小倉百人一首 9番
花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に/小野小町
(花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。)

髄心院(小町の邸宅跡と伝わる)
①小野小町は男だった?前回の記事、私流とんでも百人一首 8番 わが庵は 『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王?』⑧で、「小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか」と書いた。
その理由をもう少し詳しく述べておこう。
a.小町は穴のない体であったといわれる。穴がない体とは男だということではないか。
b.古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調している。
小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし
小町の実体が男であるので、逆に女を強調したのではないか。
c.古今和歌集仮名序は紀貫之が書いたと言われている。
紀貫之が著した土佐日記の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」だった。
紀貫之は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。
d.古今和歌集には、男が女の身になって詠んだ歌が数多く存在している。
e.補陀落寺の小野老衰像は骨格がしっかりしていて男性のように見える。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000200
f.小野小町は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか?
g.『古今和歌集』の女性歌人で名前に町とあるのは三国町、三条町である。
『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
名前に町とつくのは紀氏の女性をあらわしているようである。
紀静子は惟喬親王の母親だった。
つまり、惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そういうことで小町なのではないだろうか。
詳しくはこちらのシリーズに書いたので、興味があればお読みいただけると嬉しいです。→ 小野小町は男だった?
②三重の意味があった小町の歌
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされている。
しかしよくよく味わってみると、この歌には二重どころか三重の意味があるではないか!
この歌の3番目の意味は・・・
私はこんなに堂々とした男らしい歌を他にしらない。
③小町の歌の一般的な解釈
まずこの歌の一般的な2つの解釈について見てみよう。
『花』は古今集の排列からすると桜だとされている。
そして『色』には赤・青・黄などの色(英語のColor)と、容色のふたつの意味がかかる。
『世にふる』は『世にあって時を経る』という意味だが『世』には男女関係という意味もある。
『ふる』は『降る』の掛詞である。
『ながめ』は『物思いにふける』という意味で、『長雨』と掛詞になっている。
このような技法を駆使しているため、この歌には二重の意味があるとされる。。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。

髄心院 はねずの梅
④色褪せたはねずの梅
小町の邸宅跡と伝わる,京都・,随心院にはたくさんの「はねずの梅」が植えられている。
はねずの梅は遅咲きで3月ごろに赤やピンクなどの鮮やかな花をつける。
はねずの花が満開になるころ,随心院では深草少将百夜通いをテーマにした『はねず踊り』が奉納されている。

髄心院 はねず踊
また鮮やかな赤やピンクのはねずの梅の色のこともはねずといい、色褪せやすいことから『はねず』は『移る』の枕詞になっている。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌に詠まれた花とは、桜ではなくはねずの梅のことだと考えたほうがぴったりくる。
そうであるのに、なぜこの歌は桜の歌として古今集に取り入れられているのだろうか。
惟喬親王との世継ぎ争いに勝利して即位した惟仁親王(清和天皇)の母親は藤原明子だが、明子の父・藤原良房が次のような歌を詠んでいる。
染殿の后のおまへに花瓶(はながめ)に桜の花をささせたまへるを見てよめる
(染殿の后の前の花瓶に桜の花をいけてあるのを見て詠んだ。)
年ふれば 齢(よはひ)は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
(年を重ねたので齢は老いたが、美しい桜の花を見れば、悩みなどありはしない。)
染殿の后とは良房の娘の明子のことである。
桜の花のように美しい娘の明子は文徳天皇の后となって惟仁親王を産み、その惟仁親王は皇太子となった。
惟仁親王が即位して清和天皇となると、良房は清和天皇の摂政となって政治の実権を握った。
娘の明子が清和天皇を産んだので良房には悩みなどなかったのである。
この歌から当時桜は栄華の象徴だと考えられていたということがわかる。
桜の花の色は淡いピンク色である。
一方はねずの梅は鮮やかなピンク色をしている。
その鮮やかなピンク色のはねずの梅の花の色が長雨のために色が落ち、淡いピンク色の桜になったということで桜の歌として取り上げられたのではないかと思う。

髄心院 八重桜
⑤ぎなた読み
言葉遊びのひとつに『ぎなた読み』というのがある。
