※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳 講談社学術文庫」よりの引用です。
⑭白糸の滝・滝尾神社
p201~p202
さらに登ると、滝[白糸の滝]が泡を噴出しながらリボン状に細く裂けて流れ、これよりも高い所に古い社寺[滝尾神社、弘法大師ゆかりの地]があって、巡礼や旅人が祈祷したり感嘆したりしますが、この無防備の聖域を乱す人はいません。ここの建造物の一つに等身大の雷神と風神の彫像がおさまっています。
滝尾神社拝殿
白糸の滝
シドモアは「ここの建造物の一つに等身大の雷神と風神の彫像がおさまっています。」と書いている。
「ここ」は「滝尾神社」を指すものと思われる。
上の動画、12:00 あたりに門がでてくる。
このような門などをの左右には通常、仁王や風神雷神像、二天像などが安置されるが、この門には何も置かれていない。
ここに風神雷神像があったのだろうか。
とすれば、その風神雷神像はどこにいってしまったのか?
二荒山は東照宮・二荒山神社・輪王寺の二社一寺である。
そのうち、輪王寺の大猷院・二天門には四天王のうちの持国天と広目天が安置されており、
その裏側に風神雷神像が安置されている。
(私が参拝したときには残念ながら二天門は修理中で二天、風神雷神像は見ることはできなかった。なんてこったいw
三仏堂に移されているというので行ってみたが、堂内は撮影禁止だったー。)
上の動画↑3:39あたりに風神雷神像がでてくる。
しかし、この風神雷神像はもともと東照宮の陽明門にあったものを、明治4年に二天門に移したものだ。

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、
シドモアは二天門の風神雷神像を見たはずである。
しかしシドモアは二天門の風神雷神像については記しておらず、滝尾神社に風神雷神像があったといっている。
これはいったいどういうことなのか
p202
ある聖堂[行者堂]は、筋肉質の朱の仏像を祀っていますが、囲いもなく車夫のたまり場となり、信者は仏像に対して活力ある脚を持つよう嘆願しながら、一足のワラジを奉納します。
上の動画17:17あたりに行者堂が映し出されている。
行者堂は役小角を祀っていると、ナレーションが入っている。
上は奈良吉野山の金峯山寺付近にあった役小角像である。
シドモアは「筋肉質の朱の仏像」といっているが、役小角は着衣の姿であらわされることがほとんどであり、筋肉質かどうか判断しがたいので、かなり違和感を感じる。
役小角の左右に置かれているのは、役小角に従った前鬼・後鬼といわれる鬼である。
こちらのほうならば、筋肉質といえなくもないが、役小角について述べないで、前鬼・後鬼を述べるというのもおかしい。
しかし行者堂には草鞋が奉納されているので、行者堂の事を言っているようではある。
シドモアは少し記憶間違いをしているのかもしれない。
⑮含満ヶ淵
p202
御影石の地蔵一体が大きな日除け帽子[菅笠]を被り、面の赤い布きれを喉元にむすんでいました。慈悲深い顔と燃えるような赤い衣装全体に細かい紙片が張り付けられ、神には信者の願い事が書かれています。石像の傍らの灯籠には参拝者の置いた石が積み重なり、すぐ近くにはヒンズー教の神に似た仏が片膝を立てて座り、その膝に腕を立て頭を支え、熱心に思索に耽っていました。
川岸の暗がりには、ブッダの後継者一〇〇名の苔むした石仏[羅漢像]が迷走しながら座っています。[現在、”並び地蔵”と称され、明治三五年の大洪水以降七〇体程度になる]。
p202
橋から弘法大師に縁のある広い霊地まで石仏が並び、その数を数えるのが習わしですが、誰が数えても決して数が合わないと言われています。
ここへは行ったことがないのだが、知人に写真を提供してもらうことができた。(ありがとうございます)↓
[現在、”並び地蔵”と称され、明治三五年の大洪水以降七〇体程度になる]と注釈があるとおり、
1902年(明治35年)の大洪水で、慈雲寺本堂、霊庇閣、並び地蔵が流されたようである。
慈雲寺本堂と霊庇閣は、1970年代に再建されたものとのこと。
ウィキペディアには並び地蔵ではなく化地蔵と記されている。
化地蔵と呼ばれるのは、シドモアが書いているように、何回数えても数があわないからなのだそうだ。
洪水で流出する前の化地蔵
「御影石の地蔵一体が大きな日除け帽子[菅笠]を被り、面の赤い布きれを喉元にむすんでいました。」
とあり、友人が撮影したお地蔵様とは別のお地蔵様があるのかもしれないと思い、いくつか動画を見てみたがよくわからなかった。
Photo ACさんを検索したら一体、他のお地蔵様よりも一回り大きそうなお地蔵さまがあった。↓(下の写真)
もしかしたらこのお地蔵さまのことかもしれない。(詳しい方、教えてくださるとうれしいです。)

そのお地蔵様には赤い衣装が着せられ、その上に願い事を書いた紙片が張り付けられているのだという。
地蔵菩薩には塩や油をかけたり、縄をしばりつけたりする信仰がある。
これらと類似の信仰で、地蔵菩薩の上に紙片を大量に張り付けて祈願していたのだろう。しかし、現在はそのような習慣は廃れているようである。
「石像の傍らの灯籠には参拝者の置いた石が積み重なり」
