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中国とチベット


①固有名詞を述べないわかりにくい歴史語り

https://www.youtube.com/watch?v=2WXqShpVTtg&t=110s

上記動画で、次の様な発言がある。

1:06
清という国がですね
〇〇帝とかそうそうたる皇帝が出てですね常に強かった時代が終わってから
100年くらいもたっておりましてね
すっかり終わった時代に今度は日本が出てきたものですから
戦争のときは日本が圧倒的に中国に強かったし
中国はですね北はロシア、南はイギリスフランス
東北部は日本というふうにですね強いところにどんどん取られましてね



申し訳ないが、この歴史の語り方は、非常にわかりにくい。
時代はいつなのか、戦争とは何戦争なのか、そういった固有名詞をはっきり述べていないからだ。
これでは友人との雑談レベルである。
人間が大量の情報を記憶できるはずはなく、多くの歴史系ユーチューバーはメモや下書きを見ながら話していると思う。
できれば、そのようにしていただければと思う。

たぶんアヘン戦争から第二次世界大戦ごろの話だと思われる。

⓶様々な民族が中国に国をつくっては滅んでいった。

中国は広大な大陸なので、多くの民族が存在している。
そして様々な民族が中国に国をつくっては滅んでいった。

宋は漢民族が建国した国だった。
しかしそのあとに起こった元はモンゴル民族、次の民は漢民族、その次の清は満州族が建国した国で、中国の広い地域を支配した。
これは中国史を語る上で抑えておくべきポイントだと思う。

③各国に領土を奪われた清

1840年 アヘン戦争 イギリスvs清 清が敗北して香港島を割譲する。
1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)イギリス⁺フランスvs清
1860年、イギリス九龍半島南部の割譲を清に認めさせる。

「南はイギリスフランス」 というのは、このことを言っているのだと思われる。

1858年、アイグン条約により、黒竜江将軍管轄区と吉林将軍管轄区のうちアムール川左岸をロシアに割譲
1860年、北京条約で吉林将軍管轄区のうちウスリー川右岸をロシアに割譲(外満州)
1864年、タルバガタイ条約により、ウィグルのイシク・クル、ザイサン湖以西はロシアの領土となる。
1871年、ロシアが新疆のイリ地方を占領。
1881年、イリ条約により、イリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合。
1884年、カシュガル条約でパミール高原より西をロシアに割譲した。清は1884年新疆省を設置
1892年 ロシア、パミール高原に侵攻しサリコル山以西を条約無しで併合。

これが「北はロシア」

1854年、冊封国暹羅(シャム)が朝貢を廃止。
1872年、清と薩摩藩の両者に朝貢していた琉球、日本に合併される。
1884年 - 1885年、清仏戦争。清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となる。
1886年、緬甸(ビルマ)はイギリス軍の侵略で滅亡。

1894年 - 1895年、日清戦争で清は敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省、台湾の割譲
朝鮮が自主国であることを承認させられる。
フランス共和国、ドイツ帝国、ロシア帝国「三国干渉」で日本に遼東半島返還させ、賠償金の大幅に増額させる。
清、財政悪化し、欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益を認めさせた。(瓜分)

満洲からモンゴル・・・ロシア
長江流域・・・・・・・イギリス
山東省・・・・・・・・ドイツ
広東省・広西省・・・・・フランス

1905年 辛亥革命、漢人による武昌での武装蜂起をきっかけにが起こった。
モンゴル独立運動(モンゴル国)。

清は内部崩壊する。(但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない)。

④中華民国樹立、清滅亡、満州国樹立

1910年、日本韓国を併合。

1912年、中華民国が樹立され、清朝最後の皇帝宣統帝退位。(清滅亡)

清朝滅亡後は中華民国(北京政府)が清朝領土の継承を主張。
しかし袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂して内戦状態。
張作霖が日本の後押しを受けて満洲を実効支配していた。

1928年北伐(中国国民党)により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたが、日本軍によって殺された。
息子・張学良は、奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順させた。

1929年、日本は南京国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。

1931年(昭和6年)満洲事変がおこり、関東軍により満洲全土が占領される。
1932年(昭和7年)満洲国が建国され、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を元首とした。