『弁慶が なぎなたを もって』と読むべきところを『弁慶がな、ぎなたを持って』などのように、区切りを誤って読むことをいう。
宮沢賢治の『どんぐりと山猫』という物語に『たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。』という文章がある。
正しくは『どってこ どってこ どってこと』と読むのだが、それを私の友人は『どって こどって こどって こと』と読んだ。
これなども『ぎなた読み』だといえるだろう。
『ぎなた』や『こどって』という言葉はないが、小野小町はぎなた読みをしても意味が通じるように歌を詠んでいるところがすごい。
もう一度小町の歌を鑑賞してみよう。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
『わがみよにふる』は『我が身 世に ふる』と読むが、ぎなた読みで『わが みよに ふる(我が御代にふる)』と読めるではないか。(御代という言葉がいつから使われていたのかが気になるが、調べてみたがわからなかった。ご存じの方がいれば教えてください~)
『御代』とは『天皇の治世』、『我が御代に』とは『私の治世に』という意味である。
惟喬親王は自分とは一字違いの異母弟、惟仁親王(後の清和天皇)との世継ぎ争いに敗れて小野の里に隠棲し、渚の院(現在の枚方市)などで歌会を開いている。
その歌会のメンバーの中に六歌仙の遍照、在原業平、喜撰法師(紀有常)らの名前がある。
また文屋康秀は小野小町に「三河に一緒に行きませんか」と誘っている。
小野小町が小野宮と呼ばれた惟喬親王のことであるとするならば、文屋康秀は惟喬親王と交流があったということで彼もまたクーデターのメンバーであった可能性がある。
クーデターに成功した暁には惟喬親王は即位して天皇になるつもりだったと考えれば、彼が『わが御代に』と歌を詠んだ意味が理解できる。
実際には彼らのクーデターは未遂に終わったようであるが。
高田祟史さんが和歌とは呪術であるというような意味のことをおっしゃっていたと思う。
惟喬親王の歌会とは清和天皇のバックで政権を牛耳る藤原良房や藤原基経らを呪う目的で行われていたのかもしれない。

渚の院跡 ここで惟喬親王の歌会が行われた。
⑤「ふる」の意味『ふる』を古語辞典でひくと『降る』のほかに『触る』『旧る』『振る』という項目がある。
「触る」・・・①触る ②かかわりあう ③箸がつく ④男女が交わる
「旧る」・・・古くなる。昔と今とすっかり変わる
「振る」・・・①揺れ動く。②波や風が立つ。③震わす。④遷宮させる。⑤(男女関係などで)きらい捨てる ⑥割りあてる。
さて、『わが御代にふる』の『ふる』とはどの意味なのだろうか。
『旧る』で、『昔と今とすっかり変わる』という意味だろうか。
すると、『私の御代に世の中がすっかりかわる様子を見ることができるだろう』という意味になるだろうか。
小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院 石楠花⑥物部神道
私は『ふる』から物部神道を思い出す。
物部神道の本山・物部神社には「布留社(ふるのやしろ)』と呼ばれる振魂(ふるたま)神法が伝わっているのだ。
物部氏の祖神・ニギハヤヒは天から十種神宝(とくさのかむだから)と天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)を授かったとされる。
十種神宝とは、奥津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道反玉(ちかえしのたま)、蛇比礼(おのちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品々物比礼(くさぐさのもののひれ)のことをいう。
天璽瑞宝十種は、この十種神宝を用いて行う鎮魂の神法のことである。
「一ニ三四五六七八九十 不瑠部由良由良不瑠部(ひふみよいむなやこたり、ふるべふるべゆらゆらふるべ)」と唱え、死者を生き返らせる秘法であるという。
『ふるべ』は瑞宝を振り動かすこと、『ゆらゆら』は玉の鳴り響く音とされる。
『わがみよにふる』の『ふる』は物部神道の『ふる』と関係があるのではないだろうか。
すると『わがみよにふるながめせしまに』とは『私の御代に(死者を生き返らせるために)十種の神宝を振り動かす光景を見ることだろう。』というような意味なのかもしれない。
⑧惟喬親王は生き返る?ここで前回の記事を思い出してほしい。
私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』 この記事の中で、私は喜撰法師は紀仙法師で紀氏の地の濃い惟喬親王のことではないか、と書いた。
私は小野小町の正体も小野宮=惟喬親王のことだと考えている。
つまり、喜撰法師(紀仙法師)=小野小町=惟喬親王(小野宮)と推理しているわけである。
高田祟史さんの指摘によれば、喜撰法師の歌は次のように変化する。
わが庵は 都のたつ
み しかぞすむ
↓
わが庵は 都のたつ
み 鹿ぞすむ
↓
わが庵は 都のたつ
み ろくぞすむ ※鹿は音読みでは「ロク」
↓
わた庵は 都のたつ
弥勒ぞすむ
弥勒菩薩とは56億7000万年後に現れるとされる菩薩で、即身仏になるべく入定した人の目的は、56億7000万年後の弥勒菩薩の聖業に参加するためだったと聞いたことがある。
昔の人々は魂が復活するためには、魂の容れ物である肉体が必要であると考えていたのではないだろうか。
そして喜撰洞は喜撰法師=紀仙法師=惟喬親王が入定した場所だと私は考えた。
紀氏の人々は惟喬親王がいつか生き返る、復活すると考えていたことだろう。
やはり惟喬親王と考えられる小野小町が「わが御代にふる」と歌を詠んでいるのは、「私はいつか復活してこの世の中をおさめる天皇になる」という意味だったりして?
