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シドモアが見た明治期の日本20 東京近郊➀

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

➀飛鳥山

p174
東京の近郊には、庶民の親しむ行楽地や華族の美しい別荘がいっぱいです。その北東、王子には政府の化学工場や製紙工場[王子製紙]があります。

歌川広重『名所江戸百景』より「飛鳥山北の眺望」
歌川広重『名所江戸百景』より「飛鳥山北の眺望」

王子には飛鳥山があり、ここに渋沢栄一は邸宅をたてて住んだ。
飛鳥山の近くには渋谷栄一が創建にかかわった王子製紙の工場があった。

旧渋沢庭園の晩香廬

旧渋沢庭園の晩香廬

晩香廬(ばんこうろ)は清水組が渋沢栄一の喜寿の祝いに贈った木造洋風茶室。

旧渋沢庭園 青淵文庫

旧渋沢庭園 青淵文庫

青淵文庫(せいえんぶんこ)は、竜門社会員が、渋沢栄一の傘寿と子爵昇爵の祝いに贈った鉄筋コンクリート造2階建ての書庫。
竜門社は、渋沢栄一の理念に賛同する経済人らを会員とする組織。


上記動画は江戸時代ぐらいの王子の風景がよくわかる良動画と思う。
7:10あたりで明治期の王子製紙の映像もでてくる。

1873年(明治6年)設立された「抄紙会社」が初代王子製紙の前身で、元官僚の渋沢栄一が中心となって設立した。
当事、洋紙の原料としていた襤褸(ボロ、木綿の古布)が入手しやすい大都市近郊ということで王子の地が選ばれた。
千川上水から分流させた王子分水を工業用水に用い、1875年(明治8年)12月に工場竣工。
当事、輸入に頼っていた洋紙の国産化がすすむ。
1876年(明治9年)王子製紙株式会社に改称した。

大平洋戦争後、1949年(昭和24年)GHQ によって財閥解体され、後継会社として苫小牧製紙株式会社・本州製紙株式会社・十條製紙株式会社の3社が設立された。

1952年(昭和27年)6月、「財閥商号使用禁止等の政令」の廃止を受け、苫小牧製紙株式会社は王子製紙工業株式会社に改名。
1960年(昭和35年)王子製紙株式会社(2代目)に社名変更。
1968年(昭和43年)、旧王子系の北日本製紙と提携。1970年(昭和45年)に合併。
1971年(昭和46年)、中越パルプ工業と提携。
1974年(昭和49年)、旧王子系の日本パルプ工業と共同で白板紙の事業を立ち上げ。1979年(昭和54年)に合併。
1989年(平成元年)、東洋パルプと合併。
1993年(平成5年)、旧王子製紙から独立した神崎製紙と合併。新王子製紙株式会社に社名変更。
1996年(平成8年)、本州製紙と合併。社名を王子製紙株式会社(3代目)にもどした。

渋沢栄一、ニューヨーク市(1915年)

渋沢栄一、ニューヨーク市(1915年)

⓶大隈庭園

p174
東京の北、早稲田には由緒ある寺社、広大で暗い竹藪、さらに有名な大隈重信伯爵夫人[綾子]の邸宅があります。山水庭園に関する伯爵夫人の才能は抜群で、おかげでそこにあるフランス公使館は景観天国となっています。この公使館は早稲田の中央に位置し、大隈伯爵がフランス政府に売却する以前は伯爵の町屋敷があったところです。


これは、東京都新宿区戸塚町一丁目にある大隈庭園の事だと思う。
行ったことがないが、早稲田大学早稲田キャンパスの一角にあるらしい。
庭園の面積は約3,000平方メートルもあるという。

1874年(明治7年)に大隈重信がこの土地を入手して別邸とし、1882年(明治15年)、大隈は隣接地を東京専門学校(現在の早稲田大学)建設用地として購入した。
1884年(明治17年)に大隈はこの邸宅を本邸としたが、1922年(大正11年)に大隈が没すると、庭園は早稲田大学に寄付された。



シドモアの文章には「山水庭園に関する伯爵夫人の才能は抜群で、おかげでそこにあるフランス公使館は景観天国となっています。この公使館は早稲田の中央に位置し、大隈伯爵がフランス政府に売却する以前は伯爵の町屋敷があったところです。」とある。

現在の大隈庭園は早稲田大学に隣接してあるが、どうやらこの庭園内に大隈の屋敷があり、それが売却されてフランス公使館となっていたらしい?

