
29.69 29.70 30.00 30.20
30.25
30.40
物指の実長の変化 高松塚 29.50cm 29.55 29.60 法隆寺 29.69 和銅年間(元明天皇) 29.70 和銅年間(元明天皇) 多胡碑 30.00 和銅年間(元明天皇) 和銅4年の紀年あり 30.20 30.25 30.40 30.70
大宝律令制定前後に使用された一尺は29.5cm? 高松塚は7世紀終末~8世紀初頭に造られた?
①聖なるラインは天智天皇陵まで延びている。
高松塚・キトラ古墳は「聖なるライン」上にあるといわれる。
「聖なるライン」とは北から南へ、藤原京ー菖蒲池古墳ー天武持統陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵―キトラ古墳 とほぼ一直線上に古墳が並んでいる状態をさす。
しかし、この聖なるラインをさらに北へ伸ばしていくと、南から北へ、平城京、天智天皇陵もほぼ同一ライン上にのっている。
現在では「聖なるライン」というとき、平城京、天智天皇陵も含めることが多い。
聖なるライン 天智天皇陵ー平城京ー藤原京ー菖蒲池古墳ー天武持統陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵―キトラ古墳
ただ、きれいに一直線上に並んでいるわけではなく、若干のずれが生じている。 また聖なるラインから少しずれた場所にも多くの古墳が存在している。 これらの古墳がひとかたまりとなって、天智天皇陵ー平城京ー藤原京の南に連なることを意図した物であるかのようにも思える。
⓶なぜ天智天皇陵は聖なるラインの最北にあるのか?
しかし、不思議だと思うのは、天智天皇陵が聖なるラインの最北にあることだ。
天智天皇の大殯(おおあらき)の時の歌
かからむとかねて知りせば大御船泊(は)てし泊に標結(しめゆ)はましを(万2-151)
【通釈】こんなことになると、以前から知っていましたなら、陛下が船遊びをなされたあの時、お船が停泊した港に、標縄を張り巡らしておきましたものを。
【語釈】◇大殯 殯(あらき)の尊敬語。埋葬までの間、天皇の遺体を柩におさめて安置しておくこと。◇標結はましを 標縄を張ることで、大君の魂をそこに留めておけばよかった、ということか。または、悪霊などの侵入をふせぐことを言うか。
【補記】歌の脚注として作者名「額田王」が記されている。山科の御陵より退り散(あら)くる時に、額田王の作る歌
やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや 百敷の 大宮人は 行き別れなむ (万2-155)
【通釈】我らが大君の、畏れ多い御陵にお仕え申し上げる、山科の鏡山で、夜は夜通し、昼はひねもす、声をあげて泣いてばかり――こんなままで、宮廷にお仕えする人はみな、散り散りに別れてゆくのだろうか。
【語釈】◇やすみしし 「我ご大君」に掛かる枕詞。「平らかにお治めになる」の意であろうという。◇鏡の山 京都府山科区の天智天皇御陵のある山。
この二つの歌は番号が2-151と2-155とたいへん近い数字になっている。
2-151のほうは「大殯のときの歌」とあるので、2-155も殯の時の歌なのだろうか。 とすれば天智天皇の殯は山科の、現在天智天皇陵がある場所と同じ場所で行われたということになるだろうか。
「天子南面す」という言葉があり、最北は天子がいるべき場所である。 そんな場所に天智の殯宮をつくり、天武の陵はそのはるか南にあるのはなぜなのだろうか。
天智崩御後、天智の子の大友皇子vs天智の弟の大海人皇子(天武天皇)が皇位をめぐって争った。(壬申の乱) 天智自身は、弟の大海人皇子(天武)よりも子の大友皇子に皇位を継承させたいと考えていた。 つまり、天智と天武は敵対関係にあったといってもいい。
それなのに天武の陵は何故天智陵の南に造られたのだろうか。
③聖なるラインの立地
聖なるラインは、檜前と呼ばれる土地にあり、渡来人が多く住み着いた場所だと考えられている。
それは史料に次のような記述があるためである。
・坂上忌寸や檜前忌寸の祖・阿知使主は、応神朝に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡檜前村に住んだ。
高市郡はその子孫と十七県の人夫で満ちて、他制のものは一割~二割程度。(続日本記)
・「倭漢直の祖・阿知使主、その子都加使主、己が党類十七県を率いて来帰す」(応神20年紀)
坂上氏や檜前氏が倭漢氏に属することがわかる。
・「阿智王が応神朝に七姓の漢人を率いて渡来し檜前郡郷にすんだ。」(姓氏録逸文)
・「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」(姓氏録逸文)
仁徳朝に郡を建てたことは信じられないが、今来郡の名は「欽明7年紀」にも見える。(直木孝次郎氏)
なぜそのような渡来人が多く住む土地に天皇陵をふくむ古墳が数多く作られたのだろうか。 それについては不明だが、門脇禎二氏は677年、東漢直氏が叱責された事件に注目されている。
「汝等が党族、本より七つの不可を犯せり。是を以て、小墾田御世より近江朝に至るまで、常に汝等に謀るを以て事とせしも、今朕が世に当たりては、将に汝等の不しき状を責め、犯の随に罪すべし。然れども頓に漢直の氏を絶さまく欲せず。故、大恩を降して原したまふ」
この後、東漢氏は宮廷への出仕から排除され、檜隈氏に代わって東漢氏の中心にたった坂上氏たちさえ、平安時代初めまで「下人の卑姓」者の扱いを受けることになった。
それで、地位挽回のため、進んで墳墓造営の地と仕事を提供した可能性があるのではないか、というのである。
門脇氏の説は、一つの説として記憶にとどめておくことにして、聖なるライン上にある古墳(高松塚・キトラ古墳以外)について、みてみることにしよう。
④野口王墓は天武・持統合同陵であることが確実視されている。
天武・持統合同陵(野口王墓)
聖なるライン上に存在する野口王墓は、八角墳であり、現在天武・持統陵に治定されているが、これはおそらく間違いがないものと見られている。
明治13年、京都の高山寺で『阿不幾乃山陵記(おうぎのさんりょうき)』という古文書の写本が発見された。
『阿不幾乃山陵記』は1235年におこった「野口王墓盗掘事件」で検非違使が盗掘犯を捕らえて取り調べをした供述調書である。
そこにはこう記されていた。
「墓の奥に一体の骸骨があった。手前には台の上に立派な金銅製の箱があり、その中に銀の大きな壺があった。
その壺を盗んだが、中に入っていた灰は溝に捨てた。」
持統天皇は火葬され、骨灰を銀の骨壺に収納して天武天皇の大内陵に合葬されていた。
また、石室内の状況も『日本書紀』の記述と一致していたのだ。
⑤真の文武陵は中尾山古墳
文武天皇陵(栗原塚穴古墳)
聖なるライン上には、中尾山古墳と文武天皇陵もある。
現在文武陵は栗原塚穴古墳に治定されているが、真の文武陵は中尾山古墳ではないかと考えられている。
中尾山古墳
その理由のひとつは、火葬墓であることである。 持統天皇が皇族としては初めて火葬されたのち、文武天皇も火葬されている。 そして中尾山古墳が天皇陵に多い八角墳であることである。
天皇陵に八角墳が多い例は先に述べた野口王墓(天武・持統合同陵)があるが、そのほかの例をあげておこう。
牽牛子塚古墳
八角墳の牽牛子塚古墳は巨石をくりぬいて2つの墓室を設けてあり、斉明天皇と間人皇女合同陵とみられている。 手前に越塚御門古墳が発見されている。 『日本書紀』には斉明天皇の御陵は、娘・間人皇女との合葬墓でその前に孫の大田皇女を葬ったとあり、越塚御門古墳は大田皇女の墓である可能性が高い。
草壁皇子陵は眞弓丘陵に治定されている。 『日本書紀』には草壁皇子の墓についての記述がないが、万葉集の挽歌などから真弓丘へ埋葬されたと考えられている。 しかし眞弓丘陵の近くにある束明神古墳は八角墳であり、地元には束明神古墳を草壁皇子の墓とする伝承が残るなどしており、束明神古墳が草壁皇子の真陵ではないかとする説が有力視されている。
束明神古墳
束明神古墳横口式石槨(復元)開口部奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示 束明神古墳 横口式石槨(復元)内部
その他、舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、天智天皇陵(御廟野古墳)も八角墳である。
⑥菖蒲池古墳は蘇我入鹿の墓?
聖なるライン上にある古墳のうち、高松塚、キトラ古墳を除く古墳、天武持統陵、中尾山古墳、文武陵についてみてきた。 残るは菖蒲池古墳であるが、その前に、菖蒲池古墳からほど近い場所で発見された小山田古墳についてみてみよう。
小山田古墳は東西72m(北辺)・80m超(南辺)という大型方墳で、明日香養護学校の敷地内にある。 出土土器から7世紀中頃(特に640年代)の築造と推定されている。 古墳の下層には6世紀後半の集落跡が発見されている。その集落を壊して古墳を築造したのだろう。 ところが7世紀後半にはすでに石積みが壊されていたとされる。
小山田古墳 羨道跡
被葬者は舒明天皇の初葬地説、蘇我蝦夷の墓説がある。 そういえば蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や蘇我稲目の墓ではないかとされる都塚古墳も方墳である。 蘇我氏の墓は方墳が多いのかもしれない。
そして、日本書記は蘇我蝦夷と入鹿親子が今来の双墓を築いたと記す。
今来の双墓は御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳ではないかと長らくいわれてきたが、近年の研究の結果、水泥古墳・水泥塚穴古墳は築造年代が蘇我蝦夷・入鹿の死去よりも早いとされるようになり、今来の双墓はこれではないと考えられるようになった。
「③聖なるラインの立地」のところで私は次の様に書いた。
・「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」(姓氏録逸文)
仁徳朝に郡を建てたことは信じられないが、今来郡の名は「欽明7年紀」にも見える。(直木孝次郎氏)
高市郡は古くは今来郡といったのだ。 すると、今来の双墓のうちのひとつがこの小山田古墳である可能性はある。 そして双墓というからにはもう一つ同じような古墳があるはずだ。 菖蒲池古墳がそれだと考えられている。
菖蒲池古墳
菖蒲池古墳
菖蒲池古墳は一辺30mの方墳とされる。 7世紀中頃の築造と推定されたが、7世紀後半にはすでに、墳丘の一部が破壊されている。
小山田古墳と菖蒲池古墳は築造時期も破壊された時期もほぼ同じである。
私は小山田古墳と菖蒲池古墳が今来の双墓であり、小山田古墳が蘇我蝦夷を葬った大陵、菖蒲池古墳が蘇我入鹿を葬った小陵とする説を支持したい。
その理由は小山田古墳を舒明天皇初陵とした場合、舒明天皇は移葬されたので初陵のほうは壊したとみることができるだろうが、移葬されたとはいえ、天皇陵であったものを破壊するかどうか。 また同時期に壊された菖蒲池古墳は誰の墓なのかが、説明できないのではないか、と思うからである。
私は二つの古墳を訪ねてみたが、その際、車は甘樫丘駐車場に止めた。 菖蒲池古墳、小山田古墳は甘樫丘から近い場所にあるのだ。 甘樫丘にはかつて蘇我蝦夷と入鹿の邸宅があったとされる。
蘇我蝦夷と入鹿は権力をほしいままにしていたが、645年乙巳の変で蘇我入鹿は中大兄皇子に斬殺された。 翌日には蘇我蝦夷が自宅に火を放って自殺した。
改新政府は蘇我蝦夷と入鹿の屍を埋葬することを許可しているが、豪華な今木の双墓に葬ったとは思えないという意見がある。 「小山田古墳の被葬者をめぐって 小澤毅 」 p13
それはたしかにありそうだ。 現在我々が見る古墳は年月が経って草木が生い茂っているが、造った当初は敷石が敷き詰められるなど豪華な外観であったはずである。 蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や蘇我稲目の墓とされる都塚古墳はピラミッド型の古墳であった可能性もあり、 すると今来の双墓もピラミッドであったかもしれないと思ったりする。 のちに天武陵を作るにあたり、天武陵の真北にあるのはけしからん、として遺体を掘り出し、古墳を破壊したのかもしれない。
後に天武天皇陵をつくる際、天武天皇陵の北に今来の双墓があるのはけしからんという事で、古墳は破壊されたのかもしれない。
このように見たとき、高松塚・キトラ古墳が聖なるライン上にあるからといって、被葬者を天皇の皇子だと決めつけて考えるのは少し危険なことの様に思える。
返却期限が来てブログ記事の参考にさせていただいていた本は全て図書館に返したので、今手元に本がない。 (予約を入れたので、また借りられるはず。) そこで、長々と書いた記事を自分自身が復習する意味をこめて、まとめ記事を書いていこうと思う。 従って、過去記事と重複する内容となるが、ご容赦いただきたい。
①装飾古墳
日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称(以下略)。
とするならば、高松塚・キトラ古墳は装飾古墳に含まれると思うのだが、ウィキペディア「装飾古墳/主な装飾古墳一覧」に高松塚古墳、キトラ古墳は含まれていない。
ウィキペディア古墳の項目をみると、 その他、墳丘を石で構築した積石塚、石室に線刻、絵画などを施した装飾古墳、石室の壁に絵画を細越した壁画古墳(高松塚古墳・キトラ古墳)、埋葬施設の一種である横穴などがある。 とある。
細越という言葉の意味がわからないが、繊細なタッチで描いた壁画ということだろうか。
確かに九州の装飾古墳と高松塚・キトラ古墳は絵のタッチが違う。
⓶四神が描かれた竹原古墳
しかし、装飾古墳のひとつである、竹原古墳の壁画には 動画3:18あたりから、「さしば」と呼ばれる団扇に似た日よけが描かれている。 高松塚古墳の女子群像が手に持っている団扇も「さしば」であるという。
高松塚古墳壁画 女子群像
さらに、竹原古墳には高松塚古墳・キトラ古墳に描かれているのと同様の四神(玄武・白虎・青龍・朱雀)も描かれている。 (高松塚古墳は玄武・白虎・青龍、竹原古墳は玄武・朱雀、青龍のみ)
玄武(キトラ古墳) キトラ古墳四神の館似て撮影
白虎(キトラ古墳) キトラ古墳 四神の館にて撮影
青龍 高松塚古墳 高松塚壁画館似て撮影
朱雀 (キトラ古墳)キトラ古墳四神の館にて撮影
竹原古墳の絵のタッチは高松塚のものよりも荒いが、抽象絵画のようなチブサン古墳の壁画とも違う。
四神図が描かれているあたり、明らかに中国か朝鮮の影響を受けていると思われる。
そのほか、佐賀県武雄市北方町大渡字永池の永池古墳には、翳(さしば)を持つ人物が描かれていた。 (リンク先には杵島群北方町大字芦原字永池となっているが、2006年に合併して現在は武雄市)
⓶キトラ古墳と隼人石は関係がある?
