シドモアが見た明治期の日本11 東京5
p89
もともと伝統行事は旧暦または二十四節気の日付で行われていたもので、
明治に新暦を用いるようになり、新暦に変更して行事を行うようになったため、行事の意味がわからなくなってしまったケースがあると思われる。
(七夕とお盆の関係など。旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事で、七夕はお盆の入りの行事だった。)
そこでここでは日付は基本的に旧暦とした。
新暦の日付については(新)と示す。
1月1日 元旦
1月2日 姫始め
1月15日 成人の日
9月9日 重陽の節句
日本では誕生日よりも命日が尊重された。
これは数え年による年齢の数え方(正月になると全員年齢がひとつ加算される。)と、仏教による年忌法要(三回忌、七回忌、五十回忌など)の影響があるのではないかと思う。
私も京都・空也堂の空也忌や、誠心院の和泉式部忌の行事に行ったことがある。
空也忌は誰でも堂内に入り、空也像が安置された厨子の前でお焼香することができ、空也が始めたと伝わる踊念仏などの奉納があった。
おそらく3月21日は和泉式部の明日ではなく、後世になって春の彼岸である3月21日をになって和泉式部の命日としたのだと思う。
伝承によると空也忌の11月13日は空也の命日ではなく、空也が東国に旅立った日で、空也自らこの日を空也忌とするようにと言い残したという。
私の考えでは、空也とは京都鴨川のほとりに晒された平将門の首のことであり、東国に旅立ったというのは、将門の首が故郷の東国を目指して飛び立った日、という意味ではないかと思う。(とんでも?)
(興味ある方は、土蜘蛛の謎シリーズ をお読みください。)
13日というのは虚空蔵菩薩の縁日に合わせたのではないだろうか。
京都の法輪寺には、平安時代、虚空蔵菩薩が惟喬親王に漆の製法を教えたという伝説があり、惟喬親王の参籠満願の日が11月13日と伝わっている。
惟喬親王の参籠満願の日が11月13日というのも事実ではなく、虚空蔵菩薩の縁日13日に合わせたのではないかと思う。
素晴らしい芸当を演じる滑稽で巧妙なからくり玩具は、最も単純な機械原理を応用し、わずかな水道水の補充や蝋燭の熱によって動きます。これらの玩具は竹ひご、細い松材、紙や藁の繊細なもので、米国の子供らが触るとすぐに壊れるような代物です。
「水遊びと縁日のおもちゃ」
江戸時代 には、水車、水鉄砲、竹製手桶 焼き物の亀の子
アンチモニー製ピストルのことを言っているのではない。
下記動画のような鳥の水笛や、福助の太鼓叩き(水だし福助)のことを言っているのだろうか。
うんと子供のころに、友人宅でこのようなものを見せてもらった記憶がある。
p90
着物を着た幼児が4人おり、ひとりが虫籠を持っている。みんなで蝉の声を聴いているのだろう。
このイラストはシドモアが描いたものなのだろうか?
その週の間、家族はいちばん贅沢な服を着て祝い客に家を解放して招き、選りすぐりの絵や火砲の美術品を飾ります。これと一緒に祖父母の時代から受け継がれてきた雛人形や彫像も飾られ、女の赤ちゃんの誕生となるとさらに人形が追加されます。これらの人形は天皇・皇后・貴族・宮廷貴婦人をイメージし、本物そっくりの贅沢な衣装をまとい、その数は何ダースにもなります。
雄雛は天皇、雌雛は皇后、左大臣・右大臣は貴族、五人囃は貴族の子供、三人官女は紫式部・清少納言のような貴族の女性で皇后につかえているのだと思う。
泣き上戸・笑い上戸・怒り上戸は仕丁という、宮中の雑用係である。
① 令制で、公民の成年男子に課せられた力役(りきやく)。また、その人。諸国から五〇戸に二人の割合で、正丁を京にのぼらせ、官司に分配して三年間労役に服させた。二人のうち実働する者を立丁(りってい)(=直丁・駆使丁)といい、他の一人は立丁のために生活の世話をし、廝丁(しちょう)といわれる。女性に課せられた場合は女丁(にょてい・じょちょう)といわれるが、その数は少なかった。じてい。つかえのよぼろ。〔令義解(718)〕
よい着物を着ているので貴族かと思っていたが、公民とあるので、平民なのだろう。(間違っていたら指摘をお願いします。)
シドモアは「その数は何ダースにもなります。」と書いているが、若干数が多すぎるように思われる。
しかし雛人形のほか、市松人形を飾ったり、数セットの雛壇を飾る場合もあるので、シドモアはそのようなものを見たのかもしれない。
京都御所の御殿をかたどった建物3棟に40体の雛人形を飾るそうである。
