fc2ブログ
2024 0112345678910111213141516171819202122232425262728292024 03

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew②聖なるライン 



「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」における研究者の発言についてはピンク色で、ウィキペディアなどネットからの引用はブルーで、私の意見などは濃いグレイの文字で示す。

①聖なるライン

1969年、岸俊夫氏は藤原京遺跡の朱雀大路の延長線上に菖蒲池古墳・野口王墓(天武・持統陵)・中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)・栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。)がほぼ一直線上に存在している(多少のずれはある。)ことを発見した。
これは「聖なるライン」と呼ばれている。

藤堂かほる氏が「藤原京大極殿の真北に天智天皇陵があるので、天智天皇陵の造営時期は文武天皇の時代ではないか」とする説を発表した。

これを受けて猪熊兼勝氏が『岸氏の「聖なるライン」の延長上に、藤原京大極殿、天智天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳がのる」と発表した。
猪熊氏はこれらの遺跡は東経135度48分19-29秒の範囲にあり、誤差は10秒以内とされている。

聖なるラインの最北は藤原京ではなく、御廟野古墳(天智天皇陵)だったのだ。

また小山田古墳は、従来、小山田遺跡として発掘調査が行われていたが、
2016年度(平成28年度)に横穴式石室跡が、2017年度(平成29年度)、第9次発掘調査で石室羨道が確認され、古墳であることが判明している。
この小山田古墳も聖なるライン上に並ぶかどうか、微妙な位置にある。(東経135度80分95秒)

小山田古墳と聖なるライン

菖蒲池古墳説明板より ※上の地図では小山田古墳は小山田遺跡と記されている。

また、上の地図を見ると、鬼の俎、鬼の厠も聖なるライン近くにあることがわかる。

つまり、聖なるライン上には、次のものがのると考えてもいいように思える。
※北から順に示す。
※オレンジ色の数字はグーグルマップによる10進法による東経。
※緑色の数字は60進法による東経。変換はこちらのサイトで行った。緯度・経度の、10進数と60進数(度分秒)の変換

御廟野古墳(天智天皇陵)135.80703578189002 135° 48' 25.3296" 〇
平城京朱雀門 135.7942909453661 135° 47' 39.447" 
藤原京大極殿跡  135.807488756034 135° 48' 26.9604" 〇
藤原京朱雀大路跡 135.80744584069 135° 48' 26.805" 〇
植山古墳?(山田高塚古墳に改装される前の推古天皇と竹田皇子の合葬墓?) 135.80348372260363 135° 48' 12.5418"
菖蒲池古墳(蘇我入鹿の小陵?)※これについては後に記す。 135.8079112530273 135° 48' 28.479" 〇
小山田古墳?(蘇我蝦夷の大陵?または舒明天皇の初葬地・滑谷岡?)※これについては後に記す。135.80953546651938 135° 48' 34.326"
鬼俎・鬼厠?※これについては後に記す。135.8053400892267 135° 48' 19.224" 
野口王墓(天武持統合同陵) 135.8078823953552 135° 48' 28.3752" 〇
カナヅカ古墳?(吉備姫王の墓?) 135.803472439535 135° 48' 12.4986"
中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)※これについては後に記す。135.80610662419087 135° 48' 21.9846" 〇
高松塚古墳 135.80620099535486 135° 48' 22.323" 〇
栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。) 135.8073279818628 135° 48' 26.3808" 〇
キトラ古墳  135.80524770990635 135° 48' 18.8892" ×

猪熊氏は御廟野古墳、藤原京大極殿・藤原京朱雀大路・菖蒲池古墳・野口王墓(天武・持統陵)・中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)・高松塚古墳・栗原塚穴古墳・キトラ古墳は、東経135度48分19-29秒の範囲に収まると仰っている。
収まるものに〇をつけた。

残念ながらキトラ古墳は東経135度48分18秒であり、東経135度48分19-29秒の範囲に収まらなかった。

しかし、それ以外の御廟野古墳、藤原京大極殿・藤原京朱雀大路・菖蒲池古墳・野口王墓・中尾山古墳・高松塚古墳・栗原塚穴古墳は東経135度48分19-29秒の範囲に収まっていた。
また鬼俎・鬼厠は135度48分19秒なので、猪熊氏のいう東経135度48分19-29秒に収まる。

しかし、何も東経135度48分19-29秒からわずかに外れたからといって、聖なるラインに乗らないと考えるのもおかしい。

②鬼俎、鬼厠は石室だった。
鬼の俎・鬼の厠
鬼俎、鬼厠のある付近には、昔鬼が住んでおり、霧を発生させて道に迷った人間を鬼の俎で料理し、鬼の厠で用を足したという伝説がある。
残念ながらこれらの謎の石が鬼の俎・鬼の厠であったというのは伝説にすぎず、『鬼の俎』は石室の底石、『鬼の厠』は古墳の石室だと考えられている。

『鬼の厠』と『鬼の俎』はセットでひとつの石室だったという説、また明治時代まで『鬼の俎』の西にもう一つ別の俎があったそうで、二基の墓があったとする説もある。
現存しない俎の方は割られて庭石にされ、現在は橿原考古学研究所付属博物館の屋外に展示されているという。

『鬼の厠』『鬼の俎』は二基の石室であり、斉明天皇と間人皇后が合葬された墓ではないかという説もあったが、現在、斉明天皇陵は牽牛子塚古墳が確実視されている。
牽牛子塚古墳の石室はふたつあり、最近の発掘調査で八角墳であることが確認された。
この時代の天皇の墓のほとんどは八角墳なのである。

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳

鬼の厠・鬼の俎から1.5kmほど東に向かって歩いていくと石舞台古墳がある。
石舞台古墳は盛土が失われて石室がむき出しになっている。
中国では謀反人の墓は暴かれることがあり、梅原猛氏は「石舞台古墳や鬼の俎・鬼の厠も暴かれた墓ではないか」とおっしゃっている。

石舞台古墳は蘇我馬子の墓と考えられているが、馬子の孫の蘇我入鹿は自分の屋敷を宮門(みかど)と呼ばせるなど天皇のように振る舞っているのがけしからんとして、645年に中大兄皇子に斬殺されている。(乙巳の変)
翌日、入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺した。
馬子の墓は謀反人・入鹿の祖父の墓だとして暴かれ、盛り土が取り除かれて石室がむき出しの状態にされたのかもしれない。

石舞台古墳

石舞台古墳

②聖なるライン上の古墳は天皇家の古墳?

・聖なるライン上にある菖蒲池・天武持統陵・中尾山・高松塚・文武陵は石室の形式に差があり、築造年代に若干の差があるが、いずれも終末期古墳。(直木孝次郎氏)

一般的にキトラ古墳も聖なるライン上に並ぶとされるが、直木氏がこの発言をされたのは、「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」においてであり(昭和47年は1972年)、このときキトラ古墳壁画はまだ発見されていなかった。(キトラ古墳の壁画が発見1983年)

・文武天皇陵は内部の状態がわからないが、他の4つの同時期の古墳がほぼ一直線に並んでいるのは偶然ではない。(直木孝次郎氏)

中尾山古墳を発掘調査したところ、天皇陵に多い八角墳であり、火葬墓であったことなどから、中尾山古墳が文武天皇の真陵と考えられている。
直木氏が文武天皇陵とおっしゃっているのは栗原塚穴古墳だと思われる。
この栗原塚穴古墳は文武天皇陵に治定されているので、発掘調査が行われておらず、内部の状態はわからない。
直木氏がこの発言をされたのは、先ほども述べたとおり「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」においてであり、中尾山古墳の発掘調査が行われたのは1974年(昭和49年)・2020年で、本はそれ以前に出版されたものである。
直木氏が「中尾山古墳は文武天皇の真陵」とおっしゃっていないのはそのためである。

・高松塚の被葬者は藤原京時代に死去した人である可能性が高い。
但し、藤原遷都の持統8年以降と見るのではなく、藤原京都市計画が出来た時期以降と考えるべき。
聖なるライン上に天武陵があることから考えると、686年崩御した天武天皇代、すでに藤原京プランはできていたと思われる。
藤原京時代の下限は平城京遷都の行われた710年。
天武、持統、文武の近親者の可能性が高い。(直木孝次郎氏)

前回も述べたが、聖なるライン上に乗りそうに思われる小山田古墳は蘇我蝦夷の大陵ではないかとする説がある。
そしてやはり聖なるライン上にあるとされる菖蒲池古墳は蘇我入鹿の小陵であり、小山田古墳と菖蒲池古墳が蘇我蝦夷・入鹿の「今来の双墓」ではないかというのだ。
かつて明日香の有る高市郡は今来郡とよばれており、小山田古墳と菖蒲池古墳はどちらも方墳なので、今来の双墓というのにふさわしいように思える。

小山田古墳 羨道跡

小山田古墳羨道跡

菖蒲池古墳

菖蒲池古墳

蘇我蝦夷の大陵とする説のほか、第34代舒明天皇の初葬地・滑谷岡ではないかとする説もある。
舒明天皇は641年に崩御し、642年に滑谷岡に葬られたが、643年に押坂陵に改葬されている。
押坂陵は奈良県桜井市の段ノ塚古墳に治定されている。
段ノ塚古墳は天皇陵に多い八角墳であり、舒明天皇の押坂陵であることが確実視されている。
しかし、小山田古墳が舒明天皇の初葬地・滑谷岡であるというのは疑問視する声もある。

小山田古墳の下層には6世紀後半の集落跡があり、古墳をつくるにあたり、その集落を潰したと考えられている。
さらに築造後の7世紀後半に掘割(地面を掘ってつくった水路。ほり。)の埋没が認められるという。

「掘割の埋没」というのがよく意味がわからないが下の記事をよむと、どうやらそれは古墳の破壊を意味しているようである。

”掘り割りが築造後ほどなく埋没している
という事実である。当然、それは墳丘の削平とも連動していた可能性が高いが、だとすると、大抵の労働力を投入して築造した古墳を、さしたる時間もおかずに、わざわざ破壊したことになる。再び大規模な動員をかけてまで、そうせざるをえなかった理由は何だったのか。舒明初葬陵説に立った場合、はたしてそれを説明しうるのか。”
小山田古墳の被葬者をめぐって 小澤毅 3pより引用
「小山田古墳を舒明天皇の初葬地・滑谷岡」とする説に対しては、「改葬するからと言って、天皇の陵であった場所を破壊するだろうか」という疑問が出されているのである。

一方、小山田古墳を蘇我蝦夷の大陵、菖蒲池古墳を蘇我入鹿の小陵と考えれば、彼らは中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターで殺害されているので(乙巳の変)、彼らが作った壮大な墓を破壊する理由は十分にある。

ここで、次のようなここで批判があるかもしれない。

「聖なるライン上に天皇家の墓を作る目的があって、蘇我蝦夷の大陵である小山田古墳を破壊したのではないか。
とすれば、高松塚古墳、キトラ古墳は天皇家の墓であり、被葬者は天武、持統、文武の近親者ではないか?」と。

そういう考え方はありえる。
しかしその問題は一旦保留にしておいて、次に進みたいと思う。


③「聖なるライン」ではなく「聖なるゾーン」ではないか?

・岸俊男氏は「天武持統陵が藤原京の朱雀大路の線上にのる」とおっしゃっている。(聖なるライン)
直木孝次郎氏は「線ではなく、ゾーン」だとおっしゃっている。(ホーリーライン)

ホーリーラインとはHoly lineであり、Holyは「聖なる」という意味であり、Holy lineで検索すると競馬の予想サイトなどがヒットする。(笑)
私は英語はまるでダメなのでよくわからないが、Holy lineを直訳すると「聖なるライン」となってしまい、「聖なるライン」も「ホーリーライン」も同じ意味ではないのか、と思ってしまう。
もしかしたら、私が本を誤読したのかもしれないが、今手元に「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」がない。(図書館で借りて読んだため)
なので、岸氏がおっしゃる「線ではなく、ゾーン」を「聖なるゾーン」としておこうと思う。

「聖なるライン」というが、少しラインからずれている古墳もある。(これについては誤差だとする意見もあるだろう。)
また「聖なるライン」の周囲にも岩屋山古墳、牽牛子塚古墳、マルコ山古墳、真弓鑵子塚古墳、石舞台古墳、都塚古墳などが存在しているので、岸氏がおっしゃるとおり「聖なるライン」を中心に、その周囲に古墳が存在する「聖なるゾーン」ととらえた方がいいようにも思う。


④「聖なるライン」(または「聖なるゾーン」)が意図するもの

古代の人々が、このように古墳を配置した意図は何だろうか?

私は天智天皇を最上位とするため聖なるラインの最北に天智天皇陵を作ったのではないかと考えている。
「天子南面す」といい、北は天子の位置とされる。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
天智天皇の皇子・大友皇子と、天智天皇の同母弟・7大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

誰が天智天皇陵を聖なるラインの最北に作ったのか。
私は藤原不比等(659-720年)が天智天皇陵造営に関係しているような気がする。

不比等は中臣(藤原)鎌足の子とされるが、本当は天智天皇の落胤であるとの説がある。
『興福寺縁起』には次のような内容が記されている。

「藤原鎌足は天智天皇の后だった鏡王女を妻としてもらいうけた。その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。
これが藤原不比等である」と。

これが事実かどうかわからないが、藤原氏は事実だと考えていたのではないかと思う。
奈良時代、天武系の天皇は絶えてしまって、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位する。
光仁天皇の次代には光仁天皇の子の桓武天皇が即位し、平安京に遷都する。
以後、ずっと天智系天皇が続いていることになる。

なぜ桓武天皇は平安京に遷都したのか。
そこには天武系天皇の都である平城京を捨て、藤原氏の先祖である天智系天皇の都を新たに作ろうとする藤原氏の意図が働いてはいたのではないか。
そして自分達の先祖(と彼らが信じている)天智天皇の陵も聖なるラインの最北につくったのではないか?

