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麻畑があったから麻生?


①麻畑が多かったから麻生?

ある人が、こんなことを言っておられた。
「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田という名前がある。」

⓶麻布は麻生だった。

以前の記事 トンデモもののけ辞典51 小豆はかり 追記あり  の繰り返しになるが 

東京に麻布という地名があるが、かつては阿佐布、麻生、浅府、安座部、などとも書いていたという。
「あざぶ」と入力して変換すれば「麻生」とも返還される。
「麻生」は「あそう」とよむが「あざぶ」ともよむのだ。

③麻の産地であったのはいつなのか。麻織物は誰によってつくられたのか。

麻生の地名の由来は、「麻の産地であり又麻織物が作られていたことに由来する」と言われる。
しかし、疑り深い私は「へえ、そうか」とは思わないw
麻の産地であったのはいつなのか。麻織物は誰によってつくられていたのか。
そういう具体的なことが全く不明である。
「麻の産地であり又麻織物が作られていたことに由来する」というのは、
麻布という漢字から発想されただけで、事実ではないのではないか。
そう思ってしまうのだw

④麻生は崖地

麻布の地名の由来について面白いブログ記事を見つけた。
https://baba72885.exblog.jp/15534522/

・「あざぶ」は「あさふ」でもあり、口語では「あそう」。「麻生」とも書く。                                    
・茨城県行方市麻生の隣には台地の崖を意味する「粗毛(ほぼけ)」という地名があるが、
麻生は「あぞ・ふ」で、崖地の場所を表す。
・東京港区の麻布も、台地の縁にある崖地。                               
・高山本線「下麻生駅」も飛騨川沿いのあぞ地形。                                       
・「あぞ」は「あず」と同じなので、長野県の梓川、安曇野も崖地。
・四国大歩危(おおぼけ)に「安瀬地(あぜち)歩危」という地名があったがこれも崖地。

⑤「あず」は崩れた崖をあらわす❔

知恵袋にこのような質問と回答があった。

質問者/山用語で、小豆と言うのも怖い土地を表すのですか。
麻布、麻生が崖で、小豆も地盤の弱い崩落する危険があるところなのですか。

ベストアンサー/あず、あるいは、あづ
は土砂災害の多い場所をあらわすらしいです。

質問者/梓とか、小豆島とか。
軟弱な地盤なのでしょうね。


コトバンクにはこうある。

あず【坍】〘名〙 くずれた岸。がけ。がけのくずれてあぶない所。
※万葉(8C後)一四・三五三九「安受(アズ)の上に駒をつなぎて危(あや)ほかど人妻子ろを息にわがする」https://kotobank.jp/word/%E5%9D%8D-2002019 より引用

どうやら「あず」という言葉は万葉集にもでてくる古い言葉のようである。

⑥麻布に現れた妖怪小豆はかり

『怪談老の杖』では、以下のように語られている。
その昔ある男が、麻布に住む友人の家に妖怪が出没するという話を聞いた。男は「ぜひ見たい」と言い、友人の家に泊まらせてもらった。
前述の特徴の通り部屋を静かにしていると、天井裏を踏み歩くような大きな音がし、続いてあの小豆をまくような音が聞こえてきた。音は次第に大きくなり、挙句にはその音は、一斗(約18リットル)の小豆をまくかのような大きさになった。
やがて、天井裏ではなく家の外の庭から、下駄を鳴らす音や、水をまくような音がしてきた。男はすかさず障子を開けたが、庭には誰の姿もなかったという。
この妖怪は天井から土や紙くずを落とすこともあるものの、特に悪事は働かないものなのだという。

麻布が崖地、小豆は崖が崩れて危ない場所のことである。
つまり、妖怪小豆はかりとは崖が崩れる音を擬人化した妖怪だと考えられる。
「水をまくような音」とあるが、東京の麻布は崖地で、あちこちから水がわいているという。
https://suumo.jp/town/entry/azabujuban-norihisa.minagawa/

⑦タイマという地名は大麻からくる?

そういうわけで
「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田」という名前がある。
というのは、申し訳ないがちがうのではないかと思った。

またこんなことを言う人もいる。
「タイマという地名があるのは日本にたくさん大麻が植えられていたからだ」

断間が太間になった。

これも大麻からくるかどうか、疑問に思う。


大阪府寝屋川市の淀川の近くに太間町(たいまちょう)という地名がある。
太間は淀川のほとりであり、近くには茨田堤跡の石碑もある。

茨田堤跡(寝屋川市)

茨田堤跡

日本書紀にはこんな話がある。

茨田堤をつくるとき、どうしても決壊してしまう場所が2か所あり
仁徳天皇は「武蔵の人強頸(こわくび)と河内の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を生贄とせよ」
という夢を見た。
コワクビは泣きながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、
「本物の神ならこのヒョウタンを沈めてみろ。できなければ偽りの神だ」といった。
ヒョウタンは沈まず、コロモコは生贄にならずに済んだが、工事は成功し
コワクビの断間・コロモコの断間(タエマ)と呼ばれた。

このコロモコの断間から太間という地名ができたという伝承があるのだ。

もちろん伝承にすぎないが、ありえそうなことだなと思う。

淀川の河川敷で大麻を栽培しているのが見つかって逮捕されたという近年の事件があり、
淀川の河川敷は大麻栽培に適していたのか、ともおもえるが
太間付近で古に大麻を栽培していたという記録がでてこないと、「断間から太間に転じた」説よりも優位な説とはいいがたい。

