ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳 講談社学術文庫」よりの引用です。
❶馬車鉄道
p75
道路の大部分に、外国を手本にした月並の建物、縁石、緑陰が並んでいますが、その道を鉄道馬車[馬車鉄]がプープー音を響かせ、軽乗合馬車がガラガラ走るので、街の風景をかなり不調和にしています。
明治中頃の旧新橋駅周辺
純和風のものを好んだシドモアはお気に召さなかったようだが、現代人である私から見れば馬車鉄道の風家はかなり萌えるw
馬車鉄道はレールに乗った客車を馬が引くものである。
馬車鉄道手前にはシドモアが好んで利用していた人力車も写っている。

こちらの絵には大八車で荷物を運ぶ人も描かれている。
上は兵庫の「道の駅 銀の馬車道・神河」付近で撮影した馬車である。
古にはこういう馬車が道を往来していたのだ。
❷江戸城(皇居)
p75
江戸城濠が東京の中心部を通り、螺旋形に広く巻き付いています。もっとも内側の環状濠が皇居を囲み、さらに運河の枝々が外郭河川へ達し、また封建時代、将軍はこの環状濠内を占有し、そこから外側環状濠までは広大な大名屋敷がありました。
城壁・堀・土塁などの防御施設で囲んだ都市のことを城郭都市という。
ヨーロッパなどに見られる市街地まで城壁で囲んだ城壁都市や、江戸城・名古屋城・大阪城・などの城下町まで堀で囲んだ都市も城郭都市である。
外側環状濠までは広大な大名屋敷がありました。
とシドモアが書いているが、外側環状濠も含めて江戸城であり、その城郭都市の中に大名屋敷が建ち並んでいたのである。
下記動画は濠の中に多くの屋敷が建ち並んでいる様子がわかる。
ヨーロッパの城郭都市の広さは以下のとおり。
ヴェネツィア(市と隣接諸島) 約600ha
ミラノ(15世紀のヴィスコンティの城壁内) 580ha
ガン(14世紀の城壁内) 570ha
ケルン(1180年の城壁内) 560ha
フィレンツェ(1284年の城壁内) 480ha
パドヴァ(15世紀のヴェネツィア人の城壁内) 450ha
パリ(シャルル5世の1370年の城壁内) 440ha
ブリュッセル(1357年の城壁内) 415ha
ボローニャ(13世紀の城壁内) 400ha
ルーヴァン(1357年の城壁内) 395ha
ヴェローナ(14世紀のスカリジェーリの城壁内) 380ha
ブリュージュ(1297年の城壁内) 360ha
ピアチェンツァ(14世紀の城壁内) 290ha
ティーネン(14世紀の城壁内) 250ha
ナポリ(15世紀のアラゴンの城壁内) 200ha
ピサ(12世紀の城壁内) 200ha
バルセロナ(1350年の城壁内) 200ha
シエナ(14世紀の城壁内) 180ha
リューベック(13世紀の城壁内) 180ha
ロンドン(中世に修復された古代ローマの城壁内) 160ha
ニュールンベルク(1320年の城壁内) 160ha
メケレン(14世紀の城壁内) 160ha
フランクフルト・アム・マイン(14世紀の城壁内) 150ha
アヴィニョン(1356年の城壁内) 140ha
江戸城は皇居+皇居外苑の部分が:約230haである。
https://shirobito.jp/article/650
上記サイトの3枚目の図の内郭と記されている赤で表示されている部分が皇居+皇居外苑、
そしてそのまわりの青で表示されているのが外郭である。
どのあたりまで外郭だったのか不明とのことだが、外郭を含めると最低でも内郭の4倍はありそうだ。
そうすると230ha×4=920haとなり、ヨーロッパの城壁都市に負けない広さを持つ城郭都市だったといえそうである。
時々、「日本の城が小さいのは日本の戦争が単なる土地取り合戦であり、人民は戦争で被害をうけないため、城の中に民家を作る必用がなかったからだ」という人がいるが、これは誤解である。
どちらも同じ城郭都市であるのに、ヨーロッパは都市を囲む城壁まで、日本は城壁のかわりに濠があるのに、それを無視して天守閣の部分だけという、誤った比較をした都市伝説といえるだろう。
p76
天皇が京都から移り、東京を首都と定めた際、将軍の居城は天皇の住まいとなりました。将軍の全財産は天皇へ奉還され、大名屋敷は新政府利用のため没収されました。
「将軍」とは江戸幕府第15代征夷大将軍・徳川慶喜のことである。
「将軍の居城」は江戸城の事だと思われる。
しかし、徳川慶喜は将軍在任中は江戸城には住んでいなかった。
慶喜は1866年京都で将軍職を拝命したのち、そのまま京都に住んでおり、1867年に政権を朝廷に返上した。(大政奉還)
したがって、シドモアが「将軍の居城」と書いているのは徳川慶喜の居城という意味ではなく、徳川慶喜を除く歴代徳川幕府将軍の居城という意味だと思われる。
「将軍の居城である江戸城が、天皇の住まい(皇居)となった」経緯は次のとおり。
1868年4月4日に江戸城は明治新政府軍に明け渡された。
同日、明治天皇は江戸に行幸して江戸を東京と改称して首都とし(東京奠都)、江戸城を東京城と改称した。
明治天皇は一旦京都に戻るが、1869年に再び東京に移り、東京城を皇居として居住するようになる。
「将軍の全財産は天皇へ奉還され」とあるが、これはふたつの意味にとれる。
①徳川幕府の財産 ⓶徳川慶喜の財産
http://www.photo-make.jp/hm_2/nazo_daimyoumon_7.html
↑ こちらのサイトによれば、徳川幕府金蔵にあったのは、わずか20万両であったという。
慶喜の財産は没収されたのかどうか、わからない。
実は彼は大政奉還ののちも政治の中枢にいたいと考えていたのだが、1868年に新政府樹立を目指す薩摩・長州と対立して戊辰戦争がおき、旧幕府軍は敗北した。。
1869年に戊辰戦争が終わり、徳川慶喜は静岡に居住したが、趣味三昧のな暮らしをしていたとされる。
その後、華族となり、1884年(明治17年)には公爵となっている。
さらに貴族院議員にもなっている。
公爵になった慶喜は株式配当・国債購入の利子収入などで多額の収入を得ていたようだ。
このように見ると、慶喜の私財は没収されず、慶喜は戊辰戦争以降も裕福であったのではないだろうか。

