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土蜘蛛の謎⑳ 空也と茶の湯 (最終回)

土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たちよりつづきます~

●空也は本当に高価なお茶を病人に飲ませたのか?

六波羅蜜寺 皇服茶
  
六波羅蜜寺 皇服茶

951年に京で疫病が流行った際、空也は十一面観音を刻んで市中を引き回し、病人にはお茶を飲ませたという。
これにちなみ、六波羅蜜寺では正月に仏前に献じたお茶に梅干しと結び昆布をいれた皇服茶の授与を行っている。

しかし、これをにわかに信じることはできない。

お茶は中国が原産地で、平安時代に空海が遣唐使として入唐し、帰国する際に日本に持ち帰ったといわれている。
これが事実であるとしても、その量は僅かなものであり、平安時代のお茶はたいへん高価なものであったと考えられる。
このように高価なものを、一般民衆に飲ませることは不可能だろう。

その後、鎌倉時代になって臨済宗の開祖・栄西が2度にわたって宋へ赴き、「喫茶養生記」を記した。
また明恵が京都栂尾の高山寺に日本最古の茶園を作り、伊勢、伊賀、駿河、武蔵などでも茶が栽培されるようになった。
茶というものが一般的になってくるのはどう考えても鎌倉時代以降で、空也上人が活躍していた平安時代では早すぎる。

皇服茶は大福茶とも呼ばれ、北野天満宮では大福茶に入れる梅干し(王福梅)を年末に授与している。

北野天満宮 大福梅

北野天満宮 大福梅


『都名所図絵雑談抄』によれば、この大福茶を951年に村上天皇が飲んだところ、村上天皇の御脳(御脳とは何のことなのか、私にはよくわからない。)が平癒したと記されている。

もしかしたら空也は951年の疫病流行の際、村上天皇や一部の上流貴族にのみお茶を飲ませたのだろうか。
これならありえそうだが、『都名所図絵雑談抄』の大福茶の記述には空也の名前は全く出てこない。
やはり「皇服茶」または「大福茶」というものがまずあって、あとから空也が病人にお茶を飲ませたという伝説を作ったと考えたほうが筋が通るのではないだろうか。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良) 初福茶

②茶道と髑髏(ドクロ)杯

それではなぜ空也とお茶が結び付けられたのだろうか。

織田信長や高野蘭亭、徳川光圀らが髑髏(ドクロ)杯を作った、あるいは持っていたという記録がある。
黒田官兵衛の兜は茶碗をひっくり返したような形をしているが、この兜のデザインの発想は、茶碗にドクロのイメージがあるところからきているのではないかと思う。

空也堂の空也忌では大福茶として人の頭ほどもある大きな茶碗でお茶を回し飲みするが、この大きな茶碗はまさしくドクロのイメージである。

大きな茶碗のことを鉢というが、人の頭のことも鉢といい、鉢巻、鉢合わせなどの言葉もある。
戦国武将らはみな茶の湯をたしなんでいたが、それは茶の湯に髑髏杯のイメージがあったからではないだろうか。

髑髏杯を作る習慣は世界中であったが、その多くは討ち取った敵の髑髏を用いて作られている。
髑髏杯とは武勇の証であったのではないだろうか。
戦国武将たちは茶碗を敵の髑髏杯に喩え、その茶碗で茶を飲むことで、自らの勝利を祝ったり、また願ったりしていたのではないだろうか。

以前の記事、土蜘蛛の謎⑯ 東国に飛び立った将門の髑髏 と 東国へ旅立った空也で述べたように、私は空也とは平将門の首を聖人化したものだと考えているが、平将門は940年に討死し、その首は鴨川のほとりで晒されている。
そういったところから、空也=将門は茶の湯と結び付けられたのではないだろうか。

神田明神

膏薬図子 神田神宮(京に持ち帰られた平将門の首が晒された場所に立つ)

将門の首塚 
将門の首塚(東京都) 京都で晒されていた将門の首は東へ向かって飛んでいき、ここに落ちたと伝わっている。

以前、インターネットのあるサイトで次のように記した文章を読んだ記憶がある。
「空也上人は公孫樹の木に釜をかけ、お茶を点てた。」
これは「平将門の首が鴨川のほとりの公孫樹の木に晒された」といわれていることと対になっているようで、大変興味深い。

「平将門の首が鴨川のほとりの公孫樹の木に晒された」というのが陰、そしてこれを陽に転じたのが「空也上人は公孫樹の木に釜をかけ、お茶を点てた。」ということなのではないかと思えるのだ。

何度も述べているように私は空也とは将門のドクロを聖人化したものだと考えている。
後世の人々は将門の髑髏杯でお茶を飲むことによって、疫病を退散させることができると考えたのではないか。
そしてここから、空也(=将門の髑髏)が病人にお茶を飲ませたという伝説が生じたのではないだろうか。

③空也は醍醐天皇の第2皇子だった

これで平将門と空也についての考察は終わりだが、実はもう一点、疑問が残っている。
それは六波羅蜜寺では空也を醍醐天皇の第二皇子としていることである。

醍醐天皇の第二皇子とは保明親王のことである。
保明親王の生年は平将門や空也と同じ903年である。
藤原時平の後押しを受けて醍醐天皇の皇太子となったが、923年に21歳の若さで薨去した。
そこで醍醐天皇は保明親王の第一王子・慶頼王を皇太子としたが、925年にわずか5歳で薨去。
保明親王や慶頼王の死は菅原道真の怨霊の仕業であると考えられた。
藤原時平の讒言をうけて道真を大宰府に流罪としたのが醍醐天皇なので、保明親王・慶頼王の相次ぐ死は醍醐天皇にこの上ない恐怖を引き起こしたことだろう。
930年、清涼殿に落雷があり、多くの死傷者が出た。
そしてこの事件もまた菅原道真の怨霊の仕業であると考えられた。
醍醐天皇はこの事件から3か月後に崩御されたが、その理由は清涼殿落雷事件にショックをうけてノイローゼとなったためだとも言われている。

大阪天満宮 人形 
大阪天満宮に展示されている菅原道真の人形

平将門、空也、保明親王の関係はどうなっているのか?

私は空也とは平将門の首のことだと考えている。空也=平将門
そして平将門と保明親王は実は双子なのではないかと考えてみたりもした。

かつて双子は畜生腹として忌まれ、双子の片割れは殺されたり、里子に出されたりしたと聞いたことがある。

平将門は別名を豐田小次郎、相馬小次郎、滝口小次郎といった。
「小次郎」という名前は次郎よりも小さいという意味で三男につけることがあったようである。
『尊卑分脈』では将門は三男で、「将持」「将弘」という二人の兄がいるとしている。
それで将門の別名は『小次郎』なのだろうか。
しかし、伊達小次郎(伊達政宗の弟)は次男であり、小次郎という名前にはいろんなケースがあったようである。
将門は双子の弟ということで、小次郎というのではないかと考えてみたりした。
しかし、決定的な根拠とはいいがたい。

これは今後の宿題とさせていただいて、ひとまずはこの長いエッセイを終わることにしたい。


※長々とおつきあいくださいまして、ありがとうございました♪


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