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シドモアが見た明治期の日本18 東京⑫ 

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

㊵団十郎

p143
今日の日本演劇界は、リアリズム派や自然派が主流で、ジェファーソン[米国の俳優]もコクラン[フランスの俳優]も同業者お団十郎以上に役になりきり、沈着かつ完璧な演技をすることは不可能です。

「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録である。
ということは、シドモアが言っているのは9代目・市川団十郎( 1838年 - 1903年)のことだ。

(九代目市川団十郎, 1838 – 1903)

九代目市川団十郎, 1838 – 1903

p143
死はいつも鋭利な小道具によってなされ、また剣客の道化、切られ役の驚くべき忍耐力、さらに舞台正面に漏れ出る赤色塗料やもつれた赤絹糸の血潮は観客を沸かせ、「ヤ―!ヤ―!」「エー!エー!」の叫びや悲鳴で、場内は興奮の坩堝と化します。

流血シーンは塗料や赤絹糸を用いるようだが、動画、画像は見つけることができなかった。

紅葉狩は「平維茂の鬼退治を描く」能である。
上の動画は歌舞伎だが、九代目市川團十郎による舞踊劇『紅葉狩』、明治20年)が作られた。
上野動画は明治32年となっているが、明治20年のものを明治32年に新たにリメイクしたのだろうか。

p144
あるとき芝居に感激した外人が、帽子、上着、帯・煙草袋など贈り物の嵐を見ながら、自分も帽子を投げました。
その後、興行師と役者の付き人が帽子を返しにきて、10ドル請求したのです。いわば、観客からの贈り物と目されるこれらの品々は、人気スターの価格リストに照らし、現金で買い戻させるための単なる担保没収品にすぎなかったのです。

p147
彼は東京以外の劇場でも演じ続け、ほかの都市との予約もいっぱいで、至るところで本給以外の臨時手当、ご祝儀、贈り物をもらっています。

※彼とあるのは九代目・市川団十郎のことである。

p146
楽屋にいる人気スター訪問は純然たる商取引です。役者はファンの訪問を受けるために固定料金を設定し、正規の収入源とします。団十郎の楽屋は新富座の舞台裏、大道具装置場付近の高いところにあって、そこから舞台を見下ろす窓があり、このため呼出係を置く必要はありません。ときどき大スターは自ら舞台に向かって怒鳴ったり、化粧準備や気まぐれで、芝居の進行を遅らせたり早めたりします。団十郎の楽屋訪問にお金を払ったファンの扱いほど冷淡で侮蔑的なものはありません。

これは誰について書いたものか、明記されていないが、「団十郎」というタイトルの記事内に書かれている。

㊶仮名手本忠臣蔵

p147~p148
日本政府は、新聞と同じように芝居にも一定の検閲を実施し、不快な演劇を禁止したり、必要なら興行師や劇団員を逮捕します。政治的事件を芝居で揶揄することは許されず、当局は人心を掻き乱すような表現を一切禁じています。かつて徳川幕府は、”四十七名の浪人”の上演に対し検閲を行いました。なぜなら、その主な論旨と多くの場面は、将軍の腐敗した裁判手続きをはっきりと批判していたからです。このため維新前まで、忠臣蔵(忠義同盟)と名前を変えて上演し、芝居内容は歴史的事実から遠く外れていました。

シドモアは「忠臣蔵」と書いているが、これは通称で、正しくは「仮名手本忠臣蔵」という。

江戸時代、「世話物」はノンフィクションでもいいが、幕府や武士に関係する事件は、取り締まられるので、南北朝時代の話ということにした脚本がかかれた。

登場人物の名前は『太平記』の人物名に置き換えられている。
吉良上野介(きらこうづけのすけ)は高師直(こうのもろのう)
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は塩冶判官(えんやはんがん)
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)という具合である。

