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土蜘蛛の謎⑩ 蜂となって飛び去った執金剛神 

土蜘蛛の謎⑨ 清蔵、鉢を飛ばす より続きます~

三月堂 百日紅


①不空羂索観音は志貴皇子の本地仏。


File:Todaiji Monaster Fukukensaku Kwannon of Hokkedo (232).jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ATodaiji_Monaster_Fukukensaku_Kwannon_of_Hokkedo_(232).jpg よりお借りしました。

作者 Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition


以前の記事、土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音 の中で、私は三月堂のご本尊・不空羂索観音について次のように述べた。

「蜘蛛の巣のような光背を背負い、手には羂索を持つ羂索堂の本尊・不空羂索観音
手に持つ羂索を投げる姿を想像すれば、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようである。
また肩には謀反人のイメージを持つ鹿のケープを身に着けている。
この不空羂索観音はまつろわぬ民・土蜘蛛=志貴皇子の怨霊を封じ込めた像なのではないだろうか。」と。

私は「不空羂索観音とは土蜘蛛=志貴皇子の怨霊封じ込めの仏像ではないか」と述べたが、これは「不空羂索観音は志貴皇子の本地仏ではないか」というのと同じである。

日本では古より神仏を習合して信仰してきたが、そのベースになった考え方として本地垂迹説があった。
本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教のみほとけが衆上を救うために仮にこの世に姿を現したものである。」とする考え方のことで、日本古来の神々のことを権現または化身、仏教のみほとけのことを本地仏といった。
たとえば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、菅原道真は十一面観音の化身であるなどとして、神仏は習合されていた。

東向観音寺

東向観音寺 「天満宮御本地佛 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面菩薩の化身である」というような意味です。


②神と怨霊は同義語だった。

十一面観音の化身とされる菅原道真は怨霊としてしられている。
道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、その数年後、失意のうちに亡くなった。
道真の死後、京では疫病が流行り、天変地異が相次いだ。
そしてこれらは道真の怨霊の仕業であると考えられたのである。

古には神と怨霊は同義語であった、と言われる。
これは「怨霊は神として祀り上げると守護神に転じる」という考え方からくるものだろう。
この考え方は、陰が極まれば陽に転じるとする陰陽道の考え方の影響を受けたものだと考えられる。
怨霊として恐れられていた菅原道真が、現在では学問の神として信仰されているのはそのためである。

③基皇子の死は志貴皇子の怨霊の仕業?

土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音 で述べたように、志貴皇子は715年に暗殺されて1年近くその死が伏せられていたと考えられる。
727年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた基皇子は生後1年足らずで夭逝した。
聖武天皇と光明皇后は基皇子の菩提を弔うために金鐘寺を創建した。
聖武天皇と光明皇后は基皇子の死を志貴皇子の怨霊の仕業であると考えたのではないだろうか。
そこで怨霊である志貴皇子を神として祀り上げ、さらに神仏習合で志貴皇子をみほとけの姿に転じたのが不空羂索観音ではないかと私は思う。

④土蜘蛛は陰、不空羂索観音は土蜘蛛を陽に転じたみほとけ?

狂言や六斎念仏の土蜘蛛は、糸をまき散らして相手をがんじがらめにする。
一方、不空羂索観音は手に持った羂索で人々を救うとされている。
蜘蛛の糸と羂索はよく似ているが、蜘蛛の糸は人を捕える罠、羂索は人を救うありがたいものということで、全く性質が異なっている。
蜘蛛の糸は陰、羂索は陽。
土蜘蛛は陰で不空羂索観音は土蜘蛛を陽に転じたものだと思うのだ。

千本閻魔堂狂言 土蜘蛛

千本閻魔堂狂言 頼光と土蜘蛛


⑤蜂=鉢=髑髏という謎々


この不空羂索観音の後ろの厨子に秘仏の執金剛神(しゅこんごうじん)が安置されている。
この執金剛神には次のような伝説がある。

940年、平将門の乱がおこったとき、執金剛神の前で将門誅討の祈祷を行った。
すると執金剛神の髻が大きな蜂となって東方へ飛びさり乱を平定した。
そのため、執金剛神には髻の元結紐の端が決失している。


執金剛神の髻は蜂になったというが、これは蜂=鉢=頭(ドクロ/頭のことを鉢ということがある。)という謎々ではないか。

File:Vajirapani Shukongoshin Todaiji.JPG

執金剛神 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Vajirapani_Shukongoshin_Todaiji.JPG よりお借りしました。
作者 The Institute of Art Research Tokyo [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

⑥飛ぶドクロ伝説


蘇我入鹿や玄昉の首が飛んだという伝説がある。

土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった? で述べたように、土蜘蛛とは謀反の罪で斬首された人の首のことだと私は考える。
蘇我入鹿や玄昉は土蜘蛛であったのだ。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社) 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。

髻が蜂=鉢=頭(どくろ)になって東方へ飛び去ったという執金剛神もまた土蜘蛛だということになる。

不空羂索観音とちがい、執金剛神の姿には土蜘蛛のイメージはないが、蜂=鉢=髑髏が飛んだという伝説が執金剛神とは土蜘蛛であることを物語っている。

おそらく執金剛神が志貴皇子の怨霊封じ込めの仏像なのだろう。
執金剛神が秘仏とされ厨子の中におさめられているのは、志貴皇子の怨霊が外に出て暴れないようにするためだと思う。
伝説では執金剛神の髻が蜂になったとし、執金剛神そのものが厨子の中から出て蜂になったとはしていない点に注意したい。

将門の首塚

東京都千代田区にある将門の首塚 京から飛びかえった将門の髑髏がここに落ちたという。


●土蜘蛛をもって土蜘蛛を制す

そして執金剛神が平定した平将門の乱の首謀者、平将門もまたその首が飛んだという伝説がある。
平将門もまた、土蜘蛛であったのだ。

つまり執金剛神=志貴皇子という土蜘蛛が、平将門という土蜘蛛を退治したということである。
毒をもって毒を制すというが、土蜘蛛をもって土蜘蛛を制したわけだ。
土蜘蛛を制するためには土蜘蛛を、怨霊を制するためには怨霊を用いるべしというような信仰があったのだろう。

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け

五箇山 村上家住宅に展示されていた鬼門除け 小さな髑髏でした。(猿の髑髏?)
※東大寺・・・奈良市雑司町


土蜘蛛の謎⑪ なぜ将門の首塚には蝦蟇が供えられているのか。 へつづきます
トップページはこちら→土蜘蛛の謎① 亀石伝説(追記あり)


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[2017/03/15 21:30] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

土蜘蛛の謎⑨ 浄蔵、鉢を飛ばす 

土蜘蛛の謎⑧ 空飛ぶ鉢の正体 よりつづきます~


蔵王堂光福寺 久世六斎 
蔵王堂光福寺 久世六斎 祇園囃子

①蔵王堂興福寺創建説話

日が暮れてすっかり暗くなった蔵王堂光福寺。
そこへ浴衣を着た人々が次々にやってきては舞殿の前に設けられたベンチに腰掛けていく。
やがてドーン、ドーンと催し太鼓の音がして久世六斎会による六斎念仏が始まった。

蔵王堂光福寺は955年に浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)を開基として建立された寺院で、次のような創建説話が残されている。

955年、浄蔵が吉野山大峰山での修行を終え帰る際に、蔵王権現が現れて「私を連れて帰ってほしい」とおっしゃった。
浄蔵が権現を背負うと権現は木像となった。
浄蔵は桂川の畔で持っていた鉢を水に落としてしまった。
その鉢は川を遡り、北に向い岸で止まった。
その地が現在の蔵王堂の東の川である。
その地には円い光が輝いており、弁財天女の霊場であった。
浄蔵が背負ってきた蔵王神像はこの地から動かなかった。
夜、西に丈六のナギが生えて明天老翁が現れて言った。
「この地が医王弁財天女の影向(神仏が仮の姿をとって現れる)の地である。」と。
そこで浄蔵貴所はここに堂宇建て、霊像を安置し本尊とした。


