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惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』 


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑧ 惟喬親王にろくろ首のイメージ?  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

十輪寺 庭 

十輪寺 三方普感庭 由来 
 

①文徳天皇が藤原明子の世継ぎ誕生を祈願したというのは藤原氏の嘘。

十輪寺(京都市西京区)は文徳天皇が藤原明子の世継ぎ誕生を祈願した場所と伝わる。
しかしこの話は疑わしい。

文徳天皇には紀静子との間に長子の惟喬親王(これたかしんのう)、藤原良房の娘・藤原明子との間に惟仁親王(これひとしんのう/のちの清和天皇)があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考え、源信に相談している。
文徳天皇が世継ぎにしたいと考えていたのは藤原明子所生の惟仁親王ではなく、紀静子所生の惟喬親王だったのだ。
源信は当時の権力者・藤原良房を憚って文徳天皇を諌めたことで、惟仁親王が皇太子になったのだが。

子供が無事に生まれてくることを願わない父親などいないかもしれないが、伝説では「文徳天皇が世継誕生を祈願した」とある。
これは「文徳天皇が藤原明子が生んだ子を世継、すなわち皇太子にしたいと望んだ」ということである。
藤原明子は惟仁親王を産み、惟仁親王は生まれたばかりで文徳天皇の皇太子になった。

しかし、実際には、文徳天皇は惟仁親王ではなく惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだ。

十輪寺は文徳天皇の勅願所から藤原北家の菩提寺になったとされるところから考えて
「文徳天皇が藤原明子の世継ぎ誕生を祈願した」というのは藤原氏がでっちあげた嘘だと考えるのが妥当だと思う。

平家物語には藤原良房(明子の父・惟仁親王の外祖父)と紀名虎(紀静子の父・惟喬親王の外祖父)がいずれの孫を立太子させるかでもめ、高僧の祈祷合戦や相撲などのバトルを繰り返した結果、藤原良房が勝利したと記されている。
この物語は史実ではない。
というのは、惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからである。
しかし、藤原氏と紀氏に確執があったことは確かだろう。

十輪寺 しだれ桜

⓶腹帯地蔵

十輪寺の本堂は鳳輦(ほうれん)の形をしている。
鳳輦(ほうれん)は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」「天皇の乗り物」という意味で、鳳凰の飾りのある神輿のことを鳳輦という。

この鳳輦の形をした本堂の中に、伝教大師作と伝わる地蔵菩薩が祀られている。

この地蔵菩薩は腹部に腹帯をまいておられる。
染殿皇后(藤原明子)がこの地蔵菩薩に祈願して惟仁親王(清和天皇)を御産みになられたところから、腹帯地蔵尊とも呼ばれ、子授け安産にご利益があるとして信仰されている。

私たちは藤原明子が地蔵菩薩に祈願して惟仁親王を産んだという話を、以前に何度か聞いている。
そう、染殿院や清和院も同様の寺だった。

惟喬親王の乱⑥ 染殿院の腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ? 
惟喬親王の乱⑧ 惟喬親王にろくろ首のイメージ? 

この延命地蔵は染殿院や清和院の地蔵菩薩と同じく、惟喬親王のイメージが重ねられていると思う。
今も惟喬親王を偲んで行われている雲ヶ畑の松上げは地蔵盆に行われており、惟喬親王には地蔵菩薩のイメージがある。
惟喬親王の乱⑤惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩? 


そして藤原氏は地蔵菩薩を惟喬親王にみたて、「あなたが身をひいて皇太子になるのを諦めてくれれば、藤原明子が生んだ皇子が皇太子になれる」と祈願したのではないかと思う。

⓶在原業平と紀氏、藤原氏の関係

晩年の在原業平がここに隠棲していたといい、十輪寺は別名を「なりひら寺」という。

業平は惟喬親王の寵臣だった。
また業平は紀静子(惟喬親王の母)の兄・紀有常の娘を妻としていて完全に紀氏側の人間だった。

十輪寺は藤原北家の菩提寺だったということを思い出してほしい。
業平は惟喬親王に仕えており、惟喬親王は藤原氏と確執があるのに、在原業平が藤原北家の菩提寺に隠棲したりするだろうか。

この伝説も怪しいと思う。

③十輪寺に残る在原業平のおもかげは偽りか?

十輪寺の回廊で囲まれた中庭には美しいしだれ桜があり、なりひら桜と呼ばれている。

十輪寺 しだれ桜2 
しかし江戸時代後期に描かれた都名所図会 旧十輪寺風景には桜は描かれていない。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_332.html
この桜は推定樹齢200年ということだが、それ以前には桜はなかったのだろう。
この桜がなりひら桜と呼ばれているのは十輪寺が別名をなりひら寺というところからくるものだと思う。
境内にはなりひら楓、業平の墓、業平が塩焼きを楽しんだという塩釜もある。

十輪寺 在原業平の墓 

在原業平の墓

十輪寺 塩釜 
塩釜

しかし、⓶で述べたように、在原業平が藤原氏の菩提寺に隠棲したとは考えにくい。
ただし、もともと十輪寺は紀氏または在原業平の邸宅であり、のちに藤原氏の所有になった可能性はある。

十輪寺 業平紅葉 

十輪寺 業平紅葉


④惟喬親王と六歌仙

十輪寺には六歌仙の絵像が飾られていた。


十輪寺 六歌仙 


六歌仙とは古今和歌集仮名序で名前をあげられた六人の歌人、僧正遍照・在原業平・大友黒主・喜撰法師・文屋康秀・小野小町のことをいう。

高田祟史さんは六歌仙とは怨霊であり藤原氏と敵対していた6人の歌人であると指摘された。
業平が藤原氏と敵対していた理由については記したので、残り5人について記しておこう。

遍照は桓武天皇の孫だが、父の良岑安世が臣籍降下した。遍照は俗名を良岑宗貞といった。
彼は藤原良房にすすめられて出家したというが、出家の理由を誰にも話さなかったという。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、私は大伴家持と同一人物だと考えている。
私流 トンデモ百人一首 6番 …『大伴家持、白い神から黒い神に転じる?』 
大伴家持は藤原種次暗殺事件の首謀者とされ、当事すでに亡くなっていたのだが、死体が掘り出されて流罪となった。

喜撰法師は紀仙法師で、紀有常またはその父紀名虎のことではないかといわれている。
紀名虎は惟喬親王の母親・紀静子の父である。
また紀有常は紀静子の兄であり、在原業平と同様、惟喬親王の寵臣であった。

文屋康秀の文屋は分室と記されることもあり、文室宮田麻呂の子孫かもしれない。
文室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となったが、死後無罪であることがわかって863年、神泉苑の御霊会で慰霊されている。

小野小町について、私は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

そして六歌仙のうち、在原業平・喜撰法師(=紀有常または紀名虎?)は惟喬親王の歌会に参加しており
惟喬親王が遍照に送った歌がある。
また小野小町(=惟喬親王?)は遍照や文屋康秀と交流があった。
大伴黒主をのぞき、六歌仙は惟喬親王と関係があった人物なのである。

彼らは惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを企てていたとする説もある。
鳳輦(ほうれん)型の本堂に祀られた地蔵菩薩と、クーデターの中心に祀り上げられたかもしれない惟喬親王のイメージがますます重なってくる。

十輪寺 渡り廊下 

惟喬親王の乱⑩ 帯解寺『帯解寺に小町の宮があるのはなぜ?』 に続きます~

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[2020/09/03 16:24] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑧ 清和院 『惟喬親王にろくろ首のイメージ?』 




トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑥ 染殿院の腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


土蜘蛛の塚

①土蜘蛛の塚

上の写真は惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  でご紹介した東向観音寺にある土蜘蛛の塚である。
東向観音寺は菅原道真を祀る北野天満宮の神宮寺で、北野天満宮参道の西に面してある。

東向観音寺 舞妓

東向観音寺の門前には「天満宮御本地佛 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑がたてられており、
門に吊るされた赤い提灯にも「天満宮御本地佛」と記されている。

本地佛とは、本地垂迹説からくる言葉である。

本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことで、
日本の神仏習合のベースとなる考え方である。

そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。

例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現であるなどとして同一視された。

天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことである。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。」というような意味である。

寺の伝説では、この十一面観音は菅原道真が刻んだと伝えている。
しかし私は道真が仏像を刻んだというのは疑わしいと考えている。
古には著作権という考え方はなかった。
実際には仏師が十一面観音を刻んだのだが、「道真の怨霊が煩悩をすてて成仏し十一面観音になった」という意味で
「道真が十一面観音を刻んだ」と伝えているのではないかと思ったりする。

⓶清和院

もともと土蜘蛛の塚(蜘蛛塚)は、東向観音寺ではなく清和院の近くにあった。
清和院は北野天満宮の東南東400mほどのところにある。
拾遺都名所図会←こちらは『拾遺都名所図会』に描かれた清和院と蜘蛛塚である。
蜘蛛塚は画面向かって左下の桃畑の中にある。
『拾遺都名所図会』は1787年に発刊されたもので、当事蜘蛛塚は清和院門前の桃畑の中にあったことがわかる。
(蜘蛛塚は山伏塚とも呼ばれていたそうである。)
少しわかりにくいが、葛城一言主神社の土蜘蛛の塚と呼ばれるような石のようにも見える。(惟喬親王の乱⑦土蜘蛛とは首のない人間のことだった? 