「仮名手本忠臣蔵 三段目」 塩冶判官は、刀を抜き師直に斬りつける。国芳画。

「仮名手本忠臣蔵 三段目」 塩冶判官は、刀を抜き師直に斬りつける。国芳画

「忠臣蔵 夜討二・乱入」 広重画。

「忠臣蔵 夜討二・乱入」 広重画

p148
新しい時代が到来すると興行師らは「これぞ、史実に沿ったいちばん正しい芝居なり」とこぞって宣伝し、歴史家や古物研究者からの最新情報をすべて活用しながら上演するようになりました。

明治以降は江戸幕府が滅亡したため、登場人物の名を実名で上演することができるようになった。
明治41年から福本日南が忠臣蔵の真相と銘打って、『元禄快挙録』を新聞連載し、昭和9年(1934年)新歌舞伎『元禄忠臣蔵』(真山青果作)が上演された。
しかし、シドモアはこれは見ていないはずだ。
というのはシドモアは1928年(昭和3年)に亡くなっているからだ。

シドモアが見た忠臣蔵はどのようなものだったのだろうか。


1945年(昭和20年)、第二次世界大戦後のGHQ占領下では、「忠臣蔵」は仇討ちの気持ちを鼓舞するとして一次公演、出版が禁止されたが、
1947年(昭和22年)には『仮名手本忠臣蔵』が東京劇場で上演されている。

㊷神武天皇の即位年

p149
欧州の君主や権勢を誇る王族は、日本の統治者・天皇に比較すると成り上がり者にすぎません。皇室は紀元前六六〇年に初代神武天皇が即位して以来、とぎれなき系統を保っています。

日本の皇室が長い歴史をもっていることは事実だが、紀元前660年に神武天皇が即位したということについて、信じている人は現在一部のネトウヨぐらいだと思う。

その理由は
・紀元前660年、日本は縄文時代末~弥生時代早期であり、国家の成立には早すぎる。
・初期には100歳を超える長寿の天皇が多く、治世が長かった割に記紀に事績が記されていない。
などである。

第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代を欠史八代といい、後世の創作と考えられている。
しかし、欠史八代が議論されるようになったのは、第二次世界大戦後である。

1940年(昭和15年)、初期の天皇の名前が実名とは考えられないと論じた歴史学者津田左右吉は出版法違反容疑によって逮捕されている。

シドモアはこのような事情を知らず、神武天皇即位紀元前660年を疑っていなかったのかもしれない。

㊸人民は天皇の存在を知らなかった?

p149
封建時代、天皇は臣下である将軍の実質的な捕囚として、京都御所の黄色の土塀(築地塀)の中で生まれ没しました。臣民の事は何もしらず、臣民に知られることもありませんでした。

同様の話は聞いたことがあるが、事実かどうかわからない。

㊹明治天皇

p150
続いてその秋、徳川将軍は正式に辞職をして正当な統治者へ大政奉還し、大阪城へ移りました。一八六八年[慶応四]二月、まだ一六歳未満の天皇は京都御所で被り物を脱ぎ、外国使節[仏蘭公使]を謁見しました。さらに大阪の反抗的幕府を撃破しながら首都江戸へ移りました。

 
1867    10.14 大政奉還、15代将軍徳川慶喜が天皇に政権返上を申し出て翌日受理される
        12.9 王政復古の大号令、新政府樹立
       12.12 徳川慶喜、二条城を退去。翌日大坂城に到着
1868 慶応4年 1.3 鳥羽伏見の戦いで「戊辰戦争」が始まる
                       1.6 慶喜、大阪城を脱出し、江戸へ逃げ帰る
                       2.12 慶喜、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
                       3.14 西郷隆盛と勝海舟の会談で、江戸での戦闘が回避されることになる
                       4.11 江戸城無血開城
                     閏4.20 白河口の戦いから「会津戦争」開始
                         5.3 奥羽25藩が奥羽列藩同盟を結成
                          5.6 長岡藩など北越6藩が加わり奥羽越列藩同盟になる
                         5.15 上野戦争、上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で玉砕
                         7.29 会津方面で二本松城、越後方面で長岡城が陥落
                         8.23 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻。会津側は若松城で籠城を始める
           明治元年 9.8 明治に改元
                           9.9 米沢藩が新政府軍に寝返る。翌日には仙台藩も降伏
                           9.22 会津藩が降伏。「会津戦争」が終結
                         10.25 榎本武揚軍が箱館を占領する
        1869 明治2年 3.9 箱館の榎本政権追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発
                               5.11 箱館総攻撃
                              5.18 五稜郭が陥落、旧幕府軍が降伏して箱館戦争が終わる
                                 「戊辰戦争」が終結する 


