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シドモアが見た明治期の日本21 東京近郊⓶

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

⑧池上本門寺

p176
ここ池上の地で、仏教宗派の開祖・日蓮が亡くなりました。六〇〇年間、この壮麗な寺院[本門寺]は日蓮上人に対する賛歌で谺し、僧侶は今でも厳格に教義を説きます。日蓮宗は日本最大の組織を持ち、最大の財力を有し、最も強い影響を及ぼしている積極的宗派です。彼らは仏教の新教徒派であり、その信仰は堅く冷徹で、他州の心情をすべて虚偽として拒絶し、熱心に改宗を勧めています。

池上本門寺については、こちらの記事にも書いた。シドモアが見た明治期の日本15 東京⑨


弘安5年(1282年)、日蓮は病を患い、湯治のために身延山から、常陸(茨城県)へ向かった。
その途中、池上宗仲の館にたちより、池上氏館の背後の山上に建立されたお堂を日蓮が開堂供養したのが、池上本門寺の起源とされる。
日蓮はそのまま同地でなくなり、池上宗仲は法華経の字数(69,384)と同じ六万九千三八四坪を寺領として寄進し
日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。
第二次世界大戦の空襲を受けたが、五重塔、総門、経蔵、宝塔は焼け残った。
従って、これらの建物はシドモアが見たのと同じものある。

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シドモアは「日蓮宗は日本最大の組織を持ち」と書いている。
当事と現在では異なるだろうが、現在のデータをみてみると

1 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 784万人
2 真宗大谷派(東本願寺) 735万人
3 浄土宗 602万人 
4 曹洞宗(禅宗) 367万人
5 天台宗 153万人
6 真言宗豊山派 ※高野山真言宗についてはデータなし 142万人
7 法相宗 56万人

https://true-buddhism.com/shuha/ranking/ 

となっていて、日蓮が開いた日蓮宗は入っていない。

日蓮宗の修行は厳しく、過去には死者もでている。

https://www.bengo4.com/c_5/n_450/
上記記事には次のような内容が記されている。

❶千葉県市川市の中山法華経寺で毎年11月1日から2月10日にかけて「100日間荒行」が行われる。
修行僧は1日7回水を浴び、その合間に読経を続ける。
食事は朝夕2回、粥と汁物のみ。睡眠時間は約3時間。
日蓮宗の修行で、30代の僧侶が死亡する事故が起きた。
❸修行僧の健康管理は外部から医師を招いて行なっているが、日蓮宗の内部からも「行き過ぎた指導があったのではないか」という意見がある。
❹主催者と参加者との間に、契約ないし一定の法律関係がある場合、主催者は参加者の生命・身体に危険が生じないように、具体的な状況に応じて配慮すべき義務がある。(安全配慮義務)
❺参加者が無理に荒行を続けた場合は、参加者の過失が認められることもある
❻契約関係等がなかったとしても、注意義務違反があれば、不法行為責任を問われる可能性がある。



日蓮は、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などを遊学し、妙法蓮華経(法華経)が最も優れていると考えるにいたった。
そして、「念仏と禅宗が妙法蓮華経(法華経)を誹謗している、南無妙法蓮華経の題目のみを唱えるべき」と説いた。

日蓮は鎌倉で弘教活動をはじめたが、1257年、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊する被害がでた。
日蓮は「立正安国論」に「地震の原因は浄土宗の流行によるもの。浄土宗の信仰をやめて法華経を信仰するべき」という内容を書いて鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出した。
しかし、鎌倉幕府はこれを無視した。また、浄土宗信者より襲撃される事件もおきた。(松葉ヶ谷の法難)。

1261年には、伊豆の伊東に流罪となり、1263年に許されて日蓮は故郷の安房国故郷に戻る。
しかし浄土宗信者の東条景信によって襲撃され、日蓮は頭に傷を受け、左手を骨折する。

1268年、蒙古と高麗の軍事的侵攻をちらつかせる国書が鎌倉に贈られた。
日蓮はこれを自分の「立正安国論」の予言どおりであるとし、幕府に対し、鎌倉仏教界の主要僧侶との公場対決を要求した(十一通御書)。
しかし幕府は日蓮の主張を無視した。

1271年、極楽寺良観(忍性)が、旱魃に際して幕府に祈雨の祈願を要請した。
これに対して日蓮は「7日の間に雨が降るならば日蓮が良観の弟子となるが、降らないならば良観が妙法蓮華経(法華経)に帰依せよ」と申し出た。
しかし良観は応じなかった。

日蓮は幕府によって逮捕され、斬首のため、龍の口の刑場へと連れてこられたが
刑が執行されようとした直前、江の島の方角から強烈な球電が現れたため、刑の執行は中止された。