小倉百人一首の8番喜撰法師と9番小野小町の歌はセットになっていると思う。
⑧
天(雨)の下小野小町が雨乞いの際に詠んだといわれる歌がある。
ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)
この歌の中で小町は天と雨をかけている。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに こちらの歌には「ながめせしまに」とあるが、これは「眺めせしまに」と「長雨せしまに」というふたつの意味をかけているとされる。
もしかして「長雨」の「雨」は「天」の掛詞になっているのではないだろうか?
そしてgoo辞書を調べてみると、次のように記されている。
くだ・る【下る/降る】
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/61845/meaning/m0u/より引用
初めて知ったが、降るは「くだる」とも読むのだ。
「わがみよにふるながめせしまに」は「わが御代に降る長雨せしまに」→「わが御代に下る長天せしまに」と変化するということだ。
そうすることによって「下る長天」で、「長い天下」という言葉を導いているように思える。
はねずの梅は長雨で色が褪せて栄華の象徴である桜となった。
私が天皇となって長い天下をおさめるときがきた。
昔と今はすっかり変わる。(死んだ私が生き返る?)
そんな眺めを私は見るのである。こんなに男らしい堂々とした歌を詠めるのは、惟喬親王以外いない。
髄心院の歌碑に描かれた小野小町像
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小倉百人一首 7番
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/ 阿部仲麻呂
(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)
浮見堂 三笠山 百日紅
向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山①阿部仲麻呂、帰京の喜びを詠む。717年、第9次遣唐使が派遣されることになり、遣唐使に選ばれた人々は春日大社の背後にある三笠山(御蓋山)の麓で航海の無事を神に祈り、唐へ向かって出発した。
三笠山は遣唐使として出立する人々が航海の安全を祈る場所だったのである。
遣唐使の中には阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らがいた。
735年、吉備真備・玄昉らは帰国したが、阿倍仲麻呂は唐で役人になって帰ってこなかった。
752年、孝謙天皇(光明皇后の娘)は第12次遣唐使を派遣し、次のような歌を詠んだ。
四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)※しらか/麻やこうぞを細く裂いて幣帛としたもの
また、孝謙天皇の母親の光明皇太后(光明皇后)も入唐大使・藤原朝臣清川に次のような歌を贈っている。
大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)※藤原清川は光明皇太后の甥で子ではない。
光明皇太后は国家の皇太后という立場からが清河を『この吾子』と表現したと考えられている。
遣唐使たちを乗せた船は無事唐へ到着し、翌753年、阿倍仲麻呂は藤原清川の船に乗って日本に帰ることになった。
日本に帰国する前日、唐の役人たちは仲麻呂との別れを惜しんで宴を開いた。
その席で仲麻呂が詠んだのが、次の歌である。
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも
(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)ところが、仲麻呂が乗った船は暴風雨に会って長安に戻り、仲麻呂は日本に帰れないまま、唐で没した。
②暗闇を照らす光、光明は月?阿部仲麻呂が詠んだ「三笠の山」は「遣唐使として出立する人々が航海の安全を祈る場所」であり、その場所で孝謙天皇と光明皇太后が遣唐使船の無事の帰国を願う歌を詠んでいることに注意してほしい。
孝謙天皇と光明皇太后が詠んだ遣唐使船の無事の帰国を願う歌と、阿部仲麻呂が詠んだ「天の原・・・・」の歌は対応しているのではないか?