一言主神社 土蜘蛛の塚 
一言主神社 土蜘蛛の塚

明治期、清和院前の蜘蛛塚の発掘調査をしたところ燈篭の火袋が出土した。
それをある人が貰い受けて庭に置いていたが、よくないことが次々に起こり 蜘蛛の祟りだという噂がたった。
そのため、その火袋は東向観音寺に奉納されたのだという。

『拾遺都名所図会』に描かれた清和院は広そうに見えるが、現在はコンクリート造の小さなお堂と庫裏があるだけである。
また桃畑はマンションや民家となって古の面影はないし蜘蛛塚もない。

清和院 

清和院

清和院という寺名から、染殿院がかつて「清和院釈迦堂」とも呼ばれていたというのを思い出す。
惟喬親王の乱⑥ 染殿院の腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ? 

染殿院という寺名は藤原明子が染殿后と呼ばれていたことと関係がある。
藤原明子がここの地蔵尊に祈願して清和天皇を御産みになられた。
それで染殿地蔵といわれるようになり、寺名も染殿院となったのだろう。
また染殿院が清和院釈迦堂と呼ばれていたのは藤原明子が清和天皇を産んだことにちなむ呼称だと思う。

清和院釈迦堂と清和院が関係あるかどうかわからないが、清和院も清和天皇にちなむ寺である。

清和院はもともとは京都御苑内の現在は京都迎賓館がある場所にあったらしい。
平安時代、ここには藤原良房の邸宅(染殿第)があり、良房の娘・藤原明子が文徳天皇に入内したのち、明子の願いを聞き入れて仏心院という寺をたてて地蔵菩薩を安置したのが始まりという。
876年、清和天皇は譲位したのち、仏心院を御在所・後院とした。
その後廃れたが、1306年に浄土宗西山義の照空真日が再興し、朝廷より清和院の号を賜った。
1661年に御所が炎上したため、現在地に移転したようである。

なぜ藤原明子は地蔵菩薩を安置する寺を欲したのか。
それはやはり、文徳天皇の皇子を生み、生んだ子を文徳天皇の皇太子にしたいという願いをかなえるためだろう。
そして、染殿院の地蔵菩薩もたぶんそうだと思うが、清和院の地蔵菩薩には惟仁親王(清和天皇)のライバルである惟喬親王のイメージが重ねられていたのではないかと思う。

清和院 本堂 

清和院 本堂

③源頼光が退治した土蜘蛛とは平将門だった?
拾遺都名所図会に描かれた蜘蛛塚の話に戻ろう。
この蜘蛛塚平安時代に源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だとされる。

蜘蛛塚と呼ばれる巨岩(岩ではないかもしれないw)が、桃畑の中にあったというのがなかなか興味深い。
桃は邪気を祓う、などといわれていて節分には桃の弓で葦の矢を射て清めの儀式を行ったりする。
つまり、蜘蛛塚は桃畑の中に置かれることで、そこから外に土蜘蛛が彷徨い出ないような呪術的仕掛けがなされているのではないだろうか。

蜘蛛塚は平安時代に源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だとされている。
源頼光の生没年は948-1021年である。
時代から考えて、源頼光が退治した土蜘蛛とは940年に討ち死にした平将門のことだと思われる。
土蜘蛛とは斬首されて頭部のない人間のことではないかと私は考えているが、平将門の首は斬首されて京に持ち帰られ、晒されたのだ。

④惟喬親王にろくろ首のイメージ?

さきほども述べたように、清和院はもともとは京都御所の東にあったのだが、1661年に火災にあい、この場所に移転している。
これを信じるならば、蜘蛛塚は清和院が移転してくる前からここにあったということになる。

しかし、本当に平安時代から蜘蛛塚がここにあったかどうかはわからない。

また言い伝えとおり平安時代から蜘蛛塚があって、清和院があとからここに移転してきたのだとしても、
清和院は蜘蛛塚となんらかの関係があったために、ここに移転してきたという可能性がありそうに思える。

惟喬親王は法華経の巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を発明したという伝説がある。

かつて木を削るために用いられていた轆轤は巻物のように細長い形で、そこに何重にも綱を巻きつけ、1人がその紐を引っ張ることで軸を回転させる仕組みになっていた。
で、その軸の先端に木材をとりつけ、もうひとりが回転する木材に刃物をあてて削っていた。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸


轆轤の形は妖怪・ろくろ首を思わせる形をしている。
轆轤の先端にセットされたお椀が頭で、轆轤の軸が首のイメージである。

蘇我入鹿やゲンボウ、平将門の髑髏が飛んだという伝説があるが、ろくろ首とは飛行する髑髏の変形バージョンなのではないだろうか。

まさか本当に親王とも有ろうお方が轆轤を発明したとも思えないが、なぜ惟喬親王が轆轤を発明したなどと言われているのだろうか。

惟喬親王にはろくろ首のイメージがある。

ろくろ首は飛行する首の別バージョンだと考えられる。
ということは、惟喬親王もまた平将門と同様、土蜘蛛(首のない人間)ではないのか。

それで清和院が移転する場所として、蜘蛛塚のある場所が選ばれたのかもしれない。

境内には首のない地蔵菩薩が祀られていた。
この石仏の由緒が知りたいと思ったが説明書はなかった。

清和院 首無地蔵 

清和院 首無地蔵


首がない石仏は珍しいものではなく、あちこちで見かけた記憶がある。
しかし気になる。


惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』 に続きます~

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[2020/09/01 13:57] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑦一言主神社 『土蜘蛛とは首のない人間のことだった?』 


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惟喬親王の乱⑥ 染殿院の腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。




①飛鳥の亀石

飛鳥路を歩いていくと、謎の石造物が次々に現れる。
中でもそのユーモラスな姿で有名なのが亀石である。
亀石は亀を象ったものではなく、蛙を象ったものではないかともいわれている。

亀石 
飛鳥の亀石


亀石は人間の頭部を現している?

亀石を見て、私は京都の妖怪ストリートに置かれていた妖怪ぬらりひょんを思い出した。

妖怪ストリート ぬらりひょん

写真中央、湯呑を乗せたお盆を持っているのが妖怪ぬらりひょんである。
亀石はこのぬらりひょんの頭部にそっくりではないだろうか。
眉間の半月状のしわまで同じである。

③葛城一言主神社の亀石


亀石と呼ばれる石は葛城一言主神社にもある。

一言主神社 公孫樹 

葛城一言主神社

葛城一言主神社は葛城山の中腹にあるため、長い階段が設けられている。
『亀石』はその階段の上り口の向かって左手にある。

一言主神社 亀石 

亀石

階段を登ると境内で、樹齢1200年と伝わるイチョウの木、神殿、拝殿などがある。
この拝殿の横に『土蜘蛛の塚』と呼ばれる石がある。

一言主神社 土蜘蛛の塚 
土蜘蛛の塚

一言主神社の『土蜘蛛の塚』は土蜘蛛の胴体を埋めた上に石を置いたもの、頭は神殿の下、足は神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められたといわれている。

土蜘蛛とは記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことで、『穴の中に住む』と記されている。
『穴の中に住む』とあるところから、土蜘蛛とは未開の民族であると考えられている。

この土蜘蛛をモチーフとした大念仏狂言や六斎念仏などの演目がある。

嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 
嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 

④『土蜘蛛の塚
は蜘蛛、『亀石』はドクロを表している?