「東北部は日本」、この満州国樹立のことを言っていると思う。
③でのべた台湾割譲について、武田氏は次のように言っているので、「東北部は日本」に入れていないと思う。
(台湾は東北でもないので)

11:33
中国人も早く完成して早く撤兵してほしいですね
今は台湾を自分の領土だなんつってますけど全然領土じゃありませんよ
清の時代が最後ですけどね中国は清の時代に日本が台湾は清のものですか
といったら、いやあれは化外地、ちがうんだとちゃんと言ってますからね

1:38
しかも自分たちを白人に寝返ってアメリカと密かに交渉してですね、そして白人側についたので
まぁ今では白い中国人などというですね、まあいえば蔑視されているわけですが


⑤中華民国と中華人民共和国

のちのち、頭がこんがらがらないように、ここで中華民国と中華人民共和国について、ざっと見ておくことにしよう。

辛亥革命で清が滅んだのち1912年に成立したのは、孫文が建国した中華民国という国だった。
しかし第二次世界大戦後に中国共産党と国民党が対立した。
1949年、中国共産党の毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。、
同年、蔣介石率いる中華民国政府は台湾に亡命しそのまま中華民国であり続けた。
つまり、中華民国が第二次世界大戦後に、中華人民共和国と中華民国に分裂した、といってもいいだろう。

⑥日中戦争

1912年、中華民国が樹立され、清朝最後の皇帝宣統帝退位。(清滅亡)
1931年(昭和6年)満洲事変がおこり、関東軍により満洲全土が占領される。
1932年(昭和7年)満洲国が建国され、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を元首とした。
1937年7月7日、盧溝橋事件が発端となり、日中戦争がおこる。

当事、日本はアメリカからの軍需物資を輸入していた。
宣戦布告をして国際法に則った戦争となれば、アメリカが中立を宣言して軍需物資の輸出を止める可能性があった。
それを危惧したが日本は、宣戦布告をせずに日中戦争を始めた。
アメリカも、日本との関係悪化は望んでいなかった。

1938年11月、日本が東亜新秩序声明を発した。
東亜新秩序声明とは、政治・経済・文化などにわたる日・満・華の互助連関の樹立をめざすという内容であった。

日本から見れば「政治・経済・文化などにわたる日・満・華の互助連関の樹立」だが
中華民国からみれば、「満州国を作った日本の侵略行為の正当化」であっただろう。

また、アメリカはこれを東アジアからの欧米勢力の排除とみなした。
1940年7月、日米通商航海条約の廃棄を通告。

南部仏印進駐(日本軍がベトナム南部に進駐した事件)が開始されると、
対日石油輸出を全面禁止し、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutchland)によるABCD包囲陣で対日経済封鎖を行う。

1941年11月26日、アメリカ、ハル=ノートを提示。
日本に満州事変以前の状態に戻せとの内容。

1943年にイタリアが無条件降伏。
1945年5月にドイツが無条件降伏。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾。

⑦ポツダム宣言

1945年(昭和20年)7月17日から8月2日
ベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の3カ国の首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合った(ポツダム会談)。

ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相・中華民国の蔣介石国民政府主席・アメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告。

ソ連は署名していない。

1:38 自分たちは白人に寝返ってアメリカと密かに交渉してですね、そして白人側についたので」

という発言は、日本の東亜新秩序声明(1938)をけり、ABCD包囲陣(1940)、ポツダム会談(1945)を行ったことを言っているのだろうか。

しかし、その前に、満州国を建国(1932)、日中戦争(1937)がある。
中国を擁護するつもりはなく、どちらが悪いというつもりはないが
実際行われたことをみると、アメリカに寝返ったとか、白人側についたとは言えない。

もう一度おさらいしておこう。
日本が満州国を作り、日中戦争が起こった。
日本は東亜新秩序声明を発した。
これらに中国は抵抗し、アメリカは日本による東アジアからの欧米勢力の排除とみなした。
中国とアメリカは利害が一致し、ABCD包囲陣で対日経済封鎖を行うなどした。

