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シドモアが見た明治期の日本16 東京⓾ 

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

㉞蓮

P115
そのとき上野公園下の池[不忍池]は数エーカーにわたる青みがかった葉っぱのお皿を見せ、ピンクや白の星々をちりばめます。


不忍池

不忍池

p116
以前、この無数のブッダの花は、夏一番、最初の暖かな太陽光線を受けて開き、その瞬間城塞の模擬礼砲のように音が鳴り響きました。今では江戸城濠の蓮が極端に減ったこともあり、そのような快音はどこも聞かれなくなりました。芝の五重塔の裏てにも愛らしい蓮池があり、人力車から緑濃い並木道沿いんみられますが、はやり江戸城濠の蓮の花は首都の輝かしき夏の栄光でした。


ブッダの花とは蓮の花のことである。


ほんとに音が鳴るとは知らなかった。

㉟マラリア

p116
”蓮”論争は、いまだ首都を二分して侃々諤々の様相ですが「蓮はマラリア発生源だ」と声高に責めたてられるのは、どうも理不尽です。壕からの発生物であろうと、地表から流出した汚泥であろうと、マラリア発生地区・築地の土壌こそ最大の害毒のもとなのです。

「シドモアの日本紀行」にはマラリアの話がちょくちょくでてくる。
どうも「蓮はマラリア発生源」と考えられ、江戸城濠の蓮は大量に伐採されてしまったらしい?

1903年(明治36年)時には全国で年間20万人の土着マラリア患者があったが、その後は急速に減少し、1920年(大正9年)には9万人、1935年(昭和10年)には5000人に激減している。第二次世界大戦中・戦後に復員者による一時的急増があったが、減少傾向は続き、1959年に彦根市の事例を最後に土着マラリア患者は消滅した[29]。
しかし現在も海外から帰国した人が感染した例(いわゆる輸入感染症)が年間100例以上ある。
また、熱帯熱マラリアが増加傾向にある。現在第4類感染症に指定されており、診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%A2 より引用


現在、日本でマラリアはほとんどないが、明治36年には年間20万人もの患者があったのだ。
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアは日本でのマラリア流行を目の当たりにしているわけである。

マラリアはハマダラカに刺されて体内にマラリア原虫がはいることによって発熱・悪寒・頭痛・関節痛・筋肉痛・嘔吐・下痢などの症状を引き起こす。
しかし、シドモアの記事をよむと、どうも蓮の花が原因だと考えられていたらしい?

シドモアは「壕からの発生物であろうと、地表から流出した汚泥であろうと、マラリア発生地区・築地の土壌こそ最大の害毒のもとなのです」といっている。

つまり、シドモアは
・マラリアの発生は蓮には関係がなく、土壌に問題がある。
・マラリアの原因は濠からの発生物、または汚泥かもしれない。
というような認識をもっていたのだろう。

1880年、フランスの医師シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴランがマラリア原虫と、キニーネが血液から寄生虫を除去すると提唱したのだが、彼の説はなかなかみとめられず
1884年の油浸レンズ、1890-91年に従来のものより優れた染色法が開発されたことによってようやく認められた。

先ほども書いたように「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、まだその原因や治療法が確立されていなかったということになる。

「マラリア発生地区・築地の土壌こそ最大の害毒のもとなのです。」とシドモアは書いている。
築地とは埋立地という意味で、東京の築地は埋立地であったところからそのような地名になったのだろう。
シドモアが見た明治期の日本⑦ 東京1
こちらの記事にも書いたように、築地は外人居留地だった。
この築地でマラリアが流行したが、その理由は蓮ではなく土壌であるとシドモアはいっているようだ。

現在の日本ではマラリアは流行していないが、その理由としては以下のようなことが考えられている。
・キニーネの治療効果
・蚊帳や蚊取線香の使用
・湿地の土地改良
・殺虫剤DDT散布・・・ハマダラカの減少
・住宅構造(ハマダラカが侵入しにくい)

㊱団子坂の菊人形

p116
筵小屋にはフットライトなしのたくさんの臨時花舞台があり、等身大の人形が集団で配列され、その顔と手は蝋と聞くで合成されていますが、衣服、装飾、風景は全て本物の菊で作られ、あまりにも綿密な骨組みで上手に仕立てられているので、からくり仕掛けに気づきません。

p117
客引きが通行人を招き入れ、興行師は絵物語の口上を繰り返し、幟や提灯のりんりつする小道に、大道芸人、手品師、托鉢僧、行商人が無邪気な”バベルの都”[騒々しい場所]を創出します。