聖武天皇皇太子那富山墓に隼人石があるという。
那富山墓(なほやまばか)は聖武天皇の第1皇子基王(727年-728年)の墓と伝えられる。方墳の可能性があるとのこと。そこに獣頭人身の像が描かれているという。
キトラ古墳には獣頭人身の像が描かれており、キトラ古墳との関係をうかがわせる。
 虎像
キトラ寅像
もともとは12石存在した可能性があるとされるが、現在は4石のみ残されている。 江戸時代から「犬石」や「狗石」「七疋狐」と呼ばれていたそうで、江戸時代には7石あった可能性が指摘されている。
先日この那富山墓へ行ってみたのだが、周囲は策がめぐらされていて、中に入ることはできず、隼人石は確認することができなかった。
第1石:墳丘北西隅にある。短い耳のネズミ(子)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、直立して胸元で拳を組んだポーズをとり、杖を持っている。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「北」と彫られている。
第2石:墳丘北東隅にある。耳の間に2本の角を持つウシ(丑)と見られる獣頭人身像。やや雑だが全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。
第3石:墳丘南西隅にある。長い耳のイヌ(戌)と見られる獣頭人身像。下半身の表現がなく、胸元で拳を組んだポーズをとる。
第4石:墳丘南東隅にある。長い耳のウサギ(卯)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「東」と彫られている
大阪府羽曳野市の杜本神社にも「隼人石」2石(同じ図像を左右対称にした石造物」があり、那富山墓の第1石(ネズミ)に似ているとのこと。 
杜本神社 隼人石
③  杜本神社は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦を与える神社?
先日、杜本神社を参拝してきた。
隼人石は本殿の左右にあるとのことだが、本殿前の拝殿が閉まっており、社家さんにお願いして開けてもらう必要があるようだった。
ところがどの家が社家さんなのかわからず、残念ながら隼人石見学はあきらめた。(写真はウィキペディアからお借りした。)
しかし、収穫はあった。
境内に藤原永手(714-771)の墓碑なるものが存在していたのだ。
という事は、この墓碑の後ろにある土の盛り上がった所が藤原永手の墓なのだろうか。
藤原永手の墓碑
上の方の文字は読めない。一番下の文字は墓だろう。その上は「藤原永手」の「手」のようには見えず「王」「里」のように見える。
藤原永手は766年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)・法王道鏡政権下で左大臣となっている。
770年、称徳天皇崩御。吉備真備は天皇候補として文室浄三・文室大市を推すが、藤原永手は藤原百川とともに白壁王を推し、結果白壁王が即位して光仁天皇となっている。
日本霊異記紀にこんな話がある。
藤原永手は生前に法華寺の幡を倒したり、西大寺に計画されていた八角七重の塔を四角五重塔に変更したなどの罪で、死後に地獄へ堕ちた。
もしも杜本神社の境内に藤原永手の墓があるとすれば、杜本神社は藤原永手を慰霊するための神社なのかもしれない。
いや、藤原永手に地獄の責め苦を与える神社といったほうがいいかもしれない。
その理由は、この中国の仏画である。
地獄の法廷を描いた中国の仏画
この仏画はウィキペディアにあったものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E9%AD%94#%E4%B8%AD%E5%9B%BD、
製作年代、作者などわからないのが残念なのだが、いわゆる地獄絵のようである。
日本の地獄絵は鬼が亡者を責めるものがほとんどだと思うが、ここでは獣面人身の者が地が亡者を責めている。
絵が小さいのでわかりにくいが、羊、牛、馬、虎、鶏、辰のような顔をした人(神?)が確認できる。
杜本神社本殿の左右におかれた十二支のネズミの像は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦をあたえているようにも見えてくる。
すると、キトラ古墳の十二支像もまた、被葬者に地獄の責め苦を与える目的で描かれているのではないか、と思ってしまう。
中国の十二支像は手に武器をもっていないが、高句麗の十二支は手に武器をもっている。
しかもそれは、上の中国の仏画野の獣面人身のものたちが手に持っている道具によく似ている。
韓国金庚信墓十二支像(拓本)キトラ 四神の館にて撮影(撮影可)
キトラ古墳の十二支は手に何か持っているのがわかるものもある。
来村多加史氏によれば、子像が持っているのは鉤鑲(こうじょう)と呼ばれる盾であるという。
鉤鑲は漢の時代に登場した兵器で、盾の上下に弓なり状のフックがついている。
この上下のフックで相手の武器を搦めとるのだという。
寅像が手に持っているのは鉾で、鉤鑲、鉾とも房飾りがついているので実践用ではないと来村氏は述べておられるが、どうだろうか。
キトラ古墳 子像、丑像、戌像,亥像。キトラ古墳 四神の館にて撮影。
⑥聖武天皇皇太子とは阿部内親王のことでは?
隼人石のある那富山墓は何故聖武天皇皇太子墓とされているのだろうか。
近くに聖武天皇陵、聖武天皇の皇后・光明皇后陵があるからかもしれない。
ウィキペディアに宮内庁治定陵墓の一覧があり、那富山墓の被葬者の項目に次の様に記されている。
「記載なし(基王)」
被葬者の記載がないとはどういうことなのだろうか。正史に基王を葬った記録がないということだろうか。
陵墓名の記載もない。
陵墓名は、天武・持統合同陵の桧隈大内陵の様に、正史に記載のある名前を記してあると思う。
陵墓名の記載もないということは、やはり正史に記録がないということではないかと思う。
基王は聖武天皇の第一皇子で生まれてすぐに皇太子にたてられた。
しかし生後1年ほどで亡くなってしまった。
那富山墓には獣面人身の像を描いた隼人石があるのだったが、隼人石とは被葬者に地獄の責め苦を与える十二支を描いた石だとすると、生まれてすぐ亡くなった基王もまた地獄に堕ちたのだろうか?
1歳になるかならないかぐらいの赤ん坊に罪を犯せるとは思えない。
そうではなく、聖武天皇皇太子とは阿倍内親王(孝謙天皇、重祚して聖徳天皇)のことではないか?
彼女は女性だが、基王の死後、聖武天皇の皇太子にたてられているのだ。
彼女の陵、高野陵は佐紀高塚古墳に比定されている。
しかし、この古墳は4世紀ごろに築造されたとみられる前方後円墳で、時代が合わない。
称徳天皇は独身で即位したため結婚が許されず、子供がなかった。
そして寵愛していた弓削道鏡を次期天皇にしようとしている。(宇佐八幡神託事件)
その後、称徳天皇は急病を煩って崩御し(暗殺説もあり)、杜本神社に墓誌がある藤原永手、藤原百川らが光仁天皇を擁立している。
聖徳天皇は、道鏡を天皇にしようとした罪で、地獄の責め苦を与えられているのではないか?
藤原永手は西大寺の八角七重塔を四角五重塔にしたことなどが原因で地獄に堕ちたと言われるが、その西大寺を建立したのが、称徳天皇である。
藤原永手と聖徳天皇は関係が深いのだ。
「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。
なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので(つまり私は後だしじゃんけんをしていることになる 笑)、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。
基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。
1⃣尾崎喜左雄氏の説
➀物指があったことを物語る古墳たち
・高崎市倉賀野の浅間山古墳と大鶴巻古墳は、前方後円墳の中軸長、前方部前幅、後円部直径が一致する。 太田市内ケ島の天神山古墳と伊勢崎市安堀の御富士山古墳は、中軸長に対する前方部幅と後円部径との%が同じで同じ形。 前橋市文京町の二子山古墳の2分の1のサイズで、不二山古墳が作られている。 藤岡市白石の皇塚と群馬県勢多郡粕川村の薬師塚は玄室が同じ 勢多郡大胡町の堀越古墳、安中市東上秋間の磯貝塚、新田部薮塚本町の北山古墳も玄室が同じ これらの例は、古墳の構築にあたって物指が用いられたことを示す。
・文献では、日本書記 大化2年(646年)薄葬令の記述は物指が使用されていたことを示している。
「それ王より上つ方の墓は、そのうちの長さ九尺、ひろさ5尺、その外の域(めぐり)は方九尋、高さ五尋、(中略)、上臣の墓は、その内の長さ、ひろさ、高さは皆上になぞらえ、その外の域は方七尋、高さ三尋・・・」
・内部構造・・・「長さ九尺と広さ五尺の平面をもつもの」と「長さ九尺、高さ・幅が4尺」の2通り。 墳丘・・・「方九尋・高さ五尋」「方七尋・高さ三尋」「方五尋・高さ二尋半」「墳丘なし」の4通り。
薄葬令の規定をまとめると次の様になる。
王以上・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 9尋 高さ5尋)
上臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 7尋 高さ3尋)
下臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 5尋 高さ2.5尋)
大仁・小仁・・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
大礼から小智・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
庶民・・・・・・・地に収め埋める
古墳のサイズの一致や同じ形であることは、遺物からの考察で、確かに同じサイズや同じ形につくるためには物指が必要であるように思われる。
一方、日本書記の薄墓令の記述は史料からの考察である。 古墳のサイズを規定するためには物指が必要であり、物指の存在を示すといえるだろう。
⓶薄葬令は日本書記編集者が作為した?