皇居(江戸城)
「大名屋敷は新政府利用のため没収されました。」について、
http://www.photo-make.jp/hm_2/nazo_daimyoumon_7.html
↑ こちらの記事にこう記されている。
・ 明治元年(1867)12月、第2代目東京府知事・大木喬任は、武家地を保存することに努め、郭外に住む藩の人間は、郭内の屋敷に住まわせた。
旧大名が屋敷の拝領願いを出せば、地代を徴収して貸し付けることとした。
・明治元年(1868)7月、「上地令」を布告。
大名諸侯拝領地を除き、旗本や幕府より土地を拝領した町人地の「土地没収」を行う。御門内は全て没収。
・明治元年(1868)8月、郭外の土地建物について、土地は取り上げるが、家作は売るなり、取り壊すなりの判断は自由とした。
同年11月訂正の布告で、土地の境界が不明になるため、「石垣、板塀などは壊すことは禁ずる」と修正された。
明治3年(1869) の調査では、1100万坪あまり存在した武家地のうち300万坪あまりが上地(国に収公)された。
・明治3年(1870)2月、東京府は、旗本屋敷の荒廃した修理に費用が掛かるため、低価で払い下げる。
・明治3年(1870)「各藩は官邸一カ所、私邸一カ所」となる。
・明治3年(1870)11月、華族となっていた元大名の知事は、国元で知事を務める以外、東京の私邸に住むことが決定される。このため私邸は取り上げることの出来ない私有地となった。
土地は明治政府に没収されたが、旗本屋敷などは低価で払い下げたりもされたようである。

皇居 桜田門
p76
昔、江戸の風流人は橋の上で、青緑の硬い蓮床から頭を出し一面に咲くピンクや白の花を眺めたものでした。最近、近代公衆衛生上の科学的見解によるマラリア撲滅と称して真夏に江戸城濠に潜む蓮床を数マイルにわたって摘み取りました。
これは検索してみたがでてこなかった。しかし、「最近~」と書いているところから、シドモアが見聞きしたことであるように思える。
実際にこういう事が行われたのではないだろうか。
❸日比谷練兵場
p76
軍隊は、いつも東京中で目立っています。濃紺の冬服姿の小柄な兵士、ある時はズック布地の白い夏服姿の水平が濠周辺に群れをなし、まばゆい制服の昇降は、颯爽と馬に跨がり悠々と闊歩します。心地よい朝、輝く騎兵の一団が内濠の道を縦列で進み、今は解体された桜田門の近くの荘重な森を抜けて日比谷練兵場へ向かい、そこで突撃訓練や軍事演習を行います。
日比谷練兵場は現在の日比谷公園にあった。
https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/detail.php?item_id=43633
↑
リンク先に日比谷練兵場がある。
このようないでたちの人たちが皇居近くを闊歩していたのだ。

皇居 正面石橋

皇居 正面鉄橋
❸外人居留地 築地
p78
東京には、大規模な外人居留団が定住しています。外交団、星の数ほどの宣教師、さらに大学、学校、省庁など日本政府に雇われた人がいて、大きな共同体をけいせいしています。宣教師の居留地は、現在、[新橋]鉄道駅に近い築地にあります。
1899年の治外法権撤廃で築地居留地は廃止され、1923年の関東大震災で、洋館は全ても全て失われたという。

聖三一大聖堂 1889年(明治22)、築地に建てられた聖堂
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