吉野山の金峯山寺には蔵王権現を祀る蔵王堂がある。
蔵王堂光福寺という寺名は吉野の蔵王堂からとったものだと考えられる。

金峯山寺 蔵王堂 桜

金峯山寺 蔵王堂

②鉢と縁の深い浄蔵


蔵王堂光福寺の創建説話に鉢が登場するが、浄蔵が托鉢の鉢を飛ばしたという伝説もある。

浄蔵は比叡山で修業をしていたとき、験力で目には見えない護法童子に鉢を持たせて飛ばせ、食べ物を集めさせていた。
この術は飛鉢法といい、護法童子の姿は人には見えないのでまるで鉢が飛んでいるように見えた。
あるとき護法童子が空っぽの鉢を持ち帰るということが三日続いた。
北の山から飛んでくる別の鉢が食べ物を奪い去っていたのだった。
浄蔵は自分の鉢に、別の鉢を追わせた。
すると清水が流れ、松の生えた場所に方形の草庵があり老僧が読経をしていた。
浄蔵が老僧に自分がここへやってきた事情を説明した。
浄蔵の鉢から食べ物を奪っていたのは老僧が使役していた天童だった。
老僧は天童をを諌め、また別の天童を呼んで梨をもってこさせた。
浄蔵は梨を食べるとたちまち疲れがとれた。 


どうも浄蔵は鉢と縁が深い人物のようである。

③浄蔵は八とも縁が深い

浄蔵は文章博士だった三善清行の八男とされる。
また八坂の塔が傾いたのを法力で真っ直ぐに直したという伝説もあり、八と縁が深い。

八坂の塔 月

八坂の塔

④八は復活を意味する数字?


梅原猛氏は八は復活を意味する数字だとしておられる。
八角堂や八角墳は死者の復活を願って作られたものであるというのである。

壺阪寺 紅葉3

壺阪寺 八角円堂

法隆寺 夢殿

法隆寺 夢殿

そういえば、浄蔵が一条戻橋でつかのま父親を生き返らせた(復活させた)という伝説もある。

一条戻橋

一条戻橋

⑤『七転八起』とは、七で死んで八で復活するという意味?

なるほど、梅原氏のように考えれば辻褄があう言葉がたくさんある。

例えば『七転八起』という言葉がある。
七度転べば起きるのも七度である。それなのに、なぜ八起なのか。

人が死んだ際の法要は七日ごとに行うので、七は死をあらわす数字だと思う。。
そして『七転八起』とは、七で死んで八で復活するという意味ではないだろうか。

⑥八咫鏡は死んだ天照大神を復活させた鏡?

また『八咫鏡』とは天岩戸に籠もった天照大神を岩戸から出すのに用いられた鏡のことだが、
天岩戸に籠るとは、死んで石室に葬られているイメージがある。
死んだ天照大神を復活させた鏡なので、復活を意味する八を用いて『八咫鏡』と言うのではないか。

⑦八咫烏は復活した太陽神?

『八咫烏』は中国や韓国では太陽の中に描かれることが多い。
『八咫烏』とは復活した太陽神だと考えると辻褄があう。

記紀は『八咫烏』は天孫・神武天皇を道案内した烏だとするが、神代には猿田彦という神が天孫・ニニギを葦原中国へ道案内したという話がある。

杭全神社 夏祭 猿田彦

杭全神社 猿田彦(天狗)
猿田彦はニニギの道案内をしたという伝説から、祭の行列で先導することが多い。

猿田彦は高天原から葦原中国までを照らす神であると記されている。
それにぴったりくる名前を持つ神がいる。
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)、つまり物部氏の祖とされるニギハヤヒのことである。
この神が本当の天照大神だという説がある。

サルタヒコと八咫烏とはどちらも天孫(ニニギ・神武)の道案内をしているので同一神だと考えられる。
つまり八咫烏とは復活した太陽神・ニギハヤヒのことである。

住吉祭 猿田彦 
住吉祭の猿田彦(天狗)

⑧八所御霊

八所御霊というのもある。八所御霊とは八柱の御霊という意味で、京都の上御霊神社・下御霊神社などで祀られている。
御霊とはもともとは怨霊であった人たちのことで、慰霊されて神として復活した者たちのことだともいえる。

下御霊神社

下御霊神社


⑨八朔祭

さらにこの日は浄蔵を開基とする蔵王堂光福寺の八朔祭であった。
浄蔵が八と縁が深い人なので、蔵王堂光福寺では八朔祭を行っているのではないだろうか。

八朔とは旧暦の8月1日のことで、早稲の穂が実るころで、農民の間で初穂をお世話になった人々へ贈る風習があった。
初穂=田の実ということで、『田の実の節句』ともいわれた。
『たのみ』は語呂合わせで『頼み』に通じることから、武家や公家の間でも、八朔に贈り物をする習慣が生じたと言われている。
現在でも、京都の祇園などでは八朔に舞妓さんや芸妓さんがお世話になっているお茶屋さんなどに挨拶回りする習慣がある。

祇園 八朔

祇園白川 八朔であいさつ回りする舞妓さん

蔵王堂光福寺の八朔祭は現在では新暦の8月31日に行われているが、旧暦では8月1日に行っていたのだろう。

⑩飛行する鉢=飛行する髑髏?

さきほど浄蔵が鉢を飛ばしたという伝説を紹介したが、前回の記事、土蜘蛛の謎⑧ 空飛ぶ鉢の正体 で述べたように、信貴山縁起絵巻にも鉢を飛ばすという話がある。

朝護孫子寺 本堂 霧2

信貴山にある朝護孫子寺

命蓮法師が托鉢のために飛ばした鉢が、長者のところに頻繁にやってくるようになったので、長者はこれに腹を立てて鉢を米蔵に閉じこめた。
すると鉢は倉から飛び出して倉をのせて信貴山に飛び去った。


鉢を飛ばすという物語は、類型的な物語のひとつだといえるだろう。

File:Sigisanengi tobikura.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Sigisanengi_tobikura.jpg よりお借りしました。
作者 English: unknown 日本語: 作者不詳 (不明) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

頭のことを鉢ということがある。
『鉢巻』とは頭に晒しを巻くことであり、『鉢合わせ』とは出会いがしらに頭と頭をぶつけることである。

私は鉢とは頭、髑髏を比喩的に言ったものではないかと考えている。
つまり空飛ぶ鉢とは空飛ぶ髑髏のことではないかと思うのだ。

浄蔵が飛ばした鉢もまた髑髏であると思う。

浄蔵は鉢のほか、復活を意味する数字8とも縁が深いが、8は鉢=髑髏を意味しているのだろう。

⑪髑髏は復活にかかせない呪具だった?

髑髏は復活にはかかせない呪具であるとされていたのだと思う。
というのは、真言立川流という真言宗の流派がかつてあったのだが(江戸時代に迫害をうけて消滅したと考えられている。)
立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作る。
この髑髏本尊を袋に入れ、7年間抱いて寝ると8年目に髑髏は命を持って語りだすとされていたのだ。

髑髏が命を持って語りだすというのは、髑髏が復活したということである。

⑫土蜘蛛とは謀反の罪で斬首された人?