⑤「聖なるライン」は存在しないとする説

「聖なるライン」は存在しないとする説もある。

・中国では、古墳の立地は北。(都の北という意味だと思う。)南に墓を作ることはほとんどない。なので藤原京の南の線上というのは疑問。
高句麗の輯安(集安)も南の開けた土地にというのはない。新羅の慶州にもない。(斉藤忠氏)

・藤原京の場合は、北が低く平地になっていて、南が山という立地条件もある。藤原京の地勢から見て墳墓の地は北には求められない。(伊達宗康氏)




能登半島地震で被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。

このたびの能登半島地震で被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。

能登は数年前に旅行に行ったことがあり、白米千枚田・すず塩田村・軍艦島・キリコ祭・御陣乗太鼓などを見学し、大変美しい場所だと知りました。
また旅先で出会った方々も皆さんとても親切にして下さり、とても良い思い出になりました。
大好きな能登がこのたびの震災で大きな被害を受けたことに心を痛めています。


[ 2024/01/02 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew① 高松塚・キトラ古墳のある場所

 あけましておめでとうございます。今年も拙ブログをよろしくお願いします。

「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 」
という記事を43回にわたって書いた。
これらの記事は本ごと、研究者ごとの意見のメモと、それらに関してわからない点を調べたことや、考えたことなどを思いつくまま書いてしまったので(汗)
自分でも頭が混乱してわけわからなくなってしまった。😅
そこで復習の意味もこめて、「古墳のある場所」「古墳の大きさ」「唐や高句麗の壁画古墳との比較」などのテーマごとにまとめてみることにした。
以前の記事を読み直して、新たに疑問が生じて調べたことなども記そうと思う。

どのようにまとめればいいのかとかなり悩んだし、まだまとまりきっていない点もあるので、途中で記事の順番を入れ替えたり、追記を入れたり、書きなおすこともあるかもしれないが、よろしくお願いします。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」における研究者の発言についてはピンク色で、ウィキペディアなどネットからの引用はブルーで、私の意見などは濃いグレイの文字で示す。


上の動画で来村氏が語っておられる内容については、私は同意できない点もあるのだが、
高松塚・キトラ古墳に描かれている壁画の内容などがよくわかると思うので、張り付けておく。

①飛鳥

高松塚古墳・キトラ古墳は奈良県高市郡明日香村に存在し、発掘調査の結果、両古墳に極彩色の壁画が発見された。
高松塚古墳には四神図、人物群像、星宿図が、キトラ古墳には四神図、十二支像、天文図が描かれていた。
壁画を描いた古墳は九州の装飾古墳などもあるが、九州の装飾古墳は絵のタッチが抽象画のようなものが多いのに対し
高松塚キトラ古墳は繊細で、王朝風を感じさせる画風で注目を集めた。
まずは、その高松塚・キトラ古墳がどのような場所に造られたのかについて見てみようと思う。

明日香村は古代日本の都があったところで、主にこの辺りに都があった時代は飛鳥時代(592年~710年)と呼ばれている。
(飛鳥時代には難波や大津に都が置かれたこともあった。)

552年または538年 仏教公伝 欽明天皇は磯城島金刺宮(奈良県桜井市)に住んでいたと思われる。
         ※欽明天皇の宮として難波祝津宮(大阪市)もでてくる。
587年 丁未の乱。崇仏派・蘇我氏vs廃仏派・物部氏の戦い。蘇我氏が勝利。
592年 推古天皇 豊浦宮に住む。
593年 聖徳太子摂政となる。
603年 推古天皇 小墾田宮に住む。
643年 飛鳥板蓋宮に遷都
645年 乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺。入鹿の父・蘇我蝦夷は自殺。蘇我氏体制を滅ぼす。
    中大兄皇子が政治の実権を握るが、即位せず。中大兄皇子の叔父・孝徳天皇が即位。
    孝徳天皇、難波長柄豊崎宮に遷都    
655年 :斉明天皇(中大兄皇子の母)重祚。
    飛鳥宮に遷都
663年 白村江の戦い 百済の国家復興に助力するも、新羅・唐連合軍に大敗。
667年 近江大津宮 に遷都
668年 天智天皇(中大兄皇子)即位。
672年 天智天皇崩御。
     壬申の乱 大友皇子(天智の子)vs大海人皇子(天智の弟)が皇位をめぐって争う。
    大海人皇子が勝利して即位する。(天武天皇)
    飛鳥浄御原宮に遷都
690年 天武天皇崩御。皇后の鸕野讚良が即位。(持統天皇)
694年 藤原京に遷都
710年 平城京 に遷都

②高松塚キトラ古墳のある高市郡は今来郡だった!

直木孝次郎氏は次のような旨の発言をされている。

・坂上忌寸や檜前忌寸の祖・阿知使主は、応神朝に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡檜前村に住んだ。
高市郡はその子孫と十七県の人夫で満ちて、他制のものは一割~二割程度。/続日本記(直木孝次郎氏)

・「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。/姓氏録逸文)
仁徳朝に郡を建てたことは信じられないが、今来郡の名は「欽明7年紀にも見える)
後に渡来した新漢(いまきのあや)人などの中には今来に住む者も多かったのではないか。(直木孝次郎氏)

また今来という言葉の意味については次のような説明があった。
”■ いまき(今来・新)
・ 「いまき」とは新参という意味。4~5世紀に朝鮮半島から渡来した中国系の人達を一般には「漢人(あやひと)」と呼んだが、5世紀後半以降に渡来した中国系の渡来人を「新漢人(いまきのあやひと・今来漢人)」という。大和国の南部には新漢人が多く住み、かつては今来郡もあった。【出典】
■ 今来(いまき): 大和国吉野郡今来(奈良県吉野郡大淀町今木)、大阪府岸和田市今木町、京都府(旧)宇治市今木。
・ 新しく神が来臨すること。一説として、新しくやってきた渡来人の居住地。
■ 今木(いまき): 奈良県吉野郡大淀町今木、大阪府岸和田市今木町、京都府(旧)宇治市今木。
・ 今木の語源は「新しく来る」、つまり今来。木にしたのは神の降臨にかけている。神が来臨して、新しい居住地を定める。  
・ 今来、今城、新漢(いまき・イマキノアヤの略)などと書いた。今木は新木(いまき)の借字。新来の意味で、渡来人の居住地を意味する。しかし、それ以外にも諸説有り。【奈良の地名由来辞典 池田末則 東京堂出版】”
https://folklore2017.com/timei900/999065.htm より引用
・今来は新来(いまき)であり、新参という意味。
・4~5世紀に朝鮮半島から渡来した中国系の人達は「漢人(あやひと)」
5世紀後半以降に渡来した中国系の渡来人を「新漢人・今来漢人(いまきのあやひと)」と言った。
・大和国の南部には新漢人が多く住み、かつては今来郡もあった。
・大和国吉野郡今来(奈良県吉野郡大淀町今木)、大阪府岸和田市今木町、京都府(旧)宇治市今木などの地名が残る。
・新しく神が来臨すること。一説として、新しくやってきた渡来人の居住地。
・今来は今城、新漢などとも書かれた。
・渡来人の居住地を意味する。

「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」と姓氏録逸文には記されているという。

現在の高市郡は飛鳥村高取町を含む。
古代の高取町について、『和名類聚抄』は以下の郷をあげている。
巨勢・波多・遊部・檜前(比乃久末)・久米・雲梯・賀美

檜前という地名は現在でも明日香村にある。



現在、明日香村に今来や今木という地名が無いので、知らなかったのだが、飛鳥村は古代には今来郡と呼ばれる地域だったのだ。

③蘇我蝦夷と蘇我入鹿の今木の双墓はどこにある?

今木と聞いて思い浮かべるのは、「今木の双墓」である。
「今木の双墓」とは、蘇我蝦夷、入鹿が生前に作らせた二人の墓である。

1734年の大和志には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」と記されており、御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳が今木の双墓ではないかと考えられていた。

しかし水泥古墳・水泥塚穴古墳について、ウィキペディアはつぎのように記している。

”近年では蘇我蝦夷・入鹿の死去に20年先行することが判明しているため否定的である[2]。”
ウィキペディア 水泥古墳 より引用
水泥古墳と水泥塚穴古墳が今木の双墓ではなく、明日香村も今来郡だったのであれば、蘇我蝦夷・入鹿の墓、今木の双墓は明日香村にあるかもしれない。

そう思って調べてみたところ、明日香村にある小山田古墳と菖蒲池古墳が今木の双墓ではないかという説が浮上していた。

”小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか[7]/なめだにのおか[8])」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年)[原 1]に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年)[原 2]に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年)[原 3]に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳)[4]。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される[4]。
一方、本古墳を蘇我蝦夷が生前に築いた「大陵(おおみささぎ)」に比定する説もある[5]。『日本書紀』によれば、蘇我蝦夷は皇極天皇元年(642年)[原 4]に「双墓」を今来に造り、蝦夷の墓を「大陵」、子の入鹿の墓を「小陵」と称したほか、皇極天皇3年(644年)[原 5]に「甘檮岡(甘樫丘)」に邸を建て、皇極天皇4年(645年)[原 6]に滅ぼされて屍は墓に葬られた(乙巳の変)[4]。この蘇我蝦夷の墓に比定する説では、蘇我蝦夷が当時に天皇と並ぶ権勢を誇った大豪族である点、当地が甘樫丘に近い場所である点、西隣の菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」と見なせる点が指摘される[5][4]。”

④檜前は渡来人が住む土地

高松塚古墳は飛鳥地域の中でも、檜前と呼ばれる地域にある。
キトラ古墳については、

”キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。檜前の集落を越えて阿部山に向かう山の中腹にあります。”
キトラ古墳 | 国営飛鳥歴史公園 より引用
とあるので、檜前から少し外れたところにあるようだ。
しかし、古代にはもう少し広い地域が檜前であったかもしれない。

・「倭漢直の祖・阿知使主、その子都加使主、己が党類十七県を率いて来帰す」/応神20年紀
坂上氏や檜前氏が倭漢氏に属することがわかる。(直木孝次郎氏)

これだけではなぜ坂上氏や檜前氏が倭漢氏なのかわからないが、ウィキペディアには次のように記されている。

”『続日本紀』延暦四年(785年)六月の条の坂上大忌寸苅田麻呂によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は後漢霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守の坂上苅田麻呂が述べた[4]。”
ウィキペディア 阿知使主より引用
ここに、「阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守の坂上苅田麻呂」とある。
「東漢」は「やまとのあや」とよみ、「倭漢」とも記される。

”『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)等を連れてきたとある[4]。「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している[5]。
段(古記には段光公とあり、員氏とも) - 高向村主、高向史、高向調使、評(こほり)、首、民使主首の祖。
李 - 刑部史の祖。
皀郭 - 坂合部首、佐大首の祖。
朱 - 小市、佐奈宜の祖。
多 - 檜前非調使の祖。
皀 - 大和国宇太郡佐波多村主、長幡部の祖。
高 - 檜前村主の祖。”
ウィキペディア「阿知使主」 より引用

「七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)等を連れてきた」のは誰なのか、主語がないが、話の流れからして
阿知使主が七姓漢人を連れてきたということだろう。

「多 - 檜前非調使の祖。」とあり、阿知使主が連れてきた七姓漢人のうちの多は、檜前非調使の祖なのだ。

直木氏は「檜前氏は倭漢氏」だとおっしゃるが、『新撰姓氏録』の、この記録からは「檜前氏は倭漢氏」だとは言い切れないように思う。
「檜前氏は倭漢氏の祖・阿知使主が連れてきた」とはいえるだろう。

⑤倭漢氏は中国系?朝鮮系?

・朝鮮系渡来氏族、倭漢氏の本拠地が檜前。(直木孝次郎氏)

直木氏は倭漢氏を朝鮮系渡来民族と書いておられるが、ウィキペディアは「後漢霊帝の曾孫」と書いている。
後漢は中国にあった王朝の名前である。
”『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている漢人(中国から一七県の人々を率いて来日、のち天皇の命で呉(くれ)におもむき、織女、縫女を連れ帰ったという。後漢霊帝の曾孫[2])系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団である。”
ウィキペディア 東漢氏 より引用

”東漢氏は集団の総称とされ、門脇禎二は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」と考えている。また、門脇禎二によると半島系土着民が自ら権威を表すため東漢氏を名乗った場合がほとんどだという[3]。秦氏も同様に秦始皇の苗字は秦氏ではなく、弓月君が渡来した時期、秦国は数百年前に滅んでいる。弓月君は百済か新羅から渡来したが『魏志』東夷伝で「辰韓はその耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。」という耆老の間違った伝世によって中国から新羅はよく秦国の末裔と呼ばれ波多氏は秦氏を名乗るようになった[3]。”
ウィキペディア 東漢氏 より引用

門脇氏は直木氏同様、「半島系土着民が自ら権威を表すため東漢氏を名乗った」とおっしゃっている。

⑥天皇家の勢力は檜前に及んでいた。

・檜前は倭漢氏など朝鮮系渡来者の勢力が強い土地だったと考えられるが、「他姓のものは10に1、2」は「倭漢氏の一族を高市郡司に任用されることを願う文中にあり、誇張があるだろう。(直木孝次郎氏)

・天皇家の勢力は檜前に及んでいた。
6世紀中の宣化檜隅高田皇子という名前で、檜隅蘆入野に都した。
欽明天皇は檜隅坂合陵に葬られた。
皇極・孝徳両天皇の母の吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。檜隅陵は欽明陵だろう。(直木孝次郎氏)

・檜前が東漢氏など帰化人が住んでいた地域というのは、7世紀までではないか。(井上光貞氏)

今来郡は渡来人が住む土地で、その今来郡にある檜前は倭漢氏などの渡来人が多く住んでいたのだが
天皇の勢力も及んでいたということだ。

「日本書紀」によれば第28代・宣化天皇 (467年?- 539年?)は諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)といい、 檜隈廬入野宮に住んでいたとある。
宣化天皇は倭漢氏などの渡来人が多く住む地域に都をつくったということだ。
この檜隈廬入野宮は明日香の檜前にあったのだろう。

また第29代欽明天皇(509年 - 571年)の陵は檜隅坂合陵といった。
檜隅坂合陵も檜前にあったのだろう。
現在、檜隅坂合陵は明日香の梅山古墳に比定されているが、橿原市の見瀬丸山古墳が欽明天皇陵とする説もある。

後に述べるように、直木孝次郎氏も「欽明天皇陵は見瀬丸山古墳」と考えられておられるようだ。

「欽明天皇は檜隅坂合陵に葬られた。
皇極・孝徳両天皇の母の吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。檜隅陵は欽明陵だろう。(直木孝次郎氏)」

と直木氏はおっしゃっているが、直木氏のいう「檜隅陵」とは現在、檜隅坂合陵に治定されている梅山古墳のことではなくて、記紀に「吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。」と記されているが、その「檜隅陵」とは欽明天皇の「檜隅坂合陵」のことだろう、という意味だと考えられる。

現在、欽明天皇陵は梅山古墳に治定され、そのとなりに吉備姫王(皇極・孝徳両天皇の母)の墓とされる古墳がある。
これは、記紀に「吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。」と記述されているのを、「吉備姫王の墓は欽明天皇の檜隅坂合陵檜隅陵の域内にあった。」と解釈し、治定したのだろう。