一言主神社の言い伝えを整理すると次のようになる。

土蜘蛛の胴体・・・土蜘蛛の塚の下に埋められた。
土蜘蛛の頭部・・・神殿の下に埋められた。
土蜘蛛の脚・・・・神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められた。


『土蜘蛛の塚』は見る角度によっては二つのふくらみがあるように見え、蜘蛛の形をしているように見える。
(蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部位よりなる。)

そして亀石は階段の登り口にあるが、この場所は神殿の下、といえなくもない。

一言主神社 階段 
一言主神社 階段

また、亀石はどことなく人間のドクロを思わせるような形をしている。
『土蜘蛛の塚』が土蜘蛛の胴体を埋めた上に置いた石であるならば、亀石は土蜘蛛のドクロを埋めたうえに置いた石なのではないだろうか。

土蜘蛛の胴体・・・土蜘蛛の塚の下に埋められた。・・・土蜘蛛の塚(蜘蛛形の石)
土蜘蛛の頭部・・・神殿の下に埋められた。・・・・・・・・・亀石(ドクロ形の石)
土蜘蛛の脚・・・・神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められた。

⑤頭部のない昆虫

昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれているが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなり、昆虫とは別の動物とされている。 

蜘蛛の体  

『土蜘蛛の塚』は蜘蛛の形に似ているが、これに階段の登り口にある『亀石』を合体させるとアリのような昆虫の形になる。

それで閃いたのだが、昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないだろうか。

こう考えれば、土蜘蛛の胴体を埋めたうえに置いた石『土蜘蛛の塚』が蜘蛛の形をしていること、『土蜘蛛の塚』に『亀石』をくっつけると昆虫のように見えることの説明がつく。

ということは、記紀に登場する土蜘蛛とは首を斬られた人の霊なのではないだろうか。
そして亀石とは土蜘蛛の斬られた首=ドクロを模した石なのではないかと思った。

一言主神社 天狗・神職・お多福・翁のお練り2

一言主神社 秋季大祭

④負けたのはナマズなのに、なぜ死んだのは亀なのか。

飛鳥の亀石には次のような伝説がある。

かつて大和は湖であり、当麻の蛇と川原のナマズが湖を二分して支配していた。
あるとき、蛇とナマズが湖の支配権をかけて争い、川原のナマズが負けた。
その結果、湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。
亀石はその追悼の意味から造られたもので、この石が当麻のある西を向いた時には、大和盆地は大洪水がおこって湖になると言い伝えられている。

争ったのは當麻の蛇と川原のナマズで、争いに負けて死んだのは川原のナマズだと考えられる。
それなのになぜ死んだのはナマズではなく亀なのだろうか?

川原のナマズとは大化の改新出中大兄皇子に首を切られた蘇我入鹿を比喩的に表現したものだと思う。
當麻の蛇とは中大兄皇子のことだろうか。
中大兄皇子は葛城皇子ともいう。
葛城と當麻は場所的に近く、當麻の蛇とは中大兄皇子(葛城皇子)のことを言っているようにも思える。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)  
多武峯縁起絵巻 複製 中大兄皇子に首を斬られる蘇我入鹿(談山神社)


そして死んだ亀とは蘇我入鹿のドクロを比喩したものだと私は思う。

川原のナマズ・・・蘇我入鹿
死んだ亀・・・・蘇我入鹿のドクロ

このように考えれば、戦いに敗れたのはナマズだが、その結果死んだのが亀だということの理由がわかる。
亀とはナマズの髑髏のことを言っているのではないだろうか。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭


惟喬親王の乱⑧ 清和院 『惟喬親王にろくろ首のイメージ?』 に続きます~

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[2020/08/31 12:09] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑥ 染殿院 『腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?』 


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑤雲ヶ畑 松上げ 『惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩?』  よりつづきます~

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染殿院 

①染殿地蔵

四条通寺町東入ル御旅宮本町に甘栗和菓子老舗・林万昌堂四条本店がある。
その店の奥にあるガラス戸を開けて一歩踏みこめば染殿院の境内である。
小さなお堂の傍らには「安産御腹帯 授與」と記されている。

染殿院のご本尊は2m余りの木彫裸形地蔵菩薩で、55代文徳天皇の皇后・藤原明子(染殿皇后)がこの地蔵菩尊に祈願して惟仁親王(のちの清和天皇)を授かったという伝説があり、「染殿地蔵尊」と呼ばれている。

本堂の向かって右手はビルとビルに挟まれた参道となっており、新京極通商店街につながっている。
新京極商店街にでて、ふりかえってみると、ビルに挟まれた狭い空間に染殿院の出入り口が設けられており、「時宗開祖 一遍上人 念仏賦算遺跡」と記された石碑が立てられている。

染殿院


②染殿院 歴史

ここで染殿院の歴史について、詳しく記されたサイトがあったので引用する。

◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 平安時代、808年、空海(774-835)の開基ともいう。空海は、入唐(804-806)の後、当院に留まり、主著『十住心論』(『秘密曼陀羅十住心論』(830頃)を清書調巻したことから、以後、「十住心院」と呼ばれたともいう。
 また、かつては釈迦如来を安置し、「釈迦院」、「敬禮寺(きょうらいじ)」、「清和院釈迦堂」、「釈迦堂」とも呼ばれていたという。
 第55代・文徳天皇皇后・藤原明子(829-900)は、染殿后(そめどの の きさい)と呼ばれ、この地蔵尊に祈願し、皇子(後の第56代・清和天皇)を産んだ。地蔵尊に帰依した。(『京羽二重』『山城名跡巡行誌』)。以来、「染殿地蔵尊」と呼ばれたという。
 また、第62代・村上天皇第4皇子・為平親王(952-1010)の殿舎は、四条中川付近にあり、染殿地蔵尊も邸内に祀られ御願寺になっていた。皇子は染殿親王(染殿式部卿)と呼ばれていたともいう。
 987年、東大寺・沙門奝然(ちょうねん、938-1016)は、宋から帰国し、赤栴檀の釈迦像を持ち帰った。後に、仏像は嵯峨野・清凉寺に安置したという。また、自ら三尺余り(0.9m)の釈迦像を造立し、当院に奉納したという。以後、「四条京極の釈迦堂」と呼ばれたという。
 鎌倉時代、1284年、時宗の開祖・一遍(1239-1289)は、かつて大津にあった大寺の関寺より入洛した。釈迦堂(染殿院)に7日間滞在し、念仏腑算(南無阿弥陀仏の名号を書いた札を配る)、念仏踊りをしたという。一遍のもとに、貴賤上下皆群れをなして集ったという。(『一遍上人絵』『遊行上人縁起絵』)
 1311年、真観(しんかん)は、第93代・後伏見天皇の女御・広義門院藤原寧子の安産に寄与し、「祇陀林寺(ぎだりんじ)」と呼ばれていたこの地を贈られる。「金蓮寺(こんれんじ、四条道場)」と改め、染殿院もその一院になる。
 南北朝時代、1354年、足利尊氏は十住心院に、紀伊国野上別井村地頭職を寄進する。
 1356年、武将・佐々木高(道誉、1296-1373)は、染殿地蔵院を含む四条京極一帯の土地を、当院北にあった金蓮寺(中京区中之町)に寄進した。足利基氏は十住心院を祈願寺にする。
 1384年、足利義満は十住心院に天下安全の祈祷を命じたともいう。
 1388年/1387年、室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)は、その寄進地を安堵(承認)し、外護した。以後、当院は、時宗四条派大本山金蓮寺塔頭(現在は北区に移転)になった。
 室町時代、1422年、足利義持は十住心院を祈願寺にした。
 1438年、足利義政は十住心院を祈願寺にする。
 江戸時代、寛文年間(1661-1673)、染殿地蔵は第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ、洛陽四十八願所の霊場の一つになる。
 1788年、大火により焼失した。
 1864年、御所以南の大火時に仮堂(現在の建物)が建てられたという。
 近代、1928年/1926年、金蓮寺が北区鷹峯に移転し、当院だけは旧地に残される。

少しややこしいので年表にまとめてみた。

808空海(774-835)が創建?
空海は、入唐(804-806)の後、当院で『十住心論』を清書調巻したことから、「十住心院」と呼ばれた。
第55代文徳天皇皇后・藤原明子(829-900/染殿后)が当院の地蔵尊に祈願し、清和天皇を産んだため、「染殿地蔵尊」と呼ばれた。
第62代村上天皇第4皇子・為平親王(952-1010)の殿舎は、四条中川付近にあり、染殿地蔵尊も邸内に祀られ御願寺とした。
987東大寺・沙門奝然(ちょうねん、938-1016)、宋より釈迦像を持ち帰り嵯峨野・清凉寺に安置する。
自ら三尺余り(0.9m)の釈迦像を造立し、当院に奉納した。以後、「四条京極の釈迦堂」と呼ばれた。
1284時宗の開祖・一遍(1239-1289)、釈迦堂に7日間滞在し、
念仏腑算(南無阿弥陀仏の名号を書いた札を配る)、念仏踊りを行う。
1311真観(しんかん)は、第93代・後伏見天皇の女御・広義門院藤原寧子の安産祈願をおこなって、この付近にあった「祇陀林寺(ぎだりんじ)」を贈られる。「金蓮寺(こんれんじ、四条道場)」と改め、染殿院も一院となった。
1354足利尊氏、「十住心院」に、紀伊国野上別井村地頭職を寄進。
1356武将・佐々木高(道誉、1296-1373)は、染殿地蔵院を含む四条京極一帯の土地を、当院北にあった金蓮寺(中京区中之町)に寄進。
足利基氏は十住心院を祈願寺にする。
1384足利義満は十住心院に天下安全の祈祷を命じる。
1388/1387室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)は、その寄進地を安堵(承認)し、外護した。
当院は、時宗四条派大本山金蓮寺塔頭(現在は北区に移転)になった。
1422足利義持は十住心院を祈願寺とする。
1438足利義政は十住心院を祈願寺とする。
1661/1673寛文年間、染殿地蔵は第112代・霊元天皇の命により、洛陽四十八願所の霊場の一つになる。
1788大火により焼失
1864染殿地蔵の仮堂(現在の建物)が建てられる。
1928/1926金蓮寺が北区鷹峯に移転し、当院だけは旧地に残される

この寺史の説明はよくわからない点がある。

空海が創建した「十住心院」と、染殿地蔵を祀る「染殿院」は別の寺院なのか、関係のある寺院なのか。

また987年に奝然(ちょうねん)が釈迦像を奉納した際に釈迦堂が作られてこの釈迦堂が「四条京極の釈迦堂」と呼ばれたのだろうが
釈迦像が奉納されたのは「十住心院」なのか、「染殿院(染殿地蔵を祀る寺)」なのか。
それとも「十住心院」と「染殿院」は同じ寺院だったのか。

1311年、真観(しんかん)はこの付近にあった「祇陀林寺(ぎだりんじ)」を贈られ、「金蓮寺(こんれんじ、四条道場)」と改め、染殿院も金蓮寺の一院となったとある。
ここで初めて祇陀林寺という寺名が出てくるが、
その後、1356年、足利尊氏は金蓮寺の一院・十住心院を祈願寺にしたとある。

1356年の時点で、十住心院は金蓮寺の一院となっているが、十住心院と祇陀林寺は全く無関係の寺だったのか、関係があったのか?

