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シドモアが見た明治期の日本③ 横浜2

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。


❶豊顕寺


p56
神奈川県海岸通り裏側には、半ば荒廃した古刹・豊顕寺[神奈川県三ツ沢西町]があり、まれに開かれる祭礼日には参拝者、浮かれ物、屋台で込み合います。


調べてみるとこの寺にはローラー滑り台があったり、戦没者慰霊塔、多数の墓があり、白い服を着た女性の霊があらわれるなどといわれているらしいw

いちおう、自分用メモとして。

❷生麦事件

横浜外国人墓地にあるリチャードソンの墓。近年、有志によって、マーシャルとクラークの墓も左右に集められた。


横浜外国人墓地にあるリチャードソンの墓。近年、有志によって、マーシャルとクラークの墓も左右に集められた。


p56

神奈川を過ぎ東海道を上るとリチャードソン[生麦事件の被害者]の碑があります。彼は一八六二年[文久2]九月十四日あつまの大名[島津久光]の行列に遭遇して惨殺されました。その日、外国人は東海道に近寄らないように警告されていたにもかかわらず、無鉄砲なブリトン[英国]人たちは故意に大名行列の中を馬で横切りました。この侮辱が原因で、彼らは家来によって攻撃され重傷を負い、リチャードソンは道端で絶命し、他の仲間は逃走しました。行列が通り過ぎたとき、一軒家から若い娘が走り出て死体に茣蓙をかけました。さらに夜間自分の家に運んで弔い、友人らが引き取りにくるまで隠していました。日本文字で追悼文の刻まれた石碑が、リチャードソンが倒れた地点に立てられています。事件以来、親切な黒い瞳のスーサン[鈴さん?]の茶店は、外人たちのお気に入りの名所となり、彼らは乗馬や馬車でやってきました。その娘さんはつぶらな瞳、鷲鼻を持つローマ人的容貌の背の高い女性でヒロインとしてぴったりです。

~略~

ところで、リチャードソン殺害事件は、鹿児島砲撃と賠償金十二万五〇〇〇ポンドという報復を招きましたが、彼女は賠償金から分け前をもらうことはありませんでした。

生麦事件の日付、9月14日は新暦で、旧暦では8月21日である。
シドモアの生没年は1856年10月14日~1928年11月3日なので、彼女が5歳のころに起きた事件である。
リチャードソンが死亡したほか、2名が重症を負った。



次のように記された記事があった。

当時の生麦村の名主関口家は事件当日のことを次のように記している。
『島津三郎様御上リ異人四人内女壱人横浜与来リ本宮町勘左衛門前ニ而行逢下馬不致候哉異人被切付直ニ跡ヘ逃去候処追被欠壱人松原ニ而即死外三人ハ神奈川ヘ疵之儘逃去候ニ付御役人様方桐屋ヘ御出当役員一同桐屋ヘ詰ル右異人死骸ハ外異人大勢来リ引取申候』

文中の「桐屋」とは十数人の女をかかえていた料理茶屋である。事件が発生後、奉行所の役人がここに宿泊して4日間現場検証を行っている。ところは、京急生麦駅から商店街を通り、国道15号(第一京浜国道)を越して旧東海道にぶつかった左手である。現在は材木商となっている。


この事件の一部始終を見ていた村民がいた。大工徳太郎の女房である。
これを名主が筆に改め、村役人連名で神奈川奉行所に事件を届けた。
『島津候の行列が、神奈川方面から馬で来た。どこの国ともわからない異人4人(うち女1人)と出合い、行列の先方の人々が声をかけたが、異人たちは聞き入れず、駕籠先近くまで乗り入れたので、行列の藩士が異人の腰のあたりに斬りつけたようで、そのまま異人は立ち去り、一人は深手の様子で、字松原で落馬して死に、他の三人はどこかへ立ち去った。』


この届は奉行所の「御用留」に記載され現在も残っているという。


https://blog.goo.ne.jp/tetthan/e/f76ff0f9b8f0e29eebaee556f178c8e7 より引用


名主関口家によって記された文書はよく意味がわからないのだが(恥)
このブログ記事の筆者は「桐屋」とは十数人の女をかかえていた料理茶屋 と書いている。


シドモアは
事件以来、親切な黒い瞳のスーサン[鈴さん?]の茶店は、外人たちのお気に入りの名所となり、彼らは乗馬や馬車でやってきました。
と書いている。

「親切な黒い瞳のスーサン」とは、「死体に茣蓙をかけ、夜間自分の家に運んで弔い、友人らが引き取りにくるまで隠していた若い娘」のことだろう。

そのスーサンの茶屋が外人たちのお気に入りの名所になっているということは、スーサンは茶屋で仕事をしている娘なのだろう。
その茶屋とは桐谷のことであるのかもしれない。


また、シドモアは

この日、外国人は東海道に近寄らないように警告されていたにもかかわらず、無鉄砲なブリトン[英国]人たちは故意に大名行列の中を馬で横切りました。

と書いているが、ウィキペディアの記述はちがっている。


行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人が殺しにかかった。

4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは流血しつつも馬を飛ばし、神奈川にある当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込み助けを求め、ジェームス・カーティス・ヘボン博士の手当を受けた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6#%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E5%8B%83%E7%99%BA より引用


事件から2日後の8月23日、ニール代理公使は横浜において外国奉行・津田正路と会談した。この会談でニールは「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追及した。これに対して津田は「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答え、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話」として、ニールに反論されている[9]。ニールは本国のジョン・ラッセル外相への報告書に、久光通行の知らせはなかったことを明記して、外交上自国に有利な幕府の過失を指摘している[7]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6#%E6%96%87%E4%B9%852%E5%B9%B4 より引用