とあるのは賽の河原伝説に由来するものだと思う。
親より早く亡くなった子供は賽の河原で親のために石を積んで塔をつくる。
しかし地獄の鬼がその塔を壊してしまうが、地蔵菩薩が救ってくれる。
そんな話があり、石を積み上げて塔を作る人があり、お寺の隅などでそのようなものを見かけることがある。
私はやったことがないが、どのような人が石を積み上げておられるのだろうか。
(伝説では死んだ子供が石を積み上げるのだが、実際にある場所で死んだ子供が石を積み上げることはできない)
「すぐ近くにはヒンズー教の神に似た仏が片膝を立てて座り、その膝に腕を立て頭を支え、熱心に思索に耽っていました。」
とあるのは如意輪観音の石像だろう。
日光を散策すると、道端などに如意輪観音の石像をよく見かけたので。
私は関西に住んでいるのだが、関西では如意輪観音の石像はあまりみかけない。
如意輪観音の石像 日光付近
⑯被差別部落
p203
このあたりには、世間から見捨てられた人たちの暮らす被差別部落があります。それは動物の屠られた死体を扱い、皮や毛皮で衣服をつくる人を蔑んだためです。差別の起源には彼らが朝鮮から渡来した人の子孫であるとか、皇室の鷹狩りの実行者や提供者として長く務めたという伝説的理由もありますが、むしろ動物の生命を奪うことを禁じた仏教戒律の影響と思われます。部落民の人たちは以前は、身分制度の中で、より身分の高い近隣住民とは孤立した生活を送ることを余儀なくされてきました。
明治維新後、特権勢力の舞台は幕を閉じ、低階層は身分制度の暴虐から漸次解放され、部落民は市民となり法律によって保護されました。以前として、恥ずべき偏見は部落民自身を狭い村に閉じ込めていますが、部落民の立ち去った後、そこに居たところに塩を撒いて清めるという失敬な話はもはやありません。
近年、教科書から江戸時代の身分制度として士農工商や、四民平等の表記をしなくなった。
その理由について、東京書籍の説明をまとめると次のようになる。
・身分制度を表す語句として「士農工商」という語句そのものが適当でない。
「武士-百姓・町人等、えた・ひにん等」が存在し、ほかにも、天皇・公家・神主・僧侶などが存在した。
・武士は支配層として上位
・他の身分については、上下、支配・被支配の関係はない。
・特に、「農」が国の本であるとして、「工商」より上位にあったと説明されていたが、そのような関係はなく、対等であった。
・近世被差別部落やそこに暮らす人々は「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民とされた人として存在させられ、身分の下位・被支配の関係にあったわけではなく武士の支配下にあった。
・士農工商という言葉を使わなくなったのにあわせ、平成17年度の教科書から「四民平等」の用語は使用しないことにした。
・「四民」という言葉は、もともと中国の古典に使われている言葉で、『管子』(B.C.650頃)には「士農工商の四民は石民なり」とある。「石民」とは「国の柱石となる大切な民」という意味である。
ここから転じて、「四民平等」の「四民」という言葉は、「士農工商」は、「国を支える職業」といった意味で使われていた。
・江戸時代になると、「士」「農」「工」「商」の順番にランク付けするような使われ方をするケースがも出てくる。
・「四民」本来の意味で使用するのは、わかりにくい、説明しにくいなどの指摘があった。
・「四民平等」の語は、明治政府の一連の身分政策を総称するものだが、公式の名称ではない。
・「江戸時代の身分制度は改められ、すべての国民は平等であるとされ」と表記の記述の方が、近代国家の「国民」創出という改革の意図をよりわかりやすく示せた。
繰り返しておくが、士が支配者階級で上、農工商はいずれも被支配者階級で、武士の下の身分ということである。
つまり、身分の上下はあったということである。
また士農工商は嘘だった(戦後の教科書が自虐史観を押し付けたという意味)」という人がいるが、これも間違った認識だといえる。
東京書籍の説明にもあるが、単に研究が十分でなく、勘違いされていたというだけだろう。
戦後の教科書が自虐史観をうえつけるため、士農工商という身分制度を教えたという人は
「士農工商の4つの身分は単なる職業区分であって身分の差がないのに、身分差別があると教えていた」という誤った認識をもっている。
しつこく繰り返しておくが、現在教科書で教えているのは、士農工商が平等ということではない。
「➀士が支配者階級で上、農工商はいずれも被支配者階級で、武士の下の身分」=「⓶身分制度があった」 と教えているのだ。
➀と⓶のちがいは、階級の数の違いでしかない。
階級の数を偽ったとしても階級があったことにはかわりなく、そんなことをGHQがさせる理由がわからない。
現在の教科書の記述を読めば理解できるだろう。
孫引きになってしまうが、教科書の表記がどうなっているかみてみよう。
「江戸時代の社会は、支配者である武士をはじめ、百姓や町人など、さまざまな身分の人々によって構成されていました」
「また、百姓や町人とは別に厳しく差別されてきた身分の人もいました。これらの人々は、差別の中でも、農業や手工業を営み、芸能で人々を楽しませ、また治安などをになって、社会を支えました」