1788年、大火により焼失した、とあるが、焼失したのは染殿院だけなのか、金蓮寺も焼失したのか?

File:Ippen Biography 3.jpg

一遍聖絵 四条釈迦堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Ippen_Biography_3.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


また一遍聖絵を見ると四条釈迦堂は鴨川のほとりに建てられている。
現在の四条釈迦堂跡、染殿院は鴨川から少し離れたところにあるが、川の流れが変わったのだという。

File:Ippen Biography 4.jpg

一遍聖絵 四条釈迦堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Ippen_Biography_4.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由


染殿地蔵に惟喬親王のイメージ

それはともかく、私はこの染殿地蔵には惟喬親王のイメージが重ねられているように思える。


藤原明子が文徳天皇の皇子・惟仁親王を生み、紀静子が生んだ惟喬親王と世継争いになった話は次の記事ですでにお話しした。
惟喬親王の乱③世継争いに敗れた皇子 
惟喬親王の乱④胴体がなく首の長い神 
惟喬親王の乱⑤惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩? 

文徳天皇は惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談したが、源信は藤原明子の父・藤原良房に憚って文徳天皇を諌めたという。
立太子争いに敗れた惟喬親王は御霊として惟喬神社や玄武神社・大皇器地祖神社などに祀られている。

御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていた。
惟喬親王が御霊として祀られていることは、惟喬親王が怨霊として恐れられていたとことを示していると思う。

「末代までも祟ってやる」などと言うが、怨霊は自らを陥れた人物だけでなく、その子孫にも祟ると考えられた。
藤原良房や藤原明子の子孫は惟喬親王の怨霊の祟りを怖れたことだろう。

陰陽道では怨霊は祀り上げることで人々にご利益を与えて下さる守護神に転じると考えた。
藤原良房や藤原明子の子孫は地蔵菩薩に惟喬親王のイメージを重ね、自分たちの守護神に転じさせようと考えたのではないかと思う。
染殿院の地蔵菩薩には、惟喬親王のイメージが重ねられているのではないだろうか。

私は 惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』   で、菅原道真は現在は神として信仰されているが、もともとは怨霊であったこと、また本地垂迹説で、道真は十一面観音の化身とされていることについて記した。

また 惟喬親王の乱⓶法隆寺の救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像?  で、梅原猛氏が「聖徳太子は怨霊であり、法隆寺の救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像である」と説いておられるとのべた。

菅原道真や聖徳太子と同じく、惟喬親王も怨霊=神であり、染殿院の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像ではないかと思うのだ。

「地蔵菩薩が清和天皇を授けて下さった」というのは正しくは「地蔵菩薩=惟喬親王が身を引いてくださったおかげで惟仁親王が即位して清和天皇となった」という意味ではないかと思ったりする。

思い出してほしい。
雲ヶ畑の松上げは、惟喬親王を偲んで今も行われている行事なのだが、その行事が行われるのは地蔵盆の8月24日なのだ。
このことからも、惟喬親王と地蔵菩薩のイメージが重ねられているように思える。


惟喬親王の乱⑦一言主神社 『土蜘蛛とは首のない人間のことだった?』 に続きます~

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[2020/08/29 20:31] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑤雲ヶ畑 松上げ 『惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩?』 

トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱④胴体がなく首の長い神 よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

雲ヶ畑2
 
①雲ヶ畑の松上げ

地蔵盆の8月24日、友人とふたり京都市北区雲ヶ畑へ車で出かけた。
バスは1日2便のみ。秘境のムードが漂っている。

この日、雲ヶ畑では松上げの行事が行われた。
雲ヶ畑の松上げは、五山送り火のように山の斜面に文字型に組んだ松明を点灯するというもので、出谷町と中畑町の2か所でほぼ同時刻に行われる。

せっかくふたりいるので、友人は出谷町、私は中畑町の松上げを見物することにした。
(出谷町の写真は友人が撮影したものを借りました。ありがとうございます。)

⓶中畑町

友人と別れ、中畑町の高雲寺に行くと、境内の片隅に石碑が建てられていた。

雲ヶ畑 高雲寺 石碑

石碑には「親王へ 火の文字 今も 里の盆/香澄」と俳句が刻まれていた。

平安時代、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王がこの地に隠棲したと伝わっている。

惟喬親王の乱③世継争いに敗れた皇子 

↑ こちらの記事では惟喬親王は滋賀県の君ヶ畑に陰性したという伝説があると書いた。
一般には惟喬親王が隠棲したのは山城国愛宕郷小野であり、小野の里は大原のあたりとされる。
大原には惟喬親王の墓もある。

惟喬親王の隠棲地や墓は各地にあって、定まらないのだ。

それはともかく、雲ヶ畑の松上げはその惟喬親王を偲んで行われるようになったという。
惟喬親王が53歳で亡くなられたのは897年のことである。
1100年以上たった今でも里の人は惟喬親王のことを忘れず、火の文字をあげて惟喬親王を偲んでいるのだ。

中畑町の松上げが始まった。

雲ヶ畑 中畑町 松上げ 

高雲寺境内から向かいの山に向かって松明を振り「おーい」と叫ぶと、向かいの山から「おーい」と返事が返ってきて文字が点火された。

雲ヶ畑 中畑町 松上げ2

文字は毎年変わり、点火されるまで今年の文字が何なのかは点火してみないとわからない。
今年の文字は「千」だった。

雲ヶ畑 松上げ


雲ヶ畑 中畑町 松上げ3

文字が点火されると松明を持った人が山から降りて高雲寺の階段を駆け上ってきた。

③出谷町

雲ヶ畑 出谷町 松上げ3 
出谷町の文字は「土」だった。


雲ヶ畑 出谷町 松上げ 

福蔵院境内では焚火でするめを焼いたそうで、友人が私のぶんのするめももらってきてくれた。
なぜするめを焼くのだろうか?

④雲ヶ畑は紀氏の土地だった?


雲ヶ畑に厳島神社があり、その説明板に「このあたりは平安時代以前よりの集落で平安京造営の際、用材を切り出した地域である。」と記されていた。

厳島神社2

紀氏は豊富な森林資源をいかした造船技術に長けていたというが、豊富な森林資源があったということは、用材を切り出したり、用材を運搬する技術にも長けていたことだろう。

このあたりもまた紀氏または紀氏と関係の深い人々が住んでいた地域だったのかもしれない。
そしてそういったところから、紀氏の血をひく惟喬親王に対する信仰が厚かったのかもしれない。

さきほども書いたように、惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で母親は紀静子だった。
惟喬親王が6歳のとき、文徳天皇と藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)が生まれた。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考え源信に相談したが、源信は藤原家を憚って文徳天皇をいさめた。
こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となり、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は御霊としてあちこちに祀られている。

御霊とは怨霊が祟らないように慰霊したもののことである。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。つまり、惟喬親王は怨霊として畏れられていたということである。

惟喬親王を祀る神社として、

滋賀県の大皇器地祖神社、筒井神社 惟喬親王の乱③世継争いに敗れた皇子 
京都府の玄武神社惟喬親王の乱④胴体がなく首の長い神 
についてはすでにご紹介した。

厳島神社

⑤惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩?

日本の宗教といえば本地垂迹説に基づく神仏習合だった。

惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
で説明したように、本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことである。

そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。

例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現、菅原道真の本地仏は十一面観音であるなどとして同一視された。

惟喬親王の本地仏は何だろうか。
惟喬親王を偲ぶ雲ヶ畑の松上げは地蔵盆の8月24日に行われる。惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩なのではないか?

雲ヶ畑


惟喬親王の乱⑥ 染殿院 『腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?』 に続きます~

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[2020/08/27 18:10] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱④玄武神社『胴体がなく首の長い神』 

惟喬親王の乱③世継争いに敗れた皇子 よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

玄武神社 やすらい祭2  
①やすらい祭と鎮花祭

4月第二日曜日、京都の今宮神社、玄武神社でやすらい祭が行われる。
写真は玄武神社のやすらい祭である。

昔の人は桜の花びらに乗って疫神が散っていく、と考えたそうである。
そこで疫神を慰霊するため、奈良の大神大社で『鎮花祭』を行うようになったとされる。
京都のやすらい祭はこの『鎮花祭』をルーツとし、念仏踊りを加えたものである。

玄武神社 やすらい祭

玄武神社の境内には三輪明神を祀る社があった。
(写真を撮ったつもりだったが、うっかり消してしまったのか見当たらない~)

三輪明神とは大神神社の神、大物主神のことである。
さきほど「大神神社で鎮花祭が行われるようになった」と書いた。
玄武神社で三輪明神を祀っているのは、ここで鎮花祭をルーツとする「やすらい祭」が行われていることと関係があるのかもしれない。

⓶人頭蛇体の神

三輪明神・・・大物主は蛇神とされているあ、宇賀神(うがじん)と呼ばれる神は人頭蛇体のおすがたをしておられる。


喜光寺 宇賀神 

喜光寺 宇賀神


http://www.senjyuin.or.jp/?page_id=135

上のサイトに「空鉢ご分霊」の写真が掲載されているが、蛇がとぐろを巻いたお姿をされており、宇賀神にそっくりである。

世界各地で太陽神を蛇神とする信仰がある。
脱皮を繰り返す蛇は再生をイメージさせ、同様に再生を繰り返す太陽のイメージと重ねられたと言われている。
しかし太陽が丸いのに対し、蛇は細長く全く形が異なるため、私はなぜ蛇が太陽神とされたのか納得できずにいた。
ませんでした。

しかし宇賀神のおすがたを見て、なぜ蛇が太陽神とされたのかがわかったような気がした。

三輪山 日の出 
大神神社 ご神体の三輪山(太陽は合成)

三輪山の写真と宇賀神の写真を見比べてみてほしい。
三輪山は蛇がとぐろを巻くおすがただといわれている。
すると宇賀神の頭部と、三輪山の頂近くに昇った太陽が重なって見えてくる。
宇賀神の頭部は山の頂に昇った太陽を擬人化したものではないだろうか。

また、昔の人は蛇とは胴体がなく、頭部に長い首のついた動物だと考えていたのではないだろうか。
大神神社の御祭神・大物主も胴体がなく、頭(髑髏)に長い首がついたおすがたをした神だと考えられていたのではないかと思うのだ。

③惟喬親王とろくろ首


玄武神社の御祭神は平安時代の人物で、文徳天皇の第一皇子であった惟喬(これたか)親王である。
そう、前回の記事、惟喬親王の乱③世継争いに敗れた皇子 でもご紹介した不運の皇子のことである。
す。

惟喬親王は巻物が転がるのを見て轆轤(ろくろ)を発明したという伝説があり、木地師の祖とされている。

大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)や筒井神社では惟喬親王を御祭神として祀っていたが、京都の玄武神社でも惟喬親王を祀っているのだ。

古には神と怨霊は同義語であったとか、怨霊が祟らないように神として祀ったなどと言われる。
世継争いに敗れた惟喬親王が各地に祀られているということは、惟喬親王は祟る神として畏れられていたということかもしれない。

ろくろ 

↑ 上の写真は木地師の里(滋賀県東近江市蛭谷)に展示されていた轆轤の写真である。
ろくろの先端に器などに加工する木材をセットし、刃物を木材にあてます。
巻きつけた紐をひっぱって轆轤を回転させると、木材を丸い形に加工できるというわけだ。

ろくろ首という妖怪がいるが、ろくろ首とは木地師が用いる轆轤の妖怪なのだと思う。
ひもを巻きつけた細長い棒状の部分を首、轆轤の先端にあてた器を頭部に見立てたのだろう。

親王という高い身分の方が本当に轆轤を発明したとは考えにくい。
惟喬親王も大物主同様、胴体がなく髑髏に長い首がついたおすがたをした神であると考えられた結果、轆轤を発明したという伝説が生じたのではないだろうか。

惟喬親王の乱⑤雲ヶ畑 松上げ 『惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩?』  へつづきます~

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[2020/08/26 22:30] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⓶法隆寺の救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像?  よりつづきます~


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①世継争いに敗れた皇子

長い山道を車で登っていったところに惟喬親王の墓がありました。(滋賀県東近江市筒井峠 )

惟喬親王-墓 

陵の隣には惟喬親王像が置かれていました。

惟喬親王像 

山深いところで訪れる人の姿は全くありませんでした。

金龍寺 八重桜

さらに車で登っていくと金龍寺(滋賀県東近江市君ヶ畑)がありました。

↓金龍寺境内には小さな社がありました。
金龍寺 八重桜2 

社の向かって右にある石碑には「惟喬親王勧請 鎮守神 御池大龍権現 天狗堂大僧頭権現」と記されていました。
「惟喬親王が勧請した御池大龍権現と天狗堂大僧頭権現をお祀りしています」というような意味でしょうか。

↓ 金龍寺の隣には惟喬親王の墓がありました。

惟喬親王-墓2 
惟喬親王は平安時代の人物で父親は文徳天皇、母親は紀静子でした。
文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)という皇子もありました。
文徳天皇は長子で聡明な惟喬親王を皇太子にしたいと思っていましたが、当時は藤原氏が強い権力を持っていたため、惟仁親王が皇太子となりました。
皇太子争いに敗れた惟喬親王は小野の里に隠棲したとされます。
小野の里とは京都の大原あたりとされ、大原には惟喬親王の墓もあります。

しかし君ヶ畑ではこれとは別の伝説を伝えています。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は君ヶ畑に隠棲し、法華経の軸が転がるのを見て轆轤を発明。
そしてこれをこの土地の住民に伝え木地師が生まれたというのです。

金龍寺はこの地で惟喬親王が住んだ高松御所跡とされます。

↓ 金龍寺から歩いて数分のところに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)にがありました。

大皇器地祖神社 
大皇器地祖神社の御祭神は惟喬親王です。
かつて政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者は死後怨霊となり、疫病や天災をもたらすと考えられていました。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王も死後怨霊になったと考えられた結果、神として祀られたのでしょう。
前回ご紹介した玄武神社の御祭神も惟喬親王でした。

筒井神社(東近江市蛭谷町176)の奥には木地師資料館があり、轆轤を用いて器を作る人と、轆轤を発明した惟喬親王を描いた掛け軸が展示されていました。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸


入口近くに置かれていた惟喬親王像は大きな茶碗を持っています。

木地師資料館 惟喬親王像 
⓶惟喬親王と髑髏

木地師が轆轤を使ってつくるものの代表的なものは茶碗ですね。
それで茶碗を持つ惟喬親王像が作られているのでしょう。

茶碗といえば黒田官兵衛の兜が茶碗をひっくり返したような形をしていたのを思い出します。
http://matome.naver.jp/odai/2139711378115060501

黒田官兵衛が茶碗をひっくり返したような形の兜をかぶっていたのは、茶碗が髑髏をイメージさせるものであったからではないかと私は考えています。

織田信長が浅井長政らの髑髏に漆を塗って杯にしたとか、江戸時代の漢詩人・高野 蘭亭、徳川光圀らが髑髏杯を持っていたなどといわれています。
髑髏杯とは人間の髑髏で作った杯のことです

奈良・西大寺の大茶盛では人の頭ほどもある大きな茶碗でお茶を回し飲みしますが、これも髑髏杯をイメージしているのではないかお思ったりします。

そういえば、大皇器地祖神社の周辺は茶畑となっていました。

惟喬親王は髑髏と関係が深いなどということはないでしょうか。

金龍寺付近 出猩々 


惟喬親王の乱④玄武神社『胴体がなく首の長い神』  に続きます~

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[2020/08/25 14:50] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⓶法隆寺 『救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像?』 


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法隆寺 西院伽藍 夕日

法隆寺西院伽藍 

①上宮王家断絶

601年、聖徳太子は斑鳩宮を建て、その宮の近くに法隆寺(奈良県斑鳩町)を創建したと伝えられる。
622年、聖徳太子が死亡したのち、蘇我蝦夷・入鹿親子が政治の実権を握るようになる。
643年、蘇我入鹿は巨勢徳多、土師娑婆連、大伴長徳らに命じて聖徳太子の長子・斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させた。
山背大兄王は一族と家臣をひきつれて生駒山に逃亡した。
山背大兄王の寵臣・三輪文屋君は、『東国に逃れて再起を期し、入鹿を討ちましょう。』と進言した。
しかし、山背大兄王は
『兵を起こせば入鹿に勝てるだろう。しかし、私ひとりのために多くの百姓を犠牲にしたくはない。私の命など入鹿にくれてやろう。』と言い、斑鳩寺に戻った。
そして一族もろとも首をくくって自害した。
こうして上宮王家は断絶した。

聖徳太子は今でも多くの日本人に尊敬されているが、我々日本人の血の中に一滴も聖徳太子の血は流れていないと考えられるだろう。

⓶法隆寺は『聖徳太子の怨霊封じ込めの寺』by梅原猛

梅原猛氏は聖徳太子は怨霊で、法隆寺は『聖徳太子の怨霊封じ込めの寺』ではないか、と説かれた。
なぜ聖徳太子が怨霊になったのかというと、彼の子孫が断絶したためであるという。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えたもののことで、古には天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。

前回の記事、惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  でも述べたように
このような怨霊は祟らないように神として祀られ、また神仏習合してみほとけになったとも考えられたようである。

③聖徳太子は祀るべき子孫が断絶して怨霊になった?

