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シドモアが見た明治期の日本19 東京⑬

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

50.皇居と離宮

p163
また一八七三年[明治六]の火事で焼け落ちるまで、旧将軍の居城・本丸は皇居として使用され、内部は京都二条城よりもはるかに壮麗だったと言われています。ともあれ、被災して引っ越しを余儀なくされ、手狭な赤坂台の紀州徳川家の屋敷[赤坂離宮]が一時的に天皇家の避難所となりました。

赤坂離宮

赤坂離宮

シドモアは手狭と書いているが、豪邸である。
紀州徳川家の屋敷だったというが、こんなに立派だったのだ。

p163
一八八八年[明治二一]末、天皇は新宮殿に入居しました。それは六年がかりで建てられ、環状の濠に守られた将軍の城跡にたっています。

この新宮殿とは明治宮殿のことである。
シドモア没後、1945年(昭和20年)5月25日の空襲で、桜田濠沿い(現在憲政記念館がある場所)にあった参謀本部が爆撃されて炎上。
その火が類焼して明治宮殿は全焼した。
昭和天皇は吹上御苑内のコンクリート造りの建物・御文庫に避難していて無事だったが、警視庁の特別消防隊19名が殉職した。

p163
私は新宮殿完成前に見学する機会に恵まれ、たっぷり一時間以上もかけ、案内人や従業員さえ迷うような宮殿内を観覧しました。欧州様式の建築、装飾、備え付け家具、さらに西洋的理念が日本様式と無理に結合しているため、九電は不調和この上なく、藁葺き屋根と電灯、障子とスチーム暖房装置、モダンな舞踏ホールと能楽堂といったアンバランスな組み合わせが随所にあります。これを見て、眉をしかめても褒める人は誰もいません!

明治宮殿中庭

明治宮殿中庭

”玉座の間[正殿]”は天井羽目板にある紋章以外日本的なものは何もありません。大きな金箔肘掛椅子が、赤いフラシ点[絹ビロード]の天蓋とカーテンのかかった赤絨毯の間の上座に置かれ、脇の漆塗卓上には聖なる剣と御璽が置かれています。

正殿

正殿

和田英作画『憲法発布式』(聖徳記念絵画館所蔵)

和田英作画『憲法発布式』(聖徳記念絵画館所蔵)

↑ この絵は、上の写真と内装がよく似ており、正殿と思われる。

p165
天皇の寝所は、次頁の挿絵図解(E)の箇所にあり、光も換気もない先祖伝来の真っ暗な個室で、夜になると周囲は付添人と護衛艦によって守られます。

p166
陛下は国民と同じ普通の小判型風呂桶を使われ、水は原始的なバケツ・ロープ方式で中庭の井戸からくみ上げます。
バケツ・ロープ方式とはポンプ式ではなく、下の写真のような釣瓶の井戸だということだろう。


3314446_s.jpg

井戸(明治宮殿にあるものではない)

私が子供のころ、祖父母の家にも釣瓶の井戸があった。

p166
宮殿の奥まった場所に礼拝堂(神道の霊廟)がありますが、役人はこの件に関し全く口をつぐんでいます。そこには天皇家先祖の埋葬板碑が祀られ、簡素な位牌や松の板切れには統治者の死後の名前[贈名]が書かれています。
新たに決定した内閣の担当大臣や、新しい任地へ出発する外交官が天皇に謁見する際、官報に「皇居礼拝堂の御霊参拝が許された」と、よく発表されます。おそらく、このような礼拝式は外国にある”忠誠の誓い”に相当するセレモニーと思われます。

p168
浜離宮は、よく知られた皇室の海辺の別荘で、徳川時代に将軍のために造られましたが、今は日本の大臣が舞踏会を催したり、来朝した天皇の賓客、たとえばグラント将軍前米国大統領]が逗留したようなとき、迎賓館としてつかわれます[明治一二年夏、同所にて天皇・グラント将軍歓談]。この美しい庭園では、毎春皇室園遊会が催され、新宮殿に隣り合う吹上御苑とともに山水庭園の最高の手本となっています。

浜離宮がある場所は寛永年間(1624年-1644年)ごろは湿原で、将軍家の鷹場(鷹狩の鷹を訓練する場所)であった。
1654年(承応3年)、甲府藩主・徳川綱重が海を埋め立てて別邸を建てた。
綱重の子・徳川綱豊が6代将軍(家宣)になると、将軍家の別邸となり浜御殿と呼ばれるようになる。
1866年(慶応2年)、敷地内に幕府海軍の海軍所施設として石造建物が建設された。
1869年(明治2年)、イギリスのエジンバラ公アルフレートが日本にやってきたとき、改修して外国人接待所「延遼館」となった。

延遼館

延遼館

1870年(明治3年)、浜御殿は宮内省の管轄となり、浜離宮と呼ばれるようになった。

潮入の池と中島の御茶屋(1884年)

潮入の池と中島の御茶屋(1884年)

1879年(明治12年)ドイツ皇太子フリードリヒ、前アメリカ大統領のユリシーズ・S・グラントが延遼館に滞在したが
鹿鳴館の完成したため、1889年(明治22年)に取り壊された。
1945年(昭和20年)、GHQの要求により東京都の所有となり、1946年(昭和21年)4月1日に都立庭園となった。