「武士が支配者」と書いてあって、支配者階級と被支配者階級があることが分かるような記述になっている。
しかし、私は東京書籍さんの「江戸時代の身分制度は改められ、すべての国民は平等であるとされ」という表記が正しいとは思えない。
1870年(明治3)農民や町人が姓(苗字)を名のることを許された。
1871年 穢多・非人などの差別的呼称と身分を廃止した。
公卿と諸藩藩主を華族、武士を士族、農工商を平民という呼称に改めた。
華・士族、平民間で居住・職業・結婚などの自由を認めた。
華族・士族・平民というのは階級ではないのか。
士族は主に江戸時代の武士階級で、華族以外のものの身分階級である。
当初、士族は江戸時代の習慣をひきつぎ、世襲の俸禄(家禄)を受ける、名字帯刀、切捨御免などの身分的特権を持っていたが、こうした士族の特権は段階的に剥奪されていく。
1873年(明治6年)徴兵制によって国民皆兵となる。
1876年(明治9年)廃刀令。
1873年、家禄・賞典禄を自主的に奉還した者に対して起業資金(秩禄公債)を発行する。。
1876年、金禄公債(強制的に禄を廃止し、その代償として公債を発行。)
公家・大名家・国家への勲功のあったもの・臣籍降下した元皇族などは華族という身分を得た。
華族には貴族院の構成、皇族・王公族との通婚、旧・堂上華族保護資金(旧・堂上華族保護資金令)などの特権が与えられていた。
士族はともかく、華族の存在があるのに、「すべての国民は平等」というのは詭弁である。
シドモアは「明治維新後、特権勢力の舞台は幕を閉じ、」
と書いているが、すでに述べたような理由でまちがいである。
しかし、1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録としてつづられた「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」に江戸時代に特権階級や被差別部落が存在していたと書いてあることは重要である。
シドモアは江戸時代の日本については知らないはずなので、日本人ガイドなどにそういう話を聞いたか
「江戸時代の日本には特権階級がいて被差別部落が存在していた」ことは新聞などを通じて知っていたのだと思われる。
そしてシドモアが日本にやってきたのは明治で、日本がGHQの支配下にあった時代よりも以前である。
GHQがプレスコードと呼ばれる出版物の検閲をしていたのは事実だが、
それを理由に、日本には階級制はなかった、階級制があったとする人がいて、それはいくら何でも結論を急ぎ過ぎだと思う。
GHQ以前の日本にやってきたシドモアの文章は、当然のことだが、GHQのプレスコードの影響をうけておらず
江戸時代の日本には階級制度があったことを証明しているように思える。
いやいや、シドモアは日本を貶める目的で「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」を書いたんだ、と主張される方がいるならば、丁寧かつ具体的な説明をお願いしたい。
⑰骨董屋
p204
毎夏、日光の骨董市場は拡大してゆき、骨董は当然宗教的色彩を帯び、鉦、太鼓、銅鑼、香炉、彫像、旗印、錦織の反物、聖職者用の扇などが、どの行商人の荷物の中にも詰まっていますが、もちろんこれらの品々は近辺の社寺の宝蔵から出たことは保障つきです。
文化財保護法が制定されたのは、昭和25年(1950年)なので、それ以前には重文クラスのものも骨董屋で売買されていたのかもしれない。
p205
日光の観光客は必ずユオキ[柚餅子]を買います。クルミと大麦糖でT繰ら得た子の樫は、一インチ[二・五センチ]角、長さ六インチ[一五センチ]の平たい厚切りの状態で乾いた竹皮に包まれ、日本人客の買い物意欲を高めるため優美な木箱に入っています。
土産物屋には寄らなかったので、日光の名物が柚餅子なのかどうか、わからないが
ネットで検索するとそれらしいものはでてこない。
最近ではあまり土産物として作られていないのかもしれない。
p206
障子の影絵が室内のうときや集いの様子を繰り返し映し出し、さらに家族入浴の秘密が湯水のバシャバシャ音と一緒に漏れ、お祖父さんから赤ちゃんまで全身茹でられ(!?)、ごしごし体の現れている様子が伝わってきます。やがて雨戸がバタンと占められ、翌日明け方まで休憩時間となります。
日本に来て本当に驚いたことの一つは、家族で一緒にお風呂に入るのがあまりにも日常的であることだったな。というのも、本当に幼い子どもとの入浴を除いて、これはアメリカではありえないからね。日本では、小さな女の子でもお父さんと一緒にお風呂に入るよね。アメリカでの一般的な経験則では、子どもが就学年齢の5歳くらいになるまでに、親と一緒にお風呂に入ったりシャワーを浴びたりしなくなる。
だから、日本のこの慣習に最初少し違和感があったけど、今ではすっかり慣れたし、お風呂の時間は家族の「絆の時間」とも言えることを理解しているよ。親子が一緒にお風呂に入っている間に、最高の会話が生まれることもあるからね。
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