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シドモアが見た明治期の日本22 日光

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

➀大谷川に住む巨人・妖精・悪魔・怪物

p192
支配者や高僧は日光に埋葬されることを強く望み、僧侶、歌人、学者、芸術家、巡礼は永くここに滞在したがりました。

この文章をよむと日光東照宮に日本の支配者や高僧の墓がたくさんあるように思えるが、そんなことはなさそうである。
(墓があれば教えてください。)

p192
鉢石村へ向け長い一本道を進むと、狭い谷間を勢いよく流れとどろく大谷川の築堤の終点に付きますが、これより先は青くくっきりとした霊峰・男体山によって塞がれています。この大谷川の谷には、この世にあり得ようもない巨人・妖精・悪魔・怪物が棲んでいるとの伝説が信じられています。

男体山

大谷川より男体山・女峰山を望む 

   

赤いマーカー部分が鉢石町(鉢石村)大谷川の南にある。

「この大谷川の谷には、この世にあり得ようもない巨人・妖精・悪魔・怪物が棲んでいるとの伝説が信じられています。」
というのは、有名な次の伝説の事ではないかと思う。

昔、男体山の神と赤城山(群馬県前橋市)の神が領地争いをした。
男体山の神は白い大蛇に、赤城山の神は大ムカデに変身して闘った。
男体山の神は弓の名手・猿丸太夫に援助を頼んだ。
猿丸太夫は大ムカデの目を射抜いた。それで男体山の神が勝った。


⓶外国人の避暑地

p192
毎年夏になると、東京の公使館の半分はそっくり日光へ移動します。社寺、僧坊、聖職者の住居、そて村の上側の民家は外人へ賃貸され常時増えています。日光の住宅は、まだ避暑地ニューポート[米国ロードアイランド州ロード島の都市]にある別荘の値段ほどではありませんが、一シーズン三カ月で三〇〇円ないし五〇〇円という法外な値が地元相場になっています。

公使館とは公使が駐在国で公務を執行する公館のことである。
東京は暑いので、日光の住宅を借りて公使館としていたのだろうか。
「村の上側」とはどういう意味だろうか。

原文を読んでみないと断言できないが
英語でアップタウン、ダウンタウンなどという。

主に米国英語で用いられる表現で、
都市の中心部、都市中心あたりの商業地区(オフィス街・ビジネス街)をダウンタウンという。
ダウンタウンに対して、アップタウンとは「郊外」や「住宅街」を意味する。

街の中心は標高が低いところにあり、街の中心から離れたところは標高が高いという認識からこのようにいわれるのだという。

訳者は「村の上側」と訳したが、これは「山の手(高台)」のことではないだろうか。

③田母沢御用邸

p193
このような外人保養客に加え日本人定住者も大勢いますし、夏の離宮[田母沢御用邸]で過ごされている皇太子殿下[大正天皇]には、毎日街道や森の小径、社寺境内でお目にかかります。

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田母沢御用邸公園

田母沢御用邸は、明治32年(1899年)皇太子時代の大正天皇の静養所として、もともとこの土地に建てられていた別荘(銀行家小林年保が所有)を利用したり、東宮御所から建物を移築したりして造営された。
現在は田母沢御用邸公園として一般公開されている。
屋内には御玉突所もある。



「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアが日光を訪れたのは、1899年から1902年の間だということになる。

大正天皇崩御後は、昭和天皇、香淳皇后の避暑地として利用され、1944年(昭和19年)には第125代天皇明仁がここに疎開していた。

1947年(昭和22年) - 田母沢御用邸は廃用となった。

田母沢御用邸 謁見所

謁見所

田母沢御用邸 御学問所の丸窓より望む、中央の建物は御食堂

御学問所の丸窓より望む、中央の建物は御食堂

④神橋

p193
大谷川にかかる二つの橋は、日光の評判を高めている森と霊廟へ導いてくれます。一つの橋[日光橋は簡素な普通の白木造りで、人力車がゴロゴロとうるさく音をたて、通行人と一緒に往来します。もう一つはかつて将軍専用通路として管理してきた神聖な橋[神橋]で、現在は天皇だけが通行できます。

神橋



※ 拡大してみると、境内の配置などもわかりやすいと思います。

シドモアは東照宮の入り口までやってきて、当事、天皇しか渡ることのできなかった神橋を日光橋から見たのだろう。
私も神橋は渡らずに、神橋の隣にある橋を渡った。この橋が日光橋だろうか。
橋を渡ったところにある横断歩道は赤信号になったままなかなか青に変わらない長い信号だったw