そして源頼光と渡辺綱が空飛ぶ髑髏にであったとか(『土蜘蛛草子』)、また蘇我入鹿・玄昉・平将門らの首が飛んだという伝説もある。

私は土蜘蛛とは謀反の罪によって斬首されて首のない人のことだと考えている。
というのは、昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれているが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなる。

蜘蛛の体 


古の人々は蜘蛛とは頭部のない昆虫だと考えたのではないかと思うのだ。
(詳しくは土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった?をお読みください。)

浄蔵や命蓮が飛ばした鉢とは謀反人の髑髏なのだと思う。
謀反人はこの世に恨みを残したまま斬首されて死んでいき、死後は怨霊になったと考えられたことだろう。
ところがこのような怨霊は神として祭り上げると守護神に転じるという信仰があった。
それで鉢=髑髏は守護神になったということで、浄蔵や命蓮に食べ物を持ち帰ったなどという伝説が生じたのではないだろうか。

蔵王堂光福寺 久世六斎-獅子と土蜘蛛 
蔵王堂光福寺 久世六斎 獅子と土蜘蛛
蔵王堂光福寺・・・京都府京都市南区久世上久世町
八朔祭・・・8月31日(確認をお願いします。)



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[2017/03/12 00:21] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

土蜘蛛の謎⑧ 空飛ぶ鉢の正体 

土蜘蛛の謎⑦ 妖怪ぬらりひょんと亀石と土蜘蛛 よりつづきます~


●空飛ぶ鉢は空飛ぶ髑髏?

信貴山の中腹に舞台造りのお堂がある。朝護孫子寺の本堂である。

朝護孫子寺 紅葉 
587年、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋の間に戦争がおきた。
このとき聖徳太子は蘇我側について闘った。
戦いは蘇我側の勝利となり、、聖徳太子はこれを毘沙門天のご加護を得たことによるものだと考えた。
そこで594年、毘沙門天を祀る寺院を創建し、『信ずべき貴ぶべき山(信貴山)』と名付けたのだという。

朝護孫子寺本堂の傍らには霊宝館があり、ここに有名な『信貴山縁起絵巻(模写)』が展示されている。
『信貴山縁起絵巻』は平安時代後期に記されたもので、『鳥獣人物戯画』とともに、漫画のルーツとされる。
特に飛倉の巻の、蔵を乗せた鉢が空飛ぶシーンが有名である。

File:Sigisanengi tobikura.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Sigisanengi_tobikura.jpg よりお借りしました。
作者 English: unknown 日本語: 作者不詳 (不明) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

私は空飛ぶ鉢の絵を見て、「空飛ぶ髑髏だ!」と思った。

鉢巻、鉢が開く、鉢合わせ、などのように頭のことを鉢ということがある。
そして、以前の記事 土蜘蛛の謎⑥ 燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』と呼ばれている理由 でご紹介した東向観音寺の土蜘蛛の塚は燈籠の火袋だったが、その笠の部分は、まるで鉢をひっくり返したような丸みを帯びた形をしていた。

東向観音寺 土蜘蛛の塚

私はその燈籠が『土蜘蛛の塚』と呼ばれたのは、笠の部分が鉢をひっくり返したような形をしているためではないかと考えた。
鉢とは頭のことであるが、以前の記事、土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった?で述べたように土蜘蛛とは謀反の罪で斬首されて首のない人の霊のことだと考えられるからだ。

また『土蜘蛛草紙』では『空飛ぶ髑髏のあとをつけていったところ、土蜘蛛の巣があったとしている。
土蜘蛛とは謀反の罪で斬首された人の霊だと考えられるので、切り離された髑髏が彷徨っているということなのだろう。

『信貴山縁起絵巻』に登場する空飛ぶ鉢とは空飛ぶ髑髏のことなのではないだろうか。

●土蜘蛛が棲む穴とは

一般的に土蜘蛛とは記紀や風土記に登場する穴の中に住む人々のことで、神武東征以前よりここに住んでいた未開民族をさすと考えられている。
しかしい私は土蜘蛛とは未開民族のことではないと思う。

朝護孫子寺の本堂の地下は『戒壇めぐり』で有名である。
戒壇めぐりとは真っ暗な廻廊を手探りで歩き、めぐるものである。
廻廊は人一人が歩けるくらいの幅のようで、中は経験したことがないほどの闇であった。
果たして自分が目をあけているのか、閉じているのかわからないくらいだった。
暫く行くとぼうっと明るい場所があり、生まれ年の守護尊が安置されていた。
真の闇を経験したあとでは、そのほのかな灯がなんともありがたいもののように思えた。

戒壇めぐりは坑道を、ぼんやり明るく見えるみほとけは鉱物をイメージしたものではないだろうか。

朝護孫子寺の本尊の毘沙門天はもとはインドのクベーラといい、地下に埋蔵される財宝の守護神とされている。

ムカデは毘沙門天の使いとされ、朝護孫子寺にはムカデのレリーフがいたるところにある。

朝護孫子寺 額
 
朝護孫子寺 ムカデのレリーフ

なぜムカデが毘沙門天の使いなのかというと、坑道のことをムカデ穴というためではないだろうか。

以前の記事、土蜘蛛の謎④ 興福寺の阿修羅は土蜘蛛だった。 で、私は次のようなことを述べた。

①興福寺の阿修羅像の左目は、いったん白でキャッチライトを入れたあと、墨で塗りつぶされている 。
②たたら製鉄では鉄の温度を見るために片目で火を見るため、片目を失明することが多かった。
③製鉄の神・天目一箇神や、西洋の製鉄の神であるキュクロープスも隻眼(一つ目)である。
④古事記・日本書紀・風土記などに『土蜘蛛は穴の中に住む』と記述があるところから、土蜘蛛とは未開の民族だと考えられている。
⑤しかし私は『穴の中にすむ』とは『坑道の中に住む』『鉱山開発を行っている人』という意味だと考えている。

File:ASURA detail Kohfukuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG?uselang=ja よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者) English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

私は土蜘蛛とは謀反の罪によって斬首された人のことだと考えているが、土蜘蛛は謀反人であると同時に鉱山を司る人でもあったのではないだろうか。

朝護孫子寺に「飛行する鉢」の物語と、坑道を思わせる戒壇めぐりが存在していることは偶然ではないと思う。

朝護孫子寺 本堂 霧

朝護孫子寺・・・奈良県生駒郡平群町

土蜘蛛の謎⑨ 清蔵、鉢を飛ばす へつづく~
トップページはこちら→ 土蜘蛛の謎① 亀石伝説

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[2017/03/10 10:34] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

土蜘蛛の謎⑦ 妖怪ぬらりひょんと亀石と土蜘蛛 

土蜘蛛の謎⑥ 燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』と呼ばれている理由 よりつづきます~

妖怪ストリート2 
妖怪ストリート

①付喪神と終い天神

『百鬼夜行絵巻』に次のように記されている。

付喪神(つくもがみ)が変化大明神を祀り、祭礼と称して夜更けに徒党を組んで西から東へと練り歩いた。

北野天満宮の南200mほどのところにある一条通はこの百鬼夜行があった通りだとされており、これにちなんで現在は一条通の大将軍商店街は妖怪ストリートと称し、店先などに妖怪の人形などを展示している。

妖怪ストリート  

妖怪ストリート

付喪神とは古くなった道具などに神や霊魂などが宿ったもののことである。
器物は100年を経ると精霊が宿って付喪神になると考えられており、そのため99年目で器物を破棄する習慣があったという。
付喪神を九十九神とも記すのはそのためだろう。

妖怪ストリート3 

妖怪ストリート

かつて年末に煤払いを行い、その際に不要になった古道具や器などを廃棄していた。
廃棄された古道具や器を北野天満宮の境内で売るようになったのが、現在でも行われているの北野天満宮の古道具市のルーツであるという。
特に年末の古道具市は煤払いを行うこともあって多くの物品が売買されたことだろう。
現在でも年末の12月25日に北野天満宮で行われる古道具市は『終い天神』と呼ばれ、多くの人で賑わう。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます


②市は斎で、交換することで浄められる?

そこでいくつかの疑問が生じる。
さきほど、「器物は100年を経ると精霊が宿って付喪神になると信じられ、99年目で廃棄する習慣があった。」と書いた。
『終い天神』には付喪神が憑いているような古い器物も売買されたのだろうか?
もし売買されていたとすれば、付喪神が憑いた器物を買う人がいたのか?
買う人がいたとすれば、気持ち悪いとは考えなかったのか?