斬首を免れた日蓮は、佐渡国へ流罪となる。
また日蓮の弟子ら260余人が逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた。
日蓮の弟子の多くが「法華経の行者には諸天の加護があるはずなのに加護がないばかりか、迫害される」として離れていった。
日蓮は諸天善神の加護がない理由を次のように説明した。
①経文や歴史上の先人の例に照らして行者が難を受けるのは当然。
②行者が難に遭うのは行者自身に謗法の罪があるため。
③迫害者に地獄に堕ちる重罪がある場合には、現世に現罰は現れない。
④行者に諸天の加護がないのは諸天善神が謗法の国を去っているため

1272年、鎌倉と京都で幕府内部の戦が生じた(二月騒動)。
幕府中枢が、北条一門の名越時章・教時兄弟、北条時輔を謀反の罪を着せて誅殺したのだ。
これは日蓮の予言が実現したと考えられた。

1274年北条時宗は日蓮を赦免した。
平頼綱は日蓮に蒙古襲来の時期について日蓮に尋ね、日蓮は年内に襲来するだろうと答えた。
日蓮は甲斐国身延(現在の山梨県身延町)で布教活動を行うが、体調を崩しがちになる。

やがて3万数千人の蒙古・高麗軍が対馬、壱岐を経て博多湾に上陸した。
戦闘は一週間ほどで終了したが、日本側は大きな被害をうける。(文永の役)

1275年、「撰時抄」をあらわし、次のような内容を述べた。
❶蒙古襲来は日本国が法華経の行者を迫害する故に諸天善神が日本国を罰した結果なので、法華経に従わない鎌倉中の寺や鎌倉大仏を焼き払い、禅僧・念仏僧を由比ヶ浜で処刑せよ。
❷真言僧が敵国降伏の祈祷をしているので日本の滅亡はやむなし。
❸第3代天台座主の慈覚大師円仁(794年~864年)を五大院安然(841年~915年?)・恵心僧都源信(942年~1017年)と並べて「師子の身の中の三虫」とした。
❹自分は「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」である。

弟子の日興らの活発な布教活動の結果、日興が供僧をしていた四十九院や岩本実相寺、龍泉寺などの天台宗寺院が改宗して日蓮門下となり、日蓮門下と天台宗側との抗争が生じる。

1279年、熱原竜泉寺の院主代・行智は、武装した武士の騎馬集団を用いて20人の農民信徒を捕えたが、彼らは法華経の信仰を捨てず、3名は斬首、ほかは禁獄処分となった。

1279年 蒙古は再び日本を責めようとしたが、大型台風の直撃を受けて退却した。(弘安の役)

公安の役は真言僧の祈祷によるものと考えられた。

1282年、日蓮は温泉での療養を行うため、弟子を連れて出発し、武蔵国荏原郡(現在の東京都大田区)にある池上氏の館に到着したが、衰弱が進んでそれ以上の旅を続けることができず入滅した。

シドモアは「その信仰は堅く冷徹で、他州の心情をすべて虚偽として拒絶し、熱心に改宗を勧めています。」といっているが、上の日蓮の行動からみて、シドモアが言っていることはまず正しいと言えるだろう。

日蓮はとにかく、「他の宗派はダメ、法華経以外信仰するべきではない」という頑固な考えをもっていたようだ。

日蓮は「四箇格言(しかかくげん)」を述べて、他宗派を批判している。
四箇格言とは、「真言亡国・禅宗天魔・念仏無間・律国賊」というもので、
要するに、真言宗は亡国をまねく。禅宗は仏法を害する悪魔、浄土宗は絶え間ない苦しみが続く、律宗は国賊で、
これらの宗派はだめというわけである。

p176
それにしても、宗祖の受難はたいへん過酷なものでした。たとえ流刑され、投獄され、拷問あれ、死刑判決が下っても信者を増やし、真の大教団を見届けるまで生き続け、池上大本山の最高の聖人として崇められるに至りました。人気の高い芝居「日蓮」では、いかに敬虔な宗祖や弟子たちが苦難に堪えたか、ぞっとするような法難を目にします。

これも、シドモアがいっていることはほぼ正しいといえる。

日蓮の受難をまとめておこう。

浄土宗信者より襲撃される。(松葉ヶ谷の法難)。
1261年、伊豆の伊東に流罪(1263年に赦免される)
1263年、東条景信によって襲撃され、頭に傷を受け、左手を骨折する。
1271年、日蓮逮捕され、斬首されそうになったところを球電の出現で免れる。
    佐渡国へ流罪となる。(1274年に赦免される)
    また日蓮の弟子ら260余人が逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた。
1279年、熱原竜泉寺の院主代・行智は20人の農民信徒を捕えた。