明治天皇が江戸に行幸したのは1868年11月26日である。
このとき、徳川慶喜はすでに大坂城をたち、江戸城、上野寛永寺へと移り住み、
1868年5.15の上野戦争も終わっている。

シドモアは「(明治天皇は)さらに大阪の反抗的幕府を撃破しながら首都江戸へ移りました。」と書いているが
このときまだ、大坂城にの幕府側の人間がいて、明治天皇を攻撃したのだろうか。
シドモアは少し勘違いしているのではないかと思う。

「(明治天皇は)京都御所で被り物を脱ぎ、外国使節[仏蘭公使]を謁見しました。」
とあり、被り物とは冠のことだろうが、明治天皇が京都御所で外国使節を謁見したという事実も確認できない。
(調べたりないだけかも)

明治元年(1868年)武州六郷船渡図月岡芳年画

明治元年(1868年)武州六郷船渡図月岡芳年画

上の絵は、1868年(明治元年)の江戸に行幸の途中、六郷川を渡る様子を描いたものである。
9月下旬、2800人が行列をつくって京都を出発し、10月12日(新暦11月25日)に川崎宿に到着した。
兵庫本陣で昼食をとり、六郷川に特設された船橋を渡ったという。
この船橋は明治天皇行幸のため、9月23日より作られたもので
23艘の川船を横に並べ、その上に丸太を結び付けた上に板を敷いて作ったという。
一行はその日は品川宿へ泊まり、翌13日に東京城へ入った。

明治天皇は後方の大きな鳳輦に乗っているのではないかと思う。
鳳輦とは「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」という意味で、天皇の正式な乗り物とされていたが
祭の行列に用いられることもあり、上の絵はまるで祭の行列のように見える。

生玉夏祭 鳳輦

鳳輦を担ぐ人々の衣装も上の絵と同じである。

p150
日本人の平均身長よりも背が高く、立派な威厳と権威を供え、軍人らしい落ち着いた足取り、さらに腰に吊るされた刀剣は、ときどきリューマチで余儀なくされた不揃いの歩き振ぶりを上手に隠しています。

明治天皇がリューマチというのは確認ができなかった。

束帯姿の明治天皇(明治5年〈1872年〉4月、内田九一撮影)

束帯姿の明治天皇(明治5年〈1872年〉4月、内田九一撮影)


㊺美子皇后

p152
結婚当初、古い習慣に従って眉毛を剃り、額の上に影のような眉を二つ塗り、歯を黒く染めていましたが、数年後、美形を損なうこのような化粧は止めました。

写真はないかと探したが見つからなかった。
しかしこれは事実のようで、次の様に記された文章があった。

明治六年一月十日には、アメリカとロシア公使夫妻が、外国婦人として皇后に初めて拝謁(うち謁見した。)
このとき、皇后はまだ和装で、掃眉、お歯黒であった。
その後、お歯黒はやめるが会見での和装は明治十九年まで続いた。

照憲皇太后 1872年(内田九一撮影)

照憲皇太后 1872年(内田九一撮影)