私は付喪神が憑いているような古い器物も終い天神で売買されていたのではないかと思う。
そうであるからこそ、付喪神が北野天満宮に近い一条通りを練り歩いたなどという話ができたのではないだろうか。

古において市とは単に物品を売買するためのものではなく、神事的な意味を持っていたのではないかと私は考えている。

市とは斎(いつき)である、とする説がある。
斎とは『 飲食をつつしむ、禊をするなどして心身を清めて神に仕える』ことをいう。
つまり、市とは穢れたものを清めるための神事であったと考えられると思う。
市に出され、売買されることで付喪神は清められて悪さをしなくなるというような信仰があったのではないかと私は思うのである。

③鷽替え神事に見る市の意味

北野天満宮では行われていないが、全国の多くの天満宮で『鷽替え神事』という神事が行われている。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。


『鷽替え神事』ではまず大勢の参拝者に小さなポチ袋が配られる。
そして『替えましょう、替えましょう』と唱えながら近隣の人とポチ袋を何度も交換しあう。
ポチ袋の中には紙製や木彫りの鷽鳥の人形が入っているのだが、その中に当たりの人形が混ざっていて、当たりの人形をひいた人は様々な商品がもらえるという神事である。

『鷽替え神事』は何度も交換することで、穢れが浄められるとする神事であると言ってもいいだろう。
何度も交換するというのは市に似ている。

さきほど、市に出され、売買されることで付喪神は清められて悪さをしなくなるというような信仰があったのではないかと書いたのはこのためである。

④妖怪ぬらりひょんと亀石

さて、妖怪ストリートの中でもひときわ異彩を放ち、目立っていたのが妖怪ぬらりひょんの人形である。

妖怪ストリート ぬらりひょん 

妖怪ストリート ぬらりひょん〈中央)

『化物づくし』『百怪図巻』などの絵巻に描かれている妖怪だが、説明文がなく、どんな妖怪なのかよくわからないらしい。
忙しい夕方、どこからともなく家に入ってきて、お茶を飲むとか、妖怪の総大将だとかいわれている。

私はこのぬらりひょんの人形を見て大変驚いた。
というのは飛鳥の亀石にそっくりだったからである。
眉の間に半月形の皺があるところまで同じである。

亀石
亀石(飛鳥)

大きな頭部を持つぬらりひょんは髑髏の妖怪だと考えられる。
すると飛鳥の亀石は亀を象ったものだといわれてはいるが、実際は亀ではなく、髑髏を象ったものなのではないだろうか?

⑤亀石は髑髏を模した石だった。

一言主神社の境内に至る階段の下にも亀石と呼ばれる石があるが、やはり髑髏のような形をしている。

一言主神社 亀石
亀石(一言主神社)

そして階段を上った拝殿の横には土蜘蛛の塚と呼ばれる石があり、土蜘蛛の胴体が埋められていると言い伝わっている。

一言主神社 土蜘蛛の塚

土蜘蛛の塚(一言主神社)

土蜘蛛の頭は神殿の下に埋められたという。
亀石のある階段の下は神殿の下といえなくもない。

一言主神社 階段

昆虫は頭部・胸部・腹部の3つの部分からなる。
蜘蛛は昆虫とは違い、頭部と胸部の境がはっきりしておらず、頭胸部・腹部の2つの部分からなる。
古の人々は蜘蛛とは頭部のない昆虫だと考えたのではないだろうか。

蜘蛛の体 

土蜘蛛とは記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことであるが、土蜘蛛と呼ばれたのは彼らが謀反の罪で斬首されたためではないだろうか。
そう私は考えた。

妖怪ぬらりひょんがの頭部が飛鳥の亀石とそっくりであることは、亀石と呼ばれる石が髑髏を現した石だとする私の説を裏付けるものだと思う。

妖怪ストリート 薬屋 
妖怪ストリート
大将軍商店街・・・京都市上京区一条通 御前通西入2丁目大上之町
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[2017/03/06 00:47] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

土蜘蛛の謎⑥ 燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』と呼ばれている理由 

北野天満宮 梅2



北野天満宮 梅
土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音 よりつづきます~

①土蜘蛛の塚

満開の梅が咲き誇る北野天満宮。
拝殿前にはひっきりなしに受験生が訪れ、柏手を打って合格祈願をしている。

北野天満宮の楼門を出て参道を大鳥居の方に向かって歩いていくと右手(西)に東向観音寺というお寺がある。

東向観音寺 舞妓さん  

参道を多くの人が行きかっているが、ほとんどの人はそこに寺があることなど気にも留めずに通り過ぎていく。
東向観音寺の境内には舞妓さんがひとりいるだけでひっそりとしていた。
しかし、ここには有名な『土蜘蛛の塚』があり、オカルトファン必見の名所なのである。

本堂の向かって左の奥まったところに小さい祠が作られていて、中に燈籠の火袋が納められていた。
これが『土蜘蛛の塚』である。

東向観音寺 土蜘蛛の塚 
東向観音寺 土蜘蛛の塚

北野天満宮から10分ほど歩いたところ(七本松通一条上る)に清和院という寺がある。




この清和院前に『蜘蛛塚』または『山伏塚』と呼ばれる墳丘があった。
明治31年にこの塚の発掘調査が行われた際、この燈篭が発掘された。
たいして学術的に価値があるものではなかったのだろう、ある人が燈籠を貰い受けて庭に飾っておいたところ、いろいろよくないことが起こるようになり、土蜘蛛の祟りだという噂たたった。
それでその火袋を東向観音寺に奉納したのだという。

『土蜘蛛草子』に、平安時代、源頼光が土蜘蛛を退治したという物語が記されている。
この話は『頼光と土蜘蛛』というタイトルで大念仏狂言の演目にもなっている。

嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 
嵯峨狂言・頼光と土蜘蛛

清和院前にあった蜘蛛塚はこの頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だとされている。
しかし現在、蜘蛛塚はない。
明治31年の発掘調査の際に取り壊されたのだろう。

清和院    
 清和院

②土蜘蛛と髑髏の関係


なぜ燈籠の火袋が土蜘蛛の塚とされたのか。
それはもちろん、その燈籠の火袋が蜘蛛塚から出土したものだからだが、私は他にも理由があると考えている。

土蜘蛛草子によれば、『源頼光らが空飛ぶ髑髏のあとをつけていったところ土蜘蛛の巣があった。』と記されている。
どうも髑髏と土蜘蛛は関係が深いようだ。
土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった?
↑ こちらの記事の中で私は一言主神社にある『土蜘蛛の塚』と『亀石』について、次のように記した。

一言主神社の言い伝えを整理すると次のようになる。

土蜘蛛の胴体・・・土蜘蛛の塚の下に埋められた。
土蜘蛛の頭部・・・神殿の下に埋められた。
土蜘蛛の脚・・・・神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められた。

『土蜘蛛の塚』は見る角度によっては二つのふくらみがあるように見え、蜘蛛の形をしているように見える。
(蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部位よりなる。)

一言主神社 土蜘蛛の塚 

一言主神社 土蜘蛛の塚

そして亀石は階段の登り口にあるが、この場所は土蜘蛛の頭部を埋めた神殿の下、といえなくもない。
亀石はどことなく人間のドクロを思わせるような形をしている。

一言主神社 亀石
 
一言主神社 亀石
飛鳥の亀石も人間のドクロに似ている。

亀石 
飛鳥 亀石

『土蜘蛛の塚』が土蜘蛛の胴体を埋めたうえに置いた石であるならば、亀石は土蜘蛛のドクロを埋めたうえに置いた石なのではないか。

昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれているが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなり、昆虫とは別の動物とされている。

蜘蛛の体  


『土蜘蛛の塚』は蜘蛛の形に似ているが、これに階段の登り口にある『亀石』を合体させると蟻のような昆虫の形になる。
ここから私は『昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないか。』と考えた。
そして『記紀に登場するまつろわぬ民・土蜘蛛とは謀反の罪などで斬首された人のことではないか。』と推理した。