”一方で、『日本書紀』推古紀に「推古天皇20年(612年)2月20日、皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬し、軽の巷(かるのちまた)に「しのびこと」[3]たてまつる」と見える。この「軽の巷」は当時の下ツ道と阿倍山田道の交点で現在の丈六交差点にあたり、丸山古墳の北側に位置する。堅塩媛は欽明天皇后であり推古天皇の生母でもあることから、改葬の理由を夫婦合葬とすれば、やはり欽明陵であった可能性が出てくることになる。
ウィキペディア「丸山古墳」より引用”

真の欽明陵が見瀬丸山古墳だとすると、その領域内に吉備姫王の墓と考えられる陪塚はあるのだろうか。
調べてみたがわからなかった。


 

吉備姫王墓について、ウィキペディア「宮内庁治定陵墓の一覧」をみると、陵墓名称は桧隈墓とあり、「真陵はカナヅカ古墳か」と記されている。

カナヅカ古墳は上の梅山古墳の地図を拡大すると梅山古墳の東にある。

梅山古墳が欽明天皇の檜隅坂合陵でなく、カナヅカ古墳が吉備姫陵の真陵だとすると、
吉備姫王が葬られた檜前陵の域内は、檜隅坂合陵の域内とは別所ということになる。

そうではあるが、吉備姫王の墓は「檜隅陵の域内にあった。」と記されているので、檜前の地にあったとはいえるだろう。

※倭漢氏と天皇家、蘇我氏の関係についての、門脇禎二氏の考察は、「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」に掲載されており
シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉕下人に落とされた檜前氏
上の記事に、そのメモも記したのだが、読み直してみたところ、わからない点があったので、再度本を確認してから(図書館で再度借りてから)記したいと思う。

⓻檜前の範囲

大字檜前の東南7~800mのところにある栗原は、日本書記14年に「呉人を檜隅野に安置し、因りて呉原と名づく」とある呉原の転訛と考えられる。(直木孝次郎氏)

日本書記によれば、欽明天皇が檜隅坂合陵に葬られたとある。これが檜前の北限。
欽明天皇陵は明日香村霜平田の梅山古墳に比定されているが、見瀬丸山古墳が有力。
天武・持統天皇陵は檜隅大内陵と呼ばれた。
鎌倉時代、盗難にあった際、内部の様子を記した阿不幾乃山陵記によって、檜隅大内陵であることは確実視されている。
(直木孝次郎氏)

・現欽明陵の梅山古墳は近鉄吉野線沿いに吉備姫王墓の東。濠が確認できる。さらにその東に檜隅大内陵の名前がある。
吉備姫王墓のその南東に飛鳥歴史公園館、高松塚古墳があり、先ほどの栗原は高松塚古墳の南。(直木孝次郎氏)

・檜前の西には佐田の丘陵地帯があり万葉集に名前がみえるが檜前という地名がついているものはないので、佐田は檜前ではないだろう。(直木孝次郎氏)

・檜前は明日香村大字栗原・檜前・御園・上平田・中平田・下平田・立部・野口、橿原市の五条野、見瀬あたり。(直木孝次郎氏)

高松塚 女子像2

高松塚古墳 女子群像

虎像

キトラ古墳 寅像





シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊸キトラ古墳被葬者の年齢、忍壁皇子の死亡年齢など※追記あり

シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㊷キトラ天文図・高松塚星宿図の北極星
よりつづきます~

トップページはこちらです。


「歴史秘話ヒストリア:飛鳥美人∸謎の暗号を解けー高松塚古墳の秘密」飛鳥美人」という番組が、2017年5月12日 20:00~20:43 にNHK総合で放映されたそうである。

この番組は見ていないのだが、感想を書いたブログ記事を読ませていただいた。(ありがとうございます。)
今回はこの番組の内容について、考えてみたい。
番組の内容についてはピンク色文字で記す。

①カメラ目線の女性が被葬者を見つめている?

小林泰三氏が高松塚古墳壁画のデジタル復元を行い「カメラ目線の女性」に注目した。
その女性は下の復元図(高松塚壁画館にて撮影)の朱色の衣装の女性である。

高松塚 女子像1

朱色の上着は分の高い人が着ていた可能性がある。そしてこのカメラ目線で朱色の上着の女性は被葬者を見つめているというのだ。

下は高松塚古墳壁画のレイアウト図である。
カメラ目線の女性は東壁の北側に描かれている。

高松塚古墳 レイアウト図

被葬者が北枕であればカメラ目線の女性は被葬者を見つめているといえるかもしれないが、被葬者は南枕だった可能性もある。
そうであればカメラ目線の女性が見つめているのは被葬者の脚ということになってしまう。
当事から脚フェチの人はいただろうが、やはり見つめるとすると、相手の顔や目を見つめるのではないだろうか。

岸俊男氏はつぎのようにおっしゃっている。

高松塚古墳の被葬者の遺骸は棺の金銅製飾り金具が1個石槨内の南壁付近から検出されており、阿武山古墳のケースと同様南枕であったのではないかと考えられるが、もしそうなれば屏繖の下にみえる口髭・顎髭を生やした男子人物像はさきに舎人を率いて先頭の屏繖に立つとされた官人に相当するものと推定され、また円?を持つ女子像もともに東西相対して女子群像の先頭にくることとなり、壁画群像の多くが南の入口の方向に向いていることも相まって、一応壁画全体が無理なく理解できる。(「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」p167より引用)

屏繖とは傘のことである。円?と書いたのは?の部分の漢字を変換することができなかったためである。(すいません)
丸い団扇のようなもの(さしば)の事を言っていると思う。

②高松塚被葬者は40~60代の男性

・骨や歯から推測すると 被葬者は40~60代の男性と推定される。

人骨について、島五郎氏は次の様に発言されているとのこと。

・第3大臼歯(親知らず)は人によってはえる年齢がちがう。
しかし、使用期間が同じであれば減り方は同じになるが、はえた時期がわからなければ被葬者の年齢は特定できない。
減り方は2度で、6年~8年使ったとみられる。
28で生えて8年つかうと36歳ぐらい。30歳代か、それ以上で上限はわからない。

・舌骨は20~30歳では化骨するのが22±13.4%。誤差が22%の13.46%で、数字は数学的にあてにならない。(?)
30~50歳代では67%が化骨する。年寄りは85%が化骨する。若い人は化骨しない。
「20歳、30歳台では硬骨状態で化骨しない。40歳になって化骨し始める。50歳で進行する。」という人もいる。
40歳以上ぐらいで化骨し始める。したがって(高松塚古墳の被葬者は)40歳以上。

・甲状軟骨(のどほとけ)は20代では化骨しない。のどぼとけの一番上の部分が残っているが化骨している。
骨に変わるのは下からなので、かなり広範囲に骨にかわっていた。40歳以上の熟年だろう。

・顎骨が1番から7番までのこっている。

・リショカの結合という背骨の増殖が見られる。これが進むと、変形性脊椎症にって背中が痛くなる。病気ではなく、加齢現象。
19歳で0、20代で10%、30代で40%、40代で80%、50代で90%の人が変形性脊椎症になる。


『創立三五周年記念・橿原考古学研究所論集』昭和48年刊」
「高松塚古墳出土人骨のX線学的研究」(城戸正博・阿部国昭・土井仲悟・玉木正雄)の記述の内容は以下。

・全ての骨に骨萎縮状態がない。
・死直前の慢性消耗性疾患、長期臥床はない。
・何らかの原因による急死の可能性。
・変形性骨変化は加齢によるもので病ではない。
・上部頸椎から中部頸椎、椎体広報部の変化という特殊性から、頸部外傷歴、乗馬の習慣を考慮したい。
・中節指骨の骨皮質の小突起、櫛状突起をみいだすので、年齢は30歳以上。
・年齢上限の判定は決定的所見はなし。
頸椎の変化、四肢関節面での変化、骨端線痕跡像、骨皮質の厚さなどを総合して生理的高齢者は否定できる。足は変形なし。

③人物群は被葬者に打毬をしよう、と誘っている?

・人物群は、石室の外へ被葬者を誘うような動きが表現されていた。
持ち物から、人物像は被葬者に「外に出て打毬をしよう」をさそっているのではないか、という仮説が立てられる。

高松塚古墳 レイアウト図

上のレイアウト図を見ればわかるように、人物は南に向かっている。

打毬はホッケーのような日本の競技のことである。
詳しい説明はウィキペディアにある。

高松塚人物 持ち物
上の図で如意とあるのが打毬に用いる打毬杖に似ているところから、そのような仮説が立てられたのだろう。

私は①で被葬者は南枕の可能性もあるということを記した。
南枕ということは、被葬者は北を向いているのである。
北を向いたとき被葬者に見えるのは男子群像、女子群像であり、被葬者は彼らに対面しているということになる。
そのように考えると、人物像が被葬者に対して「外にでよう」と誘っているとは解釈しづらいと思う。
被葬者と人物群が同じ向きを向いていれば、「外にでよう」と誘っていると解釈できるだろうが。

④縁の蓋は一位の身分を表す。

・養老令には「一位の縁の蓋は深縁で、てっぺんと四隅を錦で覆い、房を垂らす」と記されている。
高松塚古墳から出てきた土器の破片は、年代測定によって「8世紀初めの10年の間(藤原京 694~710年までの16年間)」に作られたものであることが分かった。

土器の破片の年代測定について、どのような測定方法を用いたのか、土器編年法なのか、放射性炭素年代測定法なのか。
もうすこし詳細が知りたい。

⑤694年~710年に死亡した一位の人物は高市皇子と忍壁皇子?

・高松塚出土の土器の破片は、年代測定によって「8世紀初めの10年の間」に作られたもの。

・「8世紀初めの10年の間」は藤原京 694(持統8年)~710(和銅3年)までの16年間に相当する。藤原京 694~710年までの16年間に死亡した人物で、一位の位にあった人物は高市皇子(696没/キトラ古墳被葬者か?)とは忍壁皇子(705年没/高松塚古墳被葬者か?)が考えられる。

猪熊兼勝氏「高市皇子や忍壁皇子は皇子だからこそ四神に囲まれた壁画古墳に葬られたのだろう」

天武天皇の皇子のうち、694~710年の間になくなった人物を赤で示し、官位を記してみよう。

草壁皇子(662年 - 689年)
大津皇子(663年 - 686年) ?
長皇子(? - 715年)
弓削皇子(? - 699年) 浄広弐
舎人親王(676年 - 735年) 
新田部親王(? - 735年) 
穂積皇子(? - 715年)
高市皇子(654年 - 696年)太政大臣
忍壁皇子(? - 705年)三品知太政官事(太政大臣)
磯城皇子(? - ?)

694~710年の間になくなったのは、弓削、高市、忍壁の3人である。
高市の死亡年齢は42歳である。

弓削は27歳ごろ亡くなったと考えられている。
寺西貞弘氏は、弓削皇子の生年を673年とされている。
その理由は
弓削皇子は693年に浄広弐に叙せられている。
蔭位の制では、有る身分にある子孫は21歳で位階が与えられることになっていた。
つまり、693年、弓削皇子は21歳だった可能性が高い。
そして弓削皇子はその6年後の699年になくなっている。
ここから弓削皇子が亡くなったのは27歳ごろと考えられているのだ。

しかし、高松塚被葬者は40~60代の男性と鑑定されているので、弓削皇子を高松塚の被葬者候補から外したのだろう。

キトラ古墳の被葬者の年齢については、こちらの記事に説明がある。(いつ書かれた記事なのかがわからない。)
http://www.asahi.com/special/kitora/OSK200503100051.html#:~:text=%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E6%98%8E%E6%97%A5%E9%A6%99%E6%9D%91%E3%81%AE,%E9%AB%98%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82

奈良文化財研究所が石室にたまった土砂の中から約100片の人骨と、23本の歯を発見し、片山一道・京大大学院教授(自然人類学)が歯と骨を鑑定した。

・骨はすねの部分の破片1点。あとはすべて頭骨。
・重複する部分はなく、被葬者は1人。
・目の付近の骨が丸みを帯び、耳の後ろの骨が凸凹して頑丈なことなど男性の特徴が目立つ。
頭骨は全体にがっちりしており、骨太の印象があるという。身長は推定できなかった。
・歯は全体に大きめで、すり減り方や奥歯の根元に付着した石灰、頭骨の状態などから、50代の可能性が高い。
右上の奥歯1本はかなりひどい虫歯だった。

どのように鑑定したのかなど、もっと詳しいことを知りたいが、とりあえずこの結果を正しいとすると、キトラ古墳の被葬者からも弓削皇子は省かれる。

⑥忍壁皇子の死亡年齢は43歳前後?

忍壁皇子の死亡年齢は不明であるが、何とか推定できないだろうか。

672年 壬申の乱。父・天武天皇が吉野から東国に赴いた際に草壁とともに付き従う。
674年 石上神宮に派遣され、膏油で神宝の武器を磨く。
679年 天智・天武両天皇の諸皇子とともに吉野宮に参集し、戦渦を起こさないことを誓約(吉野の盟約)
681年 川島皇子、三野王、忌部子首、中臣大島らと共に、「帝紀および上古諸事」の記録校定事業に取り組む。
685年 冠位四十八階の制定に伴い浄大参に叙せられる。
686年 7月に落雷により民部省の蔵庸舎屋で火災が発生、忍壁皇子の宮殿の失火が延焼したか。
696年 高市皇子死亡。忍壁皇子は天武天皇の諸皇子の中で最年長となり皇族の代表的存在になる。
700年 6月、藤原不比等らと大宝律令の選定を命じられる。
701年 8月、大宝律令完成させた。大宝令による位階制の導入により三品に叙せられる。
702年 12月に持統上皇が崩御。
703年 正月、二品の位階にあった異母弟の長親王・舎人親王・穂積親王らを押しのけて知太政官事に就任。太政官の統括者に。
705年 5月7日薨去。

「696年 高市皇子死亡。忍壁皇子は天武天皇の諸皇子の中で最年長」とある。

草壁皇子(662年 - 689年)
大津皇子(663年 - 686年) ?
長皇子(? - 715年)
弓削皇子(? - 699年) 浄広弐・・・・672-699?
舎人親王(676年 - 735年) 
新田部親王(? - 735年) 
穂積皇子(? - 715年)
高市皇子(654年 - 696年)太政大臣
忍壁皇子(? - 705年)三品知太政官事(太政大臣)
磯城皇子(? - ?)

