写真がよくないので、全記事少しづつ書き直すことにしました。
写真はレタッチをやり直し、増やすつもりです。文章も手直ししようと思います。
また、新たに思いついたことなどもあるので、記事も追加したいと思います。
よろしくお願いします。
●鴨川は三途の川に喩えられていた?阪急河原町駅で下車し、四条通を東に向かって歩いていく。
しばらくすると鴨川があり、四条大橋の上を大勢の人が行き交っている。
中には晴れ着を着た人や、破魔矢を手に持つ人の姿がある。
今日は1月3日、八坂神社や六波羅光寺の初詣に行った帰りなのだろう。
橋を半分ほど渡ったところに般若心経を唱える托鉢の僧がいた。
僧の姿を見ると、今からあの世に行くのだ、という思いがこみ上げてきた。
『あの世に行く』とはどういうことか。
北に丘陵、南に湖沼、東に流水、西に大道がある土地のことを四神相応の地という。
丘陵には玄武、湖沼には朱雀、流水には青龍、大道には白虎という想像上の聖獣が棲むと考えられ、風水ではこのような場所を大変縁起のいい場所だとしている。
平安京は四神相応の地を選んで作られた。
すなわち、平安京は北の船岡山、南の小椋池(現存せず)、西の山陰道、東の鴨川に囲まれた土地を選んで建都されたのである。
四条大橋を超えて東山に向かうことは、平安京の外に向かうということである。
(厳密にいえば平安京の東の端は寺町通あたりなので、阪急四条河原町駅についたあたりで平安京を出たことになる。)
昔の人は平安京の中をこの世、平安京の外をあの世と考えたということを聞いた記憶がある。
すると四条大橋を渡ることはこの世(平安京)からあの世(平安京の外)へ行くことになる。
昔、鴨川はこの世とあの世の境を流れる三途の川に喩えられたのではないだろうか。
951年、京の町では疫病が流行し、鴨川のほとりは死体で溢れかえるほどの惨状となったと伝えられる。
当時の人々にとって鴨川はまさしく三途の川そのもののように映ったことだろう。
今でも鴨川の西は商店街や銀行、デパート、オフィスビルなどが立ち並んで人が生活する町という雰囲気であるのに対し、
鴨川の東は神社仏閣が多く、鳥辺野の風葬地の名残を残すという東大谷墓地などもあって、あの世という雰囲気が漂っている。
●まったく意味がわからなかった能・翁
四条大橋を超え、まっすぐに歩いていくと突き当りに赤い楼門が見えてくる。
八坂神社である。
大晦日から元旦にかけての深夜、八坂神社は大勢の初詣客で賑わう。
神前で手を合わせるために3時間も並んだなどという話も聞く。
この日は1月3日なので、そこまでのことはなかったが、それでも神前には参拝客の長い行列ができていた。
私は行列の後ろのほうで手を合わせてお参りをし、八坂神社境内にある能舞台へと向かった。
能舞台の前のベンチはすでに人で埋め尽くされていた。
この日、八坂神社では初能奉納があるのだった。
能の演目は「翁」である。
まもなく舞台の上に囃し方が登場し、つづいてシテ(役者)が登場した。
シテは舞台の上でお面をつけた。
舞台上でお面をつけるのは能の中でも翁だけである。
『翁」は『能にして能にあらず』『能というよりも神事である』などといわれている。
シテは舞台に立つ7日前から家族と寝食を別にし、食事を調理する火も共用することが許されない。
これを『別火を喰う』と言う。
「とうとうたらりたりらら」
翁(白式尉/はくしきじょう)のよく通る声が、冬の澄んだ青空にこだました。
「とうとうたらりたりらら」とはどういう意味なのか、よくわかっていないらしい。
おそらく古い言葉で、長い年月を経るうちにわからなくなってしまったのだろう。
和歌の枕詞などももともとは意味があったのだろうが、意味が分からなくなってしまったものが多い。
しばらくするとさきほどの翁とは別の翁がやはり舞台上で面をつけ、鈴を振って足拍子を踏み鳴らした。
私はその翁を見てとても驚いた。
翁の面が真っ黒だったからである。
黒い面の翁(黒式尉)は黒人なのか?
しかし顔立は日本人のようである。
私にとって初体験だった能「翁」。
正直言って、さっぱりわからなかった。
『とうとうたらりたりらら』とは何のことなのか。
八坂神社・・・京都市東山区祇園町北側625
初能奉納・・・1月 3日 9時より
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[ 2016/11/10 ]
翁の謎 |
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