㊻菊の園遊会

p157
妃殿下も侍従の貴婦人も、全員同じ伝統的衣装を身につけ、鮮やかな刺繍や禁止で織られた錦織は、色彩効果満点で目が眩むほどです。夕焼けで空は茜色に輝き、皇族の列が退場口へ向かうと、白や金や七色の衣装が変幻極まりなくきらめき、鮮やかな彩りは静かな池に反射し、芝生の貴婦人が半円形状に整列すると、なおいっそう鮮やかに栄えます。

p158
ところが、数年後この美しい伝統的衣装集団は、是認類似の体に密着した西洋夜会服姿に一変し、詩的情緒や絵のような趣は全く消えました。

観菊会 中沢弘光筆

観菊会 中沢弘光筆

上は詩的情緒や絵のような趣が全く消えた観菊会w

㊼西洋衣装

p158
皇后陛下は有名な宮廷回覧令状を発し、西洋衣装への衣替えを命じてこれを守らせました。

p158
これに対して純日本的風情を愛好する堅物どもは、こぞって反対しました。しかし、この命令の底流には、「日本人が外国の文化的国民と少しも違わない」ことを条約国勢力に納得させる伊藤博文伯爵の明敏な聖絵次戦略がありました。古いしきたりと美しい民族衣装の廃棄という犠牲によって、一八五四年から一八戸八年[安政一~五]にかけてこの国に強いられた恥ずべき不平等条約の改正を確実に進め、結果的に日本の外交的自由と経済的繁栄を促すことになりました。

1883年(明治16年)には鹿鳴館が建設されたのも、外務卿・井上馨の欧化政策によるもので
不平等条約改正交渉(外国人に対する治外法権など)を有利にすすめるため、欧化政策を進めて諸外国に日本を文明国であると知らしめようとした政策だった。
西洋風の建物やファッションは単なる流行ではなく、もっと大きな意味があったのである。

p159
ところで、皇室の神聖な人格は、皇后のファッションをずっと変えられずにきました。というのは、身分の卑しいとされる仕立て屋は、陛下の体に直接触れることが許されなかったからです。結局、宮廷の西洋衣装推進リーダーである伊藤伯爵夫人、つまり首相の賢夫人[伊藤梅子]が皇后の身代わりになって服の型をとりました。


伊藤梅子

伊藤梅子

伊藤梅子(1848-1924)は、置屋の幼女となって芸子となり、1866年に伊藤博文の継妻(後妻)となった。

p125
芸者は日本女性の中でも教養程度がとても高く、多くの女性が素晴らしい結婚をしております。

とシドモアは書いている。
芸者の中には伊藤梅子のように政治家や実業家と結婚した女性は大勢いるが、「置屋の幼女にそのような自由は許されなかった」と芸妓・扇弥さんは語っておられる。

p159
以前は簡素な長い簪[笄]、帯紐に金の玉飾りとわずかな装飾品以外に何もつけなかった宮廷婦人は、今や米国人並のダイヤモンド熱に浮かされるほどになり、さらに最近、綬と星型宝石のついた新しい勲章が皇后によって制定され、その佩用にとてもあこがれています。[明治二一年、婦人用勲章・宝冠章を制定]。



宝冠章については2:01あたりで説明されている。

㊽英照皇太后

p160
夙子[英照]皇太后は、藤原氏系統の公家・九条一門の人で古い秩序と作法をアモる、新しい様式はほとんど受け付けません。

藤原氏のお家芸といえば、娘を天皇に入内させ、自分は外祖父となって権力を握ることだが、
この時代になっても藤原氏の権力はまだまだ存在していたのだ。

英照皇太后(荒木寛畝作の肖像画、宮内庁所蔵)

英照皇太后(荒木寛畝作の肖像画、宮内庁所蔵)

p160
夏期半年間、いつも皇太后陛下は葉山御用邸で静養していましたが、一八九七年[明治三〇]一月に崩御されました。深夜に神道式葬儀が行われた後、京都泉涌寺の御陵に眠る夫・孝明天皇の傍らに埋葬されました。それから一年間国民は厳しい皇室の喪に服し、軍楽隊の演奏さえも禁じられたほどです。


