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シドモアが見た明治期の日本28 中禅寺と湯元 ⓶

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

③中禅寺湖畔の宿

p212
五件の茶屋が水際に並行して並び、各茶屋は湖を見わたすため水上に歩廊を三組持っています。特に蔦屋、イズミヤ、ナカマルヤ[中村屋?]での宿泊と休息は日光によくある宿よりも、ずっと純日本的な安らぎがあります。外国人のために椅子やテーブルは用意されますが、宿泊客は皆床に寝ます。広々した中庭に出て共同洗面器で顔や手を洗い、さらに靴下のままか、備えられた堅い猿皮スリッパで室内を動き回ります

こちらの記事に次の様な内容が記されている。

・つたや旅館は慶応4(1868)年創業の老舗。
・つたや旅館→メモリアルホテル蔦舎→ホテル蔦舎→ホテル湖畔亭→シンプレスト日光と変遷した。
・ 「一日の行楽ー中禅寺行き」(田山花袋 博文館 大正7)に、「私はいつも蔦屋に泊った。」と記されている。
・ホテル湖畔亭はおおるりグループの宿


この記事には「ゆとりろ日光」というホテルの口コミとして
・おおルリグループの買い取ったホテルの中で一番よいのがここかもしれない。
・蔦屋時代からの料理長が創意工夫して頑張っている。
とある。

さらに調べると、ゆとりろ日光(旧シンプレスト日光) 住所:栃木県日光市中宮祠2484 とあり「シンプレスト日光」は「ゆとりろ日光」と名称がかわったらしい。

この「ゆとりろ日光」のルーツである「つたや旅館」は慶応4(1868)年創業ということなので、シドモアが言っているのはこの「つたや旅館」のことなのだろう。

ネットで検索すると有限会社和泉屋旅館 栃木県日光市中宮祠2484 とでてくるが、地図を確認しても和泉屋旅館はない。
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=291601837
上記に、和泉屋旅館の絵ハガキが掲載されている。

ナカマルヤ[中村屋?]はわからなかった。

しかしこれらの旅館はかつて栃木県日光市中宮祠2484あたりに並んでいたのだろう。

 

地図の+マークを推すとわかるが、場所は前回書いた日光二荒山神社中宮祠のすぐ近くである。

二荒山神社 中宮祠

二荒山神社 中宮祠

上のグーグルマップを拡大して中禅寺湖周辺を見てみると
フランス大使館別荘、ベルギー大使館別荘、英国大使館別荘記念公園、イタリア大使館別荘記念公園などの文字が見つかる。

戦前には、多くの欧米の国の大使館の別荘がここにあったそうである。
既に紹介したが、シドモアも次のように記していた。

p192
毎年夏になると、東京の公使館の半分はそっくり日光へ移動します。社寺、僧坊、聖職者の住居、そて村の上側の民家は外人へ賃貸され常時増えています。日光の住宅は、まだ避暑地ニューポート[米国ロードアイランド州ロード島の都市]にある別荘の値段ほどではありませんが、一シーズン三カ月で三〇〇円ないし五〇〇円という法外な値が地元相場になっています。

「猿皮」とあるのは、猿の毛皮という意味だろうか。
かつて猿皮空穂(矢をいれる道具)などがあったようである。

http://l-phoenix.sblo.jp/article/59279674.html

上記ブログには、漫画家・矢口高雄さんの作品「サルカ三十文」にでてくる話として、次のように書いておられる。

・当時の猿の毛皮の価値はくまの毛皮の3倍
・胆嚢や骨も薬として使われた
・牛馬の病気よけの呪いとして猿の頭蓋骨や骨を吊るす習慣があった
・山麓の村々にはサルマタギ専用の宿屋もあった (上記記事より引用)

猿皮ではなく、サル皮と呼ばれるものがある。
これは皮で作った輪っかのことである。
この輪っかにベルトの端を通しておくことで、ベルトの余った部分がぶらぶらしないように留めておくのである。

すると皮ではあるが、皮の輪っかではスリッパはつくれないので、これではなさそうであるw

シドモアはp206「日光」のところで「私たちが逗留する夏の別荘は」と書いていたり、
p211「中禅寺湖」のところで「毎年八月、白装束に大きな藁帽子を被り、藁敷き雨具を肩に巻いた大勢の巡礼がやってきます。」と書いているので、
シドモアが日光にある中禅寺湖を訪れたのも夏だと思っていたが、ページを遡ってみると、私がうっかり次の文章を読み飛ばしていたことが分かった。

