土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち
①空也はなぜ阿弥陀仏ではなく十一面観を刻んだのか
六波羅蜜寺 空也像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Kuya_Portrait.JPG よりお借りしました。
作者 ASUKAEN [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
空也像は各地にあるが、上の六波羅蜜寺像のように、口から六体のみほとけがほとばしり出るおすがたに作られる。
空也堂の空也像も作風は異なるがこのようなおすがただった。
空也の口からほとばしりでる6体のみほとけは「南無阿弥陀仏」の六文字を表すと言われる。
空也は「誰でも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける」と説いたと言われる。
そのため、このような像が作られたのだろう。
しかし疑問がある。
阿弥陀信仰は、平安時代には一部の貴族たちの間でブームとなった。
しかしそれはあくまで一部の貴族のためのものであり、「誰でも極楽浄土へ行ける」というような教えではなかった。
仏教が一般庶民のものとなっていくのは、鎌倉時代以降とされている。
浄土宗の開祖とされる法然が「誰でも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける」と説いたことは、仏教が一般庶民のものとなるのに大きな影響を与えたことだろう。
法然より200年も早い時代の僧侶だった空也もまた、「誰でも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける」と説いたという。
しかし空也の時代の阿弥陀信仰は先ほども述べたように一部の貴族に限定されたものだった。
ときどき時代の先端を走りすぎてブームに乗れない人がいるが、空也もそういうタイプの人間だったのだろうか。
私は平安時代の僧の空也が一般民衆に阿弥陀信仰を説いたと考えるのは無理があると思う。
第一、空也が阿弥陀信仰を説いたというのが真実であるならば、十一面観音ではなく阿弥陀仏を刻んだはずである。
②空也は将門の首を聖人化した架空の存在だった?
平定盛という猟師が鹿を殺したことを悔い、空也を開祖として空也堂を創建したという。
空也堂には「平貞盛焼き捨ての兜」なるものがあり、平定盛とは平貞盛のことだと考えられる。

平貞盛とは藤原秀郷と共に朝廷に命じられて将門討伐に向かった人物である。
すると平定盛(平貞盛)が殺した鹿とは平将門の比喩だと考えられる。
空也堂は平将門鎮魂の寺であり、空也堂のご本尊は平将門の怨霊封じ込めの像だと考えるのが自然だろう。
ところが空也堂のご本尊は空也像だった。

空也堂 空也歓喜踊躍念仏
そして空也堂の空也忌は11月13日とされているが、この日は空也の命日ではなく、空也が東国へ旅立った日だという。
鴨川のほとりで晒されていた将門の首は飛び上がって故郷の東国へ飛び立ったという。
空也とは平将門の首を聖人化した架空の人物ではないのか?

将門の首塚(東京都千代田区 京から飛んできた将門の首はここに落ちたと伝わる。)
③時宗は将門を慰霊することに力を注いだ宗派だった。
法然の後、鎌倉末期に一遍が浄土教の一派である時宗を開いた。
一遍は各地を遊行して踊念仏を行い、六字名号を記した念仏札を配った。

京都の新京極通商店街にある染殿院は一遍が念仏札を配った市場釈迦堂跡とされる。
一遍聖絵には、京都にやってきた一遍と弟子たちが四条釈迦堂で念仏札を配り、空也上人が創建したとされる六波羅蜜寺を参拝し、平安京の東市(現在の西本願寺付近)で踊念仏を行っている様子が描かれている。
四条釈迦堂は将門の首が晒された鴨川のほとりにあった。
また、東市は空也が市屋道場を開いたとされる場所である。

膏薬図子 神田神宮(京に持ち帰られた平将門の首が晒された場所に立つ)
空也とは将門の首を聖人化したものだと考えられる。
とすれば「空也が市屋道場を開いた」とは「誰かが将門を慰霊するための念仏道場を作った」ということを、「将門の霊が自ら成仏しようとして念仏道場をたてた」という言い方をしたものではないだろうか。
つまり、一遍は京の平将門ゆかりの地を訪れて念仏札を配り、踊念仏を行ったのではないかと思うのだ。
1307年には時宗の僧・他阿真教が平将門に蓮阿弥陀仏と法名を送っている。
1309年ごろには時宗の進教上人が将門の首塚を慰霊している。
このように見てみると時宗は将門を慰霊することに力を注いだ宗派だったように思える。

一遍聖絵 四条釈迦堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Ippen_Biography_3.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
③六波羅蜜寺の隠れ念仏は一遍に由来する?
六波羅蜜寺では年末に『隠れ念仏』を行っている。
鎌倉時代、念仏は幕府より弾圧を受けていた。
そのため、薄暮に屏風に隠れてこっそりと念仏を行ったことに由来するものだと言われ、僧侶たちが「ノーボーオーミトー」と唱えながら、鉦を打ち、秘仏・十一面観音の厨子の前をくるくると踊るように回る。
「ノーボーオーミトー」とは南無阿弥陀仏のサンスクリット語の発音なのだそうで、念仏だとわかりにくくするためこう唱えるのだと言われている。 (六波羅蜜寺の隠れ念仏は撮影禁止のため写真はありません。)

六波羅蜜寺 追儺式に登場した土蜘蛛
六波羅蜜寺で踊念仏を行うようになったのは、一遍が六波羅蜜寺を参拝し、東市で踊念仏を行ったことに由来するものではないだろうか。
一遍が踊念仏を行ったのは、将門の霊を慰霊するためだと思う。
一遍は次のように考えたのではないだろうか。
六波羅蜜寺の十一面観音は平将門の本地仏だと考えられるが、この十一面観音はなかなか成仏せず、人々に祟り続ける。(=平将門の怨霊はなかなか成仏せず、人々に祟り続ける。)
そのような罪深い十一面観音(=平将門の怨霊)ではあるが、法然は「誰でも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ行ける」と説いた。
十一面観音(=平将門の怨霊)も南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ行けるはずだ、と。
つまり、踊念仏の始祖は空也ではなく一遍であり、空也が「誰でも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ行ける」と説いたというのは、すでに死亡していた空也(=平将門の霊)が自らにそう言い聞かせた、という意味ではないかと思う。

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