⑧「白い中国人」の意味

1:45
そして白人側についたのでまぁ今では白い中国人などというですね
まあ蔑視されているわけですがやはり中国もですねまぁそういう名誉ない国の呼ばれ方ではなくて

「白い中国人」という言葉は検索してもでてこない。
それで知人に聞いたところ、次のように教えてくださった。

「白い中国人」とは、社会主義革命で赤軍(労働者農民赤軍)に対抗して戦った白軍(反共産主義)の中国人を指す政治用語であると。

しかし「白人側についたのでまぁ今では白い中国人などというですね、まあ蔑視されているわけですが」
と言っているので、武田さんは、「白い中国人」を「白人側に寝返った中国人」という意味で用いていると思う。

武田さんの造語、もしくは言葉の誤用ということになるのではないだろうか。

⑨チベットは独立どころか、虐殺・拷問が行われている?

チベットっていうのは占領地ですね。
チベットていうのは非常に立派な国で、日本と同じようにほぼ憲法9条みたいなこと書いてある
憲法を守ってますねえ
国を守るのは武力じゃない仏教だとまあいってた国なんですね
4:49
ところがやっぱり中共軍がね中国共産党軍が侵攻してくると
たちまち仏教の軍隊なんてほとんどいませんから蹴散らされて女の人はみんな後ろ手に
縛られて晒し者になるとそういうことになっちゃった
それ1949年ですけど戦争が終わった後ですね
だから私がアジア独立の時代っていうのはまあ区分として難しいんですが
1850年くらいから1970年くらいっていう風に設定してもいいかなっていうのはですね
やはり日本が戦争が終わった1945年以降ですね
やはりこういう問題がいっぱいあったっていうことなんですよ



1905年、清、チベットに侵攻
1910年、ダライ・ラマ13世はインドへ亡命
1911年、辛亥革命
1912年に中華民国がおこり、中華民国が成立、清朝は崩壊した。中華民国、清の領土をそのまま引き継ぐことを宣言する。
1913年、チベット・ラサを奪還して独立を宣言する。イギリスなどから独立国として承認される。
ダライ・ラマ13世ラサに戻り、中国人のチベット植民地化を批判。
1913年、清からの独立を相互承認し、安全保障協力を定めたチベット・モンゴル相互承認条約(蒙蔵条約)を締結。
1930年、ベリの寺院とデルゲの寺院で抗争が発生。そこに中華民国軍とラサの軍が介入。
1932年9月、ダライラマ13世は、長江を国境とし、中国の宗主権を認めることに合意。
1933年11月にダライ・ラマ13世が死去
1934年~1935年、チベット人人民共和国が設立されたが、すぐに解体。
1940年2月22日、ダライ・ラマ14世即位。
1947年、チベット使節団をインド、デリーで行われたアジア会議に送り、独立国家を表明した。
1949年、国共内戦で中華民国に勝利した中国共産党が中国を掌握。
チベット政府、中国政府とつながりのある中国人を国外追放する。
1949年6月11日にパンチェン・ラマ10世がパンチェン・ラマ9世の転生として中国国民党政府の承認を受け即位した。
1950年1月、中国共産党政府、新中国政府によるチベット駐留を要求。
1950年10月、人民解放軍はチベットのカムドに進攻し、チベット軍を破る(チャムドの戦い)。
1951年に中国軍はチベット全土を制圧。
十七か条協定。チベットにおける中国の主権を定める。
チベットは中華人民共和国の支配下に。

武田さんは
「たちまち仏教の軍隊なんてほとんどいませんから蹴散らされて女の人はみんな後ろ手に
縛られて晒し者になるとそういうことになっちゃった。それ1949年ですけど」
とおっしゃってその後、独立の時代を「1850年くらいから1970年くらい」とされているが、
チベットの独立はいまだ実現していない。
それどころか、大量虐殺、拷問などが行われているというような記述がウィキペディア「チベット」には記されている。


