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シドモアが見た明治期の日本12 東京⑥ 一部閲覧注意(見せ物小屋)

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

⓲両国川開き(隅田川)

p94
川開きは壮大な夏祭りです。これは夜ごと開かれる水祭りの皮切りで、隅田川の土手には無数の茶屋が開店します。

p95
おしゃべり、爆笑、三味線の悲しい音色が、高まる歓声やどよめく騒音とともに大気に路、同時に花火が速射砲のごとく打ち上げられ、円球、噴水、滑車、渋木、噴流、彗星となって天食うに広がり、暗い夜空に火炎龍、のたうつ怪獣、虹、滝が光り輝きます。至るところで日本酒が氾濫しても、酔っ払いも狼藉もなく温和で、陽気に浮かれ騒ぐ客に眉をひそめる人とておりません。


これは両国川開きについて記したものである。
1961年から1977年まで、隅田川の水質汚濁などを理由に中止されていたが、1978年「隅田川花火大会」に名称を変えて復活した。


上の動画の花火大会は2018年のもので、明治期とは周囲の風景などかなり変わっているだろうが
川に屋形船が浮かんでいる点はシドモアがみた川開きと同じである。

p94
華美な屋形船のせん断が浅草橋と両国葦の間の広い水域に集まり、この二つの橋は見物人で黒山となります。


とシドモアは書いているが、下の動画4:10あたりで橋の上に見物人が集まっている様子がえがかれている。
また両国川開きの古い絵や動画がたくさんでてくるので、明治期の両国川開きを偲ぶのによい史料となるかもしれない。

 

広重「名所江戸百景」に描かれた両国花火

上は歌川広重「名所江戸百景」に描かれた両国花火である。

江戸時代には花火は炭火色(橙色のグラデーション/和火)しかなかったようだが、明治時代、塩素酸カリウム、アルミニウム、マグネシウム、炭酸ストロンチウム、硝酸バリウムなどの薬品が輸入されて色彩が豊かになった(洋火)。

これらの物質の輸入は1879年から1887年にかけて段階的に行われたという。
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので
シドモアは隅田川で色鮮やかな花火を見たかもしれないが、シドモアは日本の伝統的な和火をみたかったかもしれない。

滋賀県の篠田の花火で、和火をみたことがあるので、動画を貼っておく。


シドモアは花火の美しさよりも、花火を見ながら催される宴会のことをより克明に記している。

p94
全茶屋の全室内で晩餐パーティーが催され千畳敷茶屋は数か月前から予約済となり、舞妓、芸者も全員予約済です。
シーズン中、船賃は倍となり、どの遊覧船も親睦会の貸し切りとなります。晴着姿の可愛い子供、それに真新しい絹、縮緬、紗、木綿などの和服姿の年長者が緋毛氈に座ります。小皿を載せた各自の盆には宴会料理用の一口珍味にあふれ、随時徳利が回ります。端から端まで提灯の列がバラ色に輝き、終わりごろにはあでやかな舞妓が優雅なしぐさで客と一体となり、手拍子を取って宴を盛り上げます。

p94
果物、菓子、花火、日本酒の行商あり、手品師、軽業師、講談師の上演あり、さらに小料理、芝居、見世物の水上筏が浮かんでにぎわい、小舟にあふれるほど音曲芸人が乗って、遊覧船の間をせわしく行き交います。


両国川開きに登場した手品師とは上の動画のような手品をする人のことだろうか。

上記動画説明欄には次のように記されている。

明治時代に活躍した松旭斎天一が一座を組み、松旭斎天勝ら弟子座員とともに、海外へ渡航した際、西洋手品を習得し、日本で初めて披露したことから、昭和初期に至るまで興行として栄えた。

初代 松旭斎(しょうきょくさい) 天勝(てんかつ)

松旭斎天勝




 

