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宮内庁管理下の陵墓について

ナガレ山古墳

ナガレ山古墳

➀宮内庁管理の陵墓は江戸~明治期に定められたものだった。

天皇・皇后・皇太后・太皇太后を葬った(とされている)場所のことを陵、その他の皇族を葬った場所のことを墓といい、
宮内庁によって管理されている。

これらの陵墓の数は459箇所あるが、古より管理され続けられてきたものは少なく、ほとんどが江戸・明治期に定められたものである。
これらが治定されたのは、そのころ、尊王思想の気運が高まっていたためだと考えられている。

文久2年、宇都宮藩の提案によって「文久の修陵」が始められた。
このころ、古い時代の陵墓は所在地がわからなくなっていたものが多数あった。
「天皇陵かも?」と伝承されていた場所はあったのだが、畑にされるなどして利用されていた。

天皇陵ではないが、奈良県天理市の山辺の道にある灯籠山古墳は、前方部が墓地、後円部が果樹園となっている。
天皇陵もそんな風に荒れ果てていたものと思われる。

「文久の修陵」では、そのような荒れ果てた古墳を禁足地、聖地に変えた。

⓶発掘調査の結果、文武天皇陵は栗原塚穴古墳ではなく、中尾山古墳が濃厚に。

このたくさんある陵墓は、本当に皇族を葬った墓なのだろうか。
先ほども書いたように、古より管理され続けられてきた陵墓は少なく、ほとんどが江戸・明治期に定められたものである。そして、当事は考古学が発展していなかったので、記紀の記述や言い伝えなどにもとづいてきめたのだという。

たとえば、宮内庁は栗原塚穴古墳を文武天皇陵としているが、学術的には中尾山古墳が文武天皇陵であることが有力視されている。

その理由は、中尾山古墳を発掘調査したところ、次のようなことがわかったためである。
・8世紀初頭頃の築造と推定されること(文武天皇崩御は 707年)
・天皇陵級の古墳に見られる八角墳であること
・火葬墓(火葬墳)であること(文武天皇は火葬されたと続日本紀に記述がある。)

宮内庁が栗原塚穴古墳を文武陵とした理由についてもみておこう。
栗原塚穴古墳の近くに「アントク」という地名があり、「アンコウ山」と記されているのは
「檜隈安古岡上陵」の「安古」が訛って「アントク」になったのではないか
というのがその理由である。

アンコ→アンコウまではわかるが、アントクにつなげるのはかなり厳しい。

上で説明した考古学の調査と、かなりむりくり感のある地名の語呂合わせの結果のどちらが信憑性があるだろうか?

ちなみに栗原塚穴古墳はアンドクの北東の塚穴という場所にあり、破壊されて畑とされていたのを
文武天皇陵とさだめ、元治元(1864)年に復元工事が行われた。

③継体天皇陵は太田茶臼山古墳ではなく今城塚古墳が濃厚。

継体天皇陵は大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳に治定されていて、宮内庁管理下にあるが
1972年(昭和47年)・1988年(昭和63年)に周濠外側での発掘調査、2002年度(平成14年度)に墳丘裾部での発掘調査などが行われている。

太田茶臼山古墳は出土した埴輪から5世紀中ごろ(450年頃)に築造されたと考えられている。
ところが継体天皇の没年は 531年?とされていて時代が合わないのだ。

それどころか、所在地も史書の記述と食い違っている。

古事記・・・・・三島之藍陵
日本書紀・・・・藍野陵
延喜式・・・・・三嶋藍野陵 摂津国島上郡 兆域東西3町・南北3町。
諸陵雑事注文(1200年)・・・摂津島上郡継体天皇

元禄9年(1696年)に松下見林の『前王廟陵記』は、太田茶臼山古墳を継体天皇陵ではないかとし
享保17年(1732年)までに太田茶臼山古墳が継体天皇陵と治定された。

太田茶臼山古墳は島下郡であり、延喜式にある島上郡ではないため、
本居宣長は島上郡島下郡の郡界が移動したと考えた。

大正のころより、郡界の移動は無く島上郡の郡域にある今城塚古墳が継体天皇陵ではないかという説が登場した。
今城塚古墳の築造年代は6世紀前半であり、継体天皇の没年は 531年?なので時代的にもあう。

今城塚古墳(6世紀前半頃)は宮内庁管理課の陵墓ではないので、発掘調査も行われた。

墳丘の荒廃が著しく、1568年(永禄11年)の織田信長の摂津侵攻のとき、城砦として築いたのではないかという説があった。
しかし、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の伏見大地震によって墳丘が地すべり性の崩壊を起こしたものという説が濃厚。

1596年 慶長伏見地震による古墳の地すべり

かつて今城塚古墳は剣菱形だと考えられていたが、地滑りによって生じた滑落部分であり
もともとは前方後円墳だったと考えられている。

④本当に皇族が葬られた陵墓なのか、という問題を無視

という記事がある。

皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。曽祖父様が皆さんと血がつながってないと分かったとして、迷惑なだけじゃありませんか。調査など、余計なお世話でしょ、という説明だ。
https://www.news-postseven.com/archives/20190909_1448490.html?DETAIL より引用

迷惑であり余計なお世話であるにもかかわらず、学者たちが調査したがる根拠は何か。「知の特権」である。「知」は何をやっても許されるという特権である。ジャーナリズムの報道もその一つだ。しばしば問題になる犯罪被害者の報道はその好例である。被害者は「知」られたくないのだ。