井沢元彦さんは次のようなことをおっしゃっていた。
先祖の霊は子孫が祀るべきとされているのに聖徳太子の子孫は断絶してしまい祀る人がいなくなってしまった。
それで聖徳太子は怨霊になったのではないかと。

念のため書き添えておくが『聖徳太子は怨霊になった』と書いたが、もちろん本当に聖徳太子が怨霊になったというわけではない。
昔の人々が『聖徳太子は怨霊になった』と考えたということである。

法隆寺 中門と五重塔   

④閂がかけられた法隆寺中門


上の写真は法隆寺の中門と五重塔である。
法隆寺の中門は、中央に柱があるという珍しい造りになっている。
(一般的な門は中央に柱があるという造りにはなっていません。)

梅原さんは『門に棒を建てると閂になる』として聖徳太子の怨霊が外に出ないようにする呪術的な装置ではないかと説かれた。

 法隆寺 夢殿
夢殿

⑤ミイラ男状態だった救世観音

法隆寺の夢殿の扉をあけると大地震がおこると言い伝えられ、夢殿の扉は長年鍵がかけられたままの状態になっていた。
明治時代、アメリカの東洋美術史家であるフェノロサによって夢殿は開扉された。
このとき僧侶たちは大地震を怖れて逃げていったと伝わるが、事実かどうかわからない。
話をドラマチックに仕立てるための脚色の様にも思える。

それはともかく、地震はおこらなかった。
そして夢殿の中からミイラ男のように包帯状の細長い布でぐるぐる巻きにされた仏像が発見された。
『聖徳太子等身大の像』と伝わる救世観音である。
救世観音の光背は頭に直接釘で打ち付けられていた。


GUZE Kannon Horyuji

法隆寺 救世観音
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GUZE_Kannon_Horyuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/GUZE_Kannon_Horyuji.JPG
作者 Tokyo Bijutsu Gakko [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で




光背は仏の足元に棒を立ててその棒にとりつけるのが一般的で、救世観音のような様式は珍しい。
これについても梅原氏は怨霊封じ込めの呪術であろう、と説かれた。
法隆寺金堂の四天王像も光背が頭に直接釘でとりつけられ降り、法隆寺では後ろから見ることはできないが
奈良国立博物館の法隆寺展で実際に見ることができた。

法隆寺 夕景 

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』  に続きます~

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[2020/08/21 23:18] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  


今日から新シリーズ、「惟喬親王の乱」を始めます。
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

①事始め

北野天満宮 大福梅

大福梅


12月13日、北野天満宮で大福梅を求めたあと、私は楼門を出てもときた参道を引き返した。
参道を大鳥居の方に向かって歩いていくと右手(西)に東向観音寺というお寺がある。

東向観音寺 舞妓 

東向観音寺

北野天満宮は大勢の参拝者で賑わっていたががいたが、東向観音寺の境内には舞妓さんがひとりいるだけでひっそりしていた。

この日、12月13日は正月準備を始める「正月事始め」の日とされている。
京都の正月に欠かせない大福梅の授与もこの日から始まるし、六波羅蜜寺の隠れ念仏もこの日から大晦日まで行われる。

ちなみに六波羅蜜寺の隠れ念仏が行われている期間、御本尊の十一面観音に御茶が献じられる。
そして正月3が日にこのお茶に梅干しと結び昆布を入れた皇服茶を参拝者に授与する。
つまり隠れ念仏を行うことは正月にかかせない皇服茶の準備であると考えられる。
それで、正月準備を行う事始めの日から隠れ念仏は行われているのだろう。

それはさておき、京都の花街ではこの日に一足早く「おめでとうさんどす」と踊りの師匠さんなどに挨拶回りする習慣があり、この習慣を「事始め」と言う。

祇園 事始め2

祇園の事始め

東向観音寺で手を合わせていた舞妓さんは、事始めの挨拶回りを終えて、ここに参拝にやってきたのだろう。

②本地垂迹説

東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑が建てられていた。
「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とはどういう意味なのだろうか。

日本では古来より神仏は習合して信仰されてきたが、その神仏習合のベースになったのが本地垂迹説という考え方である。

本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことである。

そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。

例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現であるなどとして同一視された。

天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことである。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。」というような意味である。
菅原道真は十一面観音の化身であると信じられていたのだ。

④北野天満宮の神宮寺

東向観音寺は806年、桓武天皇の詔を受けて藤原小黒麿と賢璟法師が創建した寺で、もともとは朝日寺という寺名だった。

901年、左大臣藤原時平の讒言を受けて右大臣菅原道真は大宰府に流罪となり、903年、菅原道真は大宰府で死亡した。
菅原道真の遺骨は大宰府に葬られた。

947年、朝日寺の僧・最鎮(最珍)らが北野天満宮を建立し、大宰府より道真の霊を遷し祀ったといわれる。

朝日寺には西向と東向の二つのお堂があったが、西向堂はなくなって現在は東向堂のみが残っている。
東向観音寺という寺名はここからくるのだろう。

③でお話しした本地垂迹説を受け、かつて日本の神社には神宮寺が、寺には鎮守の社があった。
明治の神仏分離令・廃仏毀釈で、多くの神宮寺は神社と切り離され、また神社に転向したり、廃寺になったりした。

東向神宮寺の前身・朝日寺は前述したように北野天満宮と関係の深い寺であり、北野天満宮の神宮寺であった。

⑤伴氏廟

東向観音寺の本堂の横手には土蜘蛛の塚があり、オカルトファン必見の名所となっている。

東向観音寺 土蜘蛛の塚 
東向観音寺 土蜘蛛の塚
 
土蜘蛛の塚については、こちらの記事を読んでいただけると嬉しい。→土蜘蛛の謎⑥ 燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』と呼ばれている理由 

土蜘蛛の塚の右手には、高さ4.5メートルの巨大な五輪塔があった。

東向観音寺 伴氏廟 

伴氏廟

伴氏廟である。

室町時代、父母の死後49日の服喪を終えたあと50日目にこの塔に詣る風習があり、そのため北野の忌明塔と呼ばれていたという。
もともとは北野天満宮の楼門の手前にある伴氏(ともうじ)社にあり、菅原道真の母の廟塔だと言われている。
道真の母親は伴氏だったのである。

北野天満宮 伴氏社 
伴氏社

伴氏はもともとは大伴氏と名乗っていたのだが、淳和天皇の諱が同じ大伴だったので、憚って伴氏と改姓した。
その後866年に応天門が炎上するという事件があり、大納言・伴善男が左大臣・源信の犯行であると告発した。
しかし太政大臣藤原良房の進言で源信は無罪となり、逆に伴善男父子に嫌疑がかけられて流刑となった。
これは藤原氏の他氏排斥事件のひとつだと考えられている。

これによって伴氏は没落したかに思われたが、そうではなかった。
その後、伴氏を母にもつ菅原道真が右大臣にまで上り詰めたのである。

④で述べたように、その後901年に菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、903年太宰府で亡くなってしまうのだが。

ここに伴氏廟があったり、北野天満宮の楼門前に伴氏社があるのは、菅原道真の母親が伴氏で菅原道真と伴氏の関係が深いためだろう。

⑥怨霊菅原道真が神として祭られた理由

北野天満宮 梅3

北野天満宮

北野天満宮は菅原道真を祀る神社として、947年に朝日寺の僧・最鎮(最珍)らによって創建されたのだが、なぜ菅原道真は神として祭られたのだろうか。

道真の死後、天変地異や疫病の流行が相次ぎ、道真左遷にかかわった人々が次々に死亡した。

また、道真を左遷した醍醐天皇は第二皇子の保明親王を皇太子としていたのだが、923年に21歳の若さでで亡くなってしまった。
そのため、保明親王の子の慶頼王を皇太子としたが、925年、わずか5歳で亡くなってしまう。
皇太子の相次ぐ死を醍醐天皇は道真の怨霊の仕業ではないかとおびえたことだろう。
その後、930年に清涼殿に落雷が落ちるという事件がおき、道真の怨霊に対する人々の畏れはピークに達する。
清涼殿落雷事件の3か月後に醍醐天皇は崩御しているが、これは醍醐天皇が道真の怨霊を怖れるあまりノイローゼになってしまったためだといわれている。