⑨大麻比古神社は断間比古神社だった❔

徳島県に大麻比古(オオアサヒコ)神社がある。
読み方は「オオアサヒコ」だが字が大麻(タイマ)である。

栃木県の日光には二荒山(フタラサン)神社があり、その隣に日光東照宮があるが
日光(ニッコウ)とは二荒(フタラ)を音読みにしたものだろう。
とすれば、大麻(タイマ)を大麻(オオアサ)と読むということもありそうである。

実際、大麻比古神社の由緒は次のようになっている。

神武天皇の御代、天太玉命の御孫の天富命が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、
麻・楮の種を播殖してこの地を開拓、麻布木綿を生産したので、天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀った。
(社伝)

楮(こうぞ)は紙の原料として用いられる植物である。

ただし社伝の由緒は後付けの可能性はないだろうか。

日本では語呂合わせで神格を変えることがある。
例えば柿本人麻呂は人丸ともよばれ、「火止まる」で防火の神、「人産まる」で安産の神へと神格を広げている。

断間比古だったのが、大麻比古となり、さらにタイマヒコをオオアサヒコと発音したとか、ないだろうか。


というのは、大麻比古神社の前を川がながれているのだ。
そして、このような記事が見つかった。
「 旧吉野川の板東谷川合流点上流部は、無堤地区が多いため、早急に堤防の整備を実施してほしい。」
https://www.skr.mlit.go.jp/tokushima/yoshinoriver/doc/070204_setsumei.pdf より引用(9ページ)

そしてその文言の下には地図が貼られているが、その地図の中にギリギリ大麻比古神社は入りそうだ。
(上記リンク先9p地図に坂東谷川がある。その北のあたりに大麻比古神社はある。)



上の地図と https://www.skr.mlit.go.jp/tokushima/yoshinoriver/doc/070204_setsumei.pdf (9ページ)の図を比較してほしい。

上の記事には日付がないが、平成21年という記述が記事の中にみつかる。
つまり、平成になっても 旧吉野川の板東谷川合流点上流部は、無堤地区が多かったわけだ。
無堤とは断間(切れている部分)であり、そこから断間比古神社となり、語呂合わせから大麻比古神社となったと考えられなくもないように思える。

⓾当麻皇子は断間皇子?

もうひとつ、タイマといえば、奈良にある當麻(タイマ)寺を思い出す。
開基は麻呂古王(当麻皇子)であると伝わっている。
當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族「当麻(タイマ)氏」の氏寺と考えられている。

当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられたと言われているが、
「たぎたぎしい」から「タイマ」となるのは、かなり苦しいように思える。

麻呂古王は用明天皇の第三皇子、聖徳太子の弟とされる。
用明天皇と穴穂部間人皇女の間に、聖徳太子・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子、
用明天皇と葛城直広子の間に當麻皇子があった。
来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子・當麻皇子の誰かが麻呂子親王と名乗ったのではないかと考えられている。

坂本太郎氏の「聖徳太子」によると聖徳太子の子に「麻呂古王」と系図にあるそうである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
上記、ウィキペディアを見ても、聖徳太子の子として麻呂古王とある。
麻呂古王は聖徳太子の子であったのかもしれない。

聖徳太子の子孫は蘇我入鹿の軍に責められたとき、全員斑鳩寺で首をくくって死んだとされる。
すると麻呂古王も斑鳩寺で死んだのだろう。

聖徳太子の子孫は繁栄せず、絶えてしまった。

断間とは「切れている」という意味で「断間なく雪が降る」などと言いう風に使う。
これは「途切れることなく雪が降る」という意味である。

聖徳太子の子の麻呂古王は、聖徳太子の子孫が切れてしまった皇子、断間皇子という意味で、当麻皇子と呼ばれたのかもしれない。

當麻寺 蓮華草

當麻寺

⑪明治より麻栽培が奨励された理由は軍需品として用いるためだった。

「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田という名前がある。」と発言された方は
1929年の第16回二科展に発表された清水登之氏の「大麻収穫」の絵を紹介しながら、「日本には麻畑が多かった」と発言されていた。


この方は「大麻収穫」の絵を明治に描かれた絵、とおっしゃていたが、明治ではなく昭和4年である。

明治から大正にかけて、政府は養蚕と大麻栽培を奨励した。

吉田健作が農商務省に提出したあああああああああには、次のように記されている。

亜麻は日本でまだ耕作が少なく、原料が不足しているのに比べ、大麻はたくさん産出されている。
また、亜麻は大麻より精細な糸ができるが、それよりも大麻の海陸軍人ならびに巡査、小吏等の夏服、又は常人用服このほか帆布、鉄道荷車の覆い、敷物、日本蚊帳、畳の縁といった用途が国家にとって重要である。
結論としては、まず大麻の紡績所を設け、その後、亜麻も手がけるようにするのがよい。

こうして、1887年に北海道製麻株式会社が設立された。

大正時代から昭和初期にかけて、大麻は陸軍の軍馬の綱、海軍の艦船用ロープなど軍需品に用いられた。

この絵は軍需品に用いるために大麻を栽培しているの図ではないだろうか。

「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田という名前がある。」と発言された方は
大麻の使用法として、鼻緒、蚊帳、しめ縄、赤ちゃんの胴巻をあげておられるが、軍需品とは言っておられない。

軍需品を作るのが悪いということはなく、当事は戦争をするのが悪いという時代でもなかった。

ただ、当麻栽培が奨励されるようになったのは、明治である。

それ以前も、「麻紡績工場の設立意見書」によれば大麻は多く生産されていたようであるが
明治以降、生産量が増えたとは考えられるだろう。


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