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シドモアが見た明治期の日本22 日光への旅

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

➀日本鉄道 日光鉄道

p182
今では日光まで鉄道がありますが[明治二三年開通]、宇都宮から最後の美しい日光街道二五マイル[四〇キロ]を人力車で行く旅も楽しく、木々に覆われたまっすぐな街道が鉢石や日光の村々を抜け、長く感ずることも退屈もしません。


明治23年に開通した鉄道とは、かつて日本に存在していた日本鉄道株式会社の宇都宮ー日光をつなぐ日光線のことである。

1881年、岩倉具視ら華族が中心とり、私立鉄道会社「日本鉄道」が設立された。初代社長は吉井友実。
日本鉄道が設立されたのは、北海道開拓に東京ー青森間の鉄道が必用であったためである。
民間の会社として設立されたのは、西南戦争の出費などで政府の財政が窮乏していたためであるという。
しかし、国有地の無償貸与、建設国営など、実質上は「半官半民」であった。

1883年に上野 - 熊谷間が開業した。その後、どんどん路線が延ばされていき、1885年には大宮 - 宇都宮が開業している。
1890年6月1日には支線として宇都宮 - 今市、1890年8月1日には今市 - 日光が支線延伸開業し、宇都宮と日光がつながった。
1891年9月1日に現在の東北本線全線(上野 - 青森間)が開業した。

その後、山陽鉄道・九州鉄道・北海道炭礦鉄道などの新たな私鉄会社が日本各地で創設された。

1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により日本鉄道は国有化された。

東京上野山下より中仙道往復蒸気鉄道の図 東京従上野山下中仙道往復蒸氣鐵道之圖

東京上野山下より中仙道往復蒸気鉄道の図 東京従上野山下中仙道往復蒸氣鐵道之圖

上は上野駅を描いたものだが、このような蒸気機関車が上野ー宇都宮ー日光間を走っていたのだろう。


↑ こちらの記事には次のような内容が記されている。

明治19年6月 上野‐宇都宮間が開通。日本鉄道会社 日本鉄道二区線
明治23年5月 宇都宮‐日光間が開通。日本鉄道会社 日光鉄道・日光鉄道技線
明治39年11月1日に、日本鉄道株式会社所有から国有化された。「東北本線」「日光線」

上野:午前6時40分発(始発)―10時5分宇都宮着
宇都宮‐日光間の電車は午前10時20分に宇都宮発―11時50分日光着

明治23年の開通の頃の日光ー宇都宮間の運賃 下等二十五銭、中等五十銭、上等七十五銭

「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり、
宇都宮―日光間が開通したのは明治23年なので、シドモアが日光を訪れたのは、明治23年から明治35年の間ということになる。

シドモアは「宇都宮から【最後の】美しい日光街道二五マイル[四〇キロ]を人力車で行く旅も楽しく」と記している。
何が【最後】なのかというと、「宇都宮から日光への行程」が、「出発地点から日光までの旅の行程」の最後という意味だと思う。

それではシドモアは出発地から宇都宮まで、交通機関は何を利用したのか。
それは日本鉄道の蒸気機関車だろう。
宇都宮で乗り換えて日光まで行けるのだが、シドモアは蒸気機関車を利用せずに人力車を利用したということだと思う。

全行程 出発地--------------------------------------------------------------------------------------日光
    出発地---------------日本鉄道-------------------------宇都宮--------人力車--------日光 (赤色文字が最後の行程)

シドモアは続けて次のように記している。

p182
八月、夏真っ盛りの猛暑の日、私たちは伸縮自在の日本式トランク(行李)を荷造りし、日光連山を目指し都会を脱出しました。煙と誇りが汽車の窓に舞い注ぎ、屋根は灼熱でパチパチ音を立て、目の回る速さで通り過ぎる緑の木立や繁茂した牧草地は炎熱で揺らいでいます。

やはりシドモアは日光まで汽車でやってきたのだ。

p182
幸いにも、宇都宮で気の利いた茶屋を見つけ休むことにし、同情する姐さん方の世話を受けながら、冷たい鉱泉水の入った盥に手を浸し顔を洗いました。

汽車に乗ったことのない人はわからないかもしれないが、汽車がトンネルを走る際、窓をしめておかないと顔が煤で真っ黒になるのだ。
しかしエアコンのない時代の8月、窓をあけないと暑くてたまらなかったことだろう。
そんなこともあって、シドモアの顔は煤で黒く汚れてしまい、それで茶屋のお姐さんが水の入った盥をもってきてくれたのだろう。

⓶人力車

p183
人力車隊は、それぞれ二人組となり縦一列で、一〇マイル[一六キロ]の杉並木を競争しながら走ります。

ここで、シドモアが日本の旅の中で頻繁に利用している人力車について、調べてみることにしよう。


上記記事に次のような内容が記されている。
❶人力車が登場し、活躍したのは明治期。
❷明治2 年(1869)に東京の八百屋鈴木徳次郎・車職高山幸助・福岡藩士和泉要助らが人力車を作って営業を開始する。
❸三重県では明治10年、4,000台以上が走っていた。
❹乗客に法外なお金を要求したり、雨の日や夜中には車を出すのを断ったり、客を道の途中で降ろしたりする車夫がいた。❺三重県では明治15年に「人力車取締規則」が施行された。
・人力車を営業するときは必ず鑑札を受け組合に入ること
・混雑しているところや橋の上を走るときには掛け声を掛けながら徐行すること
・往来の妨げになる場所に車を止めないこと など
❻明治10年、メーター付きの人力車が登場。鉄輪であった車輪がゴムタイヤとなる。
❼明治14年県内で5,400台を超えた人力車は、それをピークに減少していく。
『県統計書』によれば、大正5年(1916)は2,500台、そして昭和15年(1940)に161台、昭和25年に26台。