・薄葬令の内容は、内容自体に矛盾があるので、本当に644年に作成されたのか、日本書記編集者が作為(創作)したのか疑問がある。後者だと考えている。
矛盾とはたとえば、どのような点なのかについて、説明がほしかった。
薄葬令以降の古墳を調べてみると、一辺が規定の大きさを超えるものがほとんどで、高さは規定に及ばないものがほとんどである。 それを矛盾とおっしゃっているのかもしれない。
・墳丘は尋、石室は尺でつくるということは日本書記編纂時に伝承されていたのだろう。
薄葬令の規定が、墳丘は尋、石室は尺になっており、尾崎氏は「薄葬令は後世の作為」と考えておられるのでこのように書いておられるのだろうが、ここでもやはり「日本書記編参時に伝承されていた」と考えられる理由についての説明がほしかった。
③尋=8尺、5尺、6尺(時代によって異なる)
・中国では王朝ごとに物指がきめられた、周尺、漢尺、普尺、東魏尺、唐尺などがある。
また使用している間に尺が変化している。 周令は人長=尋=八尺とするが、のちの時代には、「五尺の男」「六尺の丈夫」などの言葉がある。
・人長=尋(160cm~180cm) 竪穴式古墳の単独葬用の小型石槨の長さも、ほぼその範囲に納まる。
・加藤常賢氏によれば、漢字の尋は左右の手を伸ばした形。日本語の「ひろ」も左右の手を広げた状態をさす。
④尺は新しい物指の単位、尋は古くからの物指の単位
・「あた」「つか」という単位もあったことが日本書記や古事記の記述から推定されている。
但し、記紀編修時期に伝承されていたものであろうが、その使用期間をどこまで遡らせることができるかは不明。
・「八咫」は「いやあた」といわれる。「あた」は手のひらの幅、または手首から指の先までの長さとされる。 掌の幅は約10cm。
・「いやあた」は「弥あた」で、あたをふたつ合わせたもの。20cmほど。鏡は20cm位のものが多い。
・八咫鏡は伊勢神宮ご神体の固有名詞として用いられているが、もともとは普通名詞であったらしく「日本書記」景行天皇の巻で髪夏磯媛が降参してきた条にも「八咫鏡」とでてくる。
・八握剣などの「握(つか)」は握りこぶしの長さだろう。掌の幅とほぼ同じ。
・景行天皇の巻に「七掬脛(ななつかはぎ)」とあり、「掬」をあてているが、「握」と同じ。
七掬脛は景行天皇40年、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の際に、膳夫(かしわで/食膳係)に任命された人物。久米直(くめのあたい)の祖とされる。
・「さか」は「尺」の音の転訛。
・「やさか」は尺を重ねている。「や」は数が多いことをあらわし、八の漢字があてられる。
・日本には「ひろ」という言葉がすでにあり、大陸から技術や漢字を導入した際、「尋」を「ひろ」とよみ、長さを測る単位として受け入れられたのだろう。
・「つか」「ひろ」「あた」は人体の部分を基準にした単位で自然発生的なもの。「尺(さか)」は外来語。
「人長=尋=八尺」「五尺の男」「六尺の丈夫」などの言葉があるということだった。(③) 人長=尋=180cmとすれば、一尋=八尺ならば、一尺は22.5cm(180÷8)、一尋=5尺ならば一尺は36cm(180÷5)、一尋=六尺ならば、一尺は30cmとなる。 尺(22.5~36cm)は体の部分を基準にしたものではないので、自然発生的なものではない、したがって外来語であろうと尾崎氏は推測されたのだろうか。
しかしウィキペディアには次のようにある。
漢字の「尺」は親指と人差指を広げた形からできた象形文字で身体尺であったと考えられている[4]。
尺も体の部分を基準にした単位だったのだ。 しかし「しゃく」という発音は中国語っぽく、日本語的ではないと感じる。 尺は音読みが「しゃく」であり、訓読みでは「さし」「ものさし」「わず(か)」とよむ。 訓読みの「さし」「ものさし」「わず(か)」などが長さを測る単位として用いられていないということは、中国からやってきた言葉で外来語と考えられる、ということになるだろうか。
・あた・・・八咫鏡(やたのかがみ)は身に着けたものではなく神秘性が強調されたもの。
つか・・・・八握剣(やつかのつるぎ)は武器として〇用されたもの。 さか(尺)・・・・八尺瓊(やさかに)は瓊を連ねて装身具としたもの。
・瓊は玉と考えられる。「に」という言葉は既に八世紀には一般に用いられなくなり「たま」が用いられるようになる。 「に」は「たま」より古い言葉だろう。
・糸で束ねた「たま」が古墳の出土品の年て出土するおは6世紀から7世紀中ごろまで
・「に」は古くから存在して珍重されたのだろうが、頸飾りとして一般に用いられたのは6世紀から7世紀中ごろまでで、 そのころ「やさか」という言葉が加わったのだろう。
・「やさかにのまがたま」の「の」は「つ」にかわって用いられた助詞なので「の」の使用が始まってから以降の表現
「の」は「つ」にかわって用いられた助詞なので「の」の使用が始まってから以降の表現』とおっしゃっているが、 「やたのかがみ(あた)」や「やつかのつるぎ(つか)」も同じように「つ」ではなく「の」が用いられている。
⑤薄葬令はなぜ尋と尺、ふたつの単位を用いたのか。
・薄葬令の墓制度は、「尋」と「尺」の物指の単位で、墳丘と内部構造の構築を区別している。
・薄葬令が日本書記編纂時に作為されたものとしても、日本書記編纂時に「尋」と「尺」という単位が存在し、これを遡らせて表現したものであろうが、実際にも在来尺と新来尺があったものと推定される。
・薄葬令は「墳丘は在来尺」によって、「内部構造は新来尺によって」構築するように指示したと考えられる。
・墳丘の形は竪穴式古墳においてすでに成立(在来尺)
薄葬令では墳丘は尋で規定されている。 私は上に記事のタイトルとして「③尋=8尺、5尺、6尺(時代によって異なる)」と書いた。 竪穴式古墳の時代、1尋が何尺であったかわからないが、 尾崎氏は「竪穴式古墳を作っていた時代に用いられていた尺」を在来尺、「新しく導入した尺」を新来尺と表現されているのだろう。 しかし、同じ尺という単位で長さが異なっているのは問題があるので、 薄葬令は尺ではなく、「在来尺の長さ(cm)✖エックス=尋」と表現したのではないか。 尾崎氏はそう考えておられるのだと思う。
例/ ●墳丘の大きさをあらわす尺(在来尺)の長さを求める。 在来尺の長さ・・・・1尺=24cm 1尋・・・・・・・・・8尺 (この場合は、エックス=8) のとき 「在来尺の長さ(cm)✖エックス=尋」
1尋=24cm✖8=192cm
●石室の大きさをあらわす尺 新来尺の長さ・・・・一尺=35cm
・内部構造は横穴式石室という新しい様式を新来尺で作るよう指示したのだろう。
⑥晋尺
・竪穴式古墳の墳丘を利用して横穴式石室を作り込んだもの。
群馬県玉村町「上毛古墳総覧」記載芝根村第7号墳、第1号墳、高崎市下他T機滝川村大1号墳、前橋市山王町の上村第15号墳など
・芝根村第7号墳の横穴式石室は、玄室の長さ4.20m、最大幅1.40m 35cmを基準単位としている。
つまり、1尺=35cmであり、玄室の長さ4.20cm÷35cm=12尺、最大幅140cm÷35cm=4尺ということだ。
墳丘は稲荷神社鎮座地であったため破壊されてはっきりしないが、 発掘調査の結果、葺石、埴輪配列が重複し、また埴輪の形・製作に違いがあることなどから、古い墳丘を利用して横穴式石室をつくったことが明らかになっている。 旧墳丘も破壊されているが、後円部の直径23m、前方部前幅13m、1尋=192cmとして、 23m(2300cm)・・・12尋×192cm-4cm=2304cm-4㎝=2300cm(23mは12尋に4cm不足) 13m(1300cm)・・・7尋×192cm-44cm=1344cm-44cm=1300cm。(13mは7尋に44cm不足) 晋尺の尋とみて妥当。
ここに「晋尺の尋とみて妥当」とある。 尺は時代によって長さが異なるという説明があったが、中国の晋(265年 - 420年)の時代に用いられていた尺が晋尺であろう。
既にのべた石室の設計は新来尺で1尺=35cmだったが、 墳丘は在来尺でつくられているのだった。 つまり在来尺とは晋尺だということだ。
検索すると西晋 1尺=24.2cm、東晋 1尺=24.5cmと出てくる。 尾崎氏は一尋=192cmと説明されている。 192cm÷24cm=8尺となるので、晋尺では8尺を一尋としていたということだろうか。 これについてはここで尾崎氏は言及しておられない。
44cmも不足していても、妥当といえるというのは、素人には「えっ?」と思えてしまうが。
⓻35cmは群馬県の横穴式古墳構築の期間に共通に用いられた
・同じ実長で、尋と尺を使い分けているもの(下の例から、石室1尺35cm、墳丘1尋=35cm✖5=175cmが導かれる。)
さきほどの芝根村第7号墳は石室は新来尺(1尺=35cm)を用い、墳丘は在来尺(1尺=24cm? 1尋=24×8?=192cm)を用いた令であったが、 今度は石室・墳丘ともに同じ尺を用いた例である。
❶高崎市八幡町 観音塚古墳 横穴式石室をもつ前方後円墳 ※()内は1尺35cm、1尋=5尺=35cm✖5=175cmとして計算。 石室全長 天井部14m(1400cm÷35cm=40尺)、同床部で15.3m(1530cm÷35cm=43.71428571尺、43尺+25cm) 玄室長 7m(700cm÷35cm=20尺)、玄室幅3.5m(350cm÷35cm=10尺)、 墳丘中軸長105m(10500cm÷175cm=60尋) 後円部径 70m(7000cm÷175cm=40尋) 前方部105m(10500cm÷175cm=60尋)
❷群馬県勢多郡粕川村 鏡手塚古墳 横穴式石槨をもつ前方後円墳 石室全長7m(700cm÷35cm=20尺) 玄室長さ2.8m(280÷35cm=8尺) 幅1.4m(140÷35cm=4尺) 墳丘中軸長28m(2800÷175cm=16尋) 後円部径 17.5m(1750÷175cm=10尋) 前方部幅13m(1300÷175cm=7.4258571428尋=8尋) ※正確には7尋と68cm
・沼田氏奈良町 奈良古墳群 近接した4基の石室が、いずれも 玄室の長さ 約2.1m(210÷35cm=6尺) 幅1.4m(140÷35cm=4尺) 共通の長さの単位数は70cmおよび35cm 70cmを単位としても210÷70=3、140÷70=2と計算できる。
・上にあげた古墳の墳丘、石室の寸法野いずれからも35cmという共通の数値を求め出すことができる。 さらに墳丘の寸法からは175cmを共通にふくんでいる。 仮に35cmを一尺の実長とすれば一尋は一尺の何倍か。 一尋は人長なので、160~180cmくらいが妥当。 一尋の長さを尺の長さに合わせて定めるならば、160~180cmに含まれる数値で、35cmの数倍が望ましい。 在来尺と新来尺とをよみ替える必要があるので、尋は尺で除して完全数の出るように定められる。 「在来尺と新来尺とをよみ替える」という言葉の意味がわからない。 周尺は一尋=八尺。 35cmを新来尺の一尺の長さとすれば、新来尺に対する一尋の長さは5尺=35cm✖5=175cmが妥当。 墳丘を尋、内部を尺で作っている(薄葬礼に相応)
・35cmという数値は群馬県の横穴式古墳構築の期間に共通に用いられたのだろう。
・❶は中軸長と前方部幅は同じ長さ ❷は前方部幅は中軸長の半分 前方後円墳の墳丘の変化・・・長めの形から寸詰まりの形へ変化している。 ❷鏡手塚古墳は山の一峰二ツ岳の爆裂によって崩れている。この爆裂は7世紀初頭。鑑手塚古墳は爆裂以前の6世紀後半の構築。 ❶観音塚古墳は鏡手塚古墳よりもかなり後に造られた。石室は巨石を利用している。 35cmを1尺とした場合、玄室の幅は10尺、長さは20尺
石舞台古墳と比較すると、玄室の長さに2尺の差があるのみ 石舞台と同じ傾向の築造。 石舞台と同じ傾向の築造。7世紀前半から7世紀中ごろ。
⑧竪穴式古墳は晋尺でつくられた?
・竪穴式古墳は横穴式石室需要以前のもので尋でのみ造られたのか。
・伊勢崎市安堀町の音富士山古墳 中軸長 125m 前方部前幅80m 後円部径80m 前方部発掘調査 葺石の根石部分での墳丘前幅76m ※根石の線の一端が破壊されているので正確な数値ではない。 (晋尺 =24cmだと1尋が何尺なのかはっきりしない。)
1尋・・・5尺・・・120cm(5×24) 7600÷120=63.3333333尋 1尋・・・6尺・・・144cm 7600÷144=52.7777777尋 1尋・・・7尺・・・168cm 7600÷168=45.23809523尋 1尋・・・8尺・・・192cm 7600÷192=39.58333333尋
・周尺では八尺としてある。 周尺では一尋=八尺という意味だろうか?