現在は300円で神橋に立ち入ることができるのだが、ここから東照宮にはいけないらしい。
私は神橋の東にある橋を渡った。この橋が日光橋だろうか?

p194
しかも敬虔な祈祷に神々が応え、雲からこの虹の橋へ降臨するとの言い伝えがあり、その尊厳は大切に守られています。かつて天皇はグラント将軍[第一八代米国大統領]へできるかぎりの経緯を表したいと考え、賓客が橋を渡れるよう障害物の除去を命じました。しkし、慎み深い将軍は「神聖な赤い橋を信仰する敬虔な人々を、冒涜すべきではない」と考え、名誉ある措置を丁寧に断りました。

神橋に伝えられている伝説とは次のようなものである。

奈良時代の末、下野の人沙門勝道は、伯父・大中臣諸清たちと二荒山(男体山)に登り、人々の幸福を願った。
766年、勝道上人一行は大谷川を渡ろうとしたが、激流で渡る方法がなかった。
勝道上人が祈ると、身の丈一丈余の夜叉のような姿をし、右手に二匹の蛇をまく神があらわれて、こう述べた。
「我は深沙大王である。あなたを彼の岸に渡しましょう」
神が赤と青二匹の蛇を放つと虹のような橋を作った。
上人一行が橋をわたって振り返ってみると、神も橋も消えていた。
それ以来この橋を山菅の蛇橋と呼んだ。

勝道上人は二荒山(男体山)を開いた人物である。

⑤四本龍寺

その後、勝道は大谷川の対岸に千手観音を安置する寺をたて、紫雲立寺と名付けたが、のちに「四本龍寺」と改めた。
四本龍寺は神橋の東北の大谷川北岸にあり、現在、そこには観音堂と三重塔が建っている。
日光東照宮は参拝したのだが、三重塔の存在を知らず、残念ながら見損ねた⤵
シドモアも三重塔については書いていないので、見損ねたのかもしれないw

 

その翌年の767年(790年説もあり)、勝道は四本龍寺に隣接する土地(現在の本宮神社付近)に男体山(二荒山)の神を祀った。

782年、勝道は、ご神体の男体山(2,486メートル)登頂に成功し、観音浄土である補陀洛山から山の名前を二荒山と名付けた。
のちに二荒は音読みでニコウと転じ、日光と呼ばれるようになったといわれる。

(ふたらさん)と名付け、後に「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるという。

⑥日光修験

784年、勝道は、四本龍寺西方の男体山麓にある中禅寺湖のほとりに中禅寺を建立した。
中禅寺湖は神橋から10kmほど西にある。
中禅寺は湖の北岸にあったが、1902年(明治35年)の大山津波で押し流され、湖の東岸に移転した。

「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、もしかしたら1902年の中禅寺湖大山津波のニュースを日本で聞いたかもしれないが、シドモアは中禅寺や中禅寺湖については書いていない。
たぶん、ここへは訪問しなかったのだろう。

中禅寺湖と男体山

中禅寺湖と男体山

 

p193
七月から八月にかけて、あちこち無数の白装束の巡礼が群れを成し、荘重な社寺周辺を、杖を手に鈴をリンリン鳴らして絵のような光景をみせ、霊峰・男体山の陰の写る中禅寺湖畔の神社へ向け、てくてく歩いていきます。

※中禅寺湖は男体山の東にある。

これは日光修験について述べたものだろうか?
杖というのは金剛杖、鈴は錫杖のことか?
http://oomine.gozaru.jp/isyou.html

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錫杖

阿比太神社 山伏

大阪府箕面市 阿比太神社付近で撮影した修験者
日光修験も同様のいでたちである。

1210年(承元4年)に日光山の第24世 ..第24世座主・弁覚法印が日光修験を創始した。

ウィキペディアには「明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって日光修験は禁じられ一旦は途絶した」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E4%BF%AE%E9%A8%93

田母沢御用邸のところにも書いたように
シドモアが日光を訪れたのは、1899年(明治32年)から1902年(明治35年)の間だということになる。
一旦は途絶したが、明治32年ごろには復活していたのか、それとも禁じられてもかまわず行われていたのか。
あるいは、日光修験の行者ではないのか。

