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トンデモもののけ辞典107 片脚上臈


➀片脚上臈

片脚上臈(かたあしじょうろう)は、愛知県八名郡山吉田村(現・新城市)に伝わる妖怪。
姫上﨟ともいう。栃の窪という地からハダナシ山という山にかけて現れるという、美しい上臈姿の片脚の妖怪。紙製の鼻緒の草履を履いた者がいると、その片方を奪うという。山吉田村の阿寺には栃の窪を水源とする阿寺の七滝という滝があり、そこには不妊の女性に子宝の霊験のある子抱き石という石があったが、そこへ行くには紙緒の草履を履いていかなければならないとされ、そのような女性が片方の草履を奪われたという。
また山中で、猟師が獲物を一時的に置いて水を飲みに行ったときなど、その隙に獲物を奪い取るともいい、獲物から離れなければならないときなどに、猟銃と山刀を十字に組んでおくか、袢纏をかけておくと、片脚上臈の怪異を避けるまじないになるという。
獲物を奪うのは山男の仕業ともいわれるが、実際には山犬の仕業との説もある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E8%84%9A%E4%B8%8A%E8%87%88 より引用

片脚上臈の伝承のある阿寺の七滝

片脚上臈の伝承のある阿寺の七滝

上臈とは江戸時代の大奥女中の最高位の役職名である。
将軍や御台所への謁見が許され(御目見以上)で、京都の公家出身の女性が役職につくことが多かった。
生家の名前とは関係なく、姉小路・飛鳥井・万里小路・常磐井などの名前を代々受け継いだ。
主に御台所(将軍の妻)の相談役をつとめた。

⓶子孫に王位を継承することができなかった達磨と天智天皇

この妖怪の話で興味深いのは、履物を奪うことである。
なぜ片脚上臈は履物を奪うのだろうか。

トンデモもののけ辞典㊹ 雪だるま と 塗り壁

私は上の記事で次の様に書いた。

『江戸名所道戯尽 廿二 御蔵前の雪』(歌川広景)

『江戸名所道戯尽 廿二 御蔵前の雪』(歌川広景)

なぜ広景は鼻緒を結びなおす人を描いたのだろうか?
『景徳伝燈録』に次のような物語がある。

『景徳伝燈録』は達磨没後の道教の尸解に類した後日譚を伝える。
中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。
それは達磨の遷化から3年後、西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原の葱嶺という場所で達磨に出会ったというものである。
その時、達磨は一隻履、つまり履き物を片方だけ手にして歩いており、宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る」と答えたという。
また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。
宗雲は帰国してからこのことを話してまわった。
帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。
孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E7%A3%A8#%E7%94%9F%E6%B6%AF より引用

※遷化とは、高僧の死亡のことである。
つまり、広景の絵に描かれている鼻緒を結び直す男性は、達磨の幽霊だと思う。

『景徳伝燈録』にある、達磨が履き物の片方を手にして歩いていたという伝説は、天智天皇の伝説を思わせる。
蹴鞠をしていた中大兄皇子(のちの天智天皇)の沓が脱げ、それを中臣鎌足が拾ってさしだしたというものである。

また、天智天皇陵のそばに沓石が置かれており、この沓石にこんな伝説がある。

天智天皇は騎乗して山林に入り、行方不明になった。
そのため、沓が落ちていた場所を陵とした。(『扶桑略記』)

中大兄皇子の伝説は達磨の伝説をもとに創作されたのではないだろうか。

達磨はインドの王の第三王子として生まれたのに、王位をつげず、出家して僧となっている。
出家したということは子孫も残せなかったのかもしれない。
仮に出家前に子をなしていたとしても、彼の子孫は王位につけなかっただろう。

天智天皇(中大兄皇子)は皇位にはついたが、崩御後、弟の大海人皇子(天武天皇)vs子の大友皇子が争い(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して即位したので、自らの血を皇位継承させることができなかった。
奈良時代末、天武系天皇の血筋が絶えてしまい、
天智天皇の皇子・志貴皇子の子である光仁天皇が即位したことで、天智天皇の子孫が皇位継承することになったのだが。
もしかしたらそのような点から、中大兄皇子と達磨は同一視されたのかもしれない。

③脱げた履物は、子孫に王位を継承させられなかったことをあらわしているのではないか?

藤原氏の祖は中臣鎌足である。
中臣鎌足は死の間際に天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされる。
この藤原鎌足(中臣鎌足)の次男が藤原不比等だが、藤原不比等は天智天皇の後胤とする説がある。

藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに記されている。

興福寺

藤原氏の氏寺・興福寺

すでに書いたように、天智天皇の皇子は長らく皇位につくことができなかった。

天智以下、皇位は次のように継承されている。(赤字は女帝)

38代 天智
39代 弘文(即位したかどうか不明)
40代 天武(天智の弟)
41代 持統(天智の娘・天武の妻)
42代 文武(天武の孫)
43代 元明(文武の母)
44代 元正(天武の孫、元明の娘、文武の姉)
45代 聖武(文武の子)
46代 孝謙(聖武の娘)
47代 淳仁(天武の孫)
48代 称徳(聖武の娘/孝謙と同じ人物)
49代 光仁(天智の孫)

40代天武から48代称徳までが天武系で、ここで天武系の血筋がたえてしまったため、49代には天智系の光仁が即位したのである。
9代にわたって天智の子孫は皇位につけなかったわけである。

しかし、鎌足の子・藤原不比等が天智天皇の子であるとすれば、不比等の娘が天皇に入内することで、女系によって天智の血は繋がれたといえる。

藤原宮子・・・・・・・不比等の長女・・・文武天皇の夫人、聖武天皇の母
藤原光明子・・・・・・不比等の三女・・・聖武天皇の皇后、孝謙(称徳)天皇の母

蹴鞠で脱げた中大兄皇子(天智)の沓を中臣(藤原)鎌足が拾って皇子にさしだしたというのは
天智の子孫は皇位継承することができなかったが(沓が脱げた)

鎌足は天智天皇の子である藤原不比等を自分の子として育て、不比等の娘が天皇に入内し、
また不比等の働きによって、天智系天皇が再び皇位についた(鎌足が天智の脱げた沓を拾った)
という事を言っているのではないかと思ったりする。

談山神社 中臣鎌足像

談山神社 中臣鎌足像

つまり、沓や下駄、草履などの履物は子孫繁栄の象徴であるともいえる。

妖怪・片脚上臈は、子宝を望んでやってくる女性に対して、そうはさせじとして紙製鼻緒の草履を奪おうとしているのかもしれない。





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