↑これは現在も興行を行っているという大寅興行社さんの映像だが、明治の見世物もこのようなものだったのだろうか。

へび女(例:ヘビを食べたり体に蛇を巻きつけたり鼻から入れて口からだしたり、蛇の入れ墨を入れてる方も)
タコ女・タコ娘(上半身が人間で下半身がタコ、人魚のタコバージョン)
やもり女(昆虫を食べて、四足方向)
奇形動物(珍獣)・ 双頭の動物
生人形(松本喜三郎・安本亀八の作が全国を巡業した。後の菊人形につながる)
人間ポンプ
人間火炎放射器
犬の曲芸
それつけやれつけ
玉乗り
角兵衛獅子
等々

https://middle-edge.jp/articles/koRsX?page=2 より引用

「人間ポンプ」とは金魚などのみ込んだものを吐き出す芸のようである。(動画もあったが私はこういうのは苦手w)

「それつけやれつけ」はリンク先説明をよんでほしいw
https://www.weblio.jp/content/%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A4%E3%81%91%E3%82%84%E3%82%8C%E3%81%A4%E3%81%91
天保末頃より明治初年頃まで行われ、明治5年に禁止されたそうである。
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、たぶんシドモアは見ていないだろう。

角兵衛獅子(かくべえじし)は蒲原郡月潟村(現新潟県新潟市南区)を発祥とする郷土芸能で、越後獅子、蒲原獅子(かんばらじし)などともいう。



人間火炎放射器は、Kissのジーン・シモンズがライブで火を噴くような芸である。

空では美しい花火があがっているが、地上ではこのようなはっちゃかめっちゃかな世界が繰り広げられていたのである。

⓳火事

明治期の大火には次のようなものがある。

・明治5年(1872)2月26日 ※銀座の大火  
4,879戸、28万8千坪(95万400平方メートル)を焼失。
・明治12年(1879)12月26日 ※日本橋の大火
全焼1万613戸、焼損面積7万4,234坪(24万4,972平方メートル)
・明治13年(1880)2月3日、※日本橋
1,776戸、1万5,336坪(5万609平方メートル)を焼失。
・明治13年(1880)12月30日 ※神田区
2,188戸、2万5,100坪(8万2,830平方メートル)を消失。
・明治14年(1881)1月26日 ※神田の大火 
全焼1万673戸、12万7,697坪(42万1,400平方メートル)を消失。被災者数3万6,542人。
・明治14年2月11日、神田区
7,751戸、8万8,328坪(29万1,482平方メートル)を消失
・明治23年(1890)2月27日 ※浅草の大火
 全焼1,469戸、焼損面積1万2,828坪(4万2,332平方メートル)
・ 明治31年(1898)3月23日 ※本郷の大火
1,478戸、焼損面積1万3,202坪(4万3,567平方メートル)
・明治44年(1911)4月9日 ※吉原の大火
吉原遊廓内から出火。全焼6,189戸、半焼69戸、焼損面積6万9,539坪(22万9,479平方メートル)

このように書きだしてみると、おびただしい数の建物が消失しており、このころの家事の恐ろしさを物語っている。


「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、浅草の大火・本郷の大火は知っていたかもしれない。

明治政府はそれまでの武家火消を廃止し、明治元年(1868)火災防御隊が編成された。
明治7年(1874)12月には、消防屯所を、東京市内25か所に設けた。
消防屯所は火災の多い11月から4月までは夜間も交替で勤務した。

このように組織は新しくなったが、消火活動は江戸時代とさほどかわらなかったようで、シドモアはつぎのように記している。

p96
火事は火災の通り路となる建物密集地帯を引き裂くことによってのみ、くい止めることが可能で、それはトランプカードの屋台崩しのように簡単です。垂直の隅柱に一本の綱を引っ掛けると、建物はがらがら転倒し、同時に重い屋根が消化蓋のように可燃物を塞ぎます。

馬車鉄道が走り、シドモアは人力車で旅をする、そんな時代である。
今では当たり前にある消防車もない。
↑ こちらのサイトによれば消防車が初めて日本に登場したのは大阪で1911年(明治44年)のこととある。
東京に消防ポンプ車が導入されたのは、1917年(大正5年)だ。

