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シドモアが見た明治期の日本29 富士登山 ➀

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

➀東海道線

p220
距離にして四〇マイル[六四キロ]、昔の東海道線を蒸気機関車で小田原[相模]湾の底深い海岸沿いを走り、太平洋側にある青い箱根連山の稜線を目指しました。国府ッで遊覧四輪馬車に乗り換えましたが、平野をガタガタ走って東海道沿いの谷あいを登る途中、子供たちを馬蹄で蹴散らしたり、駕籠かき人足とトラブルを起こしたりしました。この御者は険しい谷間を一〇マイル[一六キロ]も荒れ狂って飛ばす、とても向こうみずな人間なので、人力車に乗り換えたときは本当にほっとしました。

日本の律令制における、広域地方行政区画で五畿七道がさだめられた。
五畿は畿内ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉(現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部)の五国をさす。
七道は東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道のことである。

東海道:現在の茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知、三重(熊野地方を除く)の各都県を合わせた地域。
東山道:現在の青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島の東北6県と、栃木、群馬、長野、岐阜、滋賀の各県を合わせた地域。
北陸道:現在の新潟、富山、石川、福井の各県を合わせた地域。
山陽道:現在の兵庫県南西部と、岡山、広島、山口の各県を合わせた地域。
山陰道:現在の京都府北部と兵庫県北部および、鳥取、島根の各県を合わせた地域。
南海道:現在の香川、徳島、愛媛、高知の四国4県と、三重県熊野地方、和歌山県、淡路島を合わせた地域。
西海道:現在の福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎、熊本、鹿児島の九州7県の地域。


上の図がわかりやすい。

ウィキの記述にあるとおり、東海道は茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知、熊野地方を除く三重のことで、東海道は「うみつみち」ともよむ。

また、七道の各国の国府をつなぐ幹線官道(駅路)が設けられ、それらの道のことも東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道と呼ばれていた。

東海道とか山陰道というのは道のことだと思っていたが、地域の名前でもあったのだw(反省w)

現在、JR東海道本線は、東京駅(東京都千代田区)~神戸駅(兵庫県神戸市中央区)を結んでいる。

1872年(明治5年)、新橋駅(後の汐留貨物駅、現・廃止) - 横浜駅(現・桜木町駅)間が日本最初の鉄道として開業。
シドモアも船で横浜港に到着し、ここから鉄道で新橋へ向かったものと思われる。
というのは、シドモアは次のように記しているからである。

p53
世間から見れば、東京と横浜は一つの運命共同体です。二つの都市は一八マイル[二九キロ]の鉄道で結ばれ、社交パーティーの訪問や招待にはとても便利です。東京の大臣が舞踏会を催す際、特別夜行列車で横浜の客を送迎します。

1874年(明治7年)に大阪駅 - 神戸駅間が開業
1889年(明治22年)7月に新橋駅 - 神戸駅間の全線が開業。
1914年(大正3年)東京駅が開業

国府津駅(こうづえき)は、神奈川県小田原市国府津にある駅で、1887年に開業した。

国府津駅(1909年)

国府津駅(1909年/明治42年)

 

上の地図の赤いマーカーがついたところが、国府津、その南西方向に富士箱根伊豆国立公園とあるが、そこに箱根はある。
地図を拡大してみるとわかりやすいと思う。

⓶宮ノ下

p220
素晴らしい夏のリゾート・宮ノ下は、日本人にも外国人にも人気のある場所です。


p220
そこには優れたホテルがいくつかあって[奈良屋、富士屋ホテル]、西洋ファッション、澄んだ山の空気、鉱泉、美しい風景に富むとても楽しい温泉郷の中心です。

明治期の奈良屋(玉村康三郎撮影)。右手に見えるのが1877年(明治20年)築の西洋館。

明治期の奈良屋(玉村康三郎撮影)。右手に見えるのが1877年(明治20年)築の西洋館。

奈良屋は徳川綱吉のころ(将軍在職:1680年 - 1709年)の創業と伝えられる老舗旅館であったが
1868年(明治11年)に富士屋ホテルが開業したあと、奈良屋と富士屋は協定を結び、
1923年(大正元年)まで奈良屋は日本人専門旅館、富士屋は外国人専門ホテルとされた。
2001年に廃業し、現在跡地にはリゾートホテル「エクシブ箱根離宮」が立っている。

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり
この時奈良屋は日本人専門旅館となっているので、シドモアがとまったのは、富士屋ホテルののほうではないだろうか。

富士屋ホテル オーストリア皇太子一行。1893年

富士屋ホテル オーストリア皇太子一行。1893年

タイ国王、オーストリア皇太子、ウィンストン・チャーチルやヘレン・ケラー、チャーリー・チャップリン、ジョンとオノ・ヨーコなどもここに泊まったそうである。
きっと、シドモアが泊まったのもここだと思う。

 

p220
ここのホテルは1年中よく管理され、真冬の気候は中国南部の港町でかかったマラリア病毒の特効薬となります。

これはつまり、箱根の冬の気候と衛生的なホテルの環境はマラリアを回復させるということだろうが、迷信だろう。
以前の記事にも書いたのだが(シドモアが見た明治期の日本16 東京⓾ )  
現在、日本でマラリアはほとんどないが、明治36年には年間20万人もの患者があった。
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアは日本でのマラリア流行を目の当たりにしているわけである。

