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シドモアが見た明治期の日本⑤ 横浜4 

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。


❶鎌倉の大仏

p69
ここは日本の観光でも数少ない得意な見せ場の一つなのに、配置場所が悪く適切な門もありません。
日光の楼門や五重塔のように、長い並木道の先、大空に向かってシルエットを描くのであれば、偉大なるブッダ・大仏はもっと堂々と見えることだろう。

シドモアはこのように書いているが、下のチャールズ・W・バートレットの木版画(1916年)は美しい。


チャールズ・W・バートレットによる木版画(1916年)

チャールズ・W・バートレットによる木版画(1916年)

私は鎌倉へは行ったことがなく写真がないので、Photo ACさんから上の木版画に似た写真を探してみた。

鎌倉大仏

シドモアは
偉大なるブッダ・大仏はもっと堂々と見えることだろう。
と書いている。

ブッダと釈迦は混同されがちだが正確には

ブッダ(仏陀)・・・悟りを得た人(個人を表す言葉ではない)
釈迦・・・・・・・・インド・釈迦族の王子として生まれたゴータマ・シッダールタのこと。
          地球上で悟りを得たのは釈迦(ゴータマ・シッダールタ)のみとされる。

そして、仏典は、ブッダを様々な表現で呼んでいる。
如来(にょらい)・応供(おうぐ) ・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・ 世間解(せけんげ)・ 無上士(むじょうし) ・調御丈夫(じょうごじょうぶ)・天人師(てんにんし) ・仏(ぶつ)・世尊(せそん)
これを十号という。

鎌倉の大仏は、阿弥陀如来である。
阿弥陀如来とは「極楽浄土にいて衆生を救済するブッダ」のことである。

したがって、シドモアの「偉大なるブッダ・大仏」という表現は正しいということになる。

p69
大仏の胎内には高さ四九フィート[一四・九メートル]の礼拝堂があり、線香がもうもうと漂う中で凹凸だらけの青銅の壁面をみると、チョークで書かれた旅人の名前が読み取れ、功名心あふれる連中が僧侶の目を盗んで自分のサインを悪戯書きしたことを物語っています。
~略~
参観者は、その合わせた親指と両手の上で記念輪つ栄をするため、よじ登ってポーズをとります。手の部分は黒っぽい美しい色調の青銅として入念に磨き上げられていますが、残りの部分は、いずれも風雨のため変色してさえず、広い表面は巨大断面を結合した継ぎ目を露わにしています。

 


シドモアは
大仏の胎内には高さ四九フィート[一四・九メートル]の礼拝堂があり、線香がもうもうと漂う
と書いているが、動画をみると礼拝堂のようなものはなさそうである。

落書きも確認できない。

1994年(平成6年)に赤ペンキで落書きされる事件があったそうだが、修復されたとのこと。
シドモアが見た落書きも修復されて消されたのかもしれない。

参観者は、その合わせた親指と両手の上で記念撮影をするため、よじ登ってポーズをとります。
とあり、明治期からすでに旅行先で記念撮影をする習慣があったことがわかる。
シドモアもたくさんの写真を残している。
上記サイトにシドモアが撮影した写真が掲載されている。
どの写真もすばらしい。
当時の人々や、シドモアはどんなカメラを用いて撮影していたのだろうか。
気になるが、これについてはあらためて考えてみることにする。

それにしても、大仏の手の上によじ登っていたというのは、大らかな時代だ。
いま、そんなことをしたら、すぐに警備員がとんでくるだろう。

p69
境内には美しい山水庭園、梅の咲く築山があり、楼門には皮膚病を患った人が寺の景色の一部となって違和感なく溶け込み、ブッダは静かな境内で穏かに沈思黙考しています。

「皮膚病を患った人が寺の景色の一部になる」とはどういう意味だろうか。
楼門の色と皮膚病を患った人の肌や衣服の色が似通っているという意味なのか
皮膚病を患った人も風情があり、寺らしい風景だという意味なのか。

p69
地震が体を前屈みにし、蓮の台座をずり動かし、さらに津波が二度襲来し避難所である寺院を破壊しましたが、青銅の重さと厚みのおかげで、辛うじて仏像そのものの損壊は免れました。

鎌倉の大仏は、明応の津波は、1498年(室町時代後期)の明応地震の際に起きた津波で大仏殿は流されたといわれている。

その根拠とされる史料は、鎌倉大日記である。
鎌倉大日記は、治承四 (1180) 年~天文八 (1539) 年間の、東国の事件を記した書物である。

鎌倉大日記には次のような内容が記されている。
四乙卯八月十五日大地震洪水、鎌倉由比浜海水至千度壇、水勢大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余
(明応4年8 月15 日、大地震洪水。鎌倉由比ヶ浜の海水、千度壇に至る。水の勢いが大仏殿の堂・舎屋を破る。溺死人二百あまり)