とすれば、空飛ぶ髑髏と土蜘蛛の関係がわかる。
土蜘蛛の髑髏は胴体から切り離されてしまったので、居場所がなく、空を飛んでいるのではないだろうか。

③髑髏を思わせる鉢形の笠

東向観音寺の燈籠の笠の部分は、まるで鉢をひっくり返したような丸みを帯びた形をしている。
また、『鉢が開く』『鉢巻』などのように、頭のことを『鉢』ということがある。
東向観音寺の燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』と呼ばれているのは、その笠の部分が髑髏を思わせるような鉢形をしているためではないだろうか。

一言主神社の『土蜘蛛の塚』は首が切り離された『土蜘蛛の胴体』を模した石であるのに対し、東向観音寺の『土蜘蛛の塚』は胴体から切り離された『土蜘蛛の首』をイメージさせるところから『土蜘蛛の塚』と呼ばれているのだと思う。

亀石とは土蜘蛛の胴体から切り離された頭部のことだと考えられるので、東向観音寺の『土蜘蛛の塚』は『亀石』だと言ってもいいだろう。

北野天満宮 梅 
北野天満宮 梅


東向観音寺・・・京都市上京区今小路通御前通西入上る観音寺門前町 863



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[2017/02/22 13:03] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音 


三月堂と百日紅

土蜘蛛の謎④ 興福寺の阿修羅は土蜘蛛だった。よりつづく~

①三月堂

3月にお水取りが行われることで有名な東大寺二月堂の隣に、2つの建物を合体させたような不思議な形のお堂がある。 三月堂である。

東大寺創建以前、ここにた金鍾寺(きんしょうじ)という寺があったとされる。

『続日本紀』によれば、728年に聖武天皇と光明皇后が幼生した基皇子の菩提を弔うために若草山麓に山房を設けて9人の僧を住まわせたとあり、これが金鐘寺の前身と考えられている。

8世紀半ば、金鐘寺には羂索堂や千手堂が存在していたという。
この羂索堂が現在の東大寺・三月堂だと考えられている。

三月堂はもとは寄棟造正堂と礼堂の二つの建物であったものを、鎌倉時代に礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだそうである。
正堂は天平初期、礼堂は鎌倉時代の建築で、 三月堂は現存する東大寺最古の建物である。

三月堂 鹿 
 三月堂と鹿

②不空羂索観音と土蜘蛛

三月堂の堂内には日光菩薩、月光菩薩、金剛力士など天平時代に刻まれた美しいみほとけたちが安置されている。
中央に安置されているのは三月堂御本尊の不空羂索観音である。
像高3.6メートルもある巨大な像で、宝冠には約2万粒の宝石がつけられている。 

File:Todaiji Monaster Fukukensaku Kwannon of Hokkedo (232).jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ATodaiji_Monaster_Fukukensaku_Kwannon_of_Hokkedo_(232).jpg よりお借りしました。

作者 Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition

不空羂索観音は八本の腕をもっているが、下から二番目の左手には羂索を持っている。

コトバンクによれば、『羂索とは狩猟の道具である』と説明がある。
5色の糸をより合わせた縄の片端に環、もう一方の端に独鈷杵の半形をつけたもので、観音の慈悲によって人々を逃すことなく救うことを意味しているという。
不動明王や千手観音も羂索を持っている。

仏像ドットコムには『羂索とは、インドで猟や戦いに用いられる投げ縄状の網のこと』だと記されていた。

不空羂索観音はその羂索であらゆる衆生をもれなく救済する観音であるという。
私は不空羂索観音が羂索を投げる姿を想像してみた。
もしも羂索が網であったなら、網はぱあっと広がって、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようではないか。

六波羅蜜寺 追儺式3

↑六波羅蜜寺の追儺式に登場した土蜘蛛

  土蜘蛛とは奈良時代の記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことである。
まつろわぬ民とは、謀反人のことであるといってもいいかもしれない。

もう一度、不空羂索観音の写真をみてほしい。

珍しいデザインの光背はまるで蜘蛛の巣のようである。
そして不空羂索観音の腕は8本だが、蜘蛛の脚も8本である。

三月堂の不空羂索観音は土蜘蛛=謀反人を表現したものではないだろうか。

蜘蛛の体  

③トガノの鹿

不空羂索観音の肩にかけてあるケープのようなものは鹿の皮である。

不空羂索観音は野獣の毛皮を纏うところから、ヒンドゥー教のシヴァ神や、山岳信仰との関連づける説もある。
山岳信仰といえば修験道だが、修験道の山伏は鹿の皮を腰につけている。

日本書紀の仁徳天皇紀に『トガノの鹿』という物語が記されている。

仁徳天皇が皇后と涼をとっているとトガノの方から鹿の鳴き声が聞こえてきた。
天皇はその鹿の鳴き声をしみじみと聞いていたが、あるとき急に鳴き声がしなくなった。
翌日、佐伯部が天皇に鹿を献上したが、その鹿は天皇が夜な夜な鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿だった。
気分を悪くした天皇は佐伯部を安芸の渟田に左遷した。


この話のすぐあとに、次のような話が記されている。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

 大仏殿 鹿

鹿 東大寺 大仏殿付近

④志貴皇子暗殺説


以前、図書館で借りて志貴皇子暗殺説について記された本を読んだのだが、本のタイトルや著者の名前を忘れてしまった。(申し訳ありません!)

その説の内容はだいたい次のようなものだった。

①かつて謀反の罪で殺された人には塩を振ることがあった。
トガノの鹿に登場する雄鹿は謀反人を喩えたものである。
②萩は別名を「鹿鳴草」という。
③笠金村が志貴皇子の挽歌を詠んでいる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

百毫寺に萩が植えられているのは、この挽歌にちなむものである。
④笠金村は志貴皇子の挽歌を二首詠んでいる。
a.高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
b.御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


aの歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせ、bの歌は志貴皇子の死は最近のことなのに、ずいぶん以前のことであったようだといぶかっているようである。
万葉集詞書によれば志貴皇子の薨去年は715年としている。しかし正史では716年となあっている。
志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年ほど伏せられていたのではないか。
⑤のちに志貴皇子の子である光仁天皇が即位していることから、志貴皇子には皇位継承権があったのではないか。

百毫寺 萩

百毫寺 萩

⑤鹿や萩が謀反人に喩えられた理由

この説を読んで、私はなるほど、そのとおりだろう、と思った。

①のトガノの鹿の物語は、鹿の夏毛には白い斑点があるのを、塩に見立てたものだと思う。
また白い萩も塩を振ったように見える。
萩には紫色の花もあるが、こちらは雌鹿をイメージしたものだと思う。
というのは次のような歌があって、恋する女性は紫色に喩えられていたように思われるからである。
紫は 仄(灰)さすものぞ つば市の 八十のちまたに 逢へる児や誰/詠み人知らず
紫色に布を染めるには灰を媒染として用いていた。
灰をいれると布が紫色に染まるように、男にあったとたん、女がぽっと赤くなった、というような意味だろうか。
紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも/大海人皇子
(草の紫色のように美しいあなたのことを憎く思っているならば、人妻だからといって恋心を秘める必要などないのに。)

という歌もある。

⑥志貴皇子には皇位継承権があった

⑤のちに志貴皇子の子である光仁天皇が即位していることから、志貴皇子には皇位継承権があったのではないか。
としておられるが、これを裏付ける伝説が奈良豆比古神社にある。

『平城津彦神社由来』にはこのようにある。
大友皇子側についていた志貴皇子は壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮に葬られた。 
志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は春日王をよく看病していた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)に長けており、ある日春日大社で神楽を舞い、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊された。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれたが、これは奈良坂に住んだ春日王のことと関わりがあるかもしれない。 


しかし『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは次のような語りを伝承しているという。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。


ここに「志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった」とある。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞


⑦志貴皇子を暗殺したのは誰?