また、940年には東国で平将門の乱が、941年には南海で藤原純友の乱が起り、これらも菅原道真の怨霊の仕業と考えられた。

菅原道真は文武両道に長けた優秀な人物であったとされる。
しかし、道真が神として祀られたのは、彼が優秀な人物であったためではない。

現在ではある能力に長けた人物のことを尊敬の意を込めて「神」と呼ぶことがある。
例えばマイケル・シェンカーは「ギターの神様」、B・B・キングは「ブルースの神様」などと言われる。
しかし古における神とは能力に長けた人物のことではなかった。

陰陽道では荒ぶる神(怨霊)は十分にお祭りすればご利益を与えてくださる神に転じると考えるという。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天変地異は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。

菅原道真は藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、数年後に死亡した。
その後、疫病の流行や天変地異があり、それらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた。
そのため、道真を神として祭り、道真の怨霊を和霊に転じさせようと考えられたのだろう。

現在では菅原道真は学問の神として全国の受験生から厚い信仰を集めている。

立派な人物であるということで神として祀られるようになるのは、時代が下がった戦国時代や江戸時代だと考えられる。
たとえば、豊臣秀吉や徳川家康は自らが神として祀られることを望み、彼らを祀る神社が作られた。
豊臣秀吉を祀る神社は豊国神社、徳川家康を祀る神社は東照宮である。


⑦菅原道真が自ら刻んだ十一面観音


「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と石碑に記された十一面観音とは、東向観音寺の御本尊の十一面観音のことだろう。
この十一面観音は961年に菅原道真が刻んだものだと伝わっている。
なんと、菅原道真は文武両道に秀で、優秀な政治家であったのみならず、仏像を刻んだというのである。

菅原道真が刻んだと伝わる十一面観音は大阪府葛井寺市の道明寺にもある。

ElevenFaced Kannon Domyoji

十一面観音像 〈道明寺)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。
作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


上の写真は菅原道真が刻んだという道明寺の十一面観音である。
政治家が片手間に刻んだものとはとても思えない素晴らしいもので、国宝となっている。

私は東向観音寺の十一面観音を拝観したいと思った。
道明寺の十一面観音と作風を比較してみたかったのだ。
しかし東向観音の十一面観音は秘仏とされていて、この日は拝観することはできなかった。

正直に言おう。
私は菅原道真が道明寺の素晴らしい十一面観音を刻んだとはとても思えないのだ。
菅原氏は学者の家柄で、政治家になれるような高い家柄ではなかった。
菅原道真の右大臣という地位は、菅原氏としては破格の大出世だといえる。
それは菅原道真が頭脳明晰、武芸にも優れ、政治家として抜きんでた才能を持っていたということだろう。
その上、仏師としての腕も一流で、国宝に指定されるほどの作品を残したとはとても信じられない。

東向観音寺の十一面観音も実際に菅原道真が刻んだものではないだろう。

「菅原道真が自ら仏像を刻んだ」というのは「怨霊であった菅原道真が成仏して十一面観音になった」ということを比喩的に表現したのではないだろうか。

現在でも人が死んだことを「成仏した」とか、死んだ人のことを「仏さん」と言うではないか。

日本で神仏が習合されて信仰されていたのは、神=怨霊を、人々にご利益を与えてくださる和魂=仏教の神に転じさせるという信仰があったためではないだろうか。

成仏するということは煩悩を捨てることだ。

怨霊が煩悩を捨てれば祟らなくなる。
そして道真の怨霊が確かに成仏した、ということを目に見える形にしたのが道明寺や東向観音寺の十一面観音像なのだと私は思う。

仏教用語辞典によれば
『諸仏菩薩には法身と生身の二身が有り、生身(しょうしん)、法身(ほっしん)所証の理体を法身といい、衆生を済度する為に、父母に胎を託して生じる肉身を生身という。』とある。
つまり、生身とは人間のことであり、菅原道真とは生身の菩薩だということになると思う。


惟喬親王の乱⓶法隆寺 『救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像?』 に続きます~

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[2020/08/20 21:08] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

私流 トンデモ百人一首 6番 …『大伴家持、白い神から黒い神に転じる?』 


鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける/大伴家持
(鵲が渡す橋に霜がおりて白く輝いているところを見ると、夜がすっかり更けてしまったようだ。)


祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2

祇園祭 黒主山

①草紙洗い

7月17日、祇園祭山鉾巡行。(写真は過去のもので、現在、黒主山は 7月24日の後祭で巡行)
祇園囃子の音色とともに山鉾が、大路をがゆっくりと進んでいく。
豪華な装飾品で飾り立てられた山鉾のようすから、山鉾巡幸は『動く美術館』とも称される。
そんな山鉾の中に、桜を見上げるひとりの老人をご神体とする山がある。
黒主山である。

祇園祭 黒主山 御神体 

黒主山 御神体

謡曲に志賀という演目がある。黒主山はその謡曲・志賀をモチーフとした山である。

今上天皇に仕える臣下が江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人と男に出会った。
この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(志賀)


桜を見上げる老人は六歌仙の一人、大伴黒主だったのである。

大友黒主が登場する謡曲には『志賀』の他にも『草紙洗い』という演目がある。

小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。
「蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん 」
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)
当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町の歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)


志賀では和歌の徳を説く神として登場し、草紙洗いでは小野小町の邸に忍び込む卑怯な男として登場する大友黒主。
いったい、彼はどのような人物だったのか。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山

祇園祭 黒主山

②大友黒主は大伴家持だった?

大伴黒主は遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町らとともに六歌仙の一である。
六歌仙とは「古今和歌集仮名書」において、名前をあげられた6人の歌人のことをいう。
古今和歌集仮名書とは仮名で記された古今和歌集の序文で、紀貫之が記したと考えられている。
ただし、仮名序やには六歌仙という言葉は使われていない。
後の世になって真名序及び 仮名序に名前をあげられた六人の歌人のことを六歌仙というようになったと考えられている。

古今集仮名書は大友黒主について次のように記している。

大友黒主は そのさまいやし
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

(大友黒主はその様子が賎しい。
薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。)

『志賀』では大友黒主は花(桜)の影に休む老人として登場するが、それはこの古今和歌集仮名書の文章を受けたものだと考えられる。

大友黒主は大伴黒主とも記され、小説家の井沢元彦氏は政治的に不幸だった大伴一族の霊のことではないかと言っておられる。

大伴家持は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、すでに死亡していたのだが、死体が掘り返されて流罪となった。
子の永主や大伴継人も隠岐へ流罪となった。
その後、応天門の変によって伴善男らが失脚するなどして、大伴氏は歴史の表舞台から姿をけした。
(※淳和天皇の名前が大伴親王だったので、これに憚って大伴氏は伴と氏を改めていた。)

古今集には仮名書のほかにもうひとつの序文「真名序」とよばれる漢文で記された序文がある。
仮名序は紀貫之が、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたとされている。
仮名序と真名序の内容はほとんど同じだが、微妙に表現が違っている箇所もある。

たとえば、仮名書では
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。
となっているが、真名序は次のようになっている
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

真名序に『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とある。
これはどういう意味だろうか。

仮名序を書いた紀貫之は古今伝授の創始者であるという。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことで、伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、伝授の方法は主に口頭で行われた。
和歌の極意を文章に記さず口頭で伝えるのは、情報が漏洩しないようにするためだろう。

鎌倉時代には藤原定家が、父親であり師匠であった藤原俊家から古今伝授を受けている。
百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られている。
もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において大友黒主の正体を明らかにしているのではないか、と思ったのだ。
つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかと。

八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め

私は百人一首を調べてみた。
百人一首では猿丸大夫は5番だった。
その次・・・6番は大伴家持だった!