しかし、調べても大隈庭園内にあった館がフランス公使館であったという記事が見つからない。
そのかわり、次のような記事があった。

『東京府名勝図絵』(1912年)より、飯田町の「仏国大使館」。『東京府名勝図絵』の出版年とキャプション、フランス公使館の所在地および島田謙吉『大隈侯一言一行』(1922年)の「後に(中略)フランス公使館となつた」という記述を勘案するに、この写真の建物が、雉子橋邸ではないかと推定される。

千代田区役所が入居している九段第三合同庁舎の前、竹の植栽に囲まれたなかに、大隈講堂の時計台を模した碑が建っており、「大隈重信侯 雉子橋邸跡」と刻まれている。ここに、1876年(明治9)から1884年のあいだ、大隈重信が住んでいたのである。

https://www.waseda.jp/top/news/60890 より引用

❶1912年『東京府名勝図絵』(明治45年/大正元年)に飯田町の「仏国大使館」の写真が掲載されているという。
 飯田町は東京都千代田区であって、大隈庭園のある東京都新宿区戸塚町ではない。

❷島田謙吉『大隈侯一言一行』(1922年)に「後に(中略)フランス公使館となつた」と記述されている。
この文章の主語がはっきりしない。主語は雉子橋邸だろうか?
つまり、「雉子橋邸は後にフランス公使館となった」と書いてあるということだろうか?

❸『東京府名勝図絵』の出版年・・・1912年(明治45年/大正元年)
                 ※大隈重信が大隈庭園の土地を購入したのは1874年(明治7年)
 『東京府名勝図絵』のキャプション(タイトル)・・・仏国大使館
 フランス公使館の所在地・・・東京都千代田区飯田町
 島田謙吉 『大隈侯一言一行』・・・1922年
                  雉子橋邸は後にフランス公使館となった。
                  ※雉子橋は、東京都千代田区日本橋川に架かる橋。
❹1876年(明治9)から1884年のあいだ、大隈重信は雉子橋邸に住んでいた。
 ※大隈重信が大隈庭園の土地を購入したのは1874年(明治7年)

シドモアはフランス公使館は早稲田の大隈重信の屋敷があった場所にあり、大隈重信がフランス政府に売却したといっているが、勘違いなのか?
それとも雉子橋邸のほか、大隈庭園にもフランス公使館があったのか?
島田謙吉『大隈侯一言一行』を確認してみるのがよさそうだが、市の図書館にはない。

明治15年(1882年)大隈重信は東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。
明治20年(1887年)第1次伊藤博文内閣の外務大臣に就任した。
このころ、政府は幕末に欧米列強との間で結ばれた不平等条約の改正を目的とし
日本に在留する外国人に対する領事裁判権(治外法権)を撤廃するのと引き換えに、日本の法官(現代で言う司法官=裁判官・判事+検察官・検事)に外国人を任用する、という交渉を行っていた。
しかし大日本帝国憲法に違反するという批判があり、その交渉を推進していた大隈重信は明治22年(1889年)、反対勢力に爆弾を投げつけられて負傷し、右足を切断。外務大臣を辞職した。

右脚切断の重傷を負った大隈

右脚切断の重傷を負った大隈

 1898年、第8代内閣総理大臣となる。
板垣の自由党と合同して「憲政党」を結成し、日本初の政党内閣だった。
しかし党内の対立などにより4カ月で総辞職した。
1914年、第17代内閣総理大臣となる。

大隈重信伯爵夫人の綾子はしっかり者で常に大隈に付き従い、重信は綾子のことを「うちの番頭」と呼んでいたという。

大隈綾子

大隈綾子

③比翼塚

p175
東京の西、目黒には、東洋版”アベラールとエロイーズの愛[フランスの哲学者と修道女との大恋愛]”にふさわしい恋人同士”白井権八と遊女・小紫”を偲ぶ感傷的巡礼場所があり[目黒不動山門付近]、二人の墓[比翼塚]周辺の木立には歌や祈願の紙片がひらひらしています。

エロイーズ(1090年または1100年 – 1164年)は実在した人物で、フランス人修道女で学者であった。
紫式部の生没年が970年または978年ー1019年なので、紫式部よりちょっと後の時代の人だ。

1115年、神学者のアベラールはパリの司教座聖堂参事会員となったとき、
自分と同じパリの司教座聖堂参事会員のフュルベールの家に移住させてもらうことになった。
アベラールは住ませてもらうかわりに、フュルベールの姪・エロイーズの家庭教師をすると申し出た。
しかし、単なる教師と生徒という間柄を超えて、ふたりは男女の関係におよぶ。
アベラールは、「エロイーズはその研究によってフランスで最も有名な女性であったから誘惑した」といっている。
やがて、エロイーズは妊娠し、アベラールの妹の家で男児を出産する。
アベラールはエロイーズと結婚するが、結婚したことは秘密にしていた。
(本をよんでいないのでよくわからないが、年の差があり過ぎる、未婚で妊娠させたなど、世間体が悪かったらしい?
エロイーズのほうが世間体を憚ってアベラールとの結婚をこばんだようである。
しかしフュルベールは、アベラールを憎み、2人が結婚したことを公にする。
アルベールはエロイーズの身を案じて、アルジャントゥイユの女子修道院にいれた。
フュルベールとフェルベールの友人たちは、アベラールがエロイーズを修道女にさせて縁をきったと思いこみ
ある夜フュルベールの友人たちはアベラールの部屋に押し入り、彼の睾丸を切除してしまう。
アベラールはこれを恥じて、サン=ドニ大聖堂の修道士となった。
エロイーズもアベラールの勧めでアルジャントゥイユの女子修道院で尼僧になった。