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向かって左は葉山御用邸の塀 神奈川県三浦郡葉山町一色

1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので藤原
葉山御用邸は1894年(明治27年) につくられた皇族の別荘である。
英照皇太后の生没年は、1835年1月11日(天保5年12月13日) - 1897年(明治30年)1月11日)なので、3度の夏を葉山御用邸で過ごされたのだろう。

泉涌寺

泉涌寺 京都

泉涌寺には後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る天皇陵がある。
また霊明殿には歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)が奉安されている。

㊾明治天皇の皇子・内親王

p161
皇太后は、中山邸[明治天皇の実母。中山慶子夫人の邸宅?]にある皇室保育園の運営にかかわって名誉職を務め、天皇の子供や正妻以外の夫人たちを四、五年住まわせていました。この夫人たちは全て公家の出身で、邸内に住宅を持っています。現在この女性たちがきちんと身分保障されているにせよ、口には出せない東洋風遺風で公然の秘密です。

日本では天皇だけでなく、長年一夫多妻制だった。
江戸時代には妻の他に妾を囲うことは当たり前に行われていた。(蓄妾制)
明治3年に制定された「新律綱領」では妻と妾を同等の二親等とすると定められた。
これは家の存続のためには跡取りが必用であるとの考えから定められたものだった。
刑法では明治13年、戸籍法では明治19年に妾はなくなり、明治31年、民法によって一夫一婦制となった。
大正天皇以降は側室制度も廃止された。

p161
美子皇后には実子がおりません。皇太子明宮親王(大正天皇)は天皇と柳原愛子(なるこ)夫人の子息です。天皇は一〇人の子供を亡くしていますが、五人の皇女は元気です。

明治天皇の皇后は昭憲皇太后だが、シドモアが書いているように、彼女には子供がなかった。
公にされている明治天皇の側室は5人いたといわれる。その皇子、皇女はつぎのとおり。
成人した皇子・皇女は赤でしめす。 
                              母           
第一王子 稚瑞照彦尊 明治6年9月18日~    同日      葉室光子     死産   母も死亡
第一皇女 稚高依姫尊 明治6年11月13日~  同日      橋本夏子     死産 母も死亡
第二皇女 薫子内親王 明治8年1月21日~明治9年6月8日    柳原愛子  
第二皇子 敬仁親王  明治10年9月23日~明治11年7月26日    柳原愛子 
第三皇子 嘉仁親王  明治12年8月31日~大正15年12月25日  柳原愛子   大正天皇(明宮親王)
第三皇女 韶子内親王 明治14年8月3日~明治16年9月6日     千種任子 
第四皇女 章子内親王 明治16年1月26日~明治16年9月8日   千種任子
第五皇女 静子内親王 明治19年2月10日~明治20年4月4日   園祥子
第四皇子 猷仁親王  明治20年8月22日~明治21年11月12日  園祥子
第六皇女 女昌子内親王 明治21年9月30日~昭和15年3月8日  園祥子
第七皇女 女房子内親王 明治23年1月28日~昭和49年8月11日   園祥子
第八皇女 女允子内親王 明治24年8月7日~昭和8年11月3日    園祥子
第五皇子 輝仁親王  明治26年11月30日~明治27年8月17日  園祥子
第九皇女 聡子内親王 明治29年5月11日~昭和53年3月5日   園祥子
第十皇女 多喜子内親王 明治30年9月24日~明治32年1月11日  園祥子

シドモアは「5人の皇女は元気です」と書いているが、4人の間違いである。
そして成人した皇子は嘉仁親王(よしひとしんのう:のちの大正天皇)だけだった。

なぜ明治天皇の皇子・皇女は短命だったのか。
明治天皇の皇子・皇女の死因は脳膜炎で、乳人が使用していた白粉にふくまれる鉛中毒症である疑いが濃いということである。
大正天皇も生後まもなく脳膜炎を患い、後遺症に悩まされていたらしい。


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