「暗闇を照らす光」のことを光明という。
暗闇を照らす光とは月のことで、阿倍仲麻呂の歌にある「月」とは光明皇太后のことではないだろうか。
阿倍仲麻呂が唐へ行った翌年、光明皇后(光明皇太后)が聖武天皇の皇女・阿倍内親王(孝謙天皇)を出産しているのが気になる。
③孝謙天皇は阿部氏と関係が深い?孝謙天皇は阿倍内親王という名前であったが、この名前は阿倍氏と関係の深い人物であったところからつけられたのではないだろうか。
『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、孝謙天皇(称徳天皇)は蝦夷の安倍一族の出身であり、あるとき朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたと記されている。
正史では孝謙天皇は聖武天皇の皇女で母親は光明皇后(=光明皇太后)となっているが。
東日流外三郡誌は後世に作られた偽書とされているが、気になる記述である。
正史は為政者の都合のいいように書き換えられている可能性もある。
阿倍仲麻呂は安倍仲麿とも記される。
阿倍内親王は聖武天皇の皇女とされているが、本当の父親は阿倍仲麻呂なのではないか?
第12次遣唐使は阿部仲麻呂を日本に帰国させる目的で派遣されたのではないか。
孝謙天皇(阿部内親王)と光明皇太后は父または愛しい男を迎える喜びをこめて①の歌を詠んだように思えてならない。
だとすると阿倍仲麻呂が唐にとどまって日本に帰ってこなかったのは、聖武天皇の妻である光明皇太后を孕ませてしまったためではないか、などと考えてしまう。
遣唐使派遣は体のいい流罪だったのではないかということである。
阿倍内親王が生まれたのは阿倍仲麻呂が唐へ旅立った翌年なので、時期的にもあう。
④孝謙上皇(淳仁天皇に譲位していた。)は藤原仲麻呂の新羅の討伐に反対したのはなぜ?758年ごろ、孝謙上皇(淳仁天皇に譲位していた。)は藤原仲麻呂の新羅の討伐に反対し、これによって新羅討伐は実現しなかった。
孝謙上皇が新羅討伐に反対したのは、まだ帰国しない父・阿倍仲麻呂の身を案じたためではないだろうか。
春日大社 萬灯篭 春日大社の背後に三笠山はある。717年 第9次遣唐使が派遣される。
阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉ら、三笠山の麓で航海の無事を祈って唐へ出発。
718年 阿倍内親王誕生(父/聖武天皇、母/光明皇后・・・ということになっている。)
735年 吉備真備・玄昉らは帰国。阿倍仲麻呂は唐で役人になって戻らず。
749年 阿倍内親王、即位して孝謙天皇となる。
752年 孝謙天皇(阿部内親王)は第12次遣唐使を派遣。「早く帰ってくるように」と歌を詠む。
光明皇太后も「神よ、遣唐使船をお守りください」と歌を詠む。
阿部仲麻呂、帰国にあたり三笠山に出る月を懐かしむ歌を詠む。
帰国する遣唐使船に乗船するが暴風雨にあって日本にもどれず。
758年 孝謙天皇、淳仁天皇に譲位。
孝謙上皇、藤原仲麻呂の新羅征伐に反対。実現せず。
770年 阿倍仲麻呂、ベトナムで死亡。毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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近江神宮 かるた祭
近江神宮では天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ=天智天皇)を祀っています。小倉百人一首1番
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ/天智天皇
(秋の田の仮小屋の屋根の苫(むしろ)が荒いので、私の衣のそでは梅雨に濡れてしまったことだ。)①「秋の田の・・・・・」は天智天皇が詠んだ歌ではなかった。 天智天皇は飛鳥時代の人物で、万葉集に4首の歌が残されている。
しかし「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は万葉集にはない。
この歌は958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。
万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして、撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。
近江神宮②天智天皇が農民の気持ちになってそのつらさを詠んだ?なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられてたのだろうか?