ウィキペディアの記述を信じるならば、外国人は東海道に近寄らないように警告されておらず、
リチャードソン一行は無礼を働くつもりはなかったのに、文化の違いから失礼であるとされて、殺傷事件に至ったようによめる。


また、スーサンの話もウィキペディアにはない。

事件直後、ボロデール夫人の要請に応えて最初に動いたのは、イギリス公使館付きの医官だったウィリアム・ウィリスである。騎馬で、まだ続いていた薩摩藩士の行列のわきをすりぬけて生麦に向かううちに、横浜在住の加勢の男たち3人が追いついてきて、やがてイギリスの神奈川領事ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらもリチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った[8]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6#%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B1%85%E7%95%99%E5%9C%B0%E3%81%AE%E5%8F%8D%E5%BF%9C より引用


文久3年(1863年)、英国は幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを、薩摩藩には犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求した。
幕府は支払を拒否したが、老中格・小笠原長行が独断で賠償金交付を命じ、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。
この結果、小笠原は老中を罷免される。


次にイギリスは薩摩藩と直接交渉をこころみる。
しかし交渉はまとまらず、イギリス艦が薩摩藩船を拿捕、薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃して、薩英戦争が勃発する。
このとき1863年。シドモア6歳のころであった。


戦争は新暦8月15日に始まり、薩摩側も被害を受けたが、イギリス艦隊も大きな被害を受けて8月19日にひきあげた。
その後、イギリスは薩摩を評価し、関係を深めていくようになる。

NamamugiVillage.jpeg


上はリチャードソンが殺害された生麦村の当事の写真である。


シドモア日本紀行は「1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録」であり、シドモアが見た生麦は、この写真から最低でも20年は経過しているが、やはりこのような茅葺屋根の民家が立ち並んでいたのだろうか。


❸浦島太郎伝説


p57
一説によれば、スーザンのいる浜辺は日本版リップ・バン・ウィンクル[浦島太郎]が舟と網を残した地点です。


『リップ・ヴァン・ウィンクル』 は、アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングによる短編小説で、1819年6に発表された。


アメリカ独立戦争後。ニューヨーク州に住む呑樵(きこり)リップ・ヴァン・ウィンクルは山へ猟に出かけた。
年老いた男にまねかれついていくと男達が九柱戯(※ボウリングに似た遊び)をしていた。

リップは彼らと酒を呑み、酔っ払ってぐっすり眠ってしまう。

リップが目覚めて山をおりると、友人たちは老人となり、アメリカは独立国になっていた。口うるさい妻はすでになくなっていた。
なんり眠っている間に20年の年月がたっていたのだった。


浦島太郎伝説が伝わる土地は日本各地にある。
たとえば京都府北部、丹後半島には浦嶋神社があり、浦嶋子(浦島太郎)を祀っている。
で、浦島太郎伝説が伝えられているところである。

浦島太郎伝説は丹後国風土記逸文(8世紀)にまでさかのぼることができる。

與謝郡日置里筒川村の筒川島子(つつかわのしまこ)は、別名「水江浦島子」といい、日下部首(くさかべのおびと)の先祖。

雄略天皇の時代、島子は一人舟で海に出るが、3日間魚は釣れず、五色の亀が釣れた。
五色の亀は美女に変身し、「天上の仙(ひじり)の家の者」だといった。
舟で女性の住む「蓬山」を訪れる。(海上の島)
蓬山の門では、7人の童子(昴七星)、8人の童子(畢星)に出迎えられ、女と夫婦になる。
三年がたち、島子は帰りたいといいだした。
女は「私と再会したいならば、決してあけてはいけない」といって嶼子に玉匣(たまくしげ/箱)を授けた。
嶼子は元の世界に戻るが、300年たっていた。
箱を開けると、何か美しい姿が雲をともない天上に飛び去って行った。
そこで島子は女性と再会できなくなったことを悟る。

丹後の元伊勢籠神社には亀に乗った倭宿禰命(ヤマトスクネノミコト)のブロンズ像がある。

倭宿禰命

籠神社 倭宿禰命像


倭宿彌命は別名を珍彦ともいい、神武東征のとき、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、浪速、河内、大和へと神武天皇の道案内をした。と籠神社には伝えられている。
この倭宿禰命が浦島太郎のルーツかもしれない。

こういう話をすると、すぐこんなことを言う人があらわれる。
アメリカ人が日本神話をまねたのだ。
シドモアは「浦島太郎は日本版リップ・バン・ウィンクル」というが、「リップ・バン・ウィンクルがアメリカ版浦島太郎」ではないか、と。

しかしアーヴィングは浦島太郎の物語を参考にして「リップ・バン・ウィンクル」を書いたわけではないと思う。


ケルトの神話の一つ、「フィアナ神話」にこんな話がある。
オシーンは3年間常若の国で過ごす。
しかしオシーンは父や友人に会いたくなって、ニアヴに「もとの世界へ帰りたい」といった。
ニアヴは「決して白馬から降りないように。足が土に触れたら、もう二度とここへは戻ってこれません」と言った。
しかし、オシーンは両足を地面につけてしまい、老人になってしまった。

ケルト神話は鉄器時代(紀元前500~200年)にかけのケルト民族の神話とされる。

アーヴィングはこの伝説を参考にしたのだろう。


同様の伝説があることについてはルーツはひとつで各地に伝わったとする説、同じような自