浜離宮

最近の浜離宮

p168
この東京の宮廷社会では、当然のごとく徒党や派閥があり、さらに内紛や争い、それに伴う勝敗があり君主の寵愛をめぐって絶え間ない策動と陰謀が渦巻いています。

51.華族

p169
日本の華族リストには、爵位の人数(公爵一一、侯爵三四、伯爵八九、子爵三六三、男爵二二一)と名前が載っています。そこには、公家の一門すべてが新しい貴族として登録され、さらに天皇を助け、忠誠を誓った大名、一八六八年[慶応四]にぼ発した軍事衝突[戊申の役]を経て恭順した徳川陣営の大名も含まれています。そして新しい地位と爵位がたくさんのサムライ階級に授与され、彼らは維新回天の先駆者になり、政治家となり過去二〇年間、素晴らしい発展に向け助言や指導をしてきました。しかしながら旧公家階級は恩赦された大名や、過日華族に列したサムライ階級に少しも心を許していません。

華族は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで日本に存在した貴族階級である。
「日本には階級制がなかった」と言っている自称科学者がいるが、デマである。

明治2年6月17日(1869年7月25日)、太政官達54号「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」が出され
従来の身分制度の公卿・大名などを廃し、華族とすることが定められた。

これは従来の武家からいきなり権限をとりあげると不満が生じるであろうことに配慮したものと考えられている。

公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家となった家5家・維新後に諸侯となった家15家、合計427家がこれに該当し
この後も、新たな華族が加えられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%8F%AF%E6%97%8F%E4%B8%80%E8%A6%A7

上記に華族一覧が記されている。

p169
華族リスト上位には、天皇の身内血縁の全親王を据え、次に爵位の授与さrた侯爵一〇名が続きます。この新設侯爵の一〇家のうち、五家は旧五摂家で、これは旧京都宮廷を構成する一五五家の中に筆頭公家です。旧五摂家は一条、九条、鷹司、二条、近衛の一門をさし、一八八三年[明治一六]から侯爵の地位にあります。残る侯爵五家は三条、岩倉、新津、毛利、徳川の一門で、皇位継承者に花嫁を捧げる特権が付与されました。

華族には様々な特権が与えられていた。

・家の世襲
・官位の約束
・身分の保証
・学習院への無条件入学
・経済的に困窮している場合は明治政府から金銭が支給される。
・貴族院議員に就任できる。
・学習院への入学

経済的に困窮している華族もいたのだが、華族が特権階級であったことはまちがいない。

1946年、GHQ支配下で華族は廃止された。

シドモアは「旧五摂家は一条、九条、鷹司、二条、近衛の一門をさし、一八八三年[明治一六]から侯爵の地位にあります。残る侯爵五家は三条、岩倉、新津、毛利、徳川の一門で、皇位継承者に花嫁を捧げる特権が付与されました。」
と言っているが、事実かどうか確認ができない。

明治時代になってからの特権というよりは、江戸時代から、天皇の正室である中宮、皇后は、皇室・徳川将軍家・五摂家だけの特権とされていたと思う。

明治天皇の皇后・昭憲皇太后は五摂家の一条忠香の三女だった。
大正天皇の皇后・貞明皇后は旧五摂家・公爵九条道孝の四女である。
昭和天皇の皇后・香淳皇后は皇族・久邇宮邦彦王の子。
現在の上皇様の皇后・美智子様は日清製粉グループ会長の正田英三郎の娘で、民間出身である。

p171
さらに宮廷は、式部長官の妻である当世随一の麗人を抱えています。この栄華絶頂の貴婦人は、陶芸美の極致、鍋島焼で名高い鍋島一門の当主夫人[鍋島直大侯爵夫人栄子]です。

鍋島榮子

鍋島 榮子(安政2年(1855年) - 昭和16年(1941年])は、宮中に仕えていたが、明治14年(1881年)にイタリア公使・侯爵鍋島直大とローマで結婚した。

鍋島直大は幕末期には肥前佐賀藩主で、明治期に侯爵・政府高官となった人物。
シドモアは「鍋島焼で名高い鍋島一門」と書いているので、陶芸家と勘違いしそうだが、そうではないのだ。
鍋島焼は佐賀藩(鍋島藩)・藩直営の窯で製造された高級磁器である。

鍋島焼 色絵宝尽文皿 ロサンジェルス・カウンティ美術館

鍋島焼 色絵宝尽文皿 ロサンジェルス・カウンティ美術館

鍋島 榮子はその美貌から、戸田極子(岩倉具視公爵令嬢・戸田氏共伯爵夫人)・陸奥亮子(元芸者・陸奥宗光伯爵夫人)らと共に鹿鳴館の華と呼ばれていたそうだ。

明治20年(1887年)に日本赤十字社篤志看護婦人会会長に就任し、
日清、日露戦争の負傷兵の看護、各地の病院を慰問など社会事業活動を行ったという。


陸奥亮子
陸奥亮子

鹿鳴館については、すでにこちらの記事に記した。

p172
舞踏会は、公式歓迎行事の中では最も一般的な行事です。首相は天皇誕生日の晩に舞踏会を開催し、東京府知事は毎冬舞踏会を催し、時折皇族や大臣も同様の企画をすることがあります。

p173
威厳ある皇室情報誌は有りますが、それは官報です。国内の出版物に対して、記事抹消を行う厳しい検閲があるため、東京には社交界のゴシップやスキャンダルを扱う面白い新聞がいまだにありません。もちろん、皇室を回想した本もありません。
ともあれ、封建時代に生まれ、手に汗握る維新動乱の日々を行き抜き、新生日本の誕生と発展をじっと見守ってきた宮廷世界の男女によって、回想録が書かれたならば、さぞかし世間を騒がすことでしょう!

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