高市は654年の生まれなので、忍壁は654年かそれ以降の生まれとなる。
生年が確認できるのは、

草壁皇子(662年 - 689年)
大津皇子(663年 - 686年)
弓削皇子(672年-699年?)のみ。

高市が死亡したのは696年なので、このときすでに草壁、大津は死亡しているので省き、弓削皇子のみが残る。
すると忍壁皇子の生年は654年~672年となる。
忍壁皇子が死亡したのは 705年なので、死亡年齢は33歳~51歳となるが、これでは年齢の幅が広すぎる。

母親の宍人カジ媛娘の生年がわかれば、もうすこし年齢を絞れるかもしれないが、宍人カジ媛娘の生年は不明である。
宍人カジ媛娘が天武天皇の後宮に入ったのは673年以降とウィキペディアにはある。
忍壁は母親の宍人カジ媛娘が後宮に入った673年以降に生まれたと考えると、672年生まれと考えられる弓削よりも年下ということになってしまう。
これでは「696年 高市皇子死亡。忍壁皇子は天武天皇の諸皇子の中で最年長」という記述と合わなくなってしまう。


上のブログの方は、「681年の「帝紀および上古諸事」の記録校定事業に取り組む。」を忍壁皇子の初仕事であり、これを他の皇子同様に20歳の出来事としたとされている。
本当に初仕事は20歳なのか、確認してみよう。

草壁皇子(662年 - 689年)681年、立太子・・・19歳。
             686年、天武天皇から母と共に大権を委任される。・・・24歳

大津皇子(663年 - 686年) 683年、朝廷の政治に参加・・・20歳

長皇子(? - 715年)
弓削皇子(672? - 699年)  693年、同母兄の長皇子と同時に浄広弐に叙せられる・・・21歳
舎人親王(676年 - 735年) 695年、浄広弐・・・19歳
新田部親王(? - 735年)
穂積皇子(? - 715年)
高市皇子(654年 - 696年)672年、壬申の乱で活躍・・・18歳
忍壁皇子(? - 705年)三品知太政官事(太政大臣)
磯城皇子(? - ?)

たしかに天武天皇の皇子は20歳前後で初仕事をしていそうだ。

忍壁皇子の初仕事が『681年の「帝紀および上古諸事」の記録校定事業に取り組む』であり、681年に忍壁皇子が20歳であったとすれば、彼は661年の生まれとなる。

ブログ記事は忍壁皇子の年齢を草壁皇子と同じ662年とされている。
まあ、妥当な考えであるように思える。
すると忍壁皇子は705年に亡くなっているので、43歳前後となる。


上の記事ではキトラ古墳の被葬者は50歳代の可能性が高いとしていて、忍壁皇子は若干年齢が若すぎるように思える。

追記/勘違いしていた。すいません。忍壁皇子は高松塚古墳の被葬者ではないかという話だった。(汗)
高松塚古墳の被葬者は40~60代ということなので、ぎりぎりセーフであてはまるだろうか?


⓻皇子だから四神を描くとはいえない。

NHKの番組では、忍壁皇子=高松塚古墳被葬者、高市皇子=キトラ古墳被葬者とし、四神を描いたのは皇子だからだとする。

しかし、本当に四神を描いたのは皇子だからといえるだろうか。

宮内庁管理下の陵墓は発掘調査ができないことが、歴史研究を妨げている。
そうではあるが、考古学的に天皇陵や皇子陵と考えられているが、宮内庁に治定されていないものがあり、そのうち
中尾山古墳は文武天皇(683ー 707年)陵、束明神古墳は草壁皇子の墓、マルコ山古墳は川島皇子の墓と考えられている。
これらの古墳は発掘調査が行われたが、壁画は発見されなかった。

また竹原古墳(福岡県/6世紀後半ごろ)にも四神のうち、青龍、朱雀、玄武が描かれている。


竹原古墳は天皇の皇子を祀ったものなのか?と問われると、そうとはいえないだろう。
上の動画のナレーションでも、「3:56 大陸から渡ってきた騎馬民族のようにも見えます」と言っている。

高松塚・キトラ古墳の被葬者は天皇の皇子であると限定できない。
たとえば渡来系の人物ではないか、のように考えて見る必要があるのではないか。

⑧高松塚古墳は朝賀の儀式を描いたもの?

・朝賀に於ける女子の持ち物は「圓翳・如意・蠅拂」、男子の持ち物は「太刀・屏繖・桙・杖」である。

・忍壁皇子が葬られている高松塚古墳に、大宝元年の朝賀儀式が描かれた。

大宝元年は701年である。
高松塚・キトラの被葬者候補の高市(654年 - 696年、忍壁(? - 705年)のうち、高市は大宝元年には生存していなかった。
そのため、朝賀の儀式が描かれていないキトラの被葬者を高市皇子、朝賀の儀式が描かれている高松塚の被葬者を忍壁皇子と考えたのだろう。

しかし、④で述べたように四神を描いたのは天皇の皇子だから、とはいえないと思うので、高松塚が朝賀の儀式を描いたものだとしても、もう少し被葬者の幅を広げてみる必要がありそうに思える。

深緑色の傘は一位を描くものだということだった。
藤原京の時代、一位であった人間は皇子以外にはいないのか。
また、大宝元年以外の朝賀を描いたものである可能性はないのか。

⑨海獣葡萄鏡が遣唐使によって698年以降に日本に持ち込まれたとは断定できない。

高松塚古墳で出土した海獣葡萄鏡が698年に亡くなった唐の高官の墓から出土したものと同じ窯で焼かれたものと判明したため、高松塚古墳の鏡は704年の遣唐使によって持ち帰られたものであるということから、高松塚古墳の被葬者としては705年に逝去した忍壁皇子が有力になっている。

698年に亡くなった唐の高官とは独孤思貞である。
墓誌にそのような内容が記されていたとのことである。
しかし698年とはあくまで独孤思貞の死亡年であり、海獣葡萄鏡の製作年ではない。
極端な話をすれば、100年前に製作された海獣葡萄経を698年に副葬品として独孤思貞の墓に治めたということも考えられる。

高松塚出土の海獣葡萄鏡が、独孤思貞墓出土と同型ということは、高松塚出土のものは唐で作られたものと考えられるが、
遣唐使によって698年以降に日本に持ち込まれたとは断定できないのである。
唐ではなく、朝鮮から日本に持ち込まれた可能性もある。

⓾高市皇子はキトラ古墳のある今木郡ではなく広瀬郡に葬られた。

高市皇子の墓は大和国広瀬郡の三立岡に葬られたという記録がある。
広瀬郡とは、現在の北葛城郡広陵町・河合町付近と考えられている。

高松塚・キトラ古墳は昔は今木郡と呼ばれる場所にあり、ここを高市皇子の墓とすると記録と異なってしまう。

天皇や皇族の墓の記録は間違っている可能性はある。
しかし、天皇や皇族などの宮内庁管理下にある古墳は発掘調査ができないので、記録が間違っているかどうかは確認できていない。

キトラ古墳の被葬者を高市皇子と推理するのはいいのだが、記録ではキトラ古墳野ある今木郡広瀬郡になっていることには言及するべきだ。

放送のメモにはそのようなことは記されていないが、放送ではそれについて言及されたのだろうか。






シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊷ キトラ天文図・高松塚星宿図の北極星



よりつづきます~

トップページはこちらです。

①北極五星は、こぐま座γ星・β星・5番星・4番星と、きりん座のΣ1694

上の「なぶんけんブログ」の記事には、次のような内容が記されている。

・ キトラ天文図は、図の中央が天の北極。そこには『北極』という名の中国星座(星宿)が描かれている。
※星宿名の北極は『北極』と記す。

キトラ古墳 天文図

・684年『晋書』天文志・・・北方にみえる星の中でもっとも尊い星座。帝王・皇太子・庶子の星を含む。

・『宋史』天文志・・・「北極」の5星は、帝・后(きさき)・妃(ひ)・太子・庶子。

・『北極』は、『晋書』天文志以降、清代に至るまで「5つの星からなる」とされている。

・現代の星座では、北極点から遠い順に、こぐま座のγ(ガンマ)星・β星・5番星・4番星と、きりん座のΣ(シグマ)1694という5星に比定されている。

・「帝星」は、5星のうち、こぐま座β星(コカブ)

キトラ北極

ブログ主がへたくそな図を描いてみた。↑

北極という星宿は、「北極点から遠い順に、こぐま座のγ(ガンマ)星・β星・5番星・4番星と、きりん座のΣ(シグマ)1694に比定される」ということだが、
ここでいう北極点とは、キトラ天文図が示す時代の「天の北極」ではなく、現在の「天の北極」という意味だと思われる。
(地球は歳差運動といってコマがふれるように自転軸が動いているため、時代によって天の北極や、北極星が変わる。)

歳差
北極点がどのように変化するのかは、下記リンク先図に示されている。

現在の北極点は、こぐま座α(ポラリス)に近い点にあり、このポラリスが北極星とされている。

「こぐま座5番星・こぐま座4番星・きりん座Σ1694」の位置はわからなかった。
これらの星はかなり暗い星であるらしい。
きりん座Σ1694はきりん座の頭部にあるということである。
上の図では、きりん座の上部が頭部になる。

上の図で示した「こぐま座γ星・β星」をつなぐ線を下に伸ばしたところに「こぐま座5番星・4番星、きりん座のΣ1694」があるのだろう。(正確な位置ではないが、仮にで示した。)

・β星(コカブ)は、現在の北極星=こぐま座α星(ポラリス)のひとつ前に、天の北極にもっとも近かった星。


リンク先の円は時代による北極点だろう。
その円の上にある+2000、0、-2000などの数字は西暦を表しているのだと思う。
現在は2023年だが、そのあたりを見るとこぐま座があり、こぐま座の柄の先端が北極点を示す円に近い。
このこぐま座の柄の先端の星はポラリス(現在の北極星)である。

「β星は、現在の北極星=こぐま座α星(ポラリス)のひとつ前に、天の北極にもっとも近かった星」とあるが、
リンク先の図を見ると、β星がもっとも天の北極に近かったのは紀元前1000年から1500年ぐらいに見える。
中国の王朝でいえば、商(紀元前1600年? - 紀元前1046年?)、周(紀元前1046年 - 紀元前249年)当たりの北極星が、こぐま座β星ということだろうか。

これについては後述する。

②キトラ天文図には附属星座がくっついている?

・キトラ天文図の星座「北極」は、星の数や星座の形状などが通常の「北極」と異なる。

・キトラ天文図の「北極」の星の数は、5星ではなく、6星。
星座の形も実際の星の配列とはちがっている。
特に、左下の1星の位置に大きなずれがある。

附属星座?

・キトラ天文図の北極は、1つの星座ではなく、5星からなる星座と1星からなる星座のふたつの星座がくっついているのか。

・中国星座には、独立星座と附属星座がある。
キトラ天文図では、附属星座が親となっている星座と朱線で結ばれるものがいくつか存在する。
例/「北斗と輔(ほ)」、「畢宿(ひつしゅく)と附耳(ふじ)」、「軫宿(しんしゅく)と左轄(さかつ)」)。
これらの附属星座は、いずれも1星。

・ キトラ天文図の「北極」が2つの星座からなるとした場合、附属していると考えられるのは、配置から考えて、左下の1星。
候補は天一(てんいつ)、太一(たいいつ)、陰徳、陽徳など。

https://arthistorystrolls.com/2021/02/09/%E5%8C%97%E6%96%97%E7%9A%84%E7%94%9F%E6%AD%BB%E8%A1%A8%E8%B1%A1%EF%BC%88%E4%B8%8B%EF%BC%89/
リンク先、長川市1号墳壁画の図を見ると、北斗七星が8星になっている。
キトラ天文図の北斗七星の附属星座とは位置がちがうが、長川市1号墳の北斗七星が8星なのは、附属星座なのかもしれない。

長川1号墳 附属星座?

③キトラ天文図の帝星はこぐま座β星だが、これは北極星ではないと思う。

中国南宋で造られた淳祐天文図など・・・「北極」は、図の中心から左へのびており、天帝は、中心から4番目の星。

帝星の位置

・キトラ天文図では、図の中心は矢印の部分で、そこから4番目の星は、第2図で赤丸を付した星(=こぐま座β星)

「キトラ天文図に描かれた古代の北極星(=帝星)を探してみましょう。」と記事にはある。
これを読むと、帝星がこの天文図が描かれた時代の北極星を示しているように思えるが、そうではないと思う。

というのは、図の中心が天の北極になると思うので、そうすると、帝星より天の北極に近い星が3つもあることになる。

現代の星座では、天の北極点から遠い順に、こぐま座のγ(ガンマ)星・β星・5番星・4番星と、きりん座のΣ(シグマ)1694という5星に比定されているのだった。
すると、こぐま座5番星・こぐま座4番星・きりん座のΣ1694のほうが、天の北極に近いということになる。

能田忠亮氏は次のようにおっしゃっている。

・北極五星は太子・帝・諸子・妃宮・紐星
このうちの帝星(子熊坐β星)が天の北極に最も近かったのは周初のころ。(紀元前1100年ごろ)
・紐星付近が北極とみられ、高松塚の二十八宿図は漢代以降のものだろう。

北極五星は「帝・后・妃・太子・庶子」ということだったが、能田氏は「太子・帝・諸子・妃宮・紐星」とおっしゃっている。

すると后が紐星ということだろうか。
そしてこの紐星が高松塚古墳壁画の星宿図における「天の北極に近い星」ということである。
キトラ天文図は高松塚星宿図と同時代の星空を描いたものだとすると、キトラ天文図で最も北極に近い星(北極星/天の北極に最も近い輝星)は后(紐星)ということになりそうである。

そこでキトラ天文図と高松塚星宿図に描かれた星宿を比べてみたが、高松塚星宿図に描かれた星宿名は、すべてキトラ天文図の中にもあり、方位もほぼ同じだった。

④星宿図に北斗七星が描かれないのは異常といえるか?


