翁の謎⑤ 般若寺 『ハンセン病患者と文殊菩薩』
●山吹の咲く寺

北山十八間戸からさらに北へ向かって坂を登っていくと、ほどなく古い楼門が現れた。
般若寺である。
般若寺の境内には山吹の花がこぼれんばかりに咲いていた。
般若寺はコスモス寺として有名だが、コスモスが日本に入ってきたのは明治20年ごろのことである。
なので般若寺がコスモス寺と呼ばれるようになったのは明治20年以降のことだということになる。
もともとは般若寺はコスモス寺ではなく、山吹寺であったのかもしれない。
●山吹には実がならない。
山吹で有名な松尾大社のHPに次のような伝説が書いてあった。
室町時代の武将・太田道灌は、鷹狩りに出たが雨に降られ、近くの小屋に入って蓑みのを貸してほしい、と申し入れた。
しかし小屋から出てきた女性は蓑ではなく山吹の花を一枝差し出した。
道灌は『貸してほしいのは花ではなくて蓑みのだ』と怒って帰った。
後日、ある人が道灌に女性が山吹をさしだした理由を教えた。
八重山吹の花には実がならないことを、貧しいがゆえ蓑が一つも無いことにかけ、古歌・『七重八重 花は咲けども山吹の 【み】のひとつだに なきぞかなしき(兼明親王)』の心を伝えた。
【み】のひとつだに』の【み】は、実と身をかけてある。
さらに『【み】のひとつだに』の『【み】の』には『蓑』がかかる。
『七重八重 花は咲けども山吹の 【み】のひとつだに なきぞかなしき(兼明親王)』
この歌は『七重八重に花は咲きますが、山吹は実がひとつもならないように、蓑がひとつもありません。なんと悲しいことだろうか。』というような意味である。
●子孫が繁栄しなかった聖徳太子
斑鳩にある中宮寺にもたくさんの山吹が植えられていた。

中宮寺は法隆寺の隣にある尼寺で、聖徳太子が母親の穴穂部間人皇后の宮殿を寺としたと伝わる。
聖徳太子は日本人の中で最も尊敬されている人物だといえるだろうが、現在の日本人の中には聖徳太子の血は一滴も流れていない。
蘇我入鹿に攻められて、聖徳太子の子孫は全員、斑鳩寺(法隆寺)で首を吊って自害したのである。
中宮寺に山吹が植えられているのは、実がならない山吹のように、聖徳太子の子孫は繁栄せず血が絶えたということを表現するためなのかもしれない。
●ハンセン病患者は文殊菩薩の化身
本堂には小さな厨子が置いてあって、小さくて可愛らしい文殊菩薩像が置かれてあった。
般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。
現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。
本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。
文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。
仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。
般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。
能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。
なので、鬼のことを般若というのだと思っていたが、間違いだったのである。
般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。
前回、私は北山十八間戸について次のように述べた。
①北山十八間戸は鎌倉時代のハンセン病患者を救済するための福祉施設だった。
②奈良坂には非人(寺社に隷属する民のこと)が住む夙があった。
③非人たちは清掃・警護・死体の処理などのほか、ハンセン病患者の看護なども行っていた。
奈良坂に北山十八間戸がつくられたのは、奈良坂が非人たちがすむ夙があったためだと考えられる。
そして前々回、光明皇后や行基の前にあしゅく如来や薬師如来の化身の天然痘患者があらわれたという伝説を紹介したが、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。
宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。
般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。
いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。
聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。
春日王だ。
聖徳太子は日本人の中で最も尊敬されている人物だといえるだろうが、現在の日本人の中には聖徳太子の血は一滴も流れていない。
蘇我入鹿に攻められて、聖徳太子の子孫は全員、斑鳩寺(法隆寺)で首を吊って自害したのである。
中宮寺に山吹が植えられているのは、実がならない山吹のように、聖徳太子の子孫は繁栄せず血が絶えたということを表現するためなのかもしれない。
●ハンセン病患者は文殊菩薩の化身
本堂には小さな厨子が置いてあって、小さくて可愛らしい文殊菩薩像が置かれてあった。
般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。
現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。
本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。
文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。
仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。
般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。
能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。
なので、鬼のことを般若というのだと思っていたが、間違いだったのである。
般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。
前回、私は北山十八間戸について次のように述べた。
①北山十八間戸は鎌倉時代のハンセン病患者を救済するための福祉施設だった。
②奈良坂には非人(寺社に隷属する民のこと)が住む夙があった。
③非人たちは清掃・警護・死体の処理などのほか、ハンセン病患者の看護なども行っていた。
奈良坂に北山十八間戸がつくられたのは、奈良坂が非人たちがすむ夙があったためだと考えられる。
そして前々回、光明皇后や行基の前にあしゅく如来や薬師如来の化身の天然痘患者があらわれたという伝説を紹介したが、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。
宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。
般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。
いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。
聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。
春日王だ。
般若寺・・・奈良市般若寺町221
翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』へつづく~トップページはこちら→翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』
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