東京の火事が減った原因は、ひとつには電気の普及があるのではないだろうか。
というのは、シドモアはこのように書いているからだ。

p95
ランプが壊れたり金火鉢が転倒したり、火花が散ったりするとすぐ炎に包まれ、火の粉は屋根から屋根へ飛び移り、最後に街区全体が燃え上がります。


「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録だが、日本初の白熱電灯が東京銀行集会所開業式で点灯されたのが1885年(明治18)、家庭に電気が普及するのはそれ以降である。

p96
各地区や町内は、半鐘をつるした物見櫓や高梯子をもっています。いさというとき、この見張り大から警報を発したり、近くの景観が半鐘を響かせると、「これ以上興奮する国民はほかにはいない」と思うのほどの修羅場となります。



現在でも火の見櫓はあちこちで見かけるが、音を聞いたことがなかった。

p96
梯子や手押しポンプ車を持つ市営消防隊のほか、各町内では私設の夜景団や消防団を持っています。


p96
「火の用心」のチリンチリン響く音が三〇分間隔、あるいはもっと頻繁に、夜通し聞かれます。

これは今でもやっていますね。

p97
小さな手押し車一代に、丸めた面布団の寝具、寝間着、さらに潤井、家具が収まります。滑りのよい襖を溝から外し、厚い畳を床から剥ぎ取り、屋根、隅柱、むき出しの床だけを残して家中の者が避難します。

いったんどこからか火がでると、延焼して何千戸もの住宅が焼けてしまうので、このようにして家財一式車に積んで避難していたのだろう。

⓴庶民の住宅

p96
日本の住宅は玩具のような小建築で、隅柱を大きな礎石で支え、泥と瓦の思い屋根を載せて安定させます。

p96
普通の年の住宅や商店は、間口一二フィート[三・六メートル(二間)]出二階の部屋でも地上一五フィート[四・六メートル]以上の鷹さはめったにありません。
ただ、焼け落ちる何千件ものリパット小人王国の住宅や顕微鏡的山水庭園は、外国都市の二、三街区の面積にも足りません。

これらは火事で焼け落ちる日本の住宅や附属する庭の狭さについて述べられたものだ。

明治時代の長屋。エドワード・モース『日本の家とその周辺』

明治時代の長屋。エドワード・モース『日本の家とその周辺』

私は浦安郷土博物館に行ったことがある。
ここに三軒長屋と呼ばれる江戸時代末から明治時代初期ごろに建てられたと考えられている住居が移築されている。
もとは千葉県浦安市堀江にあったものというが、東京に近いので、東京にもこのような建物が建っていたのではないだろうか。
ただし、この三軒長屋は茅葺だが、シドモアは町には瓦葺の屋根が多いといっている。

三軒長屋の一戸の大きさは次のとおり。
10畳一部屋+4畳分が土間
7.5畳一部屋+1.5畳分が土間

浦安郷土博物館 三軒長屋

三軒長屋の中はこんな感じ。
おそらく東京の長屋もこのような感じではなかっただろうか。

この長屋には戸別のトイレはなく、近くに別棟の小さな共同トイレがあった。

 

うっかり撮影し損ねたので動画をおかりしました。(ありがとうございます。)

https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_55054/
↑ こちらの記事によると、

・庶民が住む長屋には共同トイレ(江戸では「惣後架(そうこうか)」と呼ばれた)があった。
・床全面が板敷きで、中央部分に長方形の穴があった。
・戸は下半分のみ。
とのこと。

ちなみに京阪神では共同トイレのことは惣後架ではなく、惣雪隠とよび、戸も上まであったそうだ。

モースが明治時代の住宅について多くの記録を残しているそうなので、モースも読んでみたいと思う。

水道はすでに江戸時代より玉川上水があり、上水井戸などからくみ上げていたようである。
明治31年淀橋浄水場ができている。
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、この時代には井戸からくみ上げることが多かったのではないかと思うがどうだろう。

 

たくさん動画を貸していただきました。ありがとうございます。




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