菊人形のルーツは園芸が盛んな江戸の染井や巣鴨の菊細工と考えられている。
安政から明治にかけ、団子坂で菊人形が行われるようになり、全国に広がったが、明治末ごろに団子坂の菊人形は廃れたという。

私は幼稚園の遠足で枚方菊人形を見に行った記憶があるが、ひらかたパークの菊人形は2005年で中止になった。

二本松の菊人形(2005年)

二本松の菊人形 福島県

頭や手足は生人形師の安本亀八・山本福松・大柴徳次郎などが作成したという。
私は初代安本亀八作の「飯田喜八郎像」を、奈良のおふさ観音で見たことがある。
正直いって、かなり気持ち悪かった印象があるw
御所人形、市松人形などは好きなのだが。


㊲紅葉館

P121
日本人の間では歓待は美徳ですが、宮廷貴族が外国の衣装や習慣を採用する辞典まで、通常日本の婦人は訪問者を迎えたり、男女同席で歓待することは許されませんでした。そんな歴史的背景から、必然的に日本男性は社交的となり、クラブ会員となって会館をわが家とします。鹿鳴館、つまり東京華族クラブはもっとも有名な社交団体で、この法人代表には皇太子が就任され、会員に外交官、華族、公務員、裕福な民間人、居留外人がその名を連ねています。

鹿鳴館、東京

鹿鳴館

P122
私は日本到着の一日か二日後に、このユニークな歓待の客となる幸運に恵まれました。それは芝の増上寺の上にある山腹の紅葉館[東京タワー付近]、つまり紅葉クラブハウスで催されました。

1890年(明治23年)頃の紅葉館。中野了随『東京名所図絵』より

紅葉館
増上寺

上は増上寺(絵葉書00)大日本東京芝三縁山増上寺境内全図.である。
今は失われた五重塔も❷の向かって左あたりに描かれている。
五重塔は太平洋戦争で失われているので、太平洋戦争前のものだと思われる。
この境内図の向かって右あたりに紅葉館も描かれている。
紅葉館も1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失した。

紅葉館 位置

p122

美しい部屋の東側は磨き上げられた杉材の手摺りい囲まれ、バルコニーの向こうに庭園と景色が広く見晴らせ、楓(紅葉)の木立や芝公園の濃い森を超えて見える[東京]湾の海に魅了されました。

東京タワーより増上寺を望む

↑ この写真は私が東京タワーから増上寺、芝公園を撮影したものである。
写真上に海が写っている。
シドモアが見た風景にはたくさんの高層ビルはなかっただろう。
また、高度ももっと低い場所から見ただろうが、だいたい同じような位置からシドモアも紅葉と東京湾を眺めたのだ。

p124
舞妓は若い芸者の物思いに沈んだ伴奏に合わせ”紅葉の歌”を踊ります。その形式はすべて、ある最良のポーズから別な最良のポーズへゆっくり滑らかに変化する舞でした。


探してみたら「もみじの橋」という曲を踊る舞妓さんの動画があった。
シドモアが見たのはこれだろうか?


㊳星ヶ岡

p126
秀吉は堅苦しい行儀作法、終わりなき規制、細目、さらに形式ばったしきたりの中に、大名がぐるになって陰謀や諍いを起こすのを未然に防ぐ手立てを取り込んだのです。

これは茶の湯について記したものである。

P126
大名たちは限りない贅沢と放縦の限りを尽くし、造作なく茶事に出資したので、秀吉は贅沢取り締まり令を出したほどです。

こういう話は聞いたことがない。(あれば教えてください。)

p127
日本での社交上、もの珍しい面を理解しようと思い、私は松田先生[松田宗貞、一八三三~一九一五、堀之内流に学び、のちに表千家一一代目碌碌斎の弟子となる]から茶の湯を習いました。
彼は著名な茶道の師匠で、東京星ヶ岡クラブハウス[星ケ岡茶寮]の茶室を運営統括しています。

 

p129
見栄っ張りには向かない肩の凝らぬ午餐会といえば鰻料理のパーティーです。

p130
エドウィン・アーノルド卿[英国の詩人]も料亭”ゴールデン・コイ〝での鰻重のおいしさを褒め称えています。

これはどこにあった料亭だろうか?

p130
河岸にある茶屋[京橋(中央)区霊岸島の大黒屋]では鰻料理コースを待つ間、手品師や歌舞伎による楽しい演出で日本の歓待を最高に盛り上げます。

霊岸島の住所は現在は東京都中央区新橋となっている。


かつての霊岸島については、こちらの記事に詳しく記されている。

永代橋が隅田川にかかっているが、
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアが見た永代橋はこういう感じのものだろう。

1897年完成の旧永代橋。

1897年完成の旧永代橋。

586614_s.jpg

最近の永代橋




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