一般には次のように考えられている。
心優しい天智天皇が、農民の気持ちになってそのつらさを読んだと考えるにふさわしい歌であるためだと。
③埋葬されないわが身を嘆く歌私の考えはこれとは違う。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
後撰和歌集の撰者たちはこの歌を「死んだ天智天皇の霊が、埋葬されないわが身を嘆く歌」であると考えたのではないかと思うのだ。
672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
天智天皇の皇子・大友皇子と、天智天皇の同母弟・7大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。
④風葬の際にたてる庵(いおり)古事記に、大国主神が国譲りして、「八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠りましき」とある。
これは大国主神が風葬された様子を記したもので、古には柴を沢山立てた中に死体を葬る風葬の習慣があったと考えられている。
柴を立てた八十青柴垣はとまが粗いだろう。
万葉集に次のような歌がある。
荒磯面に いほりてみれば 波の音の 繁き浜辺を しきたえの 枕になして 荒床に 自伏す君が(柿本人麻呂)
(荒磯の上に仮小屋を作ってみると、波の音が頻繁に聞こえる浜辺を枕として荒々しい岩の床に伏している人がいる)荒床とは、風葬するときに死体の下に敷くむしろのことである。
「荒磯の上につくったいほり(仮小屋)」とは風葬するときに死体を安置する建物のことなのではないだろうか。
すると、「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」の中にでてくる、「とまが粗くて袖が濡れてしまう庵」もまた風葬の際につくられた仮小屋を表しているように思える。
天智天皇の時代、天皇は一定期間、殯宮に安置されるのが一般的だった。
でも壬申の乱がおこったために、天智天皇には殯宮さえ作られなかったのかもしれない。
石清水八幡宮 青山祭 風葬のようすをあらわしたものであるともいわれている。②天智天皇は謀反人の父親その後、壬申の乱では天智天皇の弟の天武天皇が勝利し、天智天皇の皇子・大友皇子は自害した。
つまり大友皇子は謀反人なのである。
そして天智天皇は謀反人・大友皇子の父親である。
③天智天皇は謀反人の父親なので埋葬が許されなかった?中国では滅んだ王朝の王の墓は暴かれたという。
百田尚樹さんは「日本では墓を暴いたりはしていない、中国人は野蛮だ」とおっしゃっていた。
しかし私は日本でも墓を暴くようなことをしていたと思う。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、当時すでになくなって1か月が経過していたにも関わらず、死体が流罪にされているのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81#経歴上記ウィキペディアによると「(大伴家持は)埋葬が許されず」と書いてあるが、いくつかの本では「家持は死体が墓から掘り出された」と書いてあった。
天智天皇も謀反人の父ということで、埋葬が許されなかった可能性がある。
④「案山子=崩え彦=山田のそほど」に重なる天智天皇のイメージ秋の田には米を鳥害から守るために案山子が置かれる。
記紀神話に登場する久延毘古(くえびこ)という神様は案山子の神だとされる。
古事記では「久延毘古とは"山田のそほど"のことである」と記されている。
「そほど」とは「ぐっしょり濡れる」という意味である。
秋の田のかりほの庵で動くことができず(案山子は歩くことができない)、雨にぐっしょり濡れているのは案山子である。
万葉集にある「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という歌は、案山子を詠んだ歌であるのかもしれない。
「クエビコ」は「崩え彦」で、体が崩れた男という意味である。
体が崩れているのは、死んで体が腐っているからではないか?