しかし、現代人の私は日蓮という人物を評価できない。

「鎌倉の大地震や、元寇を浄土宗の流行によるもの。浄土宗の信仰をやめて法華経を信仰するべき」
「雨が降らなけば良観が信仰している律宗は間違いなので、法華経を信仰せよ」
と日蓮はいっているが、地震や他国からの軍事的信仰。降雨は浄土宗の信仰とは無関係である。
(当事の宗教はどこも日蓮がいうような関連性のないことがらを、宗教と結びつけていたのかもしれないが)

日蓮の弟子ら260余人が逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた際の言い訳もひどいw
特に⓶

①経文や歴史上の先人の例に照らして行者が難を受けるのは当然。
②行者が難に遭うのは行者自身に謗法の罪があるため。
③迫害者に地獄に堕ちる重罪がある場合には、現世に現罰は現れない。
④行者に諸天の加護がないのは諸天善神が謗法の国を去っているため

1275年、「撰時抄」で、禅僧・念仏僧を処刑せよ。といっているのも過激すぎる。
当事の僧侶は平気で殺生をしたのかもしれないが。

また、自分は「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」というなど、うぬぼれているw

日蓮入滅後、弟子6人のうち5人は日蓮の排他的な考えを緩和した。
弟子のひとり、日興は日蓮宗富士門流(現在は日蓮正宗)という名称で日蓮の排他的な考えを引き継ぐ宗派をたちあげた。
ちなみに創価学会はこの日蓮正宗の関連団体であったが、1912年、日蓮正宗は創価学会を破門にしている。

⑨池上本門寺 お会式

p176
毎年一〇月の一二、一三日には、特別法要[御会式]が主訴日蓮を記念して営まれます。そこには数えきれないほどの人が参加し、祭の初日は鉄道が押し合いへし合いの騒ぎとなり、夜になると篝火や提灯[万灯]の林が大森駅を明るく照らし、昼は高い竹竿の先に、大きな造花で飾った葦の輪生をぱっと咲かせ、祭の開催を近隣に告げます。

p178
荘重な屋根を持つ朱塗りの楼門[仁王門(戦災で焼失)、昭和五二年再建]が大きくそびえ、広大な前庭へ向かう民衆の流れを呑み込み、前庭を三方に囲む大小の伽藍からは数珠を擦る音、賽銭を投げる音とともに、僧侶の詠唱、団扇太鼓の
連打、敬虔な祈祷が聞こえます。


「高い竹竿の先に、大きな造花で飾った葦の高い竹竿の先に、大きな造花で飾った葦の輪生」とあるが「輪生」について、ウィキペディアはつぎの様に説明している。

輪生(りんせい)とは、生物の体において、ある器官が一定の箇所から輪を描くように並んで生じることである。植物の葉や花に関して使われることが多い。

シドモアは3:16あたりにでてくる造花のことをいっているのだろうか。

p180
貫首は巨大な赤傘に庇護され、行列のほぼ真ん中に入って歩みます。彼はクロージャー(司教杖)ににた聖地な朱塗の杖を手にし、下駄も朱塗りです。の地上の儀式はローマ・カトリック様式を思わせ、赤い法衣と笠に覆われた仏教カージナル[枢機卿]は西洋世界の聖職者そっくりです。

これは映像をみつけることができなかった。

p177
フライ、シチュー、炒め物、焼き肉が香ばしい匂いを大気に薫らせ、さらにボール状やサイコロ状の様々な食べ物(おでん)、バターの塊、ケーキ、おいしそうな塊や手巻き類(稲荷寿司にのり巻き)が、田圃の道ぞいに並べられています。鮮やかな赤で着色した奇妙な海草の薄皮は、チューインガムに似て飛ぶような売れゆきです。

「鮮やかな赤で着色した奇妙な海草の薄皮」とは、酢昆布だろうか。
酢昆布といえば、中野の都昆布を思い浮かべるが、中野物産の創業は昭和6年( 1931年)なので、また別のものかもしれない。

バターの塊はわからない。

ケーキとあるのはカルメラだろうか。

カルメ焼きともいい、水を加えて溶かしたザラメに重曹をくわえて膨らませる。
炭酸ナトリウムを熱すると二酸化炭素が発生し、カルメラを膨らませる。
それを水で濡らした布巾に乗せて急冷すると固まる。
その歴史は戦国時代、ポルトガルから伝えられたといわれる。