こちらの記事でも古代星宿の同定が記されていた。

1 北極 1 7β UMi
2 北極 2 13γ UMi
3 北極 3 5a UMi
4 北極 4 4 UMi
5 北極 5 Cam
6 四輔 1 Cam
7 四輔 2 Cam
8 四輔 3 Cam
9 四輔 4 Cam

Camとあるのは、きりん座である。

そこでウィキペディア・きりん座を調べて見ると、次のようにあった。

北極の隣の星官「四輔」にはHD 89571とHD 90089が配された。

高松塚古墳 星宿図

上は高松塚古墳の星宿図である。
ここに北極・四輔と記されているが、北極はこぐま座の一部、四輔はきりん座の一部ということになる。

ここで、私が四輔がどの星に同定されるのかについて知りたかった理由について記しておこう。
キトラ古墳天文図には北極の側に輔とあり、輔の側に北斗(北斗七星)が描かれている。
高松塚古墳には北斗は描かれているが、北斗はなく、そのかわりに四輔があるので、
もしかしたら四輔とは北斗七星の器部分のことではないか、と思った。

しかし、四輔はきりん座という事であれば北斗七星ではない。

以前の記事と重複するが、書いておこう。

高松塚の星宿図には北斗七星が描かれていないと梅原猛氏はおっしゃっていた。
しかし、画像検索してみると、北斗七星の描かれていない星宿図は他にもみつかる。

星宿図に北斗七星を描く場合は、下記リンク先のように中央部に描くのだと思う。

しかし、こちらの記事、https://yamauo1945.sakura.ne.jp/28shuku.html
図7 二十八宿の天上表現(HP4)は高松塚と同じように、中央部は四輔と北極になっている。
記事には「よく古墳の天井に描かれているものである。」とあるので、高松塚の星宿図を参考にして描いた星宿図かもしれない。

しかし、同様の図はこちらの記事にもある。
自動翻訳して読むと、二十八宿の説明のようで、高松塚という名前はでてこない。

トルファン・アスターナ古墳で発見された星宿図には、四輔と北極も描かれていない。


リンク先35ページの「安岳1号墳天井壁画展開図」をみてみよう。
この図は上が北、下が南、向かって右が東、向かって左が西になっている。
星宿のようなものが描かれているが、天球図は上が北、下が南、向かって右が西、向かって左が東である。
地図は地面を上から見下ろし、天球図は地面から天球を見上げるので東西が逆になるのだ。
ということは、35ページの図は上から古墳を見下ろした図ということになる。
天井部分、北に描かれているのは北斗七星だろうか。こぐま座のようにも見える。

通常こぐま座は下の図のように線で結ばれるが

北斗七星 こぐま座②

↓ このように結べば、35ページの北側天井部分の星宿と同じような形になる。

北斗七星 こぐま座

北斗七星は35ページの星宿とは柄杓の向きが逆である。

これが正しければ、安岳1号墳天井壁画にはこぐま座は描かれているが、北斗七星は描かれていないということになる。

結論としては、梅原猛氏は「北斗七星が描かれない高松塚星宿図は異常」だというが、そう言い切るためにはもっと多くの資料が必要ということになると思う。

能田忠亮氏は次のようにおっしゃっていた。

・高松塚星宿図は朝鮮を経て日本に渡来したもの。

・553年6月、内臣を朝鮮につかわし、医・易・暦の博士をかわるがわる来朝させるよう詔されたので、その翌年に易博士王道良、欲々年には暦博士王保存などが来朝した。

・602年、百済僧観勒が来朝し、暦本、天文、地理書、遁甲方術書を貢した。
書生、3~4人に命じて観勒にまなばせた。
陽胡史の祖・玉陳が暦法を習得、大友村主高惚が天文遁甲を学び、山背臣日立が方術を学んだ。

・604年甲子の年の正月朔から初めて暦日を用いた。

・日本で歴法施行が決定したことが国史に登場するのは、690年。

・被葬者は推古天皇~持統天皇代にかけての天文博士、暦博士、易博士のいずれか、またこれらの博士たちを支配した地位の高い人。

・北極五星は太子・帝・諸子・妃宮・紐星
このうちの帝星(こぐま座β星)が天の北極に最も近かったのは周初のころ。(紀元前1100年ごろ)


「①北極五星は、こぐま座γ星・β星・5番星・4番星と、きりん座のΣ1694」でも述べたように、上の図を見ると、こぐま座β星が最も天の北極に近かったのは、たしかに紀元前1500年から紀元前1500年頃に見える。

・觜宿 参宿 の位置が正しいのであれば明代で、未来を予想したことになる。

これについては、意味がわからないので、宿題とさせていただく。

・紐星付近が北極とみられ、高松塚の二十八宿図は漢代以降のものだろう。
へつづきます~

お知らせ


いま、「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。』シリーズのまとめ作業をやっております。
少し時間がかかるかもしれません。
宜しくお願いします。


「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」のスクリーンで上映されていた動画を練習用に編集してみました。(撮影可)


スクリーンに縦横の線が入っているので、位置合わせに時間がかかったわりに

線が微妙に動いたり、ぶれたりしています😅。

自動で位置合わせできたらいいのになーっと思います。

失敗作ですが、はりつけておきます。



[ 2023/12/04 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㊶薬水里古墳・白虎の縞模様が高松塚・キトラにそっくり。


トップページはこちらです。→ ①天智・天武・額田王は三角関係?

「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。

肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。

㉑薬水里壁画古墳/白虎の縞模様が高松塚・キトラにそっくり。

・4世紀末から5世紀初

・墓室は丘陵を削った半地下にある。
羨道、前室、前室東西に龕(仏教の信仰の厚い人だったのだろう。)
龕とは仏像や経典を治める場所

・前室から玄室に入る通路、玄室
天井は穹窿三角持ち送り式
前室床に祭壇 別の場所の床には棺台
羨道入口、前室から玄室に渡る通路入口には門

・前室の西壁と南壁に狩猟図 鹿・猪・寅を追う狩人、短弓

・前室の東壁と南壁に被葬者を中心にした行列図。

・玄室西壁に月像と白虎
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」141ページに描かれている白虎を見て驚いた。
全浩天氏は何故か指摘されていないが、これは高松塚、キトラ古墳の白虎に似ている、と私は思った。

残念ながらネットに薬水里古墳の白虎の画像が見つからなかったので、稚拙ではあるが本を見て自分で模写してみた。
模写とはいうが、全く実物には似ていない出来になってしまっている(汗)点に注意して、薬水里、高松塚、キトラの白虎を比較してみてほしい。

白虎

ブログ主による薬水里古墳・白虎の模写

白虎

高松塚古墳 白虎

白虎

キトラ古墳 白虎

高松塚・キトラの白虎の様な三本指と爪、後方になびく顎髭、などは薬水里古墳の白虎にはない。
そうではあるが、首の曲がり方、前方に向けた前脚、そして何よりトラ模様の描き方がとてもよく似ている。

・玄室南側通路入口の上に昴と朱雀
高句麗壁画に描かれる朱雀の発展過程に示される一つの形姿

「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」144ページにその写真があるが、これも全浩天氏は指摘されていないが、「キトラ古墳の朱雀に似ている」と私は思った。

小さく手分かりにくいかもしれないが、リンク先8ページ 2薬水里古墳に写真がある。

朱雀

キトラ古墳 朱雀

薬水里の朱雀は、キトラ古墳野物とは向きが逆になっているほか、頭の上のとさかのようなものが6本伸びているなどキトラの朱雀とは違う。
絵のタッチもキトラの物の方が洗練されている。
しかし、羽根より尾の方が長い姿、横に広い構図などよく似ている。

もっとも三室塚古墳の朱雀の方が、よりキトラの朱雀に似ているかもしれないが。
「キトラ古墳の朱雀 高句麗時代の三室塚に酷似 (東京新聞 4月5日) 」のところに写真あり。

・他の高句麗古墳も同じだが、前室に被葬者が生前心に残った情景が描かれた。

・羨道入口東側部分の南壁・・・門衛武士
東側・・・台所、精米所
西南壁・・・狩猟図、その下に牛舎、馬、馬子
※旧暦3月3日、平壌楽浪の丘陵で国家的な狩猟競技が行われていた。
柱と枓栱 その上部に四神図と人物
上部北壁・・・被葬者夫婦の室内生活と玄武
東壁・・・青龍と太陽
西壁・・・白虎と月
南壁・・・朱雀
北壁・・・北斗七星

被葬者夫婦と玄武はこちらに写真がある。http://avantdoublier.blogspot.com/2012/07/blog-post_13.html
この玄武は翼が生えているようにもみえ、蛇が亀の首に巻き着いている。
高松塚、キトラの玄武には翼は生えていないし、蛇は亀の首に巻き付いてはいない。

また薬水里の玄武は亀の頭が前向きで、その亀の顔に対面するように蛇の頭が描かれているが、
高松塚、キトラの玄武は亀が後ろを振り返り、その亀の顔に対面するように蛇の頭が描かれている。

薬水里の白虎は高松塚・キトラに、薬水里の朱雀はキトラに(高松塚には朱雀は描かれていないので)似ているが
薬水里の玄武は高松塚・キトラの玄武とは似ていない。

玄武

高松塚 玄武

玄武

キトラ 玄武

・壁画を描かず龕を持つ古墳→龕を持つ壁画古墳→人物風俗四神を描く古墳
と高句麗壁画古墳は変遷している。


㉒水山里壁画古墳/男子像の髪型は「みずら」?

・5世紀後半の単室墓

・墳丘は方台形

・壁画は平和な暮らしを描き、徳興里古墳のような狩猟シーンは描かれない。

※徳徳興里古墳についてはこちら↓の記事の⑮⑰に記した。


2:26 玄室入口(門)門衛
2:49 北壁 墓主、墓主夫人
3:30 北壁 女子群像
3:38 北壁 男子群像
3:49 屋根を支える力士(西域の人か)
4:52 東壁 向かい合う2人の人 鼓吹楽隊
5:52 南壁 日傘をさす男たち
6:27 西壁 夫妻が曲芸見物しながら行列する
7:39 西壁 曲芸師

・西壁 婦人像

※全浩天氏は南壁に夫人像が描かれていると書いておられるが、上の動画では南壁に描かれているのは傘をさす男子像である。
その後、西壁ともあるので、おそらく最初に出てくる南壁とは西壁のまちがいと思われる。

腰に布・玄室上段に描かれた王妃は高松塚壁画古墳の夫人像の原型と言われる。

これは『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天』の表紙にも用いられている。↓

高松塚 女子像2

高松塚古墳 女子群像

・竹馬の乗る曲芸師の髪型はみずら

上の動画7:39当たりに曲芸師の絵が登場する。
その内の向かって右が竹馬に乗っているが、そういわれてみれば、みずらのようにもみえる。

聖徳太子とも推定されるが描かれた肖像画『唐本御影』

左右の少年の髪型が「みずら」

㉓双楹塚/双楹塚とキトラ古墳の朱雀は似ている。

・5世紀末

・ニ室墓
羨道、前室、玄室からなる。
前室から玄室に入る通路の左右に八角柱(双楹塚の楹は柱という意味)


・前室と玄室の壁には柱、桁、梁が描かれる。

・天井は平行三角持ち送り式。
三本足の烏(太陽を表す)、ヒキガエル(月を表す)、鳳凰、雲文、蓮花文、提灯文
https://core.ac.uk/download/pdf/196742704.pdf リンク先10ページに三本足の烏の写真がある。

・朱雀は駆け終えながら飛ぼうとしている。

『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天』161ページに朱雀の写真があるが、これもキトラ古墳の朱雀によく似ている。
https://core.ac.uk/download/pdf/196742704.pdf リンク先8ページ4双楹塚に小さい写真ならある。

・前室
入口の左右の壁には力士
東壁に青龍、西壁に白虎、南壁には人物

上記記事、15ページ図7 後室北壁 
     16ページ写真5 前室天井持ち送り

㉔龍崗大墓/壁穴孔がある壁画古墳

・5世紀中ごろ

・高句麗壁画古墳の中でも構造が独特で規模が大きい。

・羨道・前室・玄室・通路の両脇に壁穴孔がある石室封土墳

・漆喰の上に壁画を描く

・漆喰は剥落していて内容がよくわからない。人物、城郭、雲文、日炎文、柱,、枓栱などが確認できる。

・前室後方の壁、通路の両側の壁穴が龕(仏像や経典を治める場所)になっている。

※残念ながらネットに画像は見つからなかった。

㉕安岳1号墳/安岳1号墳の天馬は法隆寺金堂天蓋の鳳凰に似ている?

・4世紀末

・墳丘は方台形 羨道と玄室 天井は平行持ち送り式で3.4m

・天井には太陽、月、星、雲文、炎門、蓮花文 鋸歯文、奇妙な動物や獣

リンク先35ページに図あり。

・玄室西側 鳳凰
法隆寺金堂・天蓋は3個で、それらの天蓋の側面の板には鳥型の彫刻(鳳凰)が14個とりつけられていた痕跡が残されている。(現在は14個ないということだろう。)


松本清張氏の主張
「イラン・アケメネス朝(前700~前330)の応急あとのペルセポリスの柱頭飾りにある双頭の鷲は神聖化されたグリフィン(空想的霊獣、霊鳥)が日本に来て法隆寺金堂天蓋の鳳凰になった。」
「クチバシの形が似ている。」
「翼の先が巻き上がっているところはペルセポリスのクセルクセス神殿入口にある有翼人頭牡牛の翼の形」
しかし全体像は似ておらず、部分的にわずかに似ている。
安岳1号墳西壁の獣の方が、法隆寺金堂天蓋の鳳凰に似ている。
安岳1号墳の聖獣は鳳凰の形をした天馬である。

https://4travel.jp/travelogue/10238737(クセルクセス神殿入口にある有翼人頭牡牛)
たしかにこれは翼の形がわずかに似ているだけで、全体像は似ているとはいえないと思う。

リンク先35ページ、安岳1号墳の西壁には鳳凰とも天馬ともいえるような聖獣が描かれており、前脚の形は法隆寺の鳳凰と似ているように思われる。
また法隆寺の鳳凰は翼の下に脚のようにも見える棒状のものがあり、これが安岳1号墳の天馬の脚に似ているようでもある。
翼の形なども、安岳1号墳のものは翼の先が法隆寺鳳凰ほど巻き上がっていないが、似ている。

・北壁・・・殿閣図
西壁・・・女子群像、狩猟図
東壁、南壁・・・行列図

漆喰の上宮廷の楼閣を描く。柱、枓栱、桁

リンク先35ページの「安岳1号墳天井壁画展開図」をみてみよう。
この図は上が北、下が南、向かって右が東、向かって左が西になっている。
星宿のようなものが描かれているが、天球図は上が北、下が南、向かって右が西、向かって左が東である。
地図は地面を上から見下ろし、天球図は地面から天球を見上げるので東西が逆になるのだ。

ということは、35ページの図は上から古墳を見下ろした図ということになる。

天井部分、北に描かれているのは北斗七星だろうか。こぐま座のようにも見える。

通常こぐま座は下の図のように線で結ばれるが

北斗七星 こぐま座②

↓ このように結べば、35ページの北側天井部分の星宿と同じような形になる。

北斗七星 こぐま座

北斗七星は35ページの星宿とは柄杓の向きが逆である。

↑ こちらのページの「図7 二十八宿の天上表現(HP4)」に二十八宿の図がある。
こぐま座の柄杓の柄の先は現在の北極星である。
ということは「図7 二十八宿の天上表現(HP4)」の北極、四輔に該当するかもしれないが、星の数があわない。
二十八宿とは異なる星宿があったのだろうか。

東壁に描かれている星宿は『心』だろうか。西壁の星宿はわからない。

「安岳1号墳天井壁画展開図」をみると、日・月・四神は描かれておらず、鳳凰、天馬、魚が描かれている。
このうちの鳳凰は横長の構図、長い尾などキトラ古墳の朱雀に似ていると思う。