志貴皇子が暗殺されたのが事実であならば、志貴皇子は誰に暗殺されたのだろうか。
私は元正天皇と舎人親王が怪しいと思う。

万葉集詞書によれば志貴皇子は715年に薨去したとされているが、この年、元正天皇が即位している。
奈良豆比古神社では志貴皇子は志貴親王と記している。
志貴皇子は親王であり、皇太子であったかもしれない。
それを元正天皇が自分が皇位につくために志貴皇子暗殺を企てたのではないだろうか。

元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)


山人とは『山に住む人』『仙人』という意味だが『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。

私はこの歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないかと思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、高円山には志貴皇子の墓がある。
高円山に住むむささびとは志貴皇子のことをいっているのだと思う。
志貴皇子は自分自身をむささびに喩えて歌を詠んだのだろう。

奈良大文字送り火

高円山 送り火

元正上皇がいう『山人』とは志貴皇子、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死』を意味しているのではないだろうか。

⑧不空羂索観音は志貴皇子の怨霊封じ込めの像?


元正天皇が女の身でありながら皇位についたのは、弟の首皇子(のちの聖武天皇)へ皇位をつなぐためであった。
首皇子を即位させることは、元正天皇の祖母・元明天皇の悲願だった。

724年、元正天皇の譲位を受けて首皇子が即位し聖武天皇となった。
727年、聖武天皇と藤原光明子の間に基皇子が生まれたが、基皇子は728年に夭逝してしまった。
聖武天皇や藤原光明子は基皇子が夭逝したのは志貴皇子の怨霊のせいだと考えたのではないだろうか。

そして三月堂は728年に聖武天皇と光明皇后が夭逝した基皇子の菩提を弔うために創建された金鐘寺の 羂索堂だった。

「蜘蛛の巣のような光背を背負い、手には羂索を持つ羂索堂の本尊・不空羂索観音。
手に持つ羂索を投げる姿を想像すれば、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようである。
また肩には謀反人のイメージを持つ鹿のケープを身に着けている。
この不空羂索観音はまつろわぬ民・土蜘蛛=志貴皇子の怨霊を封じ込めた像なのではないだろうか。

嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 
嵯峨狂言・頼光と土蜘蛛



※東大寺・・・奈良市雑司町


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[2017/02/16 19:17] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

土蜘蛛の謎④ 興福寺の阿修羅は土蜘蛛だった。 


奈良奥山ドライブウェーより大仏殿・興福寺五重塔を望む
興福寺五重塔と東大寺大仏殿
 
土蜘蛛の謎③ 一言主大神はドザエモンだった? よりつづく~

①興福寺の阿修羅は土蜘蛛を表している?


興福寺の国宝館に八部衆の像が安置されている。 (八部衆の写真はこちら→

五部浄像(ごぶじょうぞう)は像の冠をかぶっている。
乾闥婆像(けんだつばぞう)は獅子の冠をかぶっている。 
緊那羅像(きんならぞう)は一本の角と三つの目を持っている。角が生えているのは動物だといえるかもしれない。

迦楼羅像(かるらぞう)は頭が鳥で体が人間である。

File:Karura of Kofukuji.jpg 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Karura_of_Kofukuji.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
作者 撮影・小川一真(「彫刻写真帖」) (http://webarchives.tnm.jp/archives/cat/database) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

畢婆迦羅像(ひばからぞう)はニシキヘビを神格化した神である。
沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いている。

File:Statues of Tianlong babu.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Statues_of_Tianlong_babu.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
作者 撮影・工藤利三(「社寺建築写真帖3」) (http://webarchives.tnm.jp/archives/cat/database) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
左・畢婆迦羅像、右・沙羯羅像(興福寺)




鳩槃荼像(くばんだぞう)は夜叉であり、特別、動物のイメージはないように思われるが、八部衆のうち五部浄像・沙羯
迦像・乾闥婆像・楼羅像・畢婆迦羅像には明確に動物のイメージがある。
 
興福寺の八部衆の中でもっとも有名な阿修羅はどうだろうか。

File:ASURA Kohfukuji.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_Kohfukuji.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 English: OGAWA SEIYOU [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

私は阿修羅の細長い、筋肉のついていない腕を見て、これは昆虫の足に似ていると思った。
蜘蛛に似ていると思うがどうだろうか。

蜘蛛の体 

現在の阿修羅は胸前で合掌しているが、もともとは合掌していなかったという。
阿修羅の合掌する腕の肘から下を下にむければますます蜘蛛に似ている。
蜘蛛の脚は8本である。
阿修羅の腕は6本で2本足りないが、脚の2本を足すと蜘蛛と同じ8本になる。

古事記・日本書紀・風土記などに『土蜘蛛』と呼ばれる人々についての記述がある。

土蜘蛛とは朝廷にまつろわぬ民のことで、穴の中に住み、身体的特徴として『背が低くて手足が長い』と記されている。
阿修羅像の像高は台座の部分を含めて153.4cmと小柄で、脚の長さはそうでもないが、腕は異常に長い。

②隻眼の神

また阿修羅像の左目は、いったん白でキャッチライトを入れたあと、墨で塗りつぶされている。

File:ASURA detail Kohfukuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG?uselang=ja よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者) English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

阿修羅は隻眼なのである。

③隻眼はたたら製鉄の神


隻眼はたたら製鉄に携わる人の職業病である。
たたら製鉄では鉄の温度を見るために片目で火を見るため、片目を失明することが多かったという。

興福寺 藤 

興福寺 藤

④土蜘蛛は坑道の中に棲んでいた?


日本書紀・風土記などに『土蜘蛛は穴の中に住む』と記述があるところから、土蜘蛛とは未開の民族だと考えられているが、私はそうではないと思う。
『穴の中にすむ』とは『坑道の中に住む』という意味で、『鉱山の神』を意味しているのではないだろうか。

阿修羅をはじめとする八部衆像はもともとは西金堂に安置されていた。
西金堂は734年に光明皇后が亡母・橘三千代のために建立したものだが、現存していない。

興福寺 夕景
興福寺 夕景


⑤阿修羅は阿部内親王16歳像?


西金堂が建立された734年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿部内親王は16歳であり、阿修羅像は阿部内親王16歳の姿をうつした像ではないか、という説がある。

阿部内親王は女性として初めて皇太子に立てられた人物で、749年に即位して孝謙天皇となった。
758年には淳仁天皇に譲位したが、764年に重祚(再び天皇になること)し、称徳天皇となっている。

淳仁天皇から皇位を取り上げると宣言して重祚したり、藤原仲麻呂の乱を平定したりとなかなかの女傑だったようである。

采女祭2

采女祭 後方に見えているのは興福寺五重塔

⑥称徳天皇は蝦夷だった?

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身であると記されている。

当時、日本の東国には蝦夷と呼ばれるまつろわぬ民が住んでおり、朝廷はたびたび蝦夷征伐の軍を送っていた。
あるとき、大野東人が率いる朝廷軍が蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたというのである。
また東大寺の大仏建立に用いられた黄金は、称徳天皇が蝦夷で東国出身であった関係で、奥州から送られたと記されている。

『東日流外三郡誌』は後世の偽書であるとされているが、なかなか興味深い記事である。
もしも『東日流外三郡誌』がいうように、称徳天皇が安倍氏の血をひいており、阿修羅像が阿部内親王16歳像であるとすれば、阿修羅が蜘蛛の姿をしていること、隻眼であることの理由がわかる。

安倍氏は朝廷に服しない蝦夷であった。
安倍氏は土蜘蛛というにふさわしい。
また奥州では金が採掘されているため、鉱山の神は隻眼だということで、阿修羅は片目が潰されて隻眼にされたのではないだろうか。

興福寺 ライトアップ  

興福寺 夜景

興福寺・・・奈良県奈良市登大路町48

土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音へつづく~
トップページはこちら→土蜘蛛の謎① 亀石伝説


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[2017/01/30 20:09] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

土蜘蛛の謎③ 一言主大神はドザエモンだった? 