③大友黒主と大伴家持はほとんど同じ歌を詠んでいる。

大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいるのだ。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』という。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことである。
大友黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りではない。

ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大友黒主、一方は大伴家持の歌であるという。
このことからも、ふたりは同一人物ではないかと思われる。

大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄だった。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないだろうか。

また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったのではないだろうか。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないだろうか。

真名序に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだろう。
『鄙し』の『鄙』は①田舎 ② いなかっぽい。ひなびている。つまらなく卑しい、などの意味がある。
『体甚だ鄙し』とは掘り出された死体がひなびている(田舎っぽい)、または卑しいということか。 

またコメントを下さった方に教えていただいたのだが(ありがとうございました!)、大伴家持が飼っていた鷹は大黒という名前だった。

長いので原文は省くが、家持は次のような意味の長歌を詠んでいる。

家持は鷹狩や鵜飼が好きで、友人を誘って鷹狩を楽しんでいた。
鷹狩の際には大黒と名付けた鷹に狩をさせていた。
その鷹を翁が勝手に持ち出して、逃がしてしまった。
家持の夢の中で出会った少女が「鷹は葦鴨の多集(すだ)く舊(旧)江にいる」と告げた。

④青鬼・赤鬼・黒鬼

死体が掘り返された大伴家持の遺体はどのような状態だったのだろうか。

http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

a.腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
b.腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
c.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
d.骨が露出

そしてこの死体の変化が青鬼・赤鬼・黒鬼の正体ではないかというのだ。

鬼という漢字は死者の魂をあらわすものだとされるので、この説はなるほどもっともだと思わせる。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭に登場した鬼たち

大友黒主という名前は、家持の死体がcの段階まで進み、黒鬼のような状態になっていたところからつけられたのではないだろうか。

⑤万葉集を編纂した大伴家持 

大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。
そして草紙洗に登場する家持以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。

『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、
『書き入れる』というのは『編纂する』という意味で、誰にでもできることではない。
万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたというのが『草紙洗い』のテーマなのだと私は思う。

そして小野小町は「私は『古今和歌集』の時代の歌人なので、私の歌を『万葉集』に書き入れることはできませんよ」と大伴家持を諭したということだろう。

つまり、大伴家持はタイムスリップして後世に現れたという設定なのである。

また『志賀』において、黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないだろうか。

祇園祭 黒主山 提灯

祇園祭 黒主山
②かささぎの 渡せる橋に 置く霜の

猿丸太夫(5番)の次に大伴家持(6番)の歌をもってきた藤原定家は、古今集真名書の『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』の意味をわかっていたのだろう。

その藤原定家は百人一首に大伴家持の次の歌を採用している。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持
(年に一度、天の川に鵲が橋をかけ、その橋を渡って牽牛と織姫が逢瀬を楽しむという。その橋のようにみえる宮中の階段に白い霜がおりているところを見ると、もうすっかり夜がふけてしまった。)


「宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てた」ととるのは、
『大和物語』百二十五段の壬生忠岑の歌で御殿の御階(みはし)
()を「かささぎのわたせるはし」によって喩えていることによるもので、賀茂真淵が唱えた。

「霜の白き」は天上に輝く星が白いのを霜に喩えたとする説もある。

観音山公園 牽牛 七夕飾り

中山観音寺跡 牽牛と七夕飾


③男女双体は荒魂を御霊に転じさせる呪術

まずポイントとして押さえておきたいのは、この「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」が天の川伝説、すなわち牽牛と織姫が年に一度の逢瀬を楽しむとされる七夕に関する歌だということである。

牽牛と織姫が逢瀬を楽しむというのは、男女が和合するということだ。

仏教の神・歓喜天は男女が和合したおすがたをしておられ、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。
そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。


↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。

この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。
すると神の本質である御霊とは男女双体と言うことになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神


男女和合は荒魂を御霊に転じさせる呪術だったのではないだろうか。

そして鬼王ビナヤキャを牽牛、ビナヤキャ女神を織姫に置き換えてもいいだろう。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神

つまり、牽牛と織姫の逢瀬は、荒魂を御霊に転じさせる呪術であったのではないか、ということである。

④白黒コントラストの鳥・鵲

次に注意したいのは、鵲という鳥についてである。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

上の動画を見ればわかるとおり、鵲はくっきりした白黒のコントラストを持つ鳥であり、太極図を思わせる。

太極図

太極図(晴明神社)

太極図とは「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」という道鏡の考え方をあらわすもので
白は陽、黒は陰とされる。

男は陽、女は陰とされるので、男が白=荒魂で、女が黒=和魂だろう。
そう考えると、太極図は歓喜天を図案化したものだと言っていいかもしれない。

さきほど、男神は荒魂で女神は和魂とする説があるといったが、荒霊を白、和魂を黒であらわすこともあったのではないだろうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神・・・・陽?・・・白?
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神・・・・陰?・・・黒?

機物神社 七夕飾り

機物神社 七夕祭

⑤霜は死体に振られた塩をあらわす?

さらに「置く霜の」という語にも注意したい。
日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。

仁徳天皇が皇后と涼をとっているとトガノの方から鹿の鳴き声が聞こえてきた。
天皇はその鹿の鳴き声をしみじみと聞いていたが、あるとき急に鳴き声がしなくなった。
翌日、佐伯部が天皇に鹿を献上したが、その鹿は天皇が夜な夜な鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿だった。
気分を悪くした天皇は佐伯部を安芸の渟田に左遷した。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。


鹿の夏毛には白い斑点がある。この斑点を霜や塩に喩えたのだろう。

そして、謀反の罪で死んだ人には塩が振られることがあり、鹿は謀反人を比喩したものではないかとする説がある。
藤原種次暗殺事件の首謀者として死体が掘り出され、流罪となった大伴家持はまさしく謀反人である。

大仏殿 鹿

東大寺大仏殿 鹿

⑤白い神だったはずなのに黒い神になってしまった大伴家持

家持の歌を私流に現代語訳してみよう。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持

まるで太極図のように見える鵲。
また鵲は白い神(荒霊)と黒い神(和霊)が和合しているかのようにも見える。
その鵲が天の川に橋をかけ、年に一度牽牛と織姫が逢瀬を楽しむ。

鬼王ビナヤキャは祟るのをやめて仏法守護を誓いビナヤキャ女神を抱いた。
歓喜天は鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神の男女双体の神で、歓喜天は鬼王ビナヤキャがビナヤキャ女神の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまったの図なのだ。
この歓喜天と同じく、牽牛は織姫の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまう。
それが七夕なのだ。
(牽牛は牛をひく童子である。牛=丑、また童子は八卦で艮/丑寅の符である。丑寅は方角では鬼がやってくる方角、鬼門である。よって牽牛は祟りをもたらす鬼と考えられる。)

その天の川に鵲がかける橋のように見える宮中の階段に霜が白く輝いている。

霜は日本書紀のトガノの鹿を思わせる。
鹿は全身に霜が振る夢を見るが、霜だと思ったのは実は塩で、鹿は殺されて塩漬けにされているのだった。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあった。
鹿は謀反人の喩えである。
藤原種継暗殺事件の首謀者だと疑われている私(大伴家持)もまた謀反人である。

宮中に降りた霜がこんなにも白く見えているということは、私はすでに死んで夜の世界にいるということなのだろう。
そして私は鵲に似た太極図があらわすように、陽が極まって陰となり、白い神(荒魂)から黒い神(和魂)へと変わっていくのだ。


わずか31文字の中に、太極図、天の川伝説、トガノの鹿の伝説なども想像させ、実に味わい深い歌である。

白峯神宮 小町踊2

白峯神宮 小町踊(七夕に小町踊を踊る風習があった。)


⑦大友黒主はなぜ黒い神なのか?

⑤に記した現代語訳で、「白い神」とは大伴家持、「黒い神」とは大伴黒主のことである。

大伴家持はすでに死んで埋葬されていたにもかかわらず、藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、死体が掘り出され、その死体は流罪となった。

http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

掘り出された家持の死体は黒鬼となっていたため、家持は大友黒主とよばれたのではないかと私は推理しているのだ。

しかし、つじつまの合わない点がある。
性別天体光度天気生死
女(和魂?)
男(荒魂?)太陽

大伴家持は男なので陽、白い神といってもいいが、同一人物だと考えられる大友黒主は、黒い神である。
黒は陰をあらわし、性別では女性を表す。

これはいったいどういうわけだろうか?

法輪寺 針供養

虚空蔵法輪寺 針供養 織姫

⑧「古の猿丸大夫の次なり」と「田夫」の意味

このように考えてみると、古今和歌集真名序に「大友の黒主が歌は猿丸大夫の次なり」とある意味がわかるような気がする。

私は猿丸大夫とは志貴皇子・弓削道鏡・弓削浄人の総称ではないかと考えているのだが、
参照/私流 トンデモ百人一首 5番 奥山に…『猿丸大夫の正体は志貴皇子・道鏡・弓削浄人だった?』 

春日王(志貴皇子)・安貴王(道鏡)・浄人王(弓削浄人)ゆかりの奈良豆比古神社には翁舞という伝統行事が伝えられており(浄人王が始めたと伝わっている)

そしてこの翁舞に白式尉と黒式尉が登場するのだ。

奈良豆比古神社 翁舞

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉


白式尉は白い神、黒式尉は黒い神だといえるだろう。

白は日に角(ノ)がついている。
白は日の神であり、角があるのは鬼である。白い神は日の神の荒魂ではないだろうか。

黒は分解すると田+土+、、、、となる。
「、、、、」は種まきではないだろうか。

黒式尉は三番叟と呼ばれるが、田植えの所作を行う。

つまり白=日の荒魂は、陽が極まって陰に転じると黒=田の神になるということではないだろうか。

そして大伴家持は猿丸大夫の次に白い神から黒い神に転じた神という意味で「大友の黒主が歌は猿丸大夫の次なり」と記されているのではないかと思える。

また古今和歌集仮名序に「頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。」とある意味もなんとなく分かるような気がする。






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