p210
道をたどると、刈り取り後の蕎麦、黍、稲、じゃが芋の田畑、茅葺屋根の農家、道端の神社や茶店が次々と目に入ります。

蕎麦・黍・稲を収穫するのは秋だ。
シドモアが中禅寺湖にやってきたのは秋なのだろう。白装束の巡礼は以前に見かけたか、聞いた話として書いているのだと判断できる。
すると猿皮のスリッパとは猿の毛皮で作ったスリッパである可能性が高い。

p212
米、野菜、魚、台所用品、家族の衣類を洗うには、家屋の最も低い床に通じる平板桟橋を使います。同じような桟橋が各宿にあり、娘たちはそこに集まって竹籠で米をといだり、洗ったりしながら楽しそうにおしゃべりします。また各宿の従業員は洗面器、歯磨き、コップ一式を持ってあちこち湖畔へ出向くので、桟橋は小さな社交舞台となり、自然な形で交流がなされます。


桟橋

桟橋とは上の写真のような形状のものをいう。
このようなものが、各宿にあり、湖の水で洗濯をしたり、米をといだりしていたのだろう。
娘たちが集まると、おしゃべりになるのは今も昔も変わらない。

④戦場ヶ原

p213
丸太造りの茶店の潜む濃い緑の松林の間から、ようやく湖の突端が現れ、そこから菖蒲が浜で知られた低い岸辺の一部が見えます。


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菖蒲ヶ浜付近

p213
さらに円形劇場のような壮大な山壁が中禅寺村をぐるっと囲み、はるかかなたには地獄川と龍頭の滝があり、渓流が何本もリボン状に分かれ苔むした岩棚を滑り流れます。

龍頭の滝

龍頭の滝

p213
大昔、敗北した軍勢の血に染まったといわれるレッド・プレイン[戦場ヶ原]が広がり、秋霜とともに例の深い色合いに変わります。[戦場ヶ原には、赤城山の主・百足と男体山の主・大蛇が大軍勢を繰り出して争ったとの伝説がある]。

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戦場ヶ原

シドモアが「例の深い色合い」と書いているのはこの色のことだろう。

p213
この高原の端から薄暗い山々が立ち上がっていますが、中でも男体山は緑や紫のベールと浮雲の王冠に包まれ、巨大な陰を見せています。高原には居住や開拓の形跡はなく、松の点在する人跡稀な光景は、米国の高地シエラ[カリフォルニア州シエラネバダ]のたにまにとてもよく似ています。

戦場ガ原

戦場ヶ原

Owens Valley and the Sierra Escarpment

Owens Valley and the Sierra Escarpment

p213
日本のどの地方に行っても、水辺から山頂まで木が茂り、緑陰に覆われ、耕作されています。でも冬の奥日光は荒涼として、道に積もる深雪は下界を完全に遮断します。茶屋は閉まり、住人は温かな谷あいへ逃避し、春の到来と旅人だけが、この地を再び復活させるのです。

ここでシドモアは冬の奥日光について書いているが、「深雪は下界を完全に遮断します。」とあるので、シドモアもまた下界から奥日光にはやって来れなかったものと思われる。

⑤湯ノ湖

p214
山道は、この寂しい高原を超え、湯の湖へ向けて七〇〇フィート[二一〇メートル]ほど険しい丘の正面に沿いあがります。道は数フィートの幅に狭まり、小石、多量の泡、水煙、湯気が滑り落ちてきます。細かく凹凸に切り立つ斜面と森に囲まれたこの湖は、壮麗な山々の秘密の鏡で、その山の一つ、白根山は眠れる火山です。蒸気の多い硫黄泉が湖の端・陸地部の厚い地殻を通して泡立ち、さらに湖底自体からも硫黄が噴出し、魚が棲めないほど湖水全体を濁らせ熱しています。


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湯ノ湖

ロープウェイ山頂駅から望む日光白根山

白根山

シドモアは「蒸気の多い硫黄泉が湖の端・陸地部の厚い地殻を通して泡立ち、さらに湖底自体からも硫黄が噴出し、魚が住めないほど湖水全体を濁らせ熱しています。」と書いているが、
上の湯の湖の写真を見ると水はそんなに濁っているようにはみえない。
また、釣りも行われているので、魚が住めないということもない。

ただしウィキペディアには次のように記されている。

「日光白根山からの水に加え、湖畔にある日光湯元温泉からの湯が流れ込んでいる。温泉成分や山からの砂などで水深が浅くなり、湿地化する危機にあったが、1992年から浚渫工事が行われ[2]、危機を乗り越えた。温泉の湯が流れ込んでいるものの、水深が浅いため冬季には全面結氷することもある。」