1952年-1958年、カンロの虐殺 10,000人が虐殺される。
1956年末、第1次蜂起。20,000人が虐殺、20,000人逮捕される
1957年、5,500人を虐殺。
1958年3月から8月、チベット人130,000人による反乱。110,000人が虐殺される。
青海省におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人を逮捕。
逮捕者の84%にあたる45,000人が誤認逮捕。拘留中に23,260人が死亡、誤って殺害されたものが173人。
宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡。
1959年、チベット動乱。ダライ・ラマ14世インドへ亡命し、チベット亡命政府を立てた。
1959年、ラサ蜂起。10,000人-15,000人のラサ市民が死亡。
1959年3月~1962年3月、中央チベットの大虐殺 93,000人が虐殺される。
1966年、チベットにおける文化大革命。寺院の破壊と略奪。チベット的なもの、仏像や宗教文献が破壊された。
宗教上の祭礼や習慣は禁止、伝統的な歌謡、民族衣装、伝統的な髪型の禁止。チベット語の禁止。

1970年、中国は、ツァイダム盆地にDF-4ミサイル発射用地を完成させ、核ミサイルを配備した。
1983年、中国とチベット亡命政府との和平会談決裂。ラサだけで750人が政治犯として刑務所に収容された。
1987年9月21日、ダライ・ラマ14世はアメリカ議会で演説を行い、「五項目和平プラン」を提示する。
・チベット全土を平和地帯とすること。
・民族としてのチベット人の存在を危うくする中国人の大量移住政策の放棄。
・チベット人の基本的人権と民主主義自由の尊重。
・チベットの環境の回復と保護。中国がチベットを核兵器製造及び核廃棄物処分の場所として使用することの禁止。
・将来のチベットの地位、並びにチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始。
中国政府はダライラマを分離主義者として非難し、アメリカ政府へ抗議。
1987年9月27日、ジョカン寺でデモ。中国武装警察が発砲し、死者がでる。

欧州議会は1987年10月14日に中国によるチベット人の人権抑圧非難決議を決定する。

1988年2月末、ラサで大祈祷法会。武装警察は催涙ガスを撒き、多数の僧侶が連行される。
3月6日2500人のチベット人が逮捕され、拷問される。

1989年1月24日にパンチェンラマ10世、中国政府を非難した。その4日後死去。暗殺説もあり。

1989年3月7日、胡錦濤はラサに戒厳令を布告する。会合、行進、陳情、請願、集会の禁止。
武装警察によるチベット人への暴行。400人が虐殺され、数千人が負傷。3000人が逮捕された。

1989年3月15日、欧州議会は中国によるチベット人抑圧について非難決議を決定。

1989年4月21日、共産党の腐敗と民主化を訴えたデモとストライキ。10万人を超える。
1989年5月23日、デモは100万人規模に。
1989年6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国軍が発砲、デモ隊を鎮圧する。死者数千か。

西側諸国は中国に対して経済制裁を実施。G7 による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止、日本からの対中借款停止。

1989年10月、亡命中のダライラマ14世がノーベル平和賞を受賞。
「独立」にかわり「真の自治」を求めることで妥協をはかる ストラスブール提案。
中国はこれに抗議する。

欧州議会は1990年4月25日に非難決議を採択。

1993年5月24日には1万人以上の大規模なデモ行進、中共軍によって武力鎮圧された。

1998年、国際連合人権高等弁務官メアリー・ロビンソンがチベットを訪問した。

中国はチベット地域にチベット側に合意をととらず核廃棄物処理場や核ミサイル基地建設を進めてきた。
1984年、60億ドルでヨーロッパの原子炉の4千トンの放射性廃棄物をひきとりゴビ砂漠に保管。
1991年、米国メリーランド州バルチモア市の下水汚物2万トンが中国に144万米ドルで輸出された。
廃棄物の汚染の危険性が抗議され、チベットへの汚物輸送は中止される。
1993年 、リシュイとガンズィ近辺で病気の発生率が異常に高いという報告があり、核基地付近で放牧していた遊牧民の子供たちのうち7人がガンで死亡。

2008年3月、2008年のチベット騒乱。チベット全土で反中国のデモが起き、中国の警察によって制圧された。
2010年10月19日に、中国チベット族治州同仁県で、チベット民族の高校生、5千〜9千人が、六つの高校から合流してデモ行進し、地元政府役場前に、「民族文化の平等」を要求した。

2011年11月3日、米国務省は同年11月4日、チベット族僧侶らの焼身自殺に懸念を表明し、中国政府にチベット政策を改めるよう要求。







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