土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった? よりつづく~
一言主神社 公孫樹2

一言主神社

①木霊の神

古事記に次のような話がある。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがあったが、その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちであった。
雄略は『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と言った。
すると、向かいの山の方から、全く同じような返答が返ってきた。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえた。
雄略は『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』
と言った。
向こうは『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と言った。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上した。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送った。 


葛城山の南に金剛山があるが、かつて葛城山と金剛山はどちらも葛城山と呼ばれていた。
そして葛城山の山麓近くには一言主神社が、金剛山の山頂近くには葛木神社があって、どちらも一言主大神を祀っている。

高校のときにワンダーフォーゲル部に所属していた友人に聞いたのだが、葛城山から金剛山へ至るダイヤモンドトレールと呼ばれる道ではよく山彦が聴こえるという。

雄略天皇と同じいでたちをし、同じ言葉を語る一言主大神とは木霊(山彦)を神格化したものではないだろうか。

一言主神社には樹齢1200年と伝えられる御神木の大公孫樹がある。
木霊(山彦)はこの大公孫樹の声だと考えられたのかもしれない。

一言主神社 公孫樹

一言主神社 大公孫樹

②一言主大神はドザエモン?

797年に記された続日本紀は、古事記の記述とは異なっている。

高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争い、そのため天皇は一言主神を土佐国に流した。

土佐の一の宮、土佐神社には天皇が流罪とした一言主神が祀られている。

土佐神社という神社名はどこからつけられたのだろうか。
土佐にあるから土佐神社なのだろうか。
とすれば土佐という地名の由来は何なのだろうか。
土佐はかつて土左とも記したそうである。
もしかすると土佐という地名は土左衛門と関係があるのではないだろうか。

③水死体のことを土左衛門と言うのは、成瀬川土左衛門に由来するとは言い切れない。


土左衛門とは水死体のことである。
一般に、水死体のことを土左衛門というのは享保年間の力士「成瀬川土左衛門」が大変な肥満体で、体が膨れあがった水死体に似ていたためだと言われている。
しかし、これとは別の説もあり、土左衛門の語源が「成瀬川土左衛門」だという説は絶対的なものではない。

④土佐=十三?


土佐という地名から、私は青森県の十三湖(じゅうさんこ)にかつてあった十三湊(とさみなと)という地名を思い出す。
十三湊(とさみなと)という地名は十三湖(じゅうさんこ)の「十三」を「とさ」とよんだところからくるのだろう。
土佐も十三湊の十三と同じく「とさ」と読むが、この土佐という地名は十三からくるのではないだろうか?

⑤土左衛門=十三=重蔵?

大阪市の地名に十三というのがある。
「とさ」ではなく「じゅうそう」と読む。
この十三(じゅうそう)の地名の由来は『重蔵(じゅうぞう)』という人物の名前からくる、という説がある。

さらに石川県輪島市に「重蔵神社」がある。

重蔵神社 猿田彦
 
重蔵神社 祭の行列

能登には漁師の重蔵とお小夜の悲恋伝説が伝わっている。
伝説には様々なパターンがあるが、そのひとつに次のようなものがある。

漁師の重蔵が水死し、恋人のお小夜は悲しむあまり、海に入って死んでしまった。

水死した重蔵は水死体、すなわち土左衛門である。

重蔵神社の重蔵とは水死体を意味する「土左衛門(どざえもん)」が「土左(とさ)」→「十三(じゅうさん)」→「じゅうそう」→「じゅうぞう」→「重蔵」となったのではないだろうか。

あるいは「十三(じゅうさん)」や「土左(とさ)」という言葉はもともとは「水死体」を意味するものであり、「土左(とさ)」→「十三(じゅうさん)」→「じゅうそう」→「じゅうぞう」→「重蔵」となったのかもしれない。

重蔵神社 キリコ 
重蔵神社 キリコ祭

⑤男幽霊は土左衛門

輪島は舳倉島の奥津比咩(おくつひめ)神社に対する信仰が厚い土地で、重蔵神社の祭礼は、舳倉島の女神と輪島の男神が結ばれる祭とされている。
お小夜は舳倉島の女神の化身だと考えられる。

輪島市名舟町においても舳倉島の女神は厚く信仰されていたが、この名舟の郷土芸能として御陣乗太鼓がある。
御陣乗太鼓3

御陣乗太鼓(向かって右端が男幽霊ではないかと思います。)


達磨太子、翁、男幽霊、女幽霊などの面を被った人々が太鼓を打ち鳴らすというものだが、男幽霊の面は別名を土左衛門(どざえもん)という。

男幽霊の別名が土佐衛門だと聞いて、私は重蔵神社という神社名の由来も土佐衛門からくるものにちがいないと確信した。

男幽霊は水死した土左衛門であり、土左から転じて重蔵と呼ばれるようになったのだろう。
女幽霊はもちろん、お小夜(=奥津比咩)である。

御陣乗太鼓3

御陣乗太鼓

⑤土佐は土左衛門の霊がうごめく土地?

土佐神社に話を戻そう。
土佐は石川県の輪島と同じように漁師が多い。
暴風雨などにより海で命を落とす人も多かったことだろう。
土佐は土佐衛門の霊がうごめく土地だったといえるのではないだろうか。

御陣乗太鼓

御陣乗太鼓

⑥土佐はあの世、流刑者は土左衛門に喩えられていた?

さらに古の人々は平安京の中をこの世、平安京の外はあの世になぞらえていたそうである。
流刑地であった土佐もまた、あの世に喩えられたことだろう。

するとあの世に喩えられる流刑地に流される流刑者は水死体=土佐衛門に喩えられたのではないかと思えてくる。
そして、一言主大神は天皇に土佐に流罪とされた神であった。
一言主大神もまた土佐衛門だったといえるのではないだろうか。

⑦一言主大神は土蜘蛛だった?

一言主大神を祀る一言主神社には土蜘蛛の塚が置かれている。
土蜘蛛とは記紀や風土記に登場する「まつろわぬ民」のことである。
前回、私は土蜘蛛とは「首のない人」のことではないかと論じたが、首がないのは謀反の罪で斬首されたためである。
一言主神社に土蜘蛛の塚が置かれているのは、一言主大神が謀反の罪で斬首された土蜘蛛であるからではないだろうか。
土蜘蛛は謀反の罪で斬首され、さらに土佐へ流罪となったのではないか。

御陣乗太鼓2

御陣乗太鼓
葛城一言主神社・・・奈良県御所市森脇字角田432
重蔵神社・・・石川県輪島市河合町4-68


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[2017/01/29 23:58] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった? 


①葛城一言主神社の亀石と土蜘蛛の塚

前回の記事 で飛鳥の『亀石』について述べたが、葛木一言主神社にも[『亀石』と呼ばれる石がある。

一言主神社 公孫樹2
葛城一言主神社

葛城一言主神社は葛城山の中腹にあるため、長い階段が設けられている。
『亀石』はその階段の上り口の向かって左手にある。

一言主神社 亀石 

亀石

階段を登ると境内で、樹齢1200年と伝わるイチョウの木、神殿、拝殿などがある。
この拝殿の横に『土蜘蛛の塚』と呼ばれる石がある。

一言主神社 土蜘蛛の塚  

土蜘蛛の塚


一言主神社の『土蜘蛛の塚』は土蜘蛛の胴体を埋めた上に石を置いたもの、頭は神殿の下、足は神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められたといわれている。

土蜘蛛とは記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことで、『穴の中に住む』と記されている。
『穴の中に住む』とあるところから、土蜘蛛とは未開の民族であると考えられている。

この土蜘蛛をモチーフとした大念仏狂言や六斎念仏などの演目がある。

嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 
嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 

②『土蜘蛛の塚
は蜘蛛、『亀石』はドクロを表している?

