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シドモアが見た明治期の日本27 中禅寺と湯元

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

➀駕籠・輿・荷馬

p208
日本で使われている駕籠に関し、外国人はいろいろ批評しますが、あの狭苦しい状態は故意に異教徒を虐待しているわけではありません。その苦痛がむごく陰険でにことは、いずれ法廷尋問で明確に判定されるべきでしょう!?

p208
山岳地や遠方に行くには、荷馬以外唯一の旅行手段です。日本時とはたいへん気持ちよさそうに膝を二つ折りにし、脛を立てて座りますが、外人が乗った場合、身長の大きさ、たくましい骨格、高い座高が邪魔して頭や体がつっかえて順応性に欠け、しかも快適さからはほど遠く、長い脚がわきからぶらぶら出ます。その上、自分がおばかさんに見え、両親の呵責すら感じます。なぜなら、母国では一〇歳未満の少年に等しい小柄な駕籠かき人足に、自分の体重をすべて任せるからです。

京都ゑびす神社 宝恵かご社参

京都ゑびす神社 宝恵かご社参

明治時代の日本人の平均身長は男性157cm、 女性は147cm程度だったという。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/2196.html
上の記事に「欧米諸国の平均身長の長期推移」のグラフがある。
明治時代は1868年〜1912年であり、171cm~173cmほどにみえる。
1868~1912年ごろのアメリカ女性の身長はわからなかった。
ちなみに現在のアメリカの平均身長は男性が178cm、女性の平均身長は約165cmだという。

p208
駕籠に似た乗り物として、棒の上にいくつかの肘掛け椅子を置いたものがあり、ローマ法王やパレードのような偶像のように人を載せることができます。でも、四人の担ぎ手の足取りによって長い棒が上下に跳ね、往々にして乗客を船酔い状態にします。

かご


教皇御輿で運ばれるピウス8世。

教皇御輿で運ばれるピウス8世。

p209
ゆっくり歩く生き物・荷馬は、綱で前方へ引く御者を必要とし、伸びた頭と気の進まない足取りは単なる移動モーターに見えます。馬と先導人はワラジを履き、数マイルごとの馬の履き替えに新しいワラジを高い鞍のまわりに縛っています。蹄鉄は、都会や大きな港町にしかなく、村の鍛冶屋にはありません。荷馬は厚い藁胸当てをつけ、高い鞍が木びき台のように造られ、乗り手が鞍に座ると、うまい具合に両合が馬の首元へ垂れ下がります。この鞍は釣り合いがとれているだけで、帯は締めていません。

馬による人の輸送(右)

馬による人の輸送(右)

上は人が3人乗れるように工夫されている。

藤枝宿での積荷の載せ替え

藤枝宿での積荷の載せ替え

藤枝宿での積荷の載せ替え

「馬と先導人はワラジを履き」とあるが、確かに人も馬もワラジのようなものを履いている。
「荷馬は厚い藁胸当てをつけ」とあるのは上の絵ではよくわからない。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%85%B9%E5%B8%AF_%28%E3%81%AF%E3%82%89%E3%81%8A%E3%81%B3%29/
上記goo辞書「腹帯」に掲載されている右のイラスト(クリックで大きくなる)を見ると「辻房」と記されているが、これが藁胸当てではないだろうか。
「この鞍は釣り合いがとれているだけで、帯は締めていません。」とあるのは、同じイラストに腹帯と記されている。
この腹帯で鞍を固定させるのだろうが、荷馬はこのような帯をしめて固定させていないのだろう。

「馬の鞍の下の、高い鞍が木びき台のように造られ」
ここに記されている木びき台とはこちらの→https://webshop.kzrooms.jp/products/detail/360
リンク先写真のようなもので、通常このようなものを2つ並べてその上に木材をおいて切断するのに用いる。
上の絵の鞍は緻密に描かれていいるが、確かに木びき台を二つ並べたようにも見える。

⓶中禅寺湖、二荒山神社中宮祠、男山

p209
日光から中禅寺へ行くのに、あなた方観光客は駕籠や荷馬、あるいは人力車で八マイル[一三キロ]ほど旅をしなくてはなりません。

p210
行程約三マイル[四・八キロ]で高度二〇〇〇フィート[六〇〇メートル]を登りきると湖畔へたどり着き、さらに峠まで緩やかな坂道と広い階段を登ります。

p210
幅三マイル[五キロ]長さ八マイル[一三キロ]の中禅寺湖は険しく深い山岳樹林に囲まれ、雄大な男体山[二四八四メートル]は湖畔から堂々とそびえぴらみっどのように先細りとなり、山頂も森に囲まれています

中禅寺湖と男体山

中禅寺湖と男体山

p211
麓には神社[二荒山神社中宮祠]があり、登りの参道沿いは祠だらけで、頂にも社があり、改悛した殺人鬼らの捧げた刀剣があります。

二荒山神社 中宮祠

二荒山神社 中宮祠

二荒山神社 こまいぬ

二荒山神社 狛犬

登山口となっている日光二荒山神社の中宮祠の登拝門。この先は山頂へと向かう階段が続いていく。

登山口となっている日光二荒山神社の中宮祠の登拝門。この先は山頂へと向かう階段が続いていく。

22690608_s.jpg

男体山山頂の剣

この剣について、シドモアは「改悛した殺人鬼らの捧げた刀剣」と書いているが、
1877年に茨城県結城市のある人が鉄の剣(長さ約3.5m、幅15cm)を奉納したのだという。

2012年3に腐食によって根元からおれたが、下野市の男性から奉納されたステンレス製の剣が設置された。
従って、現在の剣は2代目であり、シドモアが見た物とは別のものということになる。

シドモアはなぜ「改悛した殺人鬼らの捧げた刀剣」と書いたのだろうか。

男体山に伝わる伝説とは、次のようなものなのだが。

昔、男体山の神と赤城山(群馬県前橋市)の神が領地争いをした。
男体山の神は白い大蛇に、赤城山の神は大ムカデに変身して闘った。
男体山の神は弓の名手・猿丸太夫に援助を頼んだ。
猿丸太夫は大ムカデの目を射抜いた。それで男体山の神が勝った。

p211
毎年八月、白装束に大きな藁帽子をかぶり、藁敷き雨具を肩に抱いた大勢の巡礼がやってきます。湖で清めた後、鳥居をくぐった敬虔な信者は神社に祈祷をし、喘ぎながら頂上へ向かいます。
p211
参道一面、シーズン中に捨てられた履物で覆われ、また過ぎし日のワラジの山がそこここにあります。

日光修験については、こちらの記事に書いた。
シドモアが見た明治期の日本22 日光

白装束とあるので、巡礼は一般の人ではなく、修験道の山伏だろうと思う。

http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=1475
上の記事によれば、修験道の山伏は雨や日差しを除けるため、 斑蓋(はんがい)という笠を使用するとのこと。
 形が丸いのは月を、頂上の三角は蓮華を表すと説明がある。

蓑とは下の写真のようなもので、稲藁など撥水性のある植物を編んで作られた雨具である。

24347777_s.jpg


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