朱雀

㉖安岳2号墳

・5世紀末から6世紀初

・羨道は玄室の南の東によった片袖式

・玄室の入り口に二重の石扉が設けられていた痕跡

・持ち送り式天井の石の段に蓮華文、火炎文、法輪文


・玄室と玄室東壁に設置された龕(原文まま)
被葬者は経験な仏教徒だろう。
372年、高句麗に仏教が伝来。
375年、肖門寺建立
393年、平壌に9つの寺が建立された。

・東壁上部に大きく描かれた梁の下に2人の飛天、チマ(朝鮮式ロングスカート)を着用した夫人像

・羨道両側の壁には門衛、入り口上に飛天、東壁には蓮花をまく人物と飛天、西壁には女人と子供の群像、北壁には墓主の室内生活

※残念ながらネットに画像などは見つからなかった。

㉗安岳3号墳


2:30 羨道 騎乗隊
2:44 前室 傘 旗を持つ人
2:59 前室 角笛 太鼓
3:08 前室 斧を持つ人
3:22 前室 天井
4:07 前室 墨書
4:31 西脇室 墓主
5:01 西脇室 夫人
5:24 西脇室 門衛
5:36 西脇室 天井
5:54 東脇室入口 手縛(相撲)
5:56 東脇室入口 斧を持つ人
6:39 東脇室 精米所 穀物をふるう人
6:49 東脇室 井戸
6:58 東脇室 台所
7:25 東脇室 肉庫 車庫
7:46 東脇室 牛舎
8:00 東脇室 厩
8:30 玄室 楽隊 踊る人(西域の人)
8:40 玄室 天井
8:56 回廊 建物
9:01 回廊 行列図(250人)

・4:07 前室 墨書
『冬寿は「使持節」「平東将軍」「護撫夷校尉」などの官位を経て、永和13年(357年)10月26日に69歳で死んだ』
とある。
『資治通鑑』(1084年)によれば、冬寿は五胡十六国の一つ、前燕を建国した鮮卑族の慕容皝(ぼようこう)の部下。
高句麗にとって前燕は宿敵。
342年、慕容皝、前燕王となり、高句麗都城である丸都城を攻撃。故国原王の母を拉致、父王・美川王の墳墓を暴いて屍を奪った。
慕容皝の弟・慕容仁が兄の皝と戦ったとき、冬寿は仁について皝と戦うが、仁が敗れ、冬寿は高句麗に亡命した。
その後冬寿は高句麗王に信頼されたのだろう。
これを墓誌だという人もいるが、墓誌ではないのではないか。
その下に冬寿像は侍従と同じように描かれている。
西脇室に描かれているのは王だろう。
『旧唐書』「高麗伝」では、高句麗の王だけが五色の衣装を用い、白羅冠を用いると記している。

つまり、全浩天氏は、3:56あたりに描かれている男性が冬寿であり、西脇室に描かれている墓主は高句麗王と考えておられるのだ。

上の動画では、次の様にナレーションがはいっている。
「4:30 正座した姿の主人公は黒い外冠(?)の上に白い外冠(?)を被っているが、これはきめの細かいに意識の一種である羅を用いて作った冠です。墓の主人公が赤色の華麗な2色をまとい・・・」

墓主の着物は五色ではないが、白羅冠を被っている。

・王妃(5:04)は高髪雲環と呼ばれる髪型。

・手縛(5:49)は相撲ではなく空手かもしれない。
日本の相撲の始祖は出雲の国の野見宿祢と当麻蹴速
「野見宿祢が大麻蹴速の肋骨を蹴って折り、その腰を踏みくじいて殺す」(日本書記)
これは手縛ではないか。
イラク・テル・アグラブ遺跡出土の「闘技像脚付双壺」に描かれた格闘技は、日本と高句麗の様に裸で髷を結った姿ではない。
日本書紀、皇極天皇1年(642)史実と考えられる日本最初の相撲の記事がある。
相撲は朝鮮から伝わったのだろう。
埴輪にも力士と思われる人を象ったものがある。
(福島県西白河郡泉崎村、原山1号墳では裸にふんどしの『力士像が発見されている。
和歌山県岩瀬線塚古墳群 井辺八幡山古墳 6体の埴輪力士像(6世紀)
埼玉県 酒巻古墳群 酒巻14号墳 衣服を着て耳飾り首飾りをつけた力士埴輪


手縛の下の6人の斧鉞手は皇帝や王の威光を示すシンボル。儀礼に用いられる。


前室と玄室の間には3基の八角石柱 石柱上部に鬼面

回廊入口には四角柱、天井は回廊の身へ移行持ち送り式






シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊵高松塚・キトラの白虎・青龍は江西大墓・江西中墓に似ていない。

シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊳キトラ天文図はどこからもたらされたか? より続きます~
トップページはこちらです。→ ①天智・天武・額田王は三角関係?

「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。

「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。

肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。


⑯八清里壁画古墳/被葬者が車駕にのって曲芸を見ながら進む

・4世紀~5世紀

・前室と玄室の二室墓

・前室から玄室に入る短い間道中心に四角柱石が天井を支える。
天井はなくなり、内部も破損している。

・玄室
柱と斗栱、
北壁・・・被葬者の室内生活
東壁・・・楼閣、殿閣、人物,青龍
西壁・・・台所、人物
南壁・・・描かれない。

・前室 
西壁・・・被葬者夫婦
東壁、南壁・・・行列図 被葬者が車駕にのって曲芸を見ながら進む
曲芸者の木の竹馬、手品、刀使い、ラッパを吹く二人の午に乗った騎手、太鼓を打つ鼓手

9ページに図あり


⑮徳興里壁画古墳1/墓誌、天の川、織姫、牽牛



上記動画8:04あたりに徳興里古墳がでてくる。

・408年に築かれた。石室封土墳。
(高句麗独自の形式。地表、半地下に長方形の角石、板石で墓室を作り、その上に土をかぶせて叩き絞めて封土にした墳墓。)

・石室内壁に石灰の漆喰を塗り、絵を描く。

・高句麗墳墓の中で被葬者と築造年代が分かっている唯一の墳墓。

・羨道東・・・蓮花と舌を出す獣

・前室北壁・・・墓誌
「広開土王の臣下で、功を立てて大臣になった。名前は鎮。建威将軍。国小大兄を経て、左将軍、遼東太守、使持節などを歴任。幽州刺史を経て77歳で死亡、広開土王の永楽18年《408年)12月25日(409年1月26日)この地で葬られた」
と記される。

前室南側天井・・・天の川、織姫(髻を結び、鬢を長く垂らす。緑や白のチマ(スカート)をはき、淡黄色のチョゴリ(上衣をきる。)牽牛(白色の冠、長く黄色いドゥルマギ)

・信都縣(しんとけん)の出身

・人物、風俗図。
日本古代の男子の髪型(みずら)、流鏑馬

上の記事によるとみずらの人物は女性としている。

⑯キトラ古墳天文図に織女星や天の川の一部が描かれている?

・橋本敬造氏によれば、キトラ古墳の星図には織女星や天の川の一部が描かれ天清(白鳥座)がえがかれているという。

橋本敬造氏の論文はここにあった。
内容をまとめる。

・キトラ古墳の東壁と西壁の上部にあたる星図面の外側の東と西には、線状の雲とともに太陽と月とが描かれている。
六世紀の高句麗・舞踊塚古墳の日・月の描写や、唐初の李賢墓后室にみえる天象図の雲の描写の影響をうけているか。

キトラ 日像

キトラ古墳 日像

キトラ 月像

キトラ月像

・キトラ古墳・月像のなかには蜻蛤(ヒキガエル)のような図様跡が見える(図版E )。

図版Eは5ページに掲載されているが、どこにヒキガエルが描かれているのかわからない。

明日香村の記事には次のようにしるされていた。

”日像
金箔を貼った太陽の中に、わずかに黒い羽根様のものが見られる。おそらく太陽の中に描かれた三本足のカラスの一部とみられる。日像の金箔の下方には水平な線を幾筋も描き、その中に雲か山並みを描いている。

月像
銀箔を貼った痕跡はみられたものの、中に描かれたものは残っていない。本来であれば、月桂樹やヒキガエルが描かれていたのであろう。下方の水平な線や山並みは日像と同様である。”

https://www.asukamura.jp/gyosei_bunkazai_joho_kitora_4.html より引用

どうやら月に描かれていたかもしれないヒキガエルは残っていないようである。
日にはカラスと思われる羽根模様が残っているとのこと。

・ヘラ状のもので引いた下書きがみられた。特に十二支寅像で顕著に確認できる。
おそらく原図を壁面にあて、ヘラ状のものでなぞった後に、描かれたのであろう。

これは下の写真を見ていただくとおわかりいただけるように、橋本氏のおっしゃるとおりである。

虎像

・「織女」星や天の川の一部、あるいは「天津」(白鳥座)も描かれている

記事24p、図9 キトラ星図・概念図 に織女、天の川の位置が示されている。
掲載されている図は南が上になっている。そこで図をコピーして180度回転させて南を上にして、下の図と並べてみた。
(実際にやってみてください。)
すると、全く図が一致しない。

キトラ古墳 天文図

橋本敬造氏の記事の日付は「1999-03-31」となっている。
キトラ古墳が発見されたのは、1983年11月7日。このとき玄武が発見されている。
その後、1998年の探査で青龍、白虎、天文図が確認された。
2001年には朱雀と十二支像が確認された。
2013年に石室の考古学的調査は終了している。

つまり橋本敬造氏が論文を書いた時点では、キトラ古墳の天文図についてははっきりわかっていなかったということだろう。
橋本氏が「キトラ星図・概念図」と書いたのは、よくわかっていなかったためということになる。
全浩天氏が「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」を著したのは2005年で、この時点でもキトラ古墳の考古学的調査は終了していなかったので、確認する術がなく、橋本敬造氏の論文をそのまま採用したのだろう。

そうではあるが、上のキトラ古墳天文図を見ると、中央部にある赤い円の外側、北北東あたりに、織女と記されている。
飛鳥資料館の記事を見るとさらにわかりやすいかもしれない。
https://www.nabunken.go.jp/asuka/info/2022/07/post-400.html
飛鳥資料館の記事によれば、織女の北にある河鼓という星座の真ん中が彦星であるという。

さて、キトラ天文図に天の川の一部と、天清(白鳥座)は描かれているか。

夏の 大三角

上は https://www.nao.ac.jp/news/blog/2021/20210811-milkyway.html この記事を参考にして私が描いたものである。
(正確な図ではないことに注意)

この図を回転させて、キトラ天文図と同じくらいの位置に織女星、彦星を持ってきて比較してみよう。

キトラ古墳 天文図

夏の 大三角2

比較してみると、どうやら天津とある星宿の一部が白鳥座(天清)に該当しそうである。

※上の図には東西南北が描かれているが、星は天の北極を中心に1日で約1周するので時刻によって星が見える位置は変わってくる。
また季節によって見える星も変わってくる。
季節によって見える星が変わってくるのは、星は動かないのだが、地球が公転しているために起きる現象である。
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005301507_00000


上の記事に中国星座名と現代星座名が記されているが、天津(てんしん)=白鳥座となっている。
白鳥座は天清とも天津ともいうのだろうか。

天の川の一部は描かれていないようである。

おそらく全浩天氏は「キトラ古墳には天の川、織女星、彦星が描かれているのは、高句麗の徳興里壁画古墳との共通点であるとおっしゃりたいのだろう。
しかし、キトラ古墳の織女、彦星、天津(白鳥座)などは天文図として描かれており、徳興里壁画の擬人化した織姫・彦星は描かれていない。
キトラ古墳は天の川伝説とは直接関係が無さそうに思える。

⑰徳興里壁画古墳2/みずら、流鏑馬などに高句麗の影響?

・4世紀末の高句麗天文学者は白鳥座を認識できる高い水準をもっていたのではないか。
朝鮮の史書『三国史記」高句麗本紀には、高句麗には「日者」という観測専門家集団がいたと記される。

・遣唐使が天の川伝説を伝えた(粟田真人や山上オクラが帰国したのは704年)というが、それより以前に伝わっていたのではないか。
その根拠は柿本人麻呂の702年の歌
「天の海に 雲の波たち 月の船 星の林に 漕ぎ隠れる見ゆ」

・前室天井には牽牛と織女とともに、日・月・星・蓮花
天井下部には狩猟の図。虎・猪・鹿・雉を追う狩人は馬に乗り、短弓をもつ。

上の動画8:52あたりで馬射戯の絵が登場する。

パルティアン・ショット(射法の一つ)虎やイノシシの首には鏃が月朝サリ、鹿の首から鮮血

・前室の南壁・東壁・北壁・西壁の上部
東・・・三本足の烏(太陽を表す)
西・・・ヒキガエル(月をあらわす)せんじょ
天女・神仙・天馬・火の鳥・飛魚・説明文

・前室北壁西側・・・護衛武士たち、召使いをひきつれた鎮が青羅冠(高句麗の大臣が被る)を被って帳房内に座る。
被葬者・珍の下方左右にはチョゴリ(上衣)とバジ(ズボン)を着用した人物二人が筆で記録している。従者が3人。
屏風の広報にも3人の男子の二人の女子の従者。笛、笙を吹く。西側女子は弦鼓を奏する。

前室西壁・・・十三郡太守図。上下二段。
上段6人、下段7人の太守。(郡の長官)説明文あり。

東壁と南東壁、北東壁・・・幽州刺史・珍の行列図
珍は牛輿車に乗る。

上の動画9:13、9:26あたりに「牛轎車図」とでてくる。
かごを車に乗せた形のものを轎車というそうなので、この「牛轎車図」が「珍が乗る牛輿車」だろうか。
しかし色使いが異なっているように見える。
9:13は駕籠の屋根部分が赤く、9:26は駕籠の屋根部分が黄色く見える。退化の影響があるかもしれない。

・前室から玄室に渡る通路
東壁・・・女子の被葬者が出入りする場面 
西壁・・・男子被葬者が出入りする場面
女性の従者は縞模様のロングスカート、髪型は男性従者と同じ みずら

https://www.econfn.com/iwadare/page226.html 
1枚目の写真

・法隆寺 百済の阿佐が描いたと伝わる御持聖徳太子画像 聖徳太子と二王子
みずらは高句麗壁画にしばしば登場する。水山里壁画古墳、曲芸の若者

聖徳太子とも推定されるが描かれた肖像画『唐本御影』

・玄室・・・自宅で生活する場面
四隅と天井には柱、斗棋が描かれ、室内のようになっている。
北壁・・・被葬者の張房生活
東壁・・・蓮池・仏教の七宝行事
西壁・・・被葬者の張房生活と倉庫、流鏑馬
南壁・・・厩舎と加治屋 
天井・・・火炎模様、蓮花模様

・日本の流鏑馬は起源がはっきりしない。平安中ごろにははじまったか。高句麗の馬射戯と共通する。
日本最初の流鏑馬記事は、吾妻鏡野1187年 藤原秀郷(9世紀の人物)

・4世紀後半の高句麗の馬射戯と9世紀よりはじまった日本の流鏑馬の起原は同じだろう。
ふりかえりざまに弓を引き絞っているシーン
記録係、審判員 準備練習するシーン

上の動画8:42あたりに記録係のような人が登場している。


⑱江西三墓/二十八宿を作ったのは高句麗人?