シドモアは書いていないが、雛の道具として一般的によく飾られるものなので、シドモアも見たのではないかと思う。
六はあまりイメージのいい数字ではない。
死後輪廻する6つの世界のことを六道といい、京都・鳥辺野の六道の辻は謡曲熊野では
現代語訳すると「愛宕寺を過ぎた、六道の辻はたいへん恐ろしい。この道は冥途に通じている。」というような意味になるだろうか。(自信なしw)
六角形の貝桶は花嫁道具としては縁起が悪そうだ。
実際の貝桶のほとんどは末広がりで縁起のいい八角形なのではないか。
雛人形に六角形の貝桶が多いのは、雛人形とはもともと息を吹きかけて穢れを移し、川や海に流す身代わり人形であったからかもしれない。
人形を川や海に流すというのは、人形を殺すということである。
雛人形が豪華になってから川や海に流す習慣はなくなったが、昔の雛人形は首を抜いて和紙にくるんでしまった。
雛人形の首を抜くのは、人形を川や海に流すかわりに、人形を殺すという呪術的な意味があり
それで雛人形の貝桶は六角形なのかもしれない。
p92
この長い一週間の祭の中で、雛人形は日本古来の暮らしと楽しみ方の神髄、行儀作法の優雅さを教えてくれます。ともあれ、おの伝統は世代から世代へ確実に伝わっていき、これ以上見事な手本は、またとありません。
とシドモアは書いていて、これは全くその通りなのだが、雛祭りの本来の意味とは
「人形に息を吹きかけて人形に穢れを移し川や海に流して殺す」
「人形に息を吹きかけて人形に穢れを移し首をぬいて殺す」
ということではないかと、私は思う。
⓱鯉のぼり
p92
https://biz.trans-suite.jp/51752
↑ こちらの記事によれば、実際の鯉は滝登りをすることはないという。
シドモアは少し勘違いをしていようである。
そうではなく、「竜門という滝を登り切った鯉は龍になる。」という言い伝えがあり、縁起がいいとして端午の節句に鯉のぼりをたてるのではないかと思う。
↑ こちらの記事には次のような内容が記されている。
・端午の節句の習慣として菖蒲酒、菖蒲湯、菖蒲枕、菖蒲刀、菖蒲鉢巻き、菖蒲打ちなどがある。
・菖蒲葺きについて、清少納言は『枕草子』に次のように記している。
「節は、五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし。九重の内をはじめて、言ひしらぬ民のすみかまで、いかでわがもとにしげく葺かむと、葺きわたしたる、なほいとめづらし」
・大森貝塚発見で有名なエドワード・S・モース(1838~1925)の『日本その日その日』(石川欣一訳/平凡社全三巻)に
明治10(1877)年の東京郊外における端午の節句の菖蒲葺きをモースがスケッチしている。
・モースは、明治11(1878)年、東京の町家の鯉のぼりについてもスケッチを残している。
スケッチに記されたのは、真鯉一旒のみ。籠玉も矢車もない。
https://mama.chintaistyle.jp/article/carp-streamer-mean/
・江戸時代は黒の真鯉一匹のみ。
・明治時代になると赤い緋鯉が加わり、黒い真鯉は父親、赤い緋鯉は子どもを表した。
・昭和の東京オリンピック後に青い子鯉も加わり、鯉のぼりは三匹になった。
p92
とあるので、一本のポールに鯉のぼりを何匹も吊るしていたのではなく、1本に一匹の鯉のぼりを、複数本あげていたように思えるが、どうだろう。
その印に屋外での高いポールのてっぺんに籠細工を載せ、布や紙の生きているような魚を吊します。
と書いているが、残念ながら広重の鯉のぼりは籠細工が描かれていない。
こちらの方のブログに掲載された絵には、ポールのてっぺんに竹を編んだような丸いものが描かれている。
シドモアがみた籠細工とはこのようなものだろう。
この方は「紙の鯉のぼり。戦後にナイロン製が出るまでは、手すき和紙や油紙、綿などの鯉のぼりが一般的だった。」とツイートして写真も掲載してくださっている。
五月人形については上の動画4:52あたりからの説明がわかりやすい。
シドモアは武者行列といっているが、戦の本陣をイメージしたものというのがただしいのだろう。
力士というのは鍾馗さまのことを言っているのかもしれない。
山口家住宅(堺) いつごろのものかわからないが、このような飾り方もあったということで。
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