下の地図、南に由比ヶ浜がある。
大仏殿はその北にある鎌倉大仏殿高徳寺のことである。





上の動画で、次の様に説明されている。


1:05 鶴岡八幡宮と由比ヶ浜の間には一直線に伸びる大きな参道・若宮大路があります。
この若宮大路には合計で3つの大きな鳥居があり、二つ目の鳥居と3つ目の鳥居の間、
つまり現在の鎌倉駅付近から鶴丘八幡宮の手前まで、距離にすると約450メートルの間に他ではあまり見られない歩道があります。
両サイドの道に比べて中央だけでだいぶ高くなっていますよね。この中央の道が段葛です。



千度壇という地名は現在存在せず、不明とされているが、



https://www.onken.odawara.kanagawa.jp/files/PDF/tayori/63/onkendayori63-02.pdf



こちらのサイトでは千度壇=若宮大路(千度大路)であるとして、次のように説明されている。

「梅花無尽蔵」によれば、万里集九は大仏を見た後、浜に立つ鳥居に行った。
その後、千度小路を通って鶴岡八幡宮を参拝している。
(千度小路は、浜と八幡宮を結ぶ若宮大路を指す。)


「千度壇、連七里濱」(千度の壇、七里ヶ浜に連なる)とあるので、「千度壇」は千度小路(若宮大路)であることがわかる。


壇葛のある若宮大路が千度小路で千度壇だというのである。


「七里の浜」は由比ヶ浜の西にある浜である。


「千度壇、連七里濱」(千度の壇、七里ヶ浜に連なる)とあるので、「千度壇」は千度小路(若宮大路)であることがわかる。

とあるが、「連なる」とは「切れずに続く」という意味である。
「千度壇、連七里濱」とは「千度壇=千度小路=若宮大路が七里ヶ浜に連なる」という意味になると思うが、
若宮大路はそのまま七里の浜と繋がってはいないので
なぜ「千度壇は千度小路(若宮大路)であることがわかる」といえるのか、よくわからない。


そういうわけで、千度壇は不明というしかないと思う。


それはともかく、明応4年の9年前、文明18年(1486年)に、万里集九は大仏をおとずれて、梅花無尽蔵に次のように記しているという。


長谷観音の古い道場を見て、数百歩行くと、二つの山の間にある銅で出来た大仏に逢う。高さは7〜8丈。腹の中は空洞であり、数百人は入れる。後ろに穴があって、わらじを脱いで腹の中に入る。みんなが言うことには、この中に往々にして、ばくち打ちが昼日中からいて、サイコロをふっているという。お堂は無くて、露座である。
https://www.onken.odawara.kanagawa.jp/files/PDF/tayori/63/onkendayori63-02.pdf より引用


1486年当事、お堂がなく、大仏は雨ざらしだったというのだ。
鎌倉大日記も、応安二 (1369) 年の記述として「大仏殿転倒」、と記していると、上の記事には記されている。


1369年 大仏殿転倒(鎌倉大日記)
1486年 万里集九、お堂が無く、露座する鎌倉大仏を拝観する。(梅花無尽蔵)
1495年 明和地震 鎌倉由比ヶ浜の海水が千度壇に至る。水の勢いが大仏殿の堂舎屋を破る。溺死人は二百名あまり。(鎌倉大日記)


a「大仏殿破堂舎屋」は、津波が大仏殿を壊したのでは無く、大仏殿と関係した建物を壊した?
b津波が大仏殿に到達するというのは考えにくい。
大仏は標高は 14m にある。この高さで津波が来たら鎌倉市街は大半が浸水している。


この2点から、鎌倉大日記の記述は、明応四(1495)年ではなく、明応七(1498 )年 熊野灘付近の南海トラフで発生した地震の誤記と考えられている。


しかし、伊東市教育委員会の金子浩之さんは、明応四年の地震は存在したと主張されている。


その理由は、「熊野年代記」と(熊野三山の社家が記した記録)に、「明応四年八月十五日乙卯、鎌倉大地震」と「明応七年の南海トラフ地震」ふたつの記述があるためである。


明応四年の鎌倉大地震はあったのか?


いずれにしても、明応四年または明応七年以前に、大仏殿は既に存在していなかった可能性がある。
あるいは、1486年から1495年の間に、大仏殿が建設されたのか。
建設途中の建物が流されたという可能性はないのか。

❷鶴岡八幡宮 洞窟墓所


p70
偉大なる軍神・八幡を祀る神社[鶴岡八幡宮]にある創建当時の遺物は残念ながら一辺のかけらだけです。その本殿は石垣を高くめぐらした高台にあり、そこに立つと、広い参道[若宮大路(壇葛)]が一マイルはん[二・四キロ]先、海へ向かってまっすぐ延びている様子が眺められます。この裏手は源頼朝の墓や彼の忠実な家来、薩摩やエリートの大名の洞窟墓所[島津忠久、大江広元の墓]があります。







上の地図をみると、鶴岡八幡宮の周辺は歴史上有名人の墓だらけである。
鎌倉大仏は阿弥陀如来で、阿弥陀如来は「極楽浄土にいて衆生を救済するブッダ」であった。
極楽浄土とは死後の世界のことである。
大きく偉大な阿弥陀如来が鎮座する土地なので、多くの歴史上有名人の墓がつくられたのだろうか。



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