1992年の浚渫工事以前は水が濁り、魚の姿も少なかったのかもしれない。

硫黄のにおいはたちこめているらしい。

⑥湯元温泉

p214
温泉の一つが村の入り口で泡立ち、たっぷり湯の入った約一〇フィート[三メートル]角の湯舟が四本柱の屋根に覆われ、側面全部が大気に開放されて準備万端、牧歌的素朴さが漂っています。

湯元温泉の入り口に露天風呂があったことは、シドモアと同時期に日本にやってきたイザベラ・バードも記しているという。

p214
このような温泉場が村はずれにたくさんあり、どこも同じように開放的で、たくさんの人が褐色の肌を見せ茹だったり冷ましたりしています。

湯元温泉

湯元温泉の温泉街のはずれの湯ノ平湿原に源泉地がある。(写真上)
この源泉は湯元の旅館のほか、光徳温泉・中禅寺温泉にまで送られているそうである。

小林清親『日光湯元温泉』-1896年・明治29年

小林清親『日光湯元温泉』-1896年・明治29年

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので
上の絵はちょうどシドモアがやってきたころの湯元温泉を描いたものだと考えられる。

小林清親『日光湯元温泉』(1896年・明治29年)部分

湯の湖温泉の向こうに見えている温泉街のあちこちから湯煙がでている。

絵の下のほうには駕籠に乗ったり、徒歩で温泉に向かう人の姿が描かれている。

小林清親『日光湯元温泉』(1896年・明治29年)部分2

p216
ある種の湯舟は端の長い管に小さな懐炉をつけているので、ほんの一握りの木炭で短時間に湯が沸きます。これまで大勢の入浴車の生命を奪ってきた炭酸ガス中毒をこの器用な工夫でなくしたのです。

炭酸ガス中毒とは、空気中の二酸化炭素が高濃度の状態になることが原因であらわれ中毒症状のことをいいます。 火事や、ドライアイスの貯蔵庫に長期間滞在することが原因となります。 二酸化炭素濃度が3~4%でめまいや吐き気、頭痛などの症状があらわれ、7%を超えると意識を失います。

「長い管に小さな懐炉をつけている」というお風呂を沸かす装置についてはよくわからない。

p216
熱い風呂を好む好む日本人は、一にも二にも沸騰させることが目的で地元の人たちはひるむことなく高温に耐えます。グリフィス博士[米国人教育者『皇国』の著者]は自分の本に、酷寒の日、街道沿いに湯気を立てる戸外の大釜から、入浴者が火傷で踊り出す珍事を書いてるほどです。

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ウィリアム・グリフィス

p216
裸の闊歩は、いつもと変わらぬ芝居訳者の様に威厳がありました。私はびっくりし、「はたして、この紳士は着物と一緒にプライドまで脱ぎ捨てたのだろうか?」と疑いました。ところが、宿の主人には裸になった意図的理由はありませんでした。彼は「衣服は人生の仮の姿であり、本質的なものではなく、古びた尊大な魂を本当に「封じ込めているわけではない
」との哲学を、それとなく語っていたのです。

p218
無着衣の裸体に関し、欧州人があれこれ妙な不快感を示し誤解している点を、日本人は「あまりにも下らない話だ」と笑っています。

p218
夜間、冷え込んだ空気が硫黄の臭みを大地に押しつぶす時刻、湯元の通りは盲目のマッサージ師(按摩)の悲し気な笛が鳴り響きます。

按摩師については、こちらの記事に詳しく書いた。
とんでももののけ辞典69 大座頭 

按摩師

笛の音はこちらで聞くことができる。

⑦秋の日光・中禅寺湖

p217
中善寺湖は誇大な宝石・無疵のサファイアとなり、男体山は鮮やかなビザンチン着色法によるモザイク模様が描かれます。

スターサファイア
上の写真はスターサファイアである。
中禅寺湖がこのサファイアのように美しい青色だったのだろう。

ビザンティン美術の例:アヤソフィアにある、キリストと11世紀の皇帝コンスタンティノス9世夫妻のモザイク画

ビザンティン美術の例:アヤソフィアにある、キリストと11世紀の皇帝コンスタンティノス9世夫妻のモザイク画

鮮やかなビザンチン着色法によるモザイク模様というのは、男体山が、上のモザイク画のように鮮やかで様々な色を用いた色に染まっていることを言っているのだと思う。

華厳の滝と中禅寺湖

華厳の滝と中禅寺湖

男体山

男体山

p219
ある日とうとう、道路を封鎖する最初の冬の雪に見舞われ、最後まで中禅寺に残りオープンしていた一軒の茶屋も店仕舞となり、私たちは足尾銅山経由で旅を終えました。

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足尾銅山

1895年頃の足尾鉱山

1895年頃の足尾鉱山



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