一言主神社の言い伝えを整理すると次のようになる。

土蜘蛛の胴体・・・土蜘蛛の塚の下に埋められた。
土蜘蛛の頭部・・・神殿の下に埋められた。
土蜘蛛の脚・・・・神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められた。


『土蜘蛛の塚』は見る角度によっては二つのふくらみがあるように見え、蜘蛛の形をしているように見える。
(蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部位よりなる。)

そして亀石は階段の登り口にあるが、この場所は神殿の下、といえなくもない。

一言主神社 階段 
一言主神社 階段

また、亀石はどことなく人間のドクロを思わせるような形をしている。
そういえば飛鳥の亀石も人間のドクロに似ている。

亀石

飛鳥 亀石


『土蜘蛛の塚』が土蜘蛛の胴体を埋めた上に置いた石であるならば、亀石は土蜘蛛のドクロを埋めたうえに置いた石なのではないだろうか。

土蜘蛛の胴体・・・土蜘蛛の塚の下に埋められた。・・・土蜘蛛の塚(蜘蛛形の石)
土蜘蛛の頭部・・・神殿の下に埋められた。・・・・・・・・・亀石(ドクロ形の石)
土蜘蛛の脚・・・・神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められた。

③頭部のない昆虫
昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれているが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなり、昆虫とは別の動物とされている。

蜘蛛の体  

『土蜘蛛の塚』は蜘蛛の形に似ているが、これに階段の登り口にある『亀石』を合体させるとアリのような昆虫の形になる。

それで閃いたのだが、昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないだろうか。

こう考えれば、土蜘蛛の胴体を埋めたうえに置いた石『土蜘蛛の塚』が蜘蛛の形をしていること、『土蜘蛛の塚』に『亀石』をくっつけると昆虫のように見えることの説明がつく。

ということは、記紀に登場する土蜘蛛とは首を斬られた人の霊なのではないだろうか。
そして亀石とは土蜘蛛の斬られた首=ドクロを模した石なのだと思う。

一言主神社 天狗・神職・お多福・翁のお練り2

一言主神社 秋季大祭

④負けたのはナマズなのに、なぜ死んだのは亀なのか。

土蜘蛛の謎① 亀石伝説 ←こちらの記事で、私は飛鳥の亀石の伝説をご紹介した。

かつて大和は湖であり、当麻の蛇と川原のナマズが湖を二分して支配していた。
あるとき、蛇とナマズが湖の支配権をかけて争い、川原のナマズが負けた。
その結果、湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。
亀石はその追悼の意味から造られたもので、この石が当麻のある西を向いた時には、大和盆地は大洪水がおこって湖になると言い伝えられている。

そして次のような疑問を記した。
「争ったのは當麻の蛇と川原のナマズで、争いに負けて死んだのは川原のナマズだと考えられる。
それなのになぜ死んだのはナマズではなく亀なのだろうか?」と。

川原のナマズとは蘇我入鹿を比喩的に表現したものだと考えられる。
そして死んだ亀とは蘇我入鹿のドクロを比喩したものだと私は思う。

川原のナマズ・・・蘇我入鹿
死んだ亀・・・・蘇我入鹿のドクロ

このように考えれば、戦いに敗れたのはナマズだが、その結果死んだのが亀だということの理由がわかる。
亀とはナマズの髑髏のことだったのだ。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭



葛城一言主神社・・・奈良県御所市森脇字角田432


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[2017/01/27 21:09] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)

土蜘蛛の謎① 亀石伝説 

① 飛鳥の亀石

飛鳥路を歩いていくと、謎の石造物が次々に現れる。
中でもそのユーモラスな姿で有名なのが亀石である。
亀石は亀を象ったものではなく、蛙を象ったものではないかともいわれている。

亀石 
亀石


②亀石の伝説

亀石には次のような伝説がある。

かつて大和は湖であり、当麻の蛇と川原のナマズが湖を二分して支配していた。
あるとき、蛇とナマズが湖の支配権をかけて争い、川原のナマズが負けた。
その結果、湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。
亀石はその追悼の意味から造られたもので、この石が当麻のある西を向いた時には、大和盆地は大洪水がおこって湖になると言い伝えられている。


③水の都・飛鳥

以前、テレビで古代の飛鳥を再現したCGを見たことがあるのだが、それはまさに水の都であった。

酒船石や亀形石造物は宮廷の水をひく庭園施設ではないかとされる。

酒船石  
酒船石

亀型石

亀型石

飛鳥板蓋宮跡の北西には飛鳥京跡苑池遺跡がある。
石神遺跡から出土した須弥山石は噴水施設であり、池が作られていたと考えられている。

須弥山石
須弥山石(飛鳥資料館にあるレプリカ)
また蘇我馬子の邸宅には島を浮かべた池があったという。

④大和湖


古代の奈良盆地には巨大な湖・大和湖があったという説もあり、亀石伝説は大和湖を舞台として創作されたものだとも言われている。

⑤川原のナマズ、當麻の蛇の正体

しかし亀石伝説のいう『湖』とは飛鳥が水の都であったことの喩えなのではないかと、私は思う。

当麻の蛇に負けた川原のナマズとは645年の乙巳の変で殺害された蘇我入鹿、当麻の蛇とは中大兄皇子もしくは中臣鎌足のことではないだろうか。

中大兄皇子と中臣鎌足は乙巳の変で蘇我入鹿を殺害した人物だ。

⑥蘇我氏の都から天智天皇の都になった飛鳥


当時蘇我氏は絶大な権力を握っており、飛鳥に水の都の基礎を築いたのは蘇我氏だといえるだろう。
しかし645年、中大兄皇子と中臣鎌足がクーデターをおこして蘇我入鹿を斬り、蘇我氏宗本家は滅んだ。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社) 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。

その後、孝徳天皇が難波宮に遷都したが、653年中大兄皇子は皇祖母尊・皇后・皇弟(大海人皇子)をひきつれて飛鳥に戻った。
臣下の多くも中大兄皇子に従った。
孝徳天皇はひとり難波宮に残されてしまう。

こうして水の都は蘇我氏から中大兄皇子の手に移った。
これを比喩して『湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。』と表現したのではないだろうか。

つまり、勝った當麻の蛇とは中大兄皇子と中臣鎌足、負けた川原のなまずとは蘇我氏の比喩ではないかということである。

飛鳥板葺宮跡 
飛鳥光の回廊・飛鳥板葺宮跡(蘇我入鹿が殺害された皇極天皇の宮)

⑦當麻と藤原氏の関係

二上山のふもとにある當麻寺は『当麻氏』の氏寺であるが、この當麻寺に藤原豊成の娘・中将姫が出家して住んだという伝説がある。
中将姫の父・藤原豊成は中臣鎌足(=藤原鎌足/中臣鎌足は天智天皇より藤原姓を賜っており、藤原氏の始祖である。)の曾孫にあたる。

藤原豊成の妻・藤原百能の父親は藤原京家の麻呂で、母親は當麻氏だった。
ここから当麻寺と中臣鎌足や藤原氏の関係が伺える。

また中大兄皇子の『中大兄』とは『次の皇太子』という意味で、実際には葛城皇子と呼ばれていたと考えられている。
当麻は葛城と呼ばれた奈良盆地南西部に隣接する土地であり、やはり関連性が伺える。

當麻寺 蓮華草

當麻寺

⑧ナマズvs蛇の戦いでなぜ亀が死んだのか?


しかし、争ったのは當麻の蛇と川原のナマズで、争いに負けて死んだのは川原のナマズだと考えられる。
それなのになぜ死んだのはナマズではなく亀なのだろうか?
亀とは何を比喩したものなのだろうか。

石舞台古墳 夕日

蘇我馬子の墓といわれている飛鳥の石舞台古墳




土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった? へつづく~

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[2017/01/25 22:12] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)