そういえばやいかがしといって、節分の夜、鰯の頭などを焼いて戸口に刺しておく風習がある。
その生臭い臭いで疫神を追い払うことができるという信仰によるものである。
やいかがしとかかしは似ている。
案山子の語源は「嗅がし」ではないかとする説がある。
かつて鳥獣よけになるとして、獣の肉を焼いたものを串刺しにして立てておくとことがあったそうで、そういうものも「カカシ」と呼ばれていたのだという。
天智天皇は何年も埋葬されず死体が放置されていた可能性が高い。
天智天皇の死体は腐り、うじがたかるような状態になっていたかもしれない。
それはまさしく『崩え彦』そのものである。
つまり
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
この歌の「かりほの庵」とは風葬するときに死体を安置する粗末な建物であり、あまりに粗末であるため雨漏りがして死体がぐっしょりと濡れてしまい、「崩え彦」のような状態になっている。
それを死んだ天智天皇の霊が嘆いている歌であると後撰集の撰者たちは考えたのではないだろうか。
⑤埋葬のされ方を嘆く父娘前回、私は持統天皇の『春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山』は『火葬されたわが身を嘆く歌ではないか、と述べた。
私流 トンデモ百人一首 2番 春すぎて 夏きにけらし 白妙の 『火葬されたわが身を嘆く歌』 持統天皇(小倉百人一首2番)は天智天皇(小倉百人一首1番)の皇女である。
つまり、天智天皇が父親で、持統天皇が娘なのである。
この親子関係のある二人が、ともに死を嘆く歌を詠んでいるというのも興味深い。
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藤原京より天の香具山を望む小倉百人一首2番
春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山/持統天皇
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。)①『土用の丑』から閃いたー!旧暦では春は1月2月3月、夏は4月5月6月だった。
旧暦は新暦よりおよそ1か月遅れとなるので、持統天皇の歌は、新暦に換算すると5月ごろに詠んだ歌だと考えられる。
上の写真を撮影したのは新暦7月、土用の丑のころだったので、歌と季節がずれてしまった。
しかし、土用の丑がヒントになって、上記の持統天皇の歌を読み解くことができた。(と思うw)
陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考える。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水とされた。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまうが
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割りふられた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのである。
春・・・旧暦1月2月3月・・・・・木性 3月の終わりの18~19日間=春土用
夏・・・旧暦4月5月6月・・・・・火性 6月の終わりの18~19日間=夏土用
秋・・・旧暦7月8月9月・・・・・金性 9月の終わりの18~19日間=秋土用
冬・・・旧暦10月11月12月・・・水性 12月の終わりの18~19日間=冬土用②春土用が過ぎて、火性の夏になってしまった。私は「土用の丑」について調べていて、「んむむむ?」と閃いた。
持統天皇の「春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」という歌には、もうひとつ裏の意味がかくされている!
ヒント・・・持統天皇は天皇としては初めて火葬された。
もうおわかりですね~。
「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味だろう。
「夏」は五行説では「火性」である。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことだと思う。
↓ 下の写真は千本閻魔堂狂言に登場する鬼と幽霊だが、幽霊は白い死に装束を着ている。
千本閻魔堂狂言 閻魔庁 鬼と亡者 持統天皇の歌には表の意味のほかに、
「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている死に装束をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」
という裏の意味が隠されていたのだ。(と思う。)
③蘇るためには魂の容れ物である肉体が必要?41代持統天皇以後、42代文武、43代元明、44代元正と火葬が続いたが、45代聖武天皇以降、土葬に戻り、次に火葬されたのは8代のちの53代淳和天皇だった。
その後は火葬と土葬が入り混じっていたが、室町時代中期ごろより火葬が一般的になる。
ところが江戸時代に入ると再び土葬が復活した。
どうも天皇は火葬を嫌う傾向があるように思われる。
即身仏となるべく入定した人の目的は56億7000万年後に弥勒菩薩があらわれるとき、その聖業に参加するためであったといわれる。
干物のように干からびた死体にお湯をかけたら生き返ったというおとぎ話もある。
古の人々は、魂が復活するためには腐らない死体が必要であると考えていたのではないだろうか。
火葬して遺体がなくなってしまうともう生き返ることはできない。
そんな持統天皇を、古の人々は憐れんだのだろう。
もちろん、人間は死後に歌を詠むことはできない。
持統天皇の死後、誰かが持統天皇の身になって詠んで、持統天皇作としたか
あるいは持統天皇が生前に軽い気持ちでこの歌を詠み
「この歌を詠んだため、言霊が作用して持統天皇は火葬されてしまった」のだと世の人々が考えたのか
どちらかではないかと思う。
④香具山はカグツチの山?天香具山は火の神・カグツチの山という意味ではないだろうか。
つまり、火葬と火の山=香久山をかけてあるのだと思うのだ。
どうやら古代人は、山や植物など、意味なく歌に用いるということをしなかったようである。
古代人はひとつの山、小さな植物にも意味をこめて歌を読んでいた可能性が高い。
飛鳥光の大道芸まいどとんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました。
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