・江西三墓 三角形に配置される。

・高句麗壁画古墳の終焉期(668年、高句麗は唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた。)

・大墓と中墓には東西南北の壁に四神が大きく描かれる。
白虎は胸を突き出し、「首に蛇腹の様な包帯、荒々しい脚、3本の爪。(高句麗白虎の特徴)

・「他方、高句麗の人々は夜空の星や天空の運行によって人間の運命、人生における吉と凶、幸福と不幸、災いが定められるという信仰や思想があった。このため人々は夜空にきらめく星の中に二八個の星座を探り想定し、それを東・西・南・北の四つの星座群にわけた。」(原文まま)

「このため人々は夜空にきらめく星の中に・・・」とあるが、ここにある「人々」とは「高句麗の人々」という意味だろう。
「二八個の星座」とは二十八宿の事だと思われる。
二十八宿について、ウィキペディアは次のように記している。

”二十八宿は二十七宿よりも歴史が古いという説があり、二十八宿は中国にて誕生し、使用されていたが、インドへ伝わった後にヒンドゥー教の牛を神聖な存在とする宗教上理由から牛宿が除外され[1]、バビロニア占星術などが関連した上で二十七宿となって中国に戻ってきたという[1][2][3]。
この記事の4ページ表二には、「准南子天文訓・漢書律暦志・後漢書・敦煌〇本、開元占〇に基づいて決定された宿度と星名」というタイトルが付けられている。

『淮南子』は前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者に編纂させた思想書で、
巻三 が天文訓になっている。

一方高句麗の成立は紀元前1世紀頃 である。
紀元前1世紀とは、紀元前100年から紀元前1年までの100年間のことであるが、
『淮南子』はそれより早い淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)に記されているので、やはりウィキペディアも書いているように、二十八宿は高句麗ではなく、中国で作られたものではないかと思う。

・高句麗の支配者層はなぜ四神思想に陰陽思想を結び付けたのか。
5,6世紀、高句麗は支配層内部での争い、対立、葛藤が激しくなったことが原因。

・初期、四神は天井に小さく描かれた。
時代が進むにつれ、四神は壁面に移り、人物とともに描かれた。
5,6世紀になると人物は描かれなくなり、四神のみ壁面に大きく描かれた。

⑲江西中墓/大きく描かれた四神

・6世紀末から7世紀初め

・墳丘は円形に見えるが、石灰と土を交互にたたきしめた方台形

・単室墓 羨道と玄室からなる。花崗岩の板石を用いてつくられている。
羨道は南壁中央に持つ両袖式。
玄室入口は二重作。玄室天井は高句麗石室封土墳によくみられる平行持ち送り式。

・壁画は石壁の上に直接描かれる。
画法、彩色は江西大墓と共通する。
内壁に壁面いっぱいの四神。天井に人頭唐草文、蓮花文、雲文、鳳凰、日像、月像。

玄武と朱雀

↑ 写真向かって右が江西中墓の朱雀(キトラ古墳 壁画体験館 四神の館にて撮影)

「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」に掲載された写真をみると、江西中墓の朱雀は、ほぼ同様の姿をした(保存状態が異なるせいかもしれないが、細かい部分が若干違っているようにも見える)が向かいあっている。
下の記事に朱雀の写真があった。


⑳江西大墓/黄龍のルーツは高句麗ではなく中国だと思う。

・江西大墓が築かれた7世紀初めと同じ610年に、高句麗の曇徴と法定が紙・墨・水車などの技術を伝えた。(日本書記)
法隆寺の壁画も彼らが描いたという伝説がある。

・方台形。花崗岩の板石。
羨道と玄室からなる。羨道は玄室南壁中央に設置された両袖式
玄室入口に二重の門を立てた門枠の後
玄室長方形、天井は平行三角持ち送り式

・玄室壁面は四隅に五角形の隅石を挟み込み隅を防ぐ。

・天井には蓮花文、忍冬唐草紋、雲文、鳳凰、麒麟、飛魚、飛天、神仙、天人

・壁画は直接石壁に描かれる。

・中央には天文図ではなく黄龍
「この黄龍とは高句麗の始祖・東明聖王と呼ばれた朱蒙が他界した時、黄龍に乗って天上に昇ったというその黄龍のことである。」(原文まま)

この全浩天氏の書き方では、黄龍は高句麗が創作した聖獣(全氏はそうはいっていないが)のように勘違いする人がいるかもしれない。

黄龍とは、中国の伝承五行思想に現れる龍である。
四神も中国発祥である。
四神の玄武は北、青龍は東、朱雀は南、白虎は西の守護神であり、中央が黄龍である。

五行思想とは万物は木火土金水の5つの要素からなるという考え方のことである。


五行思想においては、四神&黄龍は次の様に結びつくものと考えられる。

木・・・緑・・・春・・・東・・・青龍
火・・・赤・・・夏・・・南・・・朱雀
金・・・白・・・秋・・・西・・・白虎
水・・・黒・・・冬・・・北・・・玄武
土・・・黄・・・土用・・・中央・・・黄龍・麒麟
※土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割りふられた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にある。

㉑江西中墓、江西大墓の四神/キトラ古墳は江西中墓、江西大墓の影響を受けているか?

白虎・・・胸を突き出し、前の両足を大きく開いている。三本の足爪。首には蛇腹のような包帯をまく。(青龍も同様に包帯を巻く。高句麗だけの特徴)


上の動画の5:05あたりからも江西中墓が紹介されている。
(5:09江西中墓の朱雀、5:51玄武、6:02白虎、6:19青龍
3:09江西大墓の玄武、3:32青龍、3:49天井、4:02蟠龍(黄龍のことか?)4:12飛天、4:26唐草模様、4:37白虎、4:52朱雀)

江西中墓の白虎・青龍について
6:02/白虎を見ると確かに首に包帯の様なものを巻いているように見える。
6:19/の青龍の首に包帯がまいてあるかどうかは確認しづらい。

江西大墓の白虎・青龍について
3:32/青龍 包帯状のものが確認できる。
4:37/白虎 包帯状のものは確認が難しい。

江西大墓の壁画を復元した動画の方でも確認してみよう。



0:38あたりに首のアップが登場するが、包帯状のものを巻いているのが確認できる。
さらに1:21あたりに青龍が登場するが、首に包帯状のものを巻いている。
0:38と1:21の映像を比較すると同じであるように見える。どちらも青龍だろう。
0:36と4:38に白虎が登場しているが、どちらも確認が難しい。4:38にはうっすら包帯状のものがあるようにも見えるが、はっきりとはわからない。

(0:31白虎、0:39青龍の首、 0:49玄武、1:22青龍、2:11青龍、2:14天井、4:30玄武、4:38白虎、5:00朱雀)

・高松塚、キトラ古墳の白虎は首に蛇腹状の包帯を巻き、三本指と爪を持っている。

白虎

高松塚古墳 白虎

白虎

キトラ古墳 白虎

上は高松塚古墳、キトラ古墳の白虎であるが、全浩天氏がおっしゃるような包帯状のものは確認できない。

だが、高松塚古墳の青龍の首には☒マークがある。
キトラ古墳の青龍の首は、泥をかぶっていて確認ができない。

青龍 高松塚壁画館

高松塚古墳 青龍

青龍

キトラ古墳 青龍

もしかすると高松塚の青龍の☒マークは、江西大墓の影響を受けた物なのかもしれない。
ただし、色は高松塚の☒マークは赤、・江西大墓の蛇腹状のもの(包帯?)は白である。
赤い包帯はありえるか。
江西中墓の白虎、江西大墓の青龍、高松塚古墳の青龍の首にあるのは包帯ではなく、首飾りなのかもしれない。

・キトラ古墳の青龍の原図が見いだされる。

と全浩天氏はおっしゃるが、私にはさほど似ているように思えない。
三本指で爪を持っている点は同じではあるが、ポーズや尾の長さなどがかなり違う。

・二羽の朱雀は「今まさに飛びたたん」とする動と静の瞬間を描く。
朱雀の下には山々が描かれている。朱雀は空高く舞っている。一部の人は両足をそろえて静止していると主張するがそうではない。

上の動画『「高句麗古墳壁画江西大墓」復元.mp4』5:00あたりを見ると、江西大墓の朱雀の下には山々が見えている。

しかし、鳥はこのような姿では飛ばないのではないか。


上記記事を読むと、「サギなどでは後ろに伸ばして飛び、小鳥は前に縮める」と書いてある。
下の動画は鳥が飛ぶ時の足の状態が大変わかりやすい。
下の動画には、真下に足をのばして飛ぶ鳥はでてこない。



江西大墓の朱雀は羽根を高く上げて垂直に天に昇って言っているようにも見える。
また「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」に記された江西中墓の朱雀の写真を見ると、朱雀の下に山々は描かれていないようである。

・キトラの朱雀は羽根を広げて駆けている。

キトラ古墳の朱雀は大浩天氏がおっしゃるように、飛ぶというよりは走っている。飛翔する直前の朱雀を描いたのかもしれない。

朱雀

朱雀

キトラ古墳 朱雀

・朱雀変遷
4世紀末 安岳1号墳・・・天井持ち送り部分に描かれる
4世紀末~5世紀 薬水里壁画古墳・・・・南壁入口桁の上で駆ける
5世紀末  双楹塚・・・2羽の朱雀が天上下の桁に描かれる駆けている。
6世紀 真坡里4号墳・・・飛ぼうとして駆ける。
    真坡里1号墳・・・駆けながら飛び立とうとしている。
江西中墓 飛び立つ瞬間
江西大墓 大空を飛び舞う。

https://core.ac.uk/download/pdf/196742704.pdf
朱雀の変遷についてはこの記事8pに写真が掲載されている。(少しわかりにくいが)
私は3の三宝塚古墳(5世紀初)の朱雀がキトラ古墳の朱雀に似ていると思った。

https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/topics/toku011.html
こちらの記事のほうがわかりやすいだろうか。


シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 番外編 某所の天文図に悩まされた件(笑)



トップページはこちらです。→ ①天智・天武・額田王は三角関係?

①天文図は北を上にした場合、向かって右が西、向かって左が東

キトラ天文図と実際の夜空とを比較するために、私は某所に置かれてあった説明板の写真を使わせてもらおうと思っていた。
写真は後でお見せする。
この図のせいで(いや、私がうっかりしているのかな?笑)私は4日も悩まされることになった。

まずキトラ天文図を見てみよう。

キトラ古墳 天文図

キトラ天文図

地図は北が上、南が下、向かって右が東、向かって左が西になっている。
天文図は北を上にした場合、南が下、向かって右が西、向かって左が東になる。
キトラ天文図もそうなっている。
地図と天文図は東西の左右が逆になるのだ。

なぜそうなるのか。
地図は地面を見下ろす形で見る。一方、空は見上げる形で見る。
北向きに立って、地面(地図)を見た場合、上が北になる。
一方、北向きに立って空を見た場合、上が南になる。
しかし北向きに立って見下ろしても、見上げても、向かって右が東・向かって左が西で在ることは変わらない。

図1
天球図と地図

下の図の上部のだ円は、上の図左上に描いた天球外側ではなく、天球内側(天球図]であることに注意してみてほしい。
天球図の円の輪郭は地平線である。

天球図 &地図

②東西が逆になった天球図?

下は私が悩まされた、某所にある説明板に描かれた天球図である。

図3
枚方市 観音山公園近くの説明版

この説明板の図をパッと見ると、下の図(図4)のような天球図の北側半分を切り取ったものだと思うのではないだろうか。

図4
天球図?

しかし、上の図のように、説明板の下に南側半分があると考えると、天文図としては東西が逆になってしまう。
地図として見た場合には東西はこれで正しいのだが。

③某所説明板の東西南北は地面の東西南北を表している?

ということは、ここに記されたW(西)、N(北)、E(東)は地面(地図)の方角を表しているのかもしれない。
とすれば、半円は天球を表すのではなく、ただのモニュメントの形であって、北を望むとアルタイル・ベガ・デネブがこんな風に見えるということを示しただけなのかもしれない、と思った。

つまり天球図にすると下の図のようになっていることを示したものだろうか?と思ったのである。↓

図5
某所の説明板

上の図を180度回転させて北を上にすると次の図のようになる。
(星の位置と「名前を記した文字」が小さくて読みにくいので赤で付け加えた。)

④「2021年8月4日21時頃 東京の星空」と「某所 説明板の天球図」を比較してみた。

図6
某所の説明板

某所 説明板の「夏の北の夜空」

下の図は https://www.nao.ac.jp/news/blog/2021/20210811-milkyway.html この記事を参考にして私が描いたものである。
(正確な図ではないことに注意)

図7
夏の大三角と天の川

2021年8月4日21時頃 東京の星空

上の図7と図6と比較してみよう。
『某所 説明板の「夏の北の夜空」』ではアルタイルが向かって右、ベガが向かって左、デネブが下にあるのに対し
『2021年8月4日21時頃 東京の星空』ではアルタイルが向かって左、ベガが向かって右、デネブが上にある。

星空は天の北極を中心に1日で反時計回りに1回転する。
つまり、時刻によって星の見える方向は変わる。

そこで、『某所 説明板の「夏の北の夜空」』を180度回転させて、アルタイルが向かって左、ベガが向かって右、デネブが上に来るよう動かしてみたのが次の図である。

図8
某所の説明板

アルタイル、ベガ、デネブの位置関係は「2021年8月4日21時頃 東京の星空」とほぼ同じになる。

⑤某所 説明板は午前9時頃の空?