マラリアはハマダラカに刺されて体内にマラリア原虫がはいることによって発熱・悪寒・頭痛・関節痛・筋肉痛・嘔吐・下痢などの症状を引き起こす。

1880年、フランスの医師シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴランがマラリア原虫と、キニーネが血液から寄生虫を除去すると提唱したのだが、彼の説はなかなかみとめられず
1884年の油浸レンズ、1890-91年に従来のものより優れた染色法が開発されたことによってようやく認められた。

先ほども書いたように「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、まだその原因や治療法が確立されていなかったと考えられるのだ。

p221
また宮ノ下の寄木細工は有名で、どの家も日本式ゲーム、家庭用品、玩具、小間物の工作場を持ち、美しい木目の国産樹木でんんでも造り、植物性ワックスで滑らかに磨き上げます。一〇〇以上もの木片縞模様からなる精巧なモザイクを見て、誰もが仕上げの良さや値段の安さにびっくり、これを買わずには村からでられません。

寄木細工

これはかなり以前に私が購入したものだが、箱根寄木細工で検索するとこれと同じような箱がでてくる。
かつて大阪梅田の阪神百貨店前地下に土産物屋を売る店が並んでおり、そこで買ったか
東急ハンズで買ったか、どちらだったか忘れてしまった。(どちらでも同様の寄木細工の箱が販売されていた。)

p221
宮ノ下到着後、ここで案内役兼ポーター(荷物運搬人)を雇い、朝六時、婦人を駕籠三台[駕籠かき人足兼ポーター(九人)]に載せて出発、これに四人の屈強な男性、二人のボーイ、さらに六人のポーターが続きました。

木曾道中熊谷宿の駕籠(渓斎英泉)

木曾道中熊谷宿の駕籠(渓斎英泉)

もともとシドモア一行は男性4人、女性3人 日本人ボーイ(使用人)2人であった。
うち女性3人は駕籠で、男性は徒歩。
女性3人が乗る駕籠は3台だが、訳者の註尺として)[駕籠かき人足兼ポーター(九人]とある。
駕籠は前後二人で担げるが、交代要員をいれて三人一組(三枚肩)、四人一組(四枚肩)などと呼ばれていたらしい。
ここでは三枚方だったので、3枚方×3組で9人なのだろう。

さらにもともと随行していた二人の日本人ボーイのほか、あらたにやとった六人のポーター(荷物運び、案内人)が加わっり、総勢24人である。

うち、17人は使用人という、一般庶民からすれば大変贅沢な旅である。

③乙女峠から御殿場へ

p221
広い道を登り、乙女峠で有名な刃渡り馬道をジグザグと進みます。


彫刻の森美術館の西650mほどのところに富士屋ホテルはある。

乙女峠という地名の由来は以下のとおり。

箱根の仙石原に「とめ」という娘が住んでおり「おとめさん」と呼ばれていた。
娘は父の病の治癒を願って、この峠を越えて御殿場の地蔵堂へ百日詣した。
願いがかなって父親の病は回復したが、娘は父の身代わりとなってこの峠でなくなった。

この伝説はなんとなく深草少将が小野小町のもとへ百夜通いしたという話を思い出させる。
深草少将はあと1日で百日といいう九十九日目の雪の夜になくなってしまうのだ。

江戸時代、仙石原には関所が設けられ、通行の際、ここでしばしば足止めされたことからら「御留峠」となり、「乙女峠」になったともいう。


「刃渡り馬道」とは何のことをいっているのだろうか。
「刃渡り」とは「 刃物の刃の長さ」または、「刀の刃の上を歩く軽業」のことである。

次のような記事があった。

「刃渡り」……読んで字のごとく、鋭い刃物の上を歩いて渡っているかのような場所である。

その刃物の側面に、ほとんど柵はない。つまり、崖そのもの。


刃渡り馬道とは、鋭い刃物の上を歩くかのような、側面が崖になった馬道のことではないだろうか。

乙女峠からは富士山が一望できるようである。

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↑ こちらの記事を見ると、
乙女峠からつづく乙女道路はじぐざぐになっている。


上の動画はシドモアとは逆方向(シドモアは乙女峠→御殿場だが、動画は御殿場から乙女峠へむかっている。)だが
曲がりくねった道でところどころガードレールになっている。
明治時代の道が同じ場所にあったかどうかわからないが、やはりこのように曲がりくねった道で、
それを「ジグザグと進みます。」と表現したのだろう。

p221
峠から半島御用邸[恩賜箱根公園]と一緒に宮ノ下や箱根湖[芦の湖]が目に入り、格子縞の緑の警告を振り返って眺めると、縞模様の原野の彼方に富士ヤマが変わらぬ頑固あで頭を雲に隠し、目前に真っ直ぐ聳えていました。この平らな原野に向け、まっしぐらに駆け下りると、御殿場へ到着しました。
 

恩賜箱根公園の西にある湖が芦ノ湖である。
宮ノ下はすでに述べたようにシドモアが宿泊したと思われる富士屋ホテルの有るところで、彫刻の森美術館の東あたりにある。
これらが乙女峠あたりから見えたというのである

半島御用邸は函根離宮のことであり、芦ノ湖の塔が島と呼ばれる半島にあった。
1946年に一般開放され現在は恩賜箱根公園と呼ばれている。
シドモアが旅をしたころは箱根離宮だったといいういことだ。

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芦ノ湖

終戦前の御殿場市街

終戦前の御殿場市街

シドモアが訪れたころは、こんなに電線はたくさんなかっただろう。





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