600年後、ナポレオン一世の最初の妻、ジョセフィーヌ・ボナパルトが、エロイーズとアベラールの亡骸をともにペール・ラシェーズ墓地に葬った。
その場所には多くの人々が訪れ、墓所の地下に手紙を残していくという。

アベラールとエロイーズ

フュルベールに驚かされるアベラールとエロイーズ", ロマン派画家ジャン・ヴィニョーによる(1819年)

白井権八という名前は講談・浄瑠璃・歌舞伎の中での名前で、本当の名前は平井権八という。
江戸時代前期に実在した武士である。

平井権八は因幡国鳥取藩士だったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚・本庄助太夫(須藤助太夫)を斬殺して、江戸へ逃亡した。
そして新吉原・三浦屋の遊女・小紫と恋仲となるが、困窮から130人もの人を辻切りして殺し、金品を奪ったという。
権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、虚無僧となり、郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたため、自首した。
1679年(延宝7年)数え年25歳のとき、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した。
これを知った小紫は東昌寺の墓前で自害した。

ふたりを偲んで東昌寺に「比翼塚」がつくられたが、廃寺となったため、比翼塚は目黒不動瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)門前に移された。
その塚の周囲の木に願い事を書いた紙などが括りつけられているのを見て、シドモアはエロイーズとアベラールの墓の地下に参拝者が残していく手紙を思い出したのだろう。

一雄斎國輝画「白井権八 後二小むらさき」小紫を描いた錦絵

一雄斎國輝画「白井権八 後二小むらさき」小紫を描いた錦絵



④目黒不動尊

P175
不動境内には滝[独鈷の滝]があり、夏冬その真下で罪を清め祈祷する巡礼が断って冷水を浴びています。似たような懺悔の姿は、横浜ミシシッピ[根岸]湾の断崖壁奥にある小さな寺にも見受けられます。



目黒不動尊 独鈷の滝

目黒不動尊 独鈷の滝

シドモアが書いているのは修験道の滝行のことだろう。
広重の浮世絵にも目黒不動尊の滝行の様子が描かれているが、現在は目黒不動尊で滝行は行われていないようである。

下は奈良県洞川温泉・龍泉寺の滝行である。

龍泉寺

横浜の根岸湾にある滝行が行われていた寺は、白滝不動尊だろうか。

 

⑤西郷山公園

p175
目黒は毎年ツツジ祭りと紅葉祭りを催しますが、地元には華族・西郷従道元帥[海軍大臣、上目黒(現・西郷山公園)に在住]もいて、いつも季節の花に敬意を表し、邸内で宴を催します。

華族・西郷従道元帥[海軍大臣、上目黒(現・西郷山公園)に在住]
と註が入っているが、西郷従道の別邸であったようだ。
註にあるように、現在は西郷山公園となっている。

4884578_s.jpg

西郷山公園

ここにあった西郷従道邸は愛知県犬山市の明治村に移築されている。


西郷従道(1843年 - 1902年)は西郷隆盛の弟で、政治家、陸軍・海軍軍人。
1884年(明治17年)の華族令制定の際、維新時の偉功によって伯爵を授けられた。

⑥泉岳寺

p175
品川に近い泉岳寺は、”四十七名の浪人”の菩提寺で武士道の聖地です。この小さな寺には、間断なく敬虔な巡礼が訪れ祈祷し、線香をたき、さらに彫像や遺品を拝観します。

泉岳寺

泉岳寺

慶長17年(1612年)に徳川家康が桜田門近くに創建した寺で、寛永18年(1641年)の寛永の大火で焼失したのち
長府毛利・笠間浅野・鹿沼朽木・丹羽・水谷の5大名が高輪の地に再建したという。

元禄14年(1701年)切腹した浅野長矩が、元禄16年(1703年)には赤穂義士がここに葬られた。

1891年(明治24年)、川上音二郎は、赤穂義士の墓が荒れ果てているのを見て泉岳寺に寄付をしている。
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアは荒れた赤穂浪士の墓を見たのではないかと思う。


⑦大森貝塚

p175
横浜と東京の中間、大森付近で、モース教授[米国人生物学者、帝大教授]は融資前の人類の貝塚を発見しました。


1877年(明治10年)アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースは横浜横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎたあたりで、崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、発掘調査を行った。
その結果、貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片などが出土した。
縄文後期の遺跡である。

モースがは論文に発掘場所の詳細を書いていなかったため、品川区説と大田区説があった。
1984年(昭和59年)までの複数の調査により、東京府が大井村字鹿島谷(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者に調査の補償金50円を支払った文書が発見され、品川区説が正しいことがわかった。

↓ これは大田区の大森貝塚碑

大森貝塚

↓ こちらは品川区の大森貝塚碑

品川区 大森貝塚

大田区山王一丁目の碑は1929年(昭和4年)、品川区大井六丁目・大森貝塚遺跡庭園内の碑は1930年(昭和5年)に建てられたもので、シドモアの時代にはどちらもなかった。





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