二荒山神社 中宮祠

二荒山神社 中宮祠

日光東照宮の隣にある二荒山神社が本社、中禅寺湖にあるのは中宮祠、男体山山頂の二荒山神社が奥宮。

二荒山神社 こまいぬ

二荒山神社 中宮祠 狛犬

⑥日光三所権現

平安時代、嵯峨天皇から「満願寺」の名前を下賜される。

仁治年間(1240年から1242年のころ)、源実朝が現在日光東照宮がある場所に本堂を移し、
このころより「日光三所権現」(男体山、女峰山、太郎山の神)を祀るようになる。

戦国時代には壬生氏の支配を受けるようになり、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏側に加担したため寺領を没収されている。
戦国時代の寺には僧兵は当たり前におり、軍事力を保有していたのである。

元和3年(1617年)、徳川家康の霊を祭る東照宮が設けられ、その際、本堂は、現在の日光二荒山神社社務所がある付近に移された。

正保4年(1647年)、本堂が大雪で倒壊するが、徳川家光によって再建された。

承応2年(1653年)、3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が設けられた。

こうして日光山は二荒山神社・日光東照宮・輪王寺の二社一寺となる。

興味深いのは、家康の霊廟の日光東照宮は神式、家光の霊廟の大猷院霊廟は仏式になっていることである。
なにか呪術的な意味があるのだろうと思う。

明暦元年(1655年)、後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜される。
その後、輪王寺は親王が住持する門跡(輪王寺宮)となる。

輪王寺宮は輪王寺、江戸上野の輪王寺、び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山にも権力を有していたという。

の明治2年(1869年)に明治政府によって輪王寺の称号は没収されて「満願寺」に戻された。
明治4年(1871年)の神仏分離令により、政府の命令により、本堂は現在の場所に移転した。
三仏堂は取り壊しを免れて、移築され輪王寺の本堂とされるなどしたが
明治15年(1883年)に栃木県の働きかけによって、輪王寺を正式の寺号とすることが許された。

二荒山神社・日光東照宮・輪王寺の関係が分かったところで、シドモアの旅を追いかけてみよう。

⑦鳥居

p194
そびえる五重塔と同様、荘重な各楼門が驚異的遠近法をとって長い並木道の終点に見え、青銅鳥居や石鳥居は生なる場所へ向かう敬虔な入口をしるします。鳥居は民族独特の構造物であり、日本の壮大な円柱と上向きに反った横材のあるこの骸骨門は、とても印象的です。

シドモアが長い並木道と書いているのは境内をのびる長い参道の事だと思う。

日光東照宮 参道

日光東照宮への参道 

東照宮 石鳥居

東照宮 石鳥居

福岡藩の初代藩主・黒田長政(1568年-1623年)によって寄進された。
社殿に見える動物石鳥居は高さ9m。
ウィキペディアには「日本最大の鳥居」とあるが、まちがいで、もっと大きな鳥居は数多くある。

❶総本宮熊野本宮大社(和歌山県田辺市 竣工平成12年)33.9m。
❷大神神社(奈良県桜井市 竣工昭和61年)32.2m
❸彌彦神社 (新潟県弥彦村 竣工昭和57年)30.16m
❹最上稲荷大鳥居(岡山市北区 竣工昭和47年)27.5m
❺豊国神社(名古屋市中村区 竣工昭和4年)24.5m
❻平安神宮 (京都市 竣工昭和4年)24.422m
❼北口本宮富士浅間神社 (山梨県 竣工昭和29年)18m ※木造鳥居で日本一  江戸末期よりあり60年に一度建て替え❽出雲大社 (島根県 竣工大正4年)14m

東照宮 青銅鳥居

唐銅鳥居

1636年、日本で最初に建てられた青銅製鳥居といわれ、徳川家光が寄進したもの。高さ6m

⑧五重塔

p195
朱漆の壁を持ち、屋根や横木に真鍮飾りを付けた五重塔ほど美しい仏塔はほかになく、角々すべてにへんそくした鐘[風鐸]が釣s狩り、さらに風変わりな栓抜き[相輪]が超上へ向け螺旋状に登り、深い緑の森の中で宝石工芸店のように見事な作品をすべて陳列しています。

日光東照宮 五重塔

日光東照宮 五重塔

相輪とは五重塔の先端についているもののことである。
「風変りな栓抜き」という表現に噴出してしまったw




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