ここで、あることに気がつく。

図7は「2021年8月4日21時頃 東京の星空」である。
図6の撮影場所は大阪府だが、東京とそんなに星空の見え方がかわるわけではない。
大阪においても、2021年8月4日時頃の星空は、若干のずれはあるだろうが「2021年8月4日21時頃 東京の星空」とほぼ同じように見えるだろう。

先ほども述べたように、星は天の北極を中心にして反時計回りに回る。
1回転(360度回転)するのに要する時間は(約1日=24時間)である。
ということは、180度回転するのに要する時間は12時間である。

図6は「夏の北の夜空」というタイトルだが、図7「2021年8月4日21時頃 東京の星空」に一致させるためには
図を180度回転させる必要があった。
ということは、21時から12時間後、または12時間前の午前9時ごろの空ということになってしまう。
午前9時の空は夜空とはいえない。
既に太陽が昇り、星は見えなくなっているころだ。
これはありえない。

ということは、某所の天球図は、夜21時ぐらいの空(「2021年8月4日21時頃 東京の星空」と同様の空)を描いたものであり、
天球図は図4の北側半分を切り取ったもので、図9、図10のようにE(東)とW(西)を誤まって左右逆に描いてしまったのではないだろうか。

図9

某所の説明板

図10

天球図

図10は図7とほぼ同じである。

図7
夏の大三角と天の川

某所の説明板は南向き(見る人は北を向いて説明板を見る)で、実際の東西に合わせて設置されていた。
しかし、そうではなく、この説明板は方角を訂正した上で、北向き(見る人は南を向いて説明板を見る)にして、
実際の東西に合わせて設置するべきだったのではないだろうか。

E・W・Sの文字は「地図の方角を記しただけ」なのかもしれないが、そうであるとしても紛らわしい。

南から夏の北の夜空を見た場合、夏の大三角(アルタイル、ベガ、デネブを結んでできる三角形)は説明板のような形にはならず、説明板を180度回転させたような形で見えるのではないだろうか。

図10
天球図

↓ 南から北の夜空を見たとき                           ↓北から南の夜空を見たとき
天球図? 天球図

自信がありません(汗)。何か勘違いしていたら、ご指摘お願いします。


シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊵高松塚・キトラの白虎・青龍は江西大墓・江西中墓に似ていない
。 へつづく~


シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊳キトラ天文図はどこからもたらされたか?


トップページはこちらです。→ ①天智・天武・額田王は三角関係?

「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。


⑮高句麗石刻天文図/キトラ古墳天文図は現存する最古の天文図だが、日本で観測して作成されたものではない。

・高句麗石刻天文図
高句麗最古の天文図 5,6世紀の平壌の夜空の星を写している。正確に描かれていると指摘されているが現存しない。
668年に唐軍が平壌城を攻撃したとき、大同江に落とされ、失われた。
しかし拓本が残っており、1395年に復元して「天象列次文野之図」が作られた。


こちらの記事には、次のような内容が記されている。

・中国・朝鮮・日本など中緯度から見える天域全体を描いた星図として現存最古のものは、中国・蘇州の孔子廟内の碑刻博物館にある「天文図」。(これについては「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」の中でも触れられている。)

・中国・蘇州の孔子廟内の碑刻博物館にある「天文図」は、南宋の淳祐年間(1241年 - 1252年)に刻まれたことから、淳祐[石刻]天文図とか蘇州[石刻]天文図などと呼ばれている。

・ 蘇州天文図(淳祐天文図)は北宋(960年 - 1127年)時代の観測に基づくと推定され、北宋時代に書かれた『新儀象法要』にも星図がいくつか収載されている。

・ 朝鮮半島には「天象列次分野之図」と題する石刻天文図が現存するが、石刻天文図としては中国・蘇州の天文図に次ぐ古いもの。

・「天象列次分野之図」銘文には次のようにある。
「高句麗の都・平壌に石刻天文図があったが、唐・新羅連合軍に滅ぼされた時(AD668)、大同江に沈んだ。歳月の経過とともにその拓本も漸次失われたが、朝鮮の太祖(在位1392~98)のとき、拓本を献上するものがあり、太祖はこの石刻天文図の復元を命じた。しかし書雲観では年月を経て度数(すなわち座標)が変わっている(歳差を指す)として、新たに夜明けと日暮れに南中する星を観測し、それらについては新測に基づき、星象は旧図に基づいて天象列次分野之図を作った。洪武二十八年十二月」

・朝鮮では明の年号を用いていた。明の洪武28年は朝鮮の太祖3年。この年12月は西暦では大統暦との年初のずれの関係で、1396年となる(11月19日までが1395年)。

・ジョゼフ・ニーダムは「天象列次文野之図」が高句麗石刻天文図を基にしていることを証明している。
どのように証明されたのかについての説明がほしい。

・高松塚古墳、キトラ古墳はキトラ古墳の方が少し古いとされる。
これについては聞いたことがないし、古いとされる根拠について全浩天氏は触れておられない。

・キトラ古墳天文図について
68の星座、350の星が確認される。
内規・・・内側の円(地平線に沈まない星の範囲)
外規・・・外側の円(星が見えなく成る境界)
黄道・・・地球から見て、太陽が地球を中心にして運行するように見える天空上の大きな円
春分、秋分の位置が明確に示される。
キトラ古墳が作られた天武朝は天文学と占星術が大いに奨励された。
日本書紀天武天皇即位前紀『(天武天皇は)天文・遁甲に能し」とある。
675年正月 陰陽寮設立

・キトラ天文図に匹敵する天文図は中国蘇州孔子廟の礎石(淳祐天文図)淳祐7年(1247年)と天象列次文野之図(1395年)※この時代は李氏朝鮮(1392年8月から1897年10月)

キトラ古墳の築造時期は7世紀から8世紀とされている。
つまりキトラ古墳の天文図は、現存する東アジアのる星図としては最古のものだといえる。

しかし、キトラ天文図について、来村多加史氏は次のようにおっしゃっていて、私は「なるほど」と思う。

・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。

窺管がいつから存在していたかわからないが、晋・陸雲〔陸典に与ふる書、十首、五〕に次のように記されているようである。
「東州の幽昧を光(かがや)かし、榮勳を野に(し)かんこと、謂(いはゆる)管を窺ひて以て天を瞻(み)、木に(よ)りて魚を求むるなり。」
晋は中国に、265年から 420年まで存在した王朝である。
下に記す漢書、張衡が水運渾象を製作したということから考えても、この晋の時代には窺管は存在していたと考えられると思う。

・漢書(後漢の時代に成立した。後漢は25年 - 220年)は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡(78年 - 139年)は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。

・日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)なので、当時の日本で星宿図や天文図を描くのはムリ。

・橋本敬造氏「キトラ古墳の星図には天象列次文野之図の星座に似ているものが多い。」

内規の中にある「八穀」星座、赤道と同心円の外規の間にある「弧矢(こし)」「天(稷/しょく)」「天社」「器府(きふ)」などの星座群が似ている。老人星の位置が似ている。

高句麗石刻天文図から製作された拓本が二枚あって、一枚は天象列次文野之図となり、同じ星図がキトラ星図の原図となったと推定される。

・宮島一彦氏、「キトラの星座の形地は必ずしも天象列次文野之図と一致しないので、高句麗石刻天文図はキトラの元図ではないだろう」
「星座の形は石刻天文図と異なるが、特定の星を大きく表すのは共通の別の星座があって、それがキトラの原図ではないか」と推定
「キトラの内規は緯度37度半」中国の長安、洛陽、飛鳥は該当しない。平壌は該当するとしている。

これについては、過去に以下の記事を書いた。

自分自身の復習の意味をこめて(笑)内容をまとめておく。

・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
                観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道   天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
                天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
                地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道   1年を通じた太陽の軌道
(来村多加史氏の説明による)

・1998年、宮島一彦氏(同志社大学)は超小型カメラで撮影したキトラ天文図画像から、大まかな解析を行った。
その結果、キトラ天文図の内規と天の赤道の半径の比から、キトラ天文図は北緯38.4度の空を描いたもので
平壌の緯度(39.0度)に近いが、日本の飛鳥(34.5度)や中国の長安(34.2度)・洛陽(34.6度)は該当しないとした。
宮島氏はまた、1998年撮影の画像から天文図の星の位置を解析し、2つの異なる方法を用いて観測年代を紀元前65年と紀元後400年代後半と求めた。
2004年、宮島氏は緯度の推定値を37~38度に修正した。
ただし、画像は不鮮明なので、宮島氏が用いた星の同定や位置に誤りがありえるとした。

2004年高精細デジタルカメラで撮影されたキトラ天文図をもとに、相馬氏が解析を行った。

①黄道の位置が大きく異なる。
②昴宿(プレヤデス星団),畢宿(ヒアデス星団),觜宿(オリオン座の頭の3星 λ,φ1,φ2 Ori)などがかなり拡大されている 
③天津(はくちょう座 Cyg の翼)の向きが大きく異なる
④軫宿(からす座 Crv)の四角形の位置と形や向きが異なる
 ⑤翼宿(距星は α Crt)と張宿(距星は υ1 Hya)の東西位置が逆転している。
⑥張宿の距星の南北位置の誤差も大きい 
⓻北極という星座は 5星のはずだが,6星あり,曲がり方も逆。北極という星座でない可能性がある.

天球上の星の位置は赤経・赤緯で表す。
赤経・・・春分点から東向きに測る。
赤緯・・・天の赤道を基準に南北に測る。北向きを正とする。

地球の自転軸は約26,000年を周期に首振り運動をしている。(歳差運動)
そのため、各星の赤経・赤緯、天の北極や天の赤道近くの星も変化する。

各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。

天の赤道や内規などが書かれていることから、いくつかの星はそれらの線を頼りにして描き、残りの星は目分量で書いたのではないかと思い、キトラ天文図に描かれた二十八宿の距星(星宿の中で代表的な星)を測定し、理論値との比較を試みた。

地球は歳差運動をしているため、年代によって北極星(天の北極に位置する星)も変わるし、星々の赤経・赤緯も変化する。
西暦400年ごろの理論値と、キトラ天文図を比較すると、赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。

9星のうちの5星もの星の誤差がこれほど小さくなるというのは偶然とは考えにくい。
天の赤道に近い距星の中でもこれらの明るい5星を、天の赤道に対して正確に描こうとしたと考えられる。
そこで、これらの5星の位置の誤差が最も小さくなる年代が観測年代だとして、最小二乗法により観測年代を求めた。
その結果は西暦384年±139年となった。

内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。

内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
 キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった. 

 天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。

細かい計算が正しいかどうかはわからないが、どのようにして計算をしたのかは何となく(笑)わかる。

つまり210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いということだ。

これに該当する中国の王朝は次のとおり。

後漢(東漢) AD23〜AD220
魏(曹魏) 220〜265
呉(孫呉、東呉) 222〜280
蜀(漢、蜀漢) 221〜26
西晋 265〜316
東晋 317〜420
桓楚 403〜404

一方、日本では邪馬台国の卑弥呼が死亡したのが247年。
その後の日本の状況については不明で空白の4世紀と呼ばれる。
来村氏は著書の中で「602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。」と書いておられた。

来村氏は「キトラ天文図は正確ではない」とおっしゃっているが、有坂氏は「高松塚の星宿は正確。」とされた。
天文図と星宿は別のものである。
キトラ天文図は正確でなくても、高松塚星宿は正確ではないとは言い切れないかもしれない。
(そもそも、何をもって正確というのかという問題もあるが)
しかし、高松塚の星宿図は一見して、夜空を忠実に写し取ったものというよりは、四角で囲んだ周辺部に星宿を並べたものである。

キトラ古墳 天文図

キトラ天文図

高松塚古墳 星宿図

高松塚古墳 星宿図

高松塚古墳と同様の星宿図はトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
画像はこちら→古星図に見る歴史と文化 - 大阪工業大学 4ページ 図3

アスターナ古墳群は中国新疆ウイグル自治区・トルファン市高昌区にある。
麹氏高昌・唐代618~907年の貴族の墓地とのこと。

高松塚と同時期に築造されたと考えられるキトラの天文図は、相馬氏の研究から、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高い。

すると星宿図や天文図は中国で作成され、それがトルファンや日本に伝わったか、もしくは中国で作成されたものが高句麗経由で日本に伝わったと考えるのが妥当ではないかと思う。

高松塚古墳の星宿図が発見されたばかりのころは、類似した天文図が知られておらず、日本で独自に天文学が発展したとする説を多くの人が唱えていたそうである。

⑯キトラ古墳はどこから伝わったか?

「専門の天文学者たちに差異があったとしても、明らかなのは高句麗文化の結晶である星図の一つが平壌から「飛鳥への道」をたどり、他の一つは「ソウルへの道」にもたらされたのであった。」
『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天』85ページより引用(原文まま)

「専門の天文学者たちに差異がある」というのは、すでにのべたように以下のことをさす。

橋本敬造氏・・・
キトラ古墳の星図には天象列次文野之図の星座に似ているものが多い
高句麗石刻天文図から製作された拓本が二枚あって、一枚は天象列次文野之図となり、同じ星図がキトラ星図の原図となったと推定される。

宮島一彦氏・・・
キトラの星座の形地は必ずしも天象列次文野之図と一致しないので、高句麗石刻天文図はキトラの元図ではないだろう。
星座の形は石刻天文図と異なるが、特定の星を大きく表すのは共通の別の星座があって、それがキトラの原図ではないか。

そして「飛鳥への道」とは「高句麗石刻天文図(5~6世紀)または類似のものが飛鳥に伝わってキトラ古墳の天文図が作成された」こと
「ソウルへの道」とは、「李氏朝鮮(1392年8月から1897年10月)の首都・漢城府(現在のソウル)において、1395年に高句麗石刻天文図をもとにして天象列次文野之図を作られたということ」を言っているものと思われる。

しかし、高句麗から伝わったのではなく、唐から伝わったとも考えられるのではないか?
遣唐使630年よりはじまり、多くの唐の文化がもたらされたとされる。
その一方で、当事多くの渡来人が日本にやってきたとされる。
四天王寺を作った宮大工の金剛重光は百済人である。
このブログで、高松塚・キトラ古墳の壁画を描いたのではないか、とたびたび名前がでてきた黄文本実は高句麗系だと松本清張氏はおっしゃっている。
黄文本実は669年の第七次遣唐使に参加したともあり、松本清張氏のおっしゃっることが正しければ
黄文本実は高句麗系渡来人として日本に住み、遣唐使にも参加したということになり、高句麗と唐、どちらの文化にも関係しているといえる。

ウィキペディア「渡来人」には次のような内容が記されている。
・た飛鳥時代には百済より貴族が日本を頼って渡来した。
・最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜った。
・大和朝廷では優遇され、官人として登用された者も少なくない。
・「新撰姓氏録(815)」に記載される1182氏のうち、326が渡来系氏族で全体の3割を占める。
・諸蕃の出身地は漢が163、百済が104、高麗(高句麗)が41、新羅が9、任那が9。

ここに「漢」とあるのは、漢民族という意味だと思う。
ちなみに中国の王朝である前漢は紀元前206年 - 8年、後漢は25年 - 220年であり、飛鳥時代のはるか昔である。

このように考えると、やはりキトラ古墳の天文図が高句麗からもたらされたものとは断言できず、唐からもたらされたものである可能性もあると思う。

これについては宿題ということにして、次に進むことにする。



シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 番外編 某所の天文図に悩まされた件(笑)
へつづきます~