・周尺と晋尺は一尺が同じ実長ではない。従って、周尺での1尋は晋尺での一尋と同じ実長ではない。
・試みに192センチを単位として、御富士山古墳の戦法部前幅の76mを測ると。40尋と不足80cmとなる。 7600cm÷192cm=39.5833333尋 192cm✖40尋ー80cm=7680cm-80cm=7600cm
・76m(7600cm)+80cm=7680cm=40尋
80cmは前方部前幅の欠損部復元の長さに相当し、誤差としても1尋の2分の1(192cm÷2=96cm)より小さい。
・群馬県勢多郡大胡町『上毛古墳総覧』記載 大胡町第5号、第六号古墳は、単独葬用の小型石槨各3個宛(づつ)を持つ小円墳
A郭最大長 A郭最小長 B郭最大長 B郭最小長 C郭最大長 C郭最小長
大胡町第5号 198cm 192cm 192cm 190cm 196cm 194cm 大胡町第6号 202cm 196cm 190cm 187cm 176cm 175cm
太字の5つは192㎝を、細字のひとつは175cmを基準にしたようである。 墳丘の直径は葺石の根石で測って14.40m 192cm単位では7.5倍(1440cm÷192cm=7.5、192cm×7.5=1440cm) 180cm単位で8倍(1440cm÷180cm=8、180cm✖8=1440cm) 175cm単位は8倍で40cmあまる。(175cm✖8+40cm=1400cm+40cm=1440) 晋尺7尺5寸を1尋としたか。晋尺7尺5寸は180cm。
つまり1440cmは192cmでも180cmでもきれいに割り切れるのだが、 晋尺の7尺5寸は180cmになるので、1尋=晋尺の7尺5寸=180cmを物指として用いたと尾崎氏は推定されたということだろう。
晋尺7尺5寸=晋尺の1尋=180cm
晋尺の一尺=180cm÷7.5=24㎝ となる。
私は「⑥晋尺」のところでも、「晋尺の1尺は24cmではないか」、と書いたが、尾崎氏は晋尺の1尺が24cmだとはいわずに、晋尺7尺5寸は180㎝という書き方をされておられる。 何か理由があって、このような書き方をされているのだろうか。 しかし、本を読み進めていくと、このあとに晋尺1尺24cmとでてくる。
・渋川市東町 台形の方墳 方形埴輪円筒列の四隅および各辺の中央に朝顔形埴輪が配列されていた。
布留遺跡出土の朝顔形埴輪と円筒埴輪・土師器(天理大学附属天理参考館蔵)
・朝顔型埴輪の一辺の芯心の間隔は5.90m 192cmで割ると3倍で14cm余る(590cm=192cm✖3+14cm=576cm+14cm)
・前橋市朝倉町の方形墳は葺石の根石の線では3.80m。 192cmの2倍で4cm不足(380cm=192cm✖2-4cm=384cm-4cm)
・朝倉二号墳(仮称)は墳丘の直径が葺石根石間で23m。 192cmであたると12倍で4センチ不足(2300cm=192cm✖12-4cm=2304cm-4cm) 180cmでは12倍で1.40mあまる。(2300cm=180cm✖12+140cm=2160cm+140cm) 175cmでは13倍で25cmあまる。(2300cm=175cm✖13+25cm=2275cm+25cm) 192cmが誤差が少ない。
・この古墳の内部構造は粘土槨 長さ5.73m、192cmの3倍で3cm不足。(573cm=192cm✖3-3cm=576cm-3cm) 内法の長さ4.88m 192cmの2.5倍に8Ⅽm多い。(488cm=192cm✖2.5+8cm=480cm+8cm) 192cmを基準にしたか。
端数の付かない尺数のことを、で完数というそうだが、きっちり割り切れなくても、1尺を何センチとすれば一番誤差が少なくなるか、を考えておられるようだ。
・前橋市の前橋天神山古墳、太田市の朝胡塚古墳、高崎市の大鶴巻古墳、前橋市の八幡山古墳、太田市の宝泉茶臼山古墳なども墳丘の構築に192cmを単位として使用されたと考えられる。 竪穴式の石槨の長さは人長と思われるもの、180cm前後のもの、192cmのもの、その前後のもの、280~290cmのものなどある。 だいたいが晋尺7尺5寸(24cm✖7.5=180cm)と8尺(24cm✖8=192cm)の1.5倍(192cm✖1.5=288cm)なので、主として192cmを基準としている。
・192cmは晋尺一尺24cmとしての8尺分。(192cm=24cm✖8) 192cmは普通人の人長(尋は人長の長さとされている)とはいえない。 「5尺の男」「6尺の丈夫」というように、5尺、6尺が人長とされる。 しかし周尺では一尺の実長が短かったため、(ウィキペディアによると周尺の1尺は20cm) 8尺を尋とした。(20cm✖8=160cm)
その人長8尺を尋とするということが、晋では尋とは8尺と考えられ、1尋=晋尺1尺24cm✖8=192cmとされたのだろう。
・薄葬令は墳丘は尋、内部は尺で規定した。 墳丘は尋で従来通りに造った。 尺も従来晋尺があったので、存在はしていたが、薄葬令でことさらに尺と規定したのは、それまで存在していなかった物指を規定したということ。
⑨唐尺の曲尺(30cm弱)・大尺(36cm)
・大宝律令で唐尺の規定が採用され、大蔵省、諸国の国司は標準尺をたまわっている。 唐尺一尺の長さは曲尺で9寸八分ほど。30cm弱。
曲尺で検索すると「直角に折れ曲がった物差し」とでてくるが、これのことではなく、「土木建築に用いる尺」という意味だろう。
「鯨尺」・・・着物など和装に用いる布類を測る際に用いられる単位
「曲尺」・・・土木建築に用いられる単位
鯨尺の由来は、その名の通り鯨の髭から来ていて、ものさしの材料に鯨の髭を用いていたことが始まりでした。
曲尺の由来は、中国に始まり、曲=金というのが関係しています。
いずれも1958年(昭和33年)の尺貫法の廃止に伴い法定単位としては使われなくなりました。
・正倉院の御物の尺には、29.55cm、29.6cm、29.7cm、30.2cm、30.25cmなどがあり一定でない。
・大尺(36cm) 令義解 巻10 「凡そ度は、十分を寸と為(せ)よ、十寸を尺と為よ」十 「一尺二寸を大尺の一尺と為よ」 「(大尺は)凡そ地を度(はか)り、銀鋼殻を量(はから)んば皆大を用いよ、このほかは官私〇(漢字がよめず。すいません)に小なる者を用いよ」 とある。
① 令制の長さの単位。令では尺を大尺と小尺に二分し、大尺は測地尺として用い、他は小尺を使うと規定した。小尺一尺二寸が大尺一尺に相当する。この令の大尺は、令制以前から存在したとみられる高麗尺(こまじゃく)のことであり、小尺は和銅の大尺となった。〔令義解(718)〕
② 和銅六年(七一三)改定された長さの単位。令の小尺を改めて大尺とした。令の小尺すなわち和銅の大尺が天平尺で、のちの曲尺の源流となった。ただし、天平尺は曲尺よりもやや短く、曲尺の九寸八分(二九・七センチメートル)程度とみられる。
上のコトバンクの文章をまとめておこう。 〇令は、大尺は測地尺として用い、他は小尺を使うと規定した。 〇小尺一尺二寸=大尺一尺 〇大尺は、令制以前から存在したとみられる高麗尺 〇和銅六年(七一三)令が改定されて、小尺を大尺とした。(天平尺) 〇和銅の大尺(天平尺)は、のちの曲尺の源流となった。 ただし、天平尺は曲尺よりもやや短い。天平尺一尺=曲尺の九寸八分(二九・七センチメートル)程度。
なんともややこしい~~~
・横穴式石室のうち、加工した石材を用い,玄門、羨道(せんどう)を持つものには、30cmの基準数を持つものが多い。
・高崎市山名町 山ノ上古墳(隣接して墓碑があり、681年に造られた古墳とみられる。) 石室全長 5.40m (30cm✖18=540cm) 玄室長さ 2.70m (30cm✖9=270cm) 幅 1.80m(30cm✖6=180cm) 長さと幅の比 270:180=1.5:1
山ノ上古墳
・前橋市総社町 宝塔山古墳 福室の横穴式石室をもつ方墳 墳丘はかなり削り取られていて原型寸法は不明。壁面に漆喰を塗った痕跡がある。 玄室長さ 3.03m (30cm✖10尺+3cm=300cm+3cm=303cm) 幅 3.01m(30cm✖10尺+1cm=300cm+1cm=301cm)
30cmは共通基準 10平方の基準数
平方とは整数の自乗(二乗)で表される数。 「10平方の基準数」とは、「正方形の土地の基準となる数字」ということだろうか。
⓾長さ=幅×√2
・群馬県北群馬郡吉岡村 南下A号古墳(仮称)の玄室 長さ 3.27m (3727=30cm✖10.9尺) 幅 2.40m(240=30cm✖8尺) 平面図はシンメトリカル(左右対称)ではなく、長さは幅の√2とする矩形。 幅8尺、長さは幅の√2。(8尺✖√2=11.2尺)
平方根は中学の数学で習ったが、ほとんど忘れていたので復習してきた。(汗)
2 乗すると A になるような数のことを、A の平方根という。 4 の平方根は、2 乗すると 4 になる数。 2✖2=4 -2×―2=4 4の平方根は2、またはー2
ある数 A (A > 0) の平方根のうち負でないものを√A(ルート A )」という。
√3の2 乗= 3 0 以上の整数 n に対し、√n² を計算する 中身が平方数でない場合 √18 ルートの中身を素因数分解(正の整数を素数の積で表現)する。 18 を素因数分解すると、2✖3×3 √18=3√2 3√2×3√2=9×2=18
√2を計算機で計算すると、1.414213562となる。 語呂合わせで「一夜一夜に人見ごろ(ひとよひとよにひとみごろ)」と覚えるらしい。(笑)
8尺✖√2=8尺✖1.41=11.2尺
この古墳がいつごろ作られたものか、記載がないが、7世紀末~8世紀ごろのものだろうか。 そのころから平方根の計算をしていたというのはすごい。
・前橋市総社町の蛇穴古墳玄室 長さ・・・3m(300cm=30cm✖10尺) 幅・・・・2・52m 幅は完全数にはならない。 当初長さ10尺、幅6尺で企画され、正方形に近づけるため、6尺の√2にしたのだろう。 6尺=30cm✖6=180cm 180cm✖√2=180cm✖1.41=252cm(2.52m)
本では2.52mとなっているが、2.538mが正しいと思う。 つまり6尺✖√2=2.538 となるが、実際の玄室の幅は2.52mなので、6尺✖√2に1.8cm足らないということになる。 しかし、1,2cmは誤差のうちだろう。
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「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。
なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので(つまり私は後だしじゃんけんをしていることになる 笑)、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。
基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。
1⃣久野健氏の説
①橘郎女は「太子の死後の世界を絵で見たい」という着想をどこからえたのか?
・森浩一氏によると、古墳の中には壁面に何かをかけたらしい先のまがった釘が規則的に並んでいる例があるらしい。中宮寺の天寿国繍張のようなものを掛けたのではないかという。
天寿国繍張
聖徳太子が亡くなった際、太子の妃のひとりである橘大郎女が太子が天寿国に往生した様を東漢末賢・高麗河西溢又らに下絵を描かせ多くの采女に刺繍させたもの。
橘郎女は「太子の死後の世界を絵で見たい」という着想をどこからえたのか。 古墳の中にかけられた絵をみたのかもしれない。
⓶塼仏
・7世紀では塼仏(せんぶつ)が多かった。 凹型に彫り込んだ原型に粘土をつめて像をつくり、焼いたあと、金銀の箔で装飾した土制仏像のこと。 現在、塼仏を壁面にはめ込んだ寺院は一つも残っていない。 しかし、7,8世紀の寺院跡からは多数出土している。
・中国では東魏の543年の銘をもつ塼仏が最も古い。
・650-656年に僧法律が造像したとの銘のある塼仏は、68万4000の像を作った。その構図は長谷寺の法華説相銅板に近い。
・日本の塼仏出土例 奈良10(橘寺、南法華寺、定林寺、紀寺、山田寺、當麻寺、石光寺、楢池廃寺、平隆寺、竜門寺) 大阪1(西琳寺) 京都1(広隆寺) 兵庫1(伊丹廃寺) 三重4(天華寺、額田廃寺、夏見廃寺、愛宕山古墳) 滋賀1(崇福寺) 福井1(二日市廃寺) 広島1(寒水寺) 鳥取1(斉尾廃寺) 長野1(桐林宮洞) 神奈川1(千代遺跡) 福島1(借宿廃寺) 大分1(虚空蔵寺)
・橘寺は聖徳太子創建と伝えられるが、福山敏男氏は古瓦や塔跡の礎石からみて、天智ああの前半としている。 ・大阪・野中寺に伝わる弥勒半跏像の銘文に、「丙寅の年、橘寺の知識118人が中宮天皇のために造った」というような内容が記されており、丙寅は天智5年(666年)と推定されている。 橘寺ではなく柏寺ではないかとする説もあるが、橘寺が正しいとすれば、橘寺は666年までには建立されていたことになる。
野中寺 金銅弥勒菩薩半跏像
・橘寺の塼仏と野中寺の弥勒像を比較した結果から、橘寺塼仏が野中寺像よりのちに製作されたものと考えられる。 (なぜ先ではなく、のちなのか。この説明ではわからない。) 野中寺・・・肉つきがよい。胴のくびれが少ない。頭部に丸みがある。やや面長。顎が小さい。 橘寺・・・頬がふっくらしている。顎もやや大きい。
・滋賀県崇福寺出土の塼仏 崇福寺は天智天皇が創建した寺。668年(菅家文章は671年とする。)天武朝とする説もある。 橘寺のものよりさらに成熟したデザイン。
・橘寺の塼仏に似たものが、唐にある。「大唐善業」の銘文があり、唐代での政策であることがわかる。 橘寺塼仏から考えて、天智朝に唐朝文化が入っていたことを示す。
③山田寺
・天武朝期にはさらに成熟した唐文化がはいってくる。
山田寺仏頭(国宝。興福寺蔵)
・山田寺造営は『上宮聖徳法王帝説』の裏書に記述がある。 それによれば、641年ごろ整地、644年金堂建立、648年僧を住まわせる。 649年、蘇我倉山田 石川麻呂、讒言によって自害する事件があり、一次中断。 673年、塔建造。678年丈六仏像鋳造はじまる。685年、開眼供養。天皇浄土寺に幸す。(このころにはほぼ完成していたか)
・山田寺塼仏は金堂土壇より出土する。堂内装飾として塼仏を配したのは685年ごろか。 ・山田寺塼仏の大型如来胸部、脚部の断片は、紀寺畑出土とされる東京国立博物館の如来坐像と同じ型から製作されている。 ・十二尊をひとつの型からぬいた塼仏は諸家に多く分蔵されている。 ・玉虫厨子の宮殿内部の押出千仏像のような役割をもっていたか。 ・長谷寺の法華説相銅板(写真はブログ記事上にあります。)のように大型の如来を中心に、その周囲に千仏像や如来立像が組み合わされていたのだろう。