人力車 日本、1886年 シルバープリントに彩色。

人力車 日本、1886年 シルバープリントに彩色

③日光杉並木街道

p183
鉄道が宇都宮まで敷設される以前には、横浜発の旅行者は船旅を終えると、木陰の道七〇マイル[一一二キロ]を人力車ツアーしたものです。二〇〇年前、徳川の将軍家は一族の埋葬地として日光を選ぶ際、この並木道を作りました。そしてこの神々しい樹木は壮麗な古武士の葬式行列や、家康や家光の墓へ参拝する後継者の荘重な庚申に濃い影を落としたのです。

日光杉並木街道

日光杉並木街道

日光杉並木(日光〜今市間)

日光杉並木(日光〜今市間)

日光杉並木街道は、大沢 - 日光間16.52km、小倉 - 今市間13.17km、大桑 - 今市間5.72kmの杉並木で総延長35.41kmの世界最長の並木道である。

徳川家康、秀忠、家光に仕えた松平正綱(1576年ー1648年)が、家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に杉を植樹して東照宮に寄進したもの。

シドモアが見た日光杉並木街道は植樹されてから250年以上(シドモアは200年前と書いているが)、私が見たのは350年以上たったものである。

④別れの挨拶

p185
茶屋全員の「サヨナラ」の甘い歌声に送られ再び出発する頃には、東の空が明るくなり、月の出を予兆しました。


明治期の人やお店は、別れの挨拶を丁寧かつ長くする習慣があったのだろうか。

シドモアは東京の紅葉館(現在の東京タワー付近)で、歓待を受けた際の帰り際での出来事を次の様に書いていた。

p125
煙草盆の登場からすでに六時間が経過し、私たちは帰り支度のため立ち上がりました。メイド全員が玄関先まで付き添い、果てしないお辞儀と別れの言葉の後、無類の活人画となって敷物に座りました。彼女たちの可愛らしい「サヨナラ」は芝公園の暗い並木道を走り抜け、はるか離れた人力車の後ろまで耳に響きました。

⑤ワックス代わりの風呂の水?

p187
さらにギャラリーは光沢を帯びるまでつるつるに磨かれました。ニスも塗らず、油もつけず、ワックスも擦り込みませんが、毎朝、風呂の水に濡らして絞った布でこすります。というのは、その水は特殊な艶を出すに足る油脂分を含んでいるからです。三年間毎日、熱い布でこすると満足な効果が現れ、翌年以降は鮮やかな色合いと光沢が障子、古い茶屋や寺院にある普通の松阪廊下でも、バラの木や樹齢六〇〇年の樫で作ったような素敵な渡り廊下となります。

これはよくわからないが、油分を含んだ温泉でも湧き出ていたのだろうか?
北海道の豊富温泉など油分を含んだ温泉はある。

⑥今市の宿

p187
和紙の貼られた美しい格子枠でベランダを遮り、室内に特別柔らかな日光を入れるスクリーンは障子です。これらのスクリーンの取り扱いには念入りな作法を必要とし、躾の善い人や訓練された従業員は、開け閉めに膝を折り、親指と他の指をきちんと正しくつかいます。ところで、この滑りのよいスクリーンを開閉する作法の中に、客への未病な嘲りや致命的侮辱を含みつたえることもあるので要注意です。

p188
夜間や天候の悪い場合はベランダの外側に雨戸が閉められますが、これは堅固な木製シャッターで、溝の中を前後にごろごろとどろかせバタンとしめます。このシャッターには窓や空気孔がなく、「しかも従業員あ換気用に隙間を開ける気もありません。「ちゃんと閉めないと泥棒だけでなく河童がはいるかもしれません!」と大声で応え、想像上の動物なのに、その河童はいつも人間をかどわかす怪物だと信じ込んでいるのです。

23711153_s.jpg

享和元年(1801年)に水戸藩東浜で網にかかった河童の姿。

享和元年(1801年)に水戸藩東浜で網にかかった河童の姿。

p189
日本式ベッドはじかに床に敷かれ、木箱の首当てが枕代わりになり、布団が書けも尾代わりとなります。

   

シドモアがいっているのは箱枕だろう。昔の人は髷をゆっていたが、この髷がくずれないように、高さのある枕を使用していた。
枕は布団の上ではなく、外におき、首のあたりを箱枕に乗せていた。

p188
旅行者は自前の指揮布団や毛布、羽枕や空気枕、さらに野宮家の製粉が必用で、特に畳や布団には蚤が充満し、このため惜しみない製粉の添加やまんべんないハッカ油の擦り込みが必用で、これなしに眠ることはできません。

蚤が多いことは、1878年(明治11年)に日本の東北地方から北海道などを旅したイザベラ・バードも嘆いていた。


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