この方の話には欠落している点がいくつかある。

❶この方は「本当に皇族が葬られた墓なのか」という問題について一言も述べておられず
「天皇陵であることが間違いがない」とミスリードしているように思える。
すでに説明したように、天皇陵は江戸時代~明治時代にいい加減に治定したものである。
天皇陵というが、他人の先祖の墓かもしれないし、学術的にそれが判明している例も数例ある。
決史八代といって存在しないかもしれないと考えられている天皇や、神代の神三柱の陵も陵墓としている。
なにかの権利を主張する場合には、根拠を示す必要があるはずだ。
天皇陵と主張するのであれば、きちっと調査をした上で、学術的にも天皇陵といってほぼまちがいないといいう根拠を示す必要があるのではないだろうか。
全く天皇家とは関係のない人の古墳を、天皇家の墓としている例が多数ありそうである。
自分の先祖の墓を、天皇陵と偽られて不快に思う人もあるだろう。
そういう人の気持ちを無視しても、いいのだろうか。

❷「古墳調査の是非論」というタイトルは不適切で、「宮内庁管理下の陵墓調査の是非論」と書くべき。
「古墳」には宮内庁が管理していないものもあり、それらは発掘調査されているからだ。

❸「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」と問うのも例として不適切だ。

全ての古墳の発掘調査を禁止すべきという主張であれば、「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。」と問うのでは適切だといえるかもしれないが
発掘調査が禁止されているのは、宮内庁管理下の陵墓のみ、つまり天皇家に関係すると考えられている陵墓のみであり
この記事の筆者が問題にしているのも宮内庁管理下の陵墓だけである。

❹「お墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」という表現もやや感情的だ。
遺体がでてくれば遺骨の寸法を計ったり化学分析されるだろう。
高松塚古墳、キトラ古墳からは遺骨が発見され、調査の結果、性別、年齢などが推定された。
しかし、そのときにこの筆者は「なんてひどいことをするんだ。」と声をあげたのだろうか。
たぶんされていないのではないだろうか。
結局、天皇家という権威のある家柄の陵墓についてのみ問題視しているわけで、
そうであるのに民間人のケースを例として出すのは不適切である。

❺「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」
これが適切でないといえる理由はほかにもある。

中には先祖のはっきりしている家柄もあるが、多くの人は何代も前の先祖のことを知らないはずである。
せいぜい7~8代前の先祖がわかっているという程度ではないかと思う。
ましてや中世など古い時代の墓を守り続けている家というのは数えるほどしかないと思う。
天皇家ですら、江戸時代には先祖代々の墓がわからなくなっていたのである。

宮内庁管理下にある陵墓でも近年のものは被葬者もはっきりしているし、発掘調査はのぞまれていない。
発掘調査が望まれているのは、古い時代のものである。

つまり、7~8代までの先祖までしか遡れない一般人の墓と、神代まで遡って治定されている天皇家の陵墓を同列には語れないということである。

⑤「知の特権」と「人権」の対立ではなく、「科学」と「宗教」の対立

この記事の筆者は、『「知の特権」と「人権」の対立』と書いておられるが、
「知の特権」という言葉に、「知」とは「知りたいことは何でも知ることができるという傲慢な態度」と考えておられることがうかがえる。

そして「人権」と書いておられるが、古墳の調査を阻むのは権利とはいえない。
何度も繰り返すが、権利を主張するためには、それが天皇家のものであるという証明が必要ではないか。
しかし、その証明ができていないのだ。
その証明のためには、発掘調査がかかせない。
証明できないものを、権利として主張できないと思うのだ。

さらに誰の「人権」なのかということが明確にされていない。
皇族の人権にきまっているじゃないか、といわれるかもしれないが、
皇族の人権であるというのならば、皇族の方々に意見を聞いてみなければいけない。
皇族の方々が発掘調査に反対であるとは限らないのだ。

しかし、皇族の方々にこれについての意見をいう権利はあるのだろうか。
天皇は政治的行為を禁止されている。もちろん政治的な発言はしてはいけないということになっている。
発掘調査は学問的な問題だが、過去の天皇は長らく政治と関係をもってきた。
発掘調査が行われて、万が一歴史の新事実が解明したとすると、それによって政治的イデオロギーに影響を与えかねない。
天皇は、発掘調査についての希望を述べることはできないだろう。

するとこの文章で書かれている「人権」とは誰の人権なのか、という疑問が生じる。
もしかして、宮内庁職員の人権だろうかw
陵墓は宮内庁職員の所有物ではないはずなのだが。

以上のように、宮内庁管理下の陵墓の発掘調査の是非を『「知の特権」と「人権」の対立』というのは、適切ではない。
『「信仰」と「科学」の対立』といったほうが適切ではないか。

考古学は人文科学であって自然科学ではないとし、『「信仰」と「科学」の対立』についてぶーぶー言う人がいる。
人文科学の中に文学がはいっているじゃないか、というのだ。

私も文学を科学というのは抵抗はあるので、外した方がいいと思うが
歴史学や考古学は、文学のように何も制約のない中で自由に想像を膨らませてもいい学問ではない。

歴史学ならば史料に基づいて行うが、複数の史料を突き合わせたり、遺物と照合したりして、
矛盾点があれば、どのように考えれば合理的に説明できるのか、などについて考える。

考古学の実例については簡単にではあるが、⓶③に記した。

歴史学や考古学は自然科学と違って再現性がないが、
史料や遺物に基づいて論理的に過去を研究するという点で科学といっていいように思う。

しかし、ぐだぐだ言われないように、こういっておこう。
「真実でなくてもいい」か「真実を追求するべきか(真実である、といっているのではない。新しい発見。より論理的な説明があれば訂正されうる)」の対立。

江戸時代から明治にかけて適当に決めた陵墓であるにもかかわらず、発掘調査をして確認しようともしないのは
「真実でなくてもいい」と思っているからだ。

発掘調査するべきというのは「真実を追求するべき」と考えているからである。

どちらがいいとは一概にはいえない。





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