 

p178
境内にはさまざまな色の砂袋を持った”砂男”がいて、細工する間中、休みなくしゃべりながらどたばた走り回り、何もない綺麗な地面に美しい絵を描きます。まず最初、たくさんのまっしろな砂を手でふるいながら地面に振りかけ、続いて黒や赤の砂を握った手で篩にかけ細く流しながら、極めて迅速、かつ簡潔な技巧で武士、娘、龍神、花、風景を描きます。


↑ こういう感じのものだろうか。実際にパフォーマンスと作品をみてみたいものだ。

p178
軽業師が、空中に輪、玉、短剣を放り投げて手玉にとり、二〇フィート[六メートル]の竿の先で皿を回し、同時に仲間が大きな竹竿を肩で釣り合いをとり、これに小柄な少年がの追って先端の横木で妙技を披露します。


『人倫訓蒙図彙』(元禄3年(1690年)頃刊行)の挿図より「放下」(右)「住吉踊り」(左) 放下師は路上で皿回しをしている。

『人倫訓蒙図彙』(元禄3年(1690年)頃刊行)の挿図より「放下」(右)「住吉踊り」(左) 

p178
魔術師は火のついたパイプを飲みこみ水を飲み、口笛をんラしてパイプを出し、一吹き二吹きしてから、またパイプをん見込むと、いかにも満足気に幻想的煙の輪や竜巻を口から次々放出します。


⓾髪の毛の奉納

p178
ある廟の格子に結ばれた脂っこい髪の房は、内陣の本尊に救いを求める信者の奉納品です。

理由についてはわからないが、髪の毛を奉納する習慣は各地にあった。
京都・六波羅蜜寺の鬘掛地蔵は左手に毛髪をもっており、たくさんの神の毛が奉納されている。
東本願寺には髪の毛で作った毛綱がある。
京都の菊野大明神、大分県の椿堂にも髪の毛が奉納されているそうだ。

⑪オニーダ号追悼碑

p180
池上はアメリカ合衆国民にとって特別感心のある場所です。とうのは、一八七〇年[明治三]一月二三日[碑文では二四日]、江戸[東京]湾口の近くで米国軍艦オニーダ(オネイダ)号がP&O輝線ボンペイ豪に衝突され、無念にも将兵とともに沈没した事故と深い関わりがあるからです。当時なぜか、わが米国政府は難破船の引き上げや創作する努力を怠りました。しかも、なんたることでしょう!一五〇〇ドルでこの沈没船を日本のサルベージ会社へ売却したのです。
日本の作業員は軍艦の残骸の中に、たくさんの水死した乗組員の遺体を発見しました。仕事が完全に終了すると、なんと彼らは自主カンパで池上[本門寺]境内に追悼記念日を建てたのです!
さらに一八八九年[明治二二]五月、感銘深い仏教儀式・施餓鬼(飢えた霊魂へ御馳走する供養)が執り行われました。この偉大なる寺院は追悼式の準備を整え、僧侶七五名が豪華な最高級の法衣をまとい一丸となって協力しました。[当事の貫首は日亀上人]
追善供養には米国軍艦から提督と士官一〇〇名、さらにオニーダ号から脱出した唯一の生存者も参加しました。



↑こちらの記事にオネイダ号の事故について記されている。だいたい次のようなないようだ。

❶1870年1月24日、横須賀・観音崎沖で米艦船「オネイダ号」が英国船と衝突し、沈没した。
❷米軍人ら115人が犠牲らが犠牲になった。日本人漁師らに救助された乗船者もいたらしい。
❸身元不明者らは池上本門寺に埋葬され、本門寺には慰霊碑がある。

https://ja.foursquare.com/v/%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%80%E5%8F%B7%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91/514e94dee4b06ae75c968135

↑ こちらの記事に慰霊碑の写真がある。


上記動画2:12あたりにオネイダ号の写真がある。
上の動画ではオネイダ号は沈んだままと言っているが、
シドモアは船は日本のサルベージ会社(海洋上で沈没した船舶の引き上げ回収を行う会社)に売却され、作業員が軍艦の中から遺体を発見した、と言っている。
船の引き上げは行わず、遺体のみ引き上げたのだろうか。

上の動画でも言っているが、
2010年、フジテレビの番組で、明治初期に横須賀・観音崎沖で沈没したアメリカ軍艦・オネイダ号がみつかり、遺物を一部引揚げたらしい?

https://www.jstage.jst.go.jp/article/houseiken/19/0/19_KJ00008637187/_article/-char/ja/
こちらの記事を日本語に自動翻訳するとシドモアが述べているとおり「米国は売却によりオネイアダの財産権を放棄した。」と記されている。





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