・九条兼実の『玉葉』によると、治承4年の兵火に焼けた興福寺の東金堂の本尊は、鎌倉時代の初めに山田寺から奪取してきた像。 室町時代に再び金堂が焼けた際、頭部だけ残り、昭和12年に同堂の仏壇下から発見された。
・興福寺の仏頭は、山田寺の丈六像の頭部とみてさしつかえないだろう。唐美術の影響を顕著にあらわしている。
④夏美廃寺跡塼仏と高松塚古墳壁画の共通点
・夏見廃寺跡から出土した、京都大学文学部所蔵の如来および脇侍などをあらわした塼仏
金堂塼仏壁(復元)夏見廃寺展示館展示。
夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分
正面ではなく、側面をむいた人物像があらわされている。
・高松塚古墳壁画が天寿国繍張や玉虫厨子絵と異なり、横向きに人物が描かれている点が共通する。
高松塚古墳壁画 男子群像
高松塚古墳 女子群像
・塼仏は氏寺に多い。 飛鳥寺、大官大寺、薬師寺、東大寺などの官立寺院には繍仏(刺繍で表現した仏画)はあったらしいが、塼仏は出土していない。 諸寺の資材帳、七大寺日記などの記事に、法隆寺の壁画のことは記されているが、そのほかの寺で壁画が描かれていたらしい記事は全くない。
法隆寺のように、壁画のある寺院は特異ではないか。
梅原猛氏は法隆寺や出雲大社のように壁画のある寺社は珍しく、怨霊を慰霊するために壁画は描かれたというような意味のことをおっしゃっていたが、やはり壁画があるのは珍しいのだ。
⑤法隆寺金堂壁画
・法隆寺壁画は同寺金堂の四面の12の壁画、飛天を描いた壁画20面、天井下の山岳中に座す羅漢を描いた壁画などの総称。 五重塔解体工事の際、当初層の四面の壁にも壁画が描かれていたことがわかり、これも含まれる。
6号壁阿弥陀浄土図の部分(焼損後)
・製作年代はかつて和銅年間(708-715)と考えられていたが、現在では(この本の初版の1947年当時) 五重塔壁画・・・和銅年間 金堂壁画・・・和銅よりも遡る 建築様式も五重塔と金堂はかなり差がある。(両者の雲形肘木や柱のちがい)
・顔料のちがい。 金堂の天井板・・・白・赤(朱)・緑・黒 五重塔の天井板・・・白・赤(ベンガラ)・緑・黒・褐・淡緑・淡褐色 五重塔の壁画の一部・・・赤(ベンガラ)が用いられている。 五重塔の壁画と天井板はほぼ平行して製作されたことをしめす。 (壁面のみ極彩色で天井が素木ではバランスがわるい) 金堂の壁画と天井板もほぼ同時に造られたのだろうが、五重塔とは同時ではないらしいと推定される。
・壁画の描き方は2種類。 ❶壁面に白土か小粉を幅三尺づつ程度に塗り、乾かないうちに粉本に従って絵を描く。一部分が終わると次のパートにうつる。 (乾かない壁に彩色された顔料が壁画の中にしみこんで、乾くと一分ぐらいの層を顔料で形成して堅固に保たれる。色彩は鮮明、容易に剥落しない。完成までに時間がかかる。) ❷壁面全体に白下地を塗り、壁面が乾燥してから膠を混ぜた顔料で壁画を描く。補筆も可能。剥落しやすい。
・法隆寺の壁画は昭和24年の火災の時、消化ポンプの水を浴び彩色が剥落してしまったが、線の部分が釘ぼりになっていることが分かり❶の方法で描かれたらしいと推定された。
・高松塚がどちらの手法で描かれたのかは後の研究をまつしかない。
キトラ古墳の十二支寅像も、釘でほったような溝がある。
キトラ古墳 四神の館似て撮影(撮影可)
来村多加史氏は著書「キトラ古墳は語る」の中で次のようにおっしゃっている。
寅像は下絵の線がヘラ状の道具で深く刻まれているために、写真にくっきりと像がうかびあがっている(口絵)。 「キトラ古墳は語る/来村多加史(日本放送出版協会)」p138より引用
・高松塚古墳壁画の男子像の唇の描き方は、下唇を二つの孤線を合わせたように描くが、法隆寺脇侍菩薩に共通する。
↑ こちらのサイトに法隆寺金堂壁画の画像が多数掲載されている。 その中の「第6壁 阿弥陀浄土 右, 観音菩薩像 頭部 ②」がこちら。↓
高松塚古墳 男子像(高松塚壁画館にて撮影 撮影可)
たしかに唇の描き方は共通している。
・法隆寺壁画は唐美術の影響を受けているが、線質、隈取をほどこす表現はさらに西方美術の結びつきが強い。 法隆寺壁画の線は鉄線描という、肥痩のない弾力性に飛んだ線。 『歴代名画記』によれば、初唐の画家・尉遅乙僧は壁画の名手で「屈鉄盤糸のごとし」と称された。 乙僧は西域・干蘭国の出身。『唐朝名画録』に「凹凸花の中に菩薩を描いた」とあるが、おそらく陰影を施し立体感を出した描法だろう。 この描法が日本に伝わったのではないか。
・649年に王玄策がインドの華氏城にあった仏足石を写し、中国にもちかえった。 さらに黄文本実が唐の普光寺でうつして日本に持ち帰った。これが薬師寺の仏足石の原図である。 彼はこのほかにも多くの文物・粉本を日本に持ち帰っただろう。(例/水臬/みずばかり=水準器) 黄文本実は鋳銭司に任じられたり、作殯宮司に任命されたりしており、仕事の幅が広いことがうかがえる。
・しかし7世紀半ばごろ、大陸の文物を日本に伝えたのは黄文本実だけではない。 百済や高句麗が滅亡した際、集団で日本に亡命した人の中に、多くの技術者がいた。 (東大寺大仏像造営に成功した国中公麻呂の祖父・国骨富もそのような亡命者のひとりか。) 新羅からも大勢の人がやってきた。こうしてできたのが白鳳文化。
白鳳(はくほう)は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。『日本書紀』に現れない元号をいう)の一つである。通説では白雉(650年〜654年)の別称、美称であるとされている(坂本太郎等の説)。
『二中歴』等では661年〜683年。また、中世以降の寺社縁起等では672年〜685年の期間を指すものもある。
なお、『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)に聖武天皇の詔として「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」といった記事がみられる。
高松塚古墳壁画に似た四神像をもつ薬師寺薬師三尊像はいつつくられた?
・高松塚四神図と薬師寺金堂薬師如来台座の四神の関係。 特に青龍は顎にXの模様がある点が同じ。
高松塚古墳 青龍
・680年、天武天皇は皇后の病平癒を祈って寺と薬師如来像を発願したが、完成を見ずに崩御。 697年、薬師寺薬師如来開眼供養。 710年、平城京へ遷都。 717~729年、西ノ京へ移転。藤原京の薬師寺は元薬師寺として存続した。
・薬師寺縁起はふたつある。 a. 薬師如来は持統天皇が作った。 b. 平城京で新しく作った。 aが正しいと思う。その理由は、「七大寺巡礼私記」「諸寺縁起集」は持統天皇がつくったとしている。 「醍醐寺本諸寺縁起集」の「薬師寺縁起」は藤原京薬師寺から7日を掛けて運んだとする。 平城京で作ったとする縁起は全て近世以降のもの。
・岡倉天心が薬師寺を訪れた際、寺僧は「薬師三尊像は天平時代行基が作った」と説明した。 また日光菩薩・月光菩薩の腰のひねりなど、作風が完成しているので、持統期に造られたものではないとする意見がある。 しかし、塼仏を見ると、天智朝末には唐朝様式の影響がはじまっており、山田寺の塼仏など様式的にかなり熟しているように思える。
薬師三尊像
「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。
なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。
基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。
1⃣門脇禎二氏の説
①渡来した諸集団がしだいに共通の祖先伝承で結ばれた?
・応神天皇20年(記紀の記述をそのまま信用すると応神天皇20年は290年になるが、記紀の初期の天皇は100歳を超える長寿であるなど、実際よりも古いように描かれているとする説がある。実際には応神天皇は4世紀末から5世紀初めの人物と考えられている。) 東漢氏の祖先、阿智使主(あちのおみ)とその子の都賀使主(つかのおみ)が党類十七県の民をひきいてきた。
・772年、坂上大忌寸苅田麻呂(東漢氏の後裔)の上表文に、「檜忌前寸や右の十七県の民には大和国高市郡檜前村画与えられ、以来この地は他姓の者は十のうち一,二であった」とある。
・東漢直氏の実在人物は、592年の東漢直駒~677年の東漢直一族が叱責をうけたという記述のある期間に限られる。 阿智使主が民を率いてやってきてから、6世紀ごろより分裂、直の姓をもつ坂上、川原民、書など20近い小氏を生じていたと考えられている。
・しかしそうではなく、渡来した諸集団がしだいに共通の祖先伝承で結ばれたのではないか。
・坂上系譜『新撰姓氏録』逸聞は日本書記と異なり、二波に亘る渡来を伝える。 応神紀には「漢人七姓の子孫として14の民が渡来した」・・・檜前調使、檜前村主、阪合部首の祖 仁徳紀には「30の氏族が渡来して今来郡をたてた。」・・・飛鳥村主、牟佐村主、今木村主の祖
・上に挙げた氏族に含まれない別の渡来伝承をもつものが、檜前や檜前周辺では最も早く渡来定着したと考えられる。 乃ち、檜前の地に住んだ檜前村主、檜前調使の人々が最初の定着者だっただろう。 これは理由がしるされていない。
・ついで、身狭村主青、檜前民使い博徳が機織の公認を呉国の使いとともにつれ帰り、呉の使者らを檜隈のに住ませた。ここが呉原(現在の檜前東南型の栗原)の地名になった。 日本書記14年に「呉人を檜隅野に安置し、因りて呉原と名づく」とあることを根拠とされているのだろう。
・檜前、呉原に早い時期での定着があり、桃原(渡来人を住まわせた場所)、真神原とともに渡来人の拠点となったのだろう。
②ヒノクマの地名は紀州の日前神からくる?
・檜前にやってきた人々はどこからやってきたのか。 一般的には河内の石川や飛鳥から東にむかってやってきたといわれる。
・古くからの河内と倭の貫通は龍田道で、葛城→平群→物部→蘇我の順で龍田道をおさえた。 大坂道(穴虫道、竹内道)は葛城大麻氏が抑えていたが、龍田道を物部氏がおさえてから、これに対抗して蘇我氏が抑えた。 おさえるとは具体的にどういうことだろうか。またこれを示す一次資料の提示がほしい。
・南大和から西へ向かう道は、檜前または曽我川に沿って古瀬に抜け、御所から着た道と五條で合祀て橋本、吉野川、紀の川へ通じる道が主道。 ・川原民直宮という人の話も、上のルートが利用されていたことを思わせる。また川原あたりにも人が住み始めていた様子がうかがえる。
門脇氏のいう「川原民直宮という人の話」とはこの話の事を指していると思う。
・檜前と地名をつけた人々は紀の川河口の名草あたりからやってきた可能性もでてくる。 名草郡は渡来人が多い。紀国造は日前(ひのくま)、国懸神を祀り続けた。 和歌山県和歌山市に日前神宮(ひのくまじんぐう)・國懸神宮・くにかかすじんぐう)が同じ境内に祀られている。紀伊国一宮。
・ヒノクマの神は現地の溝を守る農業神で、日前と記されるようになったのは伊勢神宮祭祀の整備とのかかわりであった。紀伊のヒノクマという名前が大和にもちこまれた可能性は大きい。 ヒノクマの神が溝を守る守護神であるというのは、わからなかった。 また「日前と記されるようになったのは伊勢神宮祭祀の整備とのかかわり」とはどういうことなのか、もよくわからない。日前神宮の祭神・日前大神は天照大神の別名であるとして、朝廷は神階を贈らない別格の社として特別な信仰をよせていたらしい。
・高田皇子(宣下天皇)の宮が檜前廬入野に営まれ、「檜前天皇」などとも記された。 「檜前五百野宮」と記す関連資料もあるのでその史実性を疑う必要はない。
檜前五百野宮は於美阿志神社に比定される。 檜前に宮が作られたのは蘇我稲目と関係がある。
宮の記述があるとなぜ史実性を疑う必要がないのか、この説明ではちょっとわからない。
宣下天皇は継体天皇の子で欽明天皇とは異母兄弟にあたる。
③蘇我満智と木満致は同一人物説
・蘇我氏が東漢氏、その中核の檜前氏と結びついたのは、5世紀~6世紀初に大王であった雄略天皇(倭王武)の時代ではないか。 ・雄記紀に「唯愛寵(めぐ)みたまふ所は、史部の身狭村主青、檜前民使博徳らのみなり。」とある。 ・雄略天皇の時代、百済の官人・木満致(木刕満致)が渡来し、曽我川に沿う南大和の曽我(橿原市曽我町)に定着の土地が与えられた。 蘇我鞍作(入鹿)は林太郎鞍作ともいわれ、林氏は「百済国人木貴の後なり」という言い伝えがあったことも傍証になる。 河内の石川に定着した渡来人が大和に入り、蘇我氏を形成した。
わかりにくい文章なのだが、門脇氏は、木満致が蘇我氏の祖であると考えられているのではないかと思う。 5世紀後半頃、蘇我満智(そがのまち)という人物がおり、木満致と音が通じることから同一人物とし、木満致が日本に渡来して蘇我氏を興したとする説がある。
その説の概要は 応神天皇25年を干支3運繰り下げると西暦474年となって蓋鹵王21年(475年)にほぼ等しい。 木満致の日本への召し出し=文周王・木刕満致の「南」への派遣ではないか。 というものである。
これに対する批判としては、 〇応神天皇紀は通常干支2運を繰り下げる。 〇木満致・木刕満致や蘇我満智の所伝年代に開きがある。 〇大姓の「木」を捨てる根拠がない。 〇秦氏・漢氏が渡来系を称するので当時の情勢として出自を偽ることは不可能 〇文周王は新羅に向かったと読める。 などがあげられる。
⓻継体天皇の謎 ・6世紀半ば、北陸から迎立された継体天皇は531年の辛亥の政変で倒れる。
記紀は継体天皇を応神天皇の5世の子孫(来孫)とする。垂仁天皇の女系の8世の子孫(雲孫)とも、(日本書記) 450年頃に近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生し、幼い時に父が死亡。 母・振媛の故郷・越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)で育ち、「男大迹王」として越前地方を統治した。(日本書記) しかし古事記には、振媛が越前国に連れ帰るまでは詳細に記しているが、その後約50年の記録がなく、次に記述があるのは57歳ごろとなっていて、越前の名前は出てこない。このことから、継体天皇はずっと近江に板のではないかとする説もある。 506年、暴君・武烈天皇が後嗣を定めずに崩御。 大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)の14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王を天皇にしようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。
そこで大伴金村が「男大迹王に皇位を継いで頂こう。」といい、男大迹王を迎えにいった。 しかし男大迹王は群臣を疑って即位を拒む。 群臣のひとりで男大迹王の知人であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)は、使者をおくってり、男大迹王を説得させた。 507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)で即位。

樟葉宮跡
511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。 512年、 百済から要請があり、救援の軍を九州北部に送る。 527年新羅と通じた筑紫君・磐井が朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍を阻む。 528年、磐井の乱は物部麁鹿火によって鎮圧された。 531年、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、即位の同日に崩御した。(古事記は継体の没年を527年とする。)
日本書紀注釈は百済本記の辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったという記述を引用している。 継体の後継者・安閑・宣化と、即位後に世子(世継)とされた欽明との間に争いが起こったとする説がある。
しかし「天皇」が誰を指すのか不明であり、百済の歴史書の信憑性を疑問視する意見もある。
『上宮聖徳法王帝説』(弘仁年間成立)と『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』(天平19年成立)によれば、 「欽明天皇7年の戊午年」に百済の聖明王によって仏教が伝えられたと記されている。 しかし欽明朝に戊午年は存在しない。 継体崩御の翌年に欽明が即位したとするとちょうど7年目が戊午年に当たる。
真の継体陵と目される今城塚古墳には三種類の石棺が埋葬されていたと推測されている(継体とその皇子の安閑、宣化の石棺か)
今城塚古墳復元石棺 今城塚古墳歴史館にて撮影(撮影可)
辛亥の年は531年ではなく60年前の471年とする説もある。 記紀によれば干支の一回り昔の辛亥の年に20代安康天皇が皇后の連れ子である眉輪王に殺害される事件があり、混乱に乗じた21代雄略天皇が兄八釣白彦皇子や従兄弟市辺押磐皇子を殺して大王位に即いている。 「辛亥の年に日本で天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」という伝聞を『百済本記』の編纂者が誤って531年のことと解釈したのではないかとする説もある。
⑧蘇我氏と継体・安閑・宣化天皇の関係
・勾皇子(安閑天皇)、檜隅高田皇子(宣化天皇)の名の勾(橿原市曲川町)や高田大和高田市が宮の所在地や生母の住地に関係しているとすれば、曽我氏の本拠地(前述の曽我川に沿う橿原市曽我町のことをさしている?)に近い。 勾皇子(安閑天皇)、檜隅高田皇子(宣化天皇)は継体天皇の子であり、継体天皇大和迎え入れに蘇我氏の力が働いていたのではないか。
・蘇我氏は大王高田皇子(宣化天皇)と姻戚関係を結んでいた形跡もある。
古事記には欽明天皇の息子に宗我の倉王の名前がある。母は春日糠子郎女。 同母兄弟は、春日山田郎女、麻呂古王なので、倉王だけが宗賀の倉主というのは不可解。 父親が欽明天皇ではないか、糠子郎女の子ではないと見るのが自然。 日本書紀には倉皇子があり、母親は日影皇女。日影皇女は欽明紀に宣下天皇皇女とあるが、宣下紀には記述がない。 倉皇子を生んだ日影皇女の母后の姓は宗賀臣ではないか。
・このような経緯を経て蘇我氏は東漢直氏の主要氏族である檜前村主氏の住地に大王高田皇子(宣化天皇)の宮を営ませたのだろう。
・蘇我稲目の政治・・・対新羅関係の悪化に備えて、瀬戸内の要塞と北九州の防備を固めている。 百済に遣わしていた日羅を大伴金村を通じて償還しようとしたのも、現地の情報を得るためだろう。 檜隅廬入宮の警衛も固めた。 警衛は東漢直氏や檜隅村主氏のほか、地方から徴発された。 舎人や名代、子代の称は上番出仕した宮号にちなんでつけられたらしい。 檜前舎人造のもとに檜前舎人や舎人部が指定されたのも、この宮号によるものだろう。 檜前舎人、檜前君を称した人々は、上総国海上部や上毛野佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に指定されており、檜隅の名前が広まった。
・大伴氏の勢力が弱まり、蘇我馬子と、物部守屋が権力を握り、対立する。 物部氏が龍田道を抑えていたのに対し、曽我氏は竹内峠、穴虫峠の確保を急いだ。 (抑えるとは具体的にどういうことなのかな?) 蘇我氏は二上山東山麓の葛城当麻氏を配下にして、大阪路の通行権をおさえ、朝鮮渡来の人々を積極的に迎え入れた。 ・坂上氏系図には忌寸の姓をもつ東漢氏を構成した多くの氏族がいる。大阪道から渡来した者だろう。 都賀使主(=東漢直掬(やまとのあやのあたい つか)を祖とし、高松塚の所在地の字名・平田氏も登場する。
⑨今木の双墓はどこにある?
平安時代の興福寺今木御庄から逆推して、三条里地区(檜前・呉原条理、高市郡西城条里、曾我川をこえた国見山塊東部の条里)と葛上郡南郷(御所市南部)まで含んで今木郡と称された時期があったのではないかと指摘されている。(秋山論文) 今木の双墓の所在地から考えても支持したい。檜前直と称する一族が葛上郡にいたことも傍証になる。
国見山塊西の葛上郡南郷(今の御所市南部)も今木郡だった可能性があり、蘇我蝦夷・入鹿の墓とされる水泥古墳は御所市にあるので、これが今木の双墓の可能性がある、ということだろう。
今木の双墓とは、蘇我蝦夷、入鹿が生前に作らせた二人の墓である。
1734年の大和志には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」と記されており、御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳が今木の双墓ではないかと言われていた。 門脇氏がおっしゃる「今木の双墓」とは御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳を指すものと思われる。
しかし水泥古墳・水泥塚穴古墳について、ウィキペディアはつぎのように記している。
近年では蘇我蝦夷・入鹿の死去に20年先行することが判明しているため否定的である[2]。
蝦夷・入鹿の死よりも20年早いというのはどのようにして判断されたのだろう。
これについては調べたりないせいかわからなかった。
形状 方墳
規模 東西72m(北辺)・80m超(南辺)南北約70m
小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか[7]/なめだにのおか[8])」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年)[原 1]に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年)[原 2]に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年)[原 3]に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳)[4]。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される[4]。
段ノ塚古墳は上八角下方墳であり、八角墳は天皇陵に多い形であるため、舒明天皇(天智・天武天皇父)陵である可能性は高いと思う。
小山田古墳は八角墳ではなく、方墳であるが、天皇陵として最初の八角墳が段ノ塚古墳であるならば、小山田古墳は舒明天皇の初葬地の滑谷岡である可能性はある。
↓こちらの記事に現地説明会のようすなど詳しく説明されていた。
見つかった土器や瓦片から、橿考研は築造時期を640年ごろと推定。石舞台古墳石室(全長約19メートル)を上回る全長30メートルクラスの大石室がつくられていた可能性もある。
日本書紀によると、舒明天皇は641年に崩御。翌年、飛鳥の「滑谷岡」に埋葬され、崩御から2年後に現在の押坂陵(おしさかのみささぎ)(段ノ塚古墳、奈良県桜井市)に改葬された。菅谷文則・橿考研所長は「今回の調査で、築造年代や墳丘規模など『舒明天皇の初葬墓』説を補強する新たな材料がたくさん出てきた。舒明天皇の初葬墓であるという考えはゆるぎないものになったと思う」としている。
今尾文昭・元橿考研調査課長も「周辺では西側の谷を埋めて高い盛り土をするなどすごい造成工事をして築造している。大王家(天皇家)の力をみせようと、飛鳥の目立つ場所に造った大古墳だ」とみる。
一方、猪熊兼勝・京都橘大名誉教授は濠(ほり)の遺構が見つかった平成27年には「被葬者の第1候補は舒明天皇」としていたが、「蝦夷の大陵の可能性の方が大きい」と見解を変更。今回、蘇我氏ゆかりの豊浦(とゆら)寺(明日香村)出土の瓦と同タイプの瓦が見つかったことなどを理由にあげた。「石室は全長30メートルぐらいの規模だろう」と推理する。
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長は「7世紀の中ごろに飛鳥のど真ん中に墓をつくることができるのは蘇我氏の族長以外に考えられず、被葬者は蝦夷とみるのが常識的な理解」とし、「舒明天皇の初葬墓は、埋葬翌年に改葬している。あんな立派なものを造ってすぐに改葬したと考えるのは無理がある」と語る。
一貫して「蝦夷の大陵」説を唱える泉森皎・元橿考研副所長は「日本書紀が『大陵』と伝えるにふさわしい大きさだ。当時使われていた高麗尺(こまじゃく)で考えると、一辺は約200尺。ピラミッドのような段築(だんちく)構造の方墳だったと思う」としている。
小山田古墳の被葬者が誰なのか、ということは高松塚古墳の被葬者について考える上で重要である。 小山田古墳の被葬者が蘇我蝦夷であるとすれば、近くにある方墳・菖蒲池古墳は、今木の双墓(蘇我蝦夷の大陵と、蘇我入鹿の小陵)のうちの小陵、蘇我入鹿の墓の可能性が高くなる。
そして菖蒲池古墳は、聖なるライン(天智陵ー平城京ー藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵ーキトラ古墳とほぼ一直線に南北につながるライン)上にあるからだ。
つまり、秋山論文が指摘する「葛上郡南郷(御所市南部)まで含んで今木郡と称された時期があった」がまちがいであっても、檜前・呉原条理、高市郡西城条里、曾我川をこえた国見山塊東部の条里が今木郡であった可能性は高く、 その檜前の地にある小山田古墳は蘇我蝦夷、聖なるライン上にある菖蒲池古墳は蘇我入鹿の墓であるかもしれない、ということである。
⓾東漢直氏
・東漢直氏と高市県主との関係
古くから高市県主の名がみえ、壬申の乱でも高市郡司として高木県主・許梅(こめ)の名がみえる。 高木県主が祀っていた高市社は高市御県座事代主社(橿原市雲梯町) 地域的には高市県主と東漢直氏(や檜前氏〉との競合関係はみられない。 むしろ、東西にひろがっていた今木郡のうち、曾我川東岸のヒノクマも含めた地をのちに高市郡の南部に加え,西岸は葛城上郡に加えて行政区としたのだろう。 檜前の人々は今木郡の人々と結合が強かっただろう。
檜前は今来ではないという事だろうか? しかし「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」(姓氏録逸文)とあり、 『和名類聚抄』(931年 - 938年ごろ、源順が編纂した辞書)には高市郡の郷として、巨勢・波多・遊部・檜前(比乃久末)・久米・雲梯・賀美とあると言う事なので、檜前は今木郡にあったのではないかと思われる。
・今来郡に分住した渡来人諸集団が6世紀末ごろ、東(倭)漢氏年て総称的氏族を称し、直の姓を与えられたのだろう。 そして東漢直氏は蘇我氏を支える最大の力になった。 ・東漢直氏の力を用いて、蘇我馬子は物部守屋を倒す。 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした587年の丁未の乱において、東漢直氏は具体的にどのような活躍をしたのか。
・570年、東漢直糠児は越に渡来した高句麗使を迎えにいっている。 ・572年ごろ、東漢坂上直子麻呂、高句麗使の接待を行う。 ・592年東漢駒(姓は直)が馬子に命じられて崇峻天皇を殺害し、馬子の娘・河上娘(崇峻天皇の嬪)を奪らの妻として馬子に殺害されている。 ・高松塚のある平田に人々が定着したのは6世紀末から7世紀初ではないか。 612年に渡来した百済人・味摩之(みまし)より呉の伎楽舞を学んだ二人の弟子のうちひとりは新漢斉文といい、彼が 辟田首(さきたのおびと)らの先祖とされている。辟田は平田、枚田とも書かれた。 ・蘇我馬子は檜前坂合陵の上に砂礫をしき、氏ごとに柱を競立させたが、東漢坂上直氏が特に大きな柱をたてた。 ・中尾山古墳、高松塚、文武陵、墓山古墳(吉備姫王墓のことか?)は何故檜前の地にあるのか。
⑪檜前はいかにして国家権力の統治を受ける地となったか。
・蘇我蝦夷、入鹿のころより東漢氏は分裂状態になったと思われる。 厩戸皇子の舎人・調子麻呂は山背大兄が蘇我入鹿に責められて一族もろとも自殺するまで上宮王家に従った。 蘇我本宗毛滅亡の時、高向氏の国押は蘇我討滅派。 東漢氏の諸反族も蘇我本宗家滅亡に際して四散した。 檜前氏のその後の動きはしばらく正史にみえない。 東漢坂上氏の系譜には、檜前忌寸はみえない。 平田氏は兄腹の山本直に、呉原氏は中腹の代2子志多直に、川原氏は同弟三子の阿良直に結ぶ系譜となっている。 壬申の乱では、坂上直熊毛は近江朝側だったが、一族は大海人皇子側につく。 ところが大海人皇子=天武天皇は他氏の関与を拝して王権を拡大させた。 ・677年、東漢直氏は叱責される。 「汝等が党族、本より七つの不可を犯せり。是を以て、小墾田御世より近江朝に至るまで、常に汝等に謀るを以て事とせしも、今朕が世に当たりては、将に汝等の不しき状を責め、犯の随に罪すべし。然れども頓に漢直の氏を絶さまく欲せず。故、大恩を降して原したまふ」
このときより後、東漢氏は宮廷への出仕から排除され、檜隈氏に代わって東漢氏の中心にたった坂上氏たちさえ、平安時代初めまで「下人の卑姓」者の扱いを受けることになった。
・東漢直氏が犯した「7つの不可」を明確に示す史料はない。 この檜前の地は国家権力の直接的統制を受ける地となり、住民は下人とされた。
⑫檜前の人々は墳墓造営の地と仕事を提供した?
・中尾山古墳、高松塚は厳密には「聖なるライン」に乗らない。 檜前・呉原の中にはいる。
「檜前・呉原」の中にはいるという表現はわかりにくいが、「聖なるライン」は存在しないという意味かもしれない。 私も何度も飛鳥の地図を眺めるうちに、聖なるラインは存在しないのではないかと思うことがあった。 しかし全く関係がないというわけではなく、ライン上の古墳がのっているというよりは、飛鳥地域の古墳群が一塊になる形で、天智天皇陵ー平城京ー藤原京に繋がっているのではないかという思いが頭をよぎった。
・檜前の人々は地位挽回のため、進んで墳墓造営の地と仕事を提供した可能性もある。 ・東漢坂上直氏は叱責を受けるどころか、坂上姓をえて坂上大忌寸として栄進している。(坂上直熊毛、国麻呂ら) 彼らは同族諸氏族の勢力挽回にもつとめた。 ・枚田忌寸安麻呂は740年、外従五位下にのぼった。 ・729年、民忌寸 志比ら、先祖・阿智使主の応神朝に聞かせるを上申。(?意味がわからず) 731年、蔵垣忌寸家麻呂、高市郡少領に任ぜられる。 739年、蔵垣忌寸家麻呂、高市郡大領に転じ、蚊屋忌寸子虫が同少領。 765年、文山口忌寸公麻呂、高市郡大領に任ぜられる。 772年、檜前忌寸を高市郡司に任ずべきことを上申。檜前氏、下人から宿祢に。
・橿原考古学研究所の中間報告では高松塚造営は7世紀末~8世紀初に絞られている。677年(東漢直氏が叱責された年)以降と言ってもいいのではないか。 ・宮門警備の下人の住地に貴人の墓地が作られた。 ・平田氏は東漢氏の中でも坂上氏と結んでいった。坂上氏は壬申の乱の功臣として地位を保持。配下の平田忌寸氏とともに王族の陵墓造営の地を提供したのかも。 ・下人の地位におとされたが、新しい葬礼を創出しようとしたのかもしれない。この場合、高松塚は王族に限らない。
※「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」というタイトルを「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。」に変更しました。
「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。
なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。
基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。
1⃣秋山日出雄氏の説
①飛鳥は約100年間、都だった。
・飛鳥の地は推古天皇以降約100年間にわたって皇居が営まれた。さらに遡り、允恭天皇遠飛鳥宮、顕宗天皇近飛鳥宮(古事記)、顕宗天皇近飛鳥八釣宮(日本書記)も記されている。
・遠、近については諸説あり。距離的、時間的など。
・八釣宮が最初の宮として伝承され、それを古事記の編者月辰に分けた。(門脇禎二氏)
・飛鳥の細川谷には横穴式古墳の群衆地帯がある。(200基以上)
古墳時代人の生活圏であったことを示す。
後期古墳が多いとされるが、前期古墳時代のものがある可能性も。
・5世紀後半から6世紀、屯倉(天皇・皇族の領有地)が各地に設置される。屯倉設置には帰化人の技術や労働力が用いられた。
大身狭屯倉は官人屯倉、小身狭屯倉は高麗人屯倉とよばれた。吉備屯倉は蘇我稲目の下に帰化系の白猪史が田令(たづかい/屯田の事務をつかさどる官職)
飛鳥にも屯倉が設置された。これは蘇我氏の勢力がこの付近にあったのは、蘇我氏が屯倉設置に尽力したため。
蘇我氏の邸宅、畝傍宅、石川宅、豊浦宅、島宅は飛鳥または飛鳥近辺。
蘇我氏の配下にあった倭漢氏は檜隅に住んでいた。欽明紀に倭漢氏の一族、川原民直営の名前が登場し、明日香村川原との関係が連想される。
欽明紀の川原民直宮の記述は次のとおり。
(即位7年)秋7月 今来郡(いまきのこおり・大和 高市郡)から報告があった。
5年の春 川原民直宮(かわらのたみのあたい みや)が 高殿から良馬をみた。
紀伊の国の漁師が 献納品を積んできた雌馬の仔である。
仔馬は 人を見て高く鳴き(よく走る良馬の相)母馬の背を飛び越えた。
宮は 出向いて この仔馬を買い取った。
この馬は 壮年となると 鴻(おおとり)のように上り 龍のように走った。
川原民直宮は 桧隈(ひのくま)の里の人である。
・蘇我馬子が飛鳥寺を建立したとき、衣縫氏の樹葉宅を壊して建立した・・・蘇我氏と帰化人の関係を示す。
6世紀後半、飛鳥衣縫樹葉(あすかのきぬぬいのこのは)という人物が飛鳥に住んでいた。
縫織を生業とする百済または加耶から渡来し、衣縫部を統率する伴造だった。
蘇我馬子は飛鳥衣縫樹葉の家を壊して法興寺(飛鳥寺)を作った。
飛鳥川の弥勒石付近に木葉堰があり、これも飛鳥衣縫樹葉が造った用水堰と考えられている。
・飛鳥の地は推古天皇以降約100年間にわたって皇居が営まれた。 天皇崩御後、宮が廃棄されたとはいえないのではないか。 推古天皇/豊浦宮・小墾田宮(おはりだのみや)
飛鳥岡本宮/舒明天皇 皇極天皇/小墾田宮・飛鳥板葺宮 斉明天皇/飛鳥川辺行宮・飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮 天武・持統天皇/飛鳥浄御原宮 聖徳太子/岡本宮(勝鬘経を講讃したとされる) 草壁皇子/嶋宮 高市皇子/香具山宮 新田部皇子/八釣付近に宮があった。 忍壁皇子/浄御原宮に近い場所 ※例外は天智天皇の近江大津宮 ※奈良時代にも、淳仁天皇や称徳天皇の小治田岡本宮があった。
飛鳥板葺宮跡
・天皇崩御後、ただちに宮を廃棄されたといわれるが、疑問。 天武天皇の島宮も、のちに草壁皇子の宮とされている。 板葺宮も何度か造替・改造が行われている。
・飛鳥寺の伽藍配置は高句麗の清岩里廃寺に似ている。
飛鳥寺 創建当時の伽藍配置 模型
・ 大官大寺は新羅の慶宗泉龍寺に似ている。
・薬師寺の伽藍配置は慶州四天王寺に似ている。
・飛鳥の範囲 飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君が辺は 見えずかもあらむ 藤原宮より蜜楽宮に遷都の時、元明天皇が詠んだ歌。 喜田氏はこの歌から飛鳥を畝傍山以東、耳成山以南も飛鳥とした。 藤原京が新益京と呼ばれるのは飛鳥の拡大。
・持統5年、諸王、諸臣に宅地が与えられている。
・吉野の宮 応神・雄略の時代にもみられるが、斉明天皇二年に吉野宮が造営されていらい、飛鳥時代にしばしば行幸があった。 奈良時代、一時期 吉野監がおかれる。監と宮の関係は不明。 縄文式文化の代表的遺跡、吉野町宮滝遺跡。各時代の遺跡と重なる。石敷きの建築以降、石溝など。 吉野宮は宮滝にあった可能性が高い。
・多武峰・・・斉明天皇の時代に造営さえた二槻宮(天ツ宮)がある。
・小原・・・別名藤原 天武の氷上夫人は藤原夫人と呼ばれた。
・倉橋・・・崇峻天皇の倉梯柴垣宮が営まれた。
・天武天皇5年 「南淵山、細川山を禁(いさ)めて、並に蒭薪(くさかりき)こること莫れ」 勝手に南淵山、細川山の木を伐採してはいけない。
②飛鳥の古墳
・喪葬令 皇陵の兆域内には葬埋、耕牧を禁止。
・石舞台古墳 昭和8年、末永氏によって調査が行われ、濠をめぐらせた一辺50mの方形古墳。
・高松塚古墳は石舞台古墳と対照的。
高松塚古墳
・石舞台・・・底石はない。玄室奥の側石が建てられてから両側石がたてられ、天井石は奥のほうにおく。
・高松塚・・・底石がある。底石を敷き、両側、奥が組まれ、天井石で覆い、棺を入れたのち、手前の側石で封鎖する。 (最後に閉鎖することを考慮して石が組まれる。)石を矩形に伐る。
高松塚古墳石室 展開模式図(飛鳥資料館にて撮影)
・鬼の厠、牽牛子塚古墳は、三方の側石と天上石を一石で切り出している。
鬼の厠
牽牛子塚古墳 埋葬施設(牽牛子塚古墳 説明版より)
図をみると牽牛子塚古墳石槨を囲うのは切石だが、石槨は一枚岩で作られているようである。 「横口式石槨は、約80トンの重量をもつ1個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約70トンの埋葬施設をつくったもの」
とウィキペディアは説明している。
・岩屋山古墳は石の表面は平滑になってきているが、稜角が直角になっていない。
岩屋山古墳
岩屋山古墳 石室内部
③高松塚は薄葬令や浄御原令以降に作られた?
・持統5年以降、日本書記に賻物(ふもち/ふもつ 死者に贈る品物)の記事がある。 賻物の初見が持統5年以降。直前の持統3年に浄御原令が出されている。 浄御原令に喪葬令賻物条があり、それに従って葬送を実施していたのだろう。 古代葬制史上、浄御原令(689年)の影響は大きい。
・大化の薄葬令(646年)には王以上には轜車(きぐるま/棺を運ぶ車)を用いると規定されている。 養老喪葬令葬具条には、親王・一品・太政大臣には轜車を用いると規定されている。 木棺(たぶん石棺では車で運べないということだと思う)実例から考えると漆棺を運んだのだろう。
・高松塚の古墳の規模は大化薄葬令にあっているし、出土した棺は漆棺であるので、薄送令(薄葬令の誤りと思われる)や浄御原令以降に作られたものだろう。
以前の記事でも書いたが、高松塚の古墳の大きさは薄葬令にはあっていない。
下は梅原氏の「1尋=2m」で換算した古墳の大きさである。
薄葬令よりも広さが大きい古墳を赤で示してみよう ※被葬者の名前は参考までに書いたが確定しているわけではない。
薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
※石敷・砂利敷部分を含むと32m
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)
阿武山古墳(中臣鎌足/669)・・・・・・・・・封土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域
御廟野古墳(大田皇女/672)・・・・・・・・・下方辺長35尋(70m)※上円下方墳と見做す場合・高さ4尋(8m)
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m)
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・対角長15尋(30m)
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)
このように薄葬令の基準を上回る古墳のほうが断然多いが、高さは薄葬令の5尋を上回るものはない。
力学的に広さ9尋に対して、高さ5尋はムリということなのではないかと思うのだが、どうだろう?
仁徳天皇陵古墳の陪塚に源右衛門山古墳がある。 仁徳天皇陵がつくられたのは5世紀前期から中期とされているので、その陪塚とされる源右衛門山古墳も同時期のものだと考えられるが、その大きさは直径34m、高さ5.4mである。 これは上にあげた終末期古墳のサイズと同程度であり、古墳のサイズだけで時代を出すことは難しそうだ。 高松塚の場合は、石室のつくりや、壁画に描かれたファッションなどが築造時期特定の参考になると思う。 副葬品の海獣葡萄鏡なども年代特定の参考になるが、鏡の製作年代と、それを副葬品として納めた年代が同じとは限らないので、決定打にはなりにくいと思う。
④日本に墓誌の習慣はあったのかも? ・薄葬令では大仁以下は封土の築造が禁止されているが、封土のない古墳の被葬者は墓誌名から大仁以下であることがわかる。考古学的調査と令の制度が一致している。
〇船王後 (?ー642年)大仁 /大阪府柏原市 出土地は不明。
〇文禰麻呂(?ー707年) 従四位下 /奈良県宇陀市 
文祢麻呂墓(奈良県宇陀市)
〇威奈大村(707年) 正五位下 / 奈良県香芝市 江戸時代、二上山麓・葛下郡馬場村の西にあった「穴虫山」より出土 〇山代真作 (?ー728年)従六位上/ 奈良県五條市 大阿太小学校付近とされるも不明 〇小治田安万侶 (?年ー729年)従四位下 蘇我稲目の後裔/ 奈良県奈良市
小治田安萬侶墓
〇楊貴氏 (墓碑製作739年) 奈良県五條市 (非現存)吉備真備の母/五條西中学校の敷地に墓碑がたてられているが、大正時代にたてられたもの。所在地不明。記録から墳丘や盛土による古墓ではなかったと考えられる。 〇行基 ((668年ー749年) 奈良県生駒市
〇宇治宿禰 (墓誌製作年768年?)/ 京都府京都市
〇高屋枚人 (墓誌製作年776年)/ 大阪府南河内郡太子町 高屋連枚人墓誌 叡福寺
〇紀吉継 (?ー784年/ 大阪府南河内郡太子町)紀広純の娘/二上山麓 〇日置(郡)公(?)/ 熊本県玉名郡和水町 (非現存)
画像がみつからないものも多いが、画像がみつかったもののみでは、封土はないか、あっても大変小さいもののように見える。
それはともかく、私は今まで、日本には墓碑を残す習慣がないと思っていたのだが、確認されているだけで18例あるということは、「日本には墓碑を残す習慣がない」という認識は変える必要があるのではないかと思った。
船王後の墓誌の様に銅などの金属で作られた墓碑は錆びて朽ちてしまったり、文字の判別が不可能な状態になってしまったのかもしれない。 あるいは盗掘されてしまった可能性もある。
また威奈大村のように、骨蔵器に墓碑が刻まれたものもある。 そこで思い出すのが、持統天皇の骨を入れた銀の骨壺である。 この骨壺は盗掘されてしまって現存しないのだが、もしかしたら、墓碑のようなものが記されていたのではないか、と思ったりする。
また、 シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉒様々な終末期古墳 において 奈良豆比古神社に元明天皇の墓誌の拓本が保存されていること、群馬の山ノ上の采女氏塋域碑(うねめしえいいきひ)について記したが、これについては、ウィキペディアの18例には含まれていない。 天皇陵はほとんど発掘調査が行われていないが、調査すると墓碑がでてくる可能性があるのではないか、と思った。
そしてやはり気になるのは「高松塚から石(墓碑)を運び出したという土地の伝えがある。」という岸俊男氏の発言である。
※「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」というタイトルを「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。」に変更しました。
「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。
なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。
基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。
1⃣斎藤忠氏の説
①高松塚と同様の画題をもつ壁画古墳
翳とは下の高松塚古墳壁画の黄色の着物を北女性が手にもっている団扇のようなものである。
・珍敷塚古墳 ガマガエルが描かれている。高句麗壁画古墳の影響。
ガマガエルだけでなく、鳥(八咫烏?)・月・太陽のようなものも描かれている。
珍敷塚古墳 キトラ古墳 四神の館似て撮影(撮影可)
・竹原古墳 玄武・青龍・鳳凰・さしばが描かれている。
九州の装飾古墳である永池古墳・珍敷塚古墳・竹原古墳などに、斎藤氏は高松塚と同様の画題があると指摘される。 以前にも述べたが、九州の装飾古墳と奈良の高松塚・キトラ古墳の違いについて、絵のタッチの違いが述べられることはよくあるが、さしば・四神・高句麗の影響などの共通点は述べられることが少ないような気がする。 キトラ古墳 四神の館に展示されていた説明版でも絵のタッチの違いについて説明されていただけだった。 しかし、高松塚・キトラ古墳と同様の画題、四神、日月、さしばなどが九州の装飾古墳にも描かれていることは、認識しておいた方がいいと思う。
平安時代の僧・空也像にもいろいろな雰囲気を持つ像が存在する。 しかし像の雰囲気が違っても、口からみほとけがほとばしり出る表現は同じであり、空也に対する信仰が存在することも同じなのである。 これと同じことが、古墳の壁画にもいえると思う。 絵のタッチは違えど、四神や日月に対する信仰があり、さしばを用いた儀式を重んじる気持ちも同じように持っていたと考えられるだろう。
⓶日本の壁画古墳は高句麗の影響?中国の影響?
・高句麗壁画古墳・・・先行文化である古代中国の壁画古墳、北魏の寺院、石窟壁画の影響に高句麗の文化がミックスしたもの。4世紀中~8、9世紀。高句麗が滅んだのは668年。それ以前に高句麗壁画古墳は終わっていただろう。
4世紀は301年から400年、8世紀は701年から800年である。 高句麗が滅んだのが668年で、それ以前に高句麗壁画古墳が終わっていたのであれば、4世紀中~7世紀というべきではないのだろうか?
・百済の壁画古墳は韓国忠清南道広州や扶余に残っている。唐の影響のほか、高句麗の影響も考えられる。
これらの古墳は直接高句麗と関係があったか、新羅を通じて間接的に影響をうけたのかは検討を要する。 国と国との外交によるものではなく、民間における外交によるものだろう。
・日本で装飾古墳として最初に発達したと考えられている大阪の玉手山古墳出土の直弧文をほどこした石棺。 大阪府柏原市 勝負山古墳(玉手山古墳群のひとつ)出土割竹型石棺
玉手山古墳出土石棺
玉手山古墳出土石棺 直弧文
直弧文は日本のオリジナルデザイン。 勝負山古墳は大型の前方後円墳(墳丘長95メートル以上)なので高い身分の人だろう。
直弧文 直線と弧線を巧みに組み合わせた日本独自の文様。
この石棺はいつ発掘されたものなのかわからないが、安福寺の境内に手水鉢として置かれており、勝負山古墳のものだと伝えられている。 同様の石棺は四国の前期古墳から出土しているとのこと。
③高松塚は高句麗ではなく、唐の影響を受けている?
・多くの学者が高松塚古墳を高句麗系と考えている。 四神は北朝鮮の平安南道江西郡江西郡江西面遇賢里の大墓、中国吉林省の通溝の四神塚などにもある。
キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可) 蘇思勖墓は中国西安にある。
・星辰図も似たようなものが中国、高句麗にあるが、高松塚のような女子群像は高句麗にはない。 中国の永泰公主墓(706年造営)に似ている。北魏で好んで描かれた画題。 高句麗が滅んだのは668年。それ以前に高句麗壁画古墳は終わっていただろう。 高松塚の造営は7世紀終末、8世紀初頭。高句麗壁画古墳が終わってから、40~50年たっているので、初唐の影響を考えるべき。 当時、唐の影響をうけて天文陰陽思想が発達し、天武天皇は天文台を作った。 中務省に画工司が置かれ、日本の画師が活躍していた。 持統天皇6年には日本の画師音橿に位を授けている。(高句麗の画師でなくても描ける、ということだろう。) 高松塚壁画の系統は初唐にあったと考える。
新羅にその占星台が残っていて、新羅から日本へ伝わったとする記事もあるが、なぜ唐から伝わったといえるのだろうか?
・多くの人は飛鳥に同じような壁画古墳があると考えているが、斎藤氏は高松塚はただ一つの壁画古墳と考えている。 その理由は聖武天皇皇太子那富山墓に隼人石があるのは、新羅の墓制の影響をうけたただひとつの例であったため。
斎藤氏がこの記事を書いて以降にキトラ古墳に同様の壁画が描かれているのが発見された。 なので高松塚古墳はただ一つの壁画古墳ではなかったことが明かになった。 そうではあるが、斎藤氏のおっしゃっていることは、あながち間違いとも言い切れないかもしれないと思う。 高松塚はただ一つの壁画古墳ではなかったが、今のところ飛鳥では壁画古墳は高松塚とキトラしかところ発見されていない。(すでに述べたように、永池古墳・珍敷塚古墳・竹原古墳などには高松塚と同様の画題を描いた壁画古墳がある。) もしかすると、四神や星宿図(天文図)を描いた壁画古墳は、畿内では高松塚・キトラ古墳だけであるかもしれない。
もしそれが正しければ、どうなるか。 高松塚とキトラの被葬者は関係の深い人物であり、またこの2人に限って壁画が描かれる特別な理由があったのではないかと思えてくる。
④キトラ古墳と隼人石は関係がある?
ここで、聖武天皇皇太子那富山墓の隼人石についてみておくことにしよう。
那富山墓(なほやまばか)は聖武天皇の第1皇子基王(727年-728年)の墓と伝えられる。方墳の可能性があるとのこと。そこに獣頭人身の像が描かれているという。 キトラ古墳には獣頭人身の像が描かれており、キトラ古墳との関係をうかがわせるではないか!
キトラ虎像
現在は4石だが、もともとは12石存在した可能性があるとされる。 が、現在は4石のみ残されている。 江戸時代から「犬石」や「狗石」「七疋狐」と呼ばれていたそうで、江戸時代には7石あった可能性が指摘されている。
第1石:墳丘北西隅にある。短い耳のネズミ(子)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、直立して胸元で拳を組んだポーズをとり、杖を持っている。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「北」と彫られている。
第2石:墳丘北東隅にある。耳の間に2本の角を持つウシ(丑)と見られる獣頭人身像。やや雑だが全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。
第3石:墳丘南西隅にある。長い耳のイヌ(戌)と見られる獣頭人身像。下半身の表現がなく、胸元で拳を組んだポーズをとる。
第4石:墳丘南東隅にある。長い耳のウサギ(卯)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「東」と彫られている
大阪府羽曳野市の杜本神社にも「隼人石」2石(同じ図像を左右対称にした石造物」があり、那富山墓の第1石(ネズミ)に似ているとのこと。  杜本神社 隼人石
⑤杜本神社は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦を与える神社?
先日、杜本神社を参拝してきた。 隼人石は本殿の左右にあるとのことだが、本殿前の拝殿が閉まっており、社家さんにお願いして開けてもらう必要があるようだった。 ところがどの家が社家さんなのかわからず、残念ながら隼人石見学はあきらめた。(写真はウィキペディアからお借りした。) しかし、収穫はあった。 境内に藤原永手(714-771)の墓碑なるものが存在していたのだ。 という事は、この墓碑の後ろにある土の盛り上がった所が藤原永手の墓なのだろうか。
藤原永手の墓碑
藤原永手の墓碑上の方の文字は読めない。一番下の文字は墓だろう。その上は「藤原永手」の「手」のようには見えないが。「王」「里」のように見える。
藤原永手は766年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)・法王道鏡政権下で左大臣となっている。 770年、称徳天皇崩御。吉備真備は天皇候補として文室浄三・文室大市を推すが、藤原永手は藤原百川とともに白壁王を推し、結果白壁王が即位して光仁天皇となっている。
日本霊異記紀にこんな話がある。 藤原永手は生前に法華寺の幡を倒したり、西大寺に計画されていた八角七重の塔を四角五重塔に変更したなどの罪で、死後に地獄へ堕ちた。
もしも杜本神社の境内に藤原永手の墓があるとすれば、杜本神社は藤原永手を慰霊するための神社なのかもしれない。 いや、藤原永手に地獄の責め苦を与える神社といったほうがいいかもしれない。 その理由は、この中国の仏画である。
地獄の法廷を描いた中国の仏画
絵が小さいのでわかりにくいが、羊、牛、馬、虎、鶏、辰のような顔をした人(神?)が確認できる。
杜本神社本殿の左右におかれた十二支のネズミの像は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦をあたえているようにも見えてくる。 すると、キトラ古墳の十二支像もまた、被葬者に地獄の責め苦を与える目的で描かれているのではないか、と思ってしまう。
中国の十二支像は手に武器をもっていないが、高句麗の十二支は手に武器をもっている。
しかもそれは、上の中国の仏画野の獣面人身のものたちが手に持っている道具によく似ている。
韓国金庚信墓十二支像(拓本)キトラ 四神の館にて撮影(撮影可)
キトラ古墳の十二支は手に何か持っているのがわかるものもある。 来村多加史氏によれば、子像が持っているのは鉤鑲(こうじょう)と呼ばれる盾であるという。 鉤鑲は漢の時代に登場した兵器で、盾の上下に弓なり状のフックがついている。 この上下のフックで相手の武器を搦めとるのだという。 寅像が手に持っているのは鉾で、鉤鑲、鉾とも房飾りがついているので実践用ではないと来村氏は述べておられるが、どうだろうか。
キトラ古墳 子像、丑像、戌像,亥像。キトラ古墳 四神の館にて撮影。
⑥聖武天皇皇太子とは阿部内親王のことでは?
隼人石のある那富山墓は何故聖武天皇皇太子墓とされているのだろうか。 近くに聖武天皇陵、聖武天皇の皇后・光明皇后陵があるからかもしれない。 「記載なし(基王)」 被葬者の記載がないとはどういうことなのだろうか。正史に基王を葬った記録がないということだろうか。 陵墓名の記載もない。 陵墓名は、天武・持統合同陵の桧隈大内陵の様に、正史に記載のある名前を記してあると思う。 陵墓名の記載もないということは、やはり正史に記録がないということではないかと思う。
基王は聖武天皇の第一皇子で生まれてすぐに皇太子にたてられた。 しかし生後1年ほどで亡くなってしまった。
那富山墓には獣面人身の像を描いた隼人石があるのだったが、隼人石とは被葬者に地獄の責め苦を与える十二支を描いた石だとすると、生まれてすぐ亡くなった基王もまた地獄に堕ちたのだろうか?
1歳になるかならないかぐらいの赤ん坊に罪を犯せるとは思えない。 そうではなく、聖武天皇皇太子とは阿倍内親王(孝謙天皇、重祚して聖徳天皇)のことではないか? 彼女は女性だが、基王の死後、聖武天皇の皇太子にたてられているのだ。
彼女の陵、高野陵は佐紀高塚古墳に比定されている。 しかし、この古墳は4世紀ごろに築造されたとみられる前方後円墳で、時代が合わない。
称徳天皇は独身で即位したため結婚が許されず、子供がなかった。 そして寵愛していた弓削道鏡を次期天皇にしようとしている。(宇佐八幡神託事件) その後、称徳天皇は急病を煩って崩御し(暗殺説もあり)、杜本神社に墓誌がある藤原永手、藤原百川らが光仁天皇を擁立している。 聖徳天皇は、道鏡を天皇にしようとした罪で、地獄の責め苦を与えられているのではないか?
藤原永手は西大寺の八角七重塔を四角五重塔にしたことなどが原因で地獄に堕ちたと言われるが、その西大寺を建立したのが、称徳天皇である。 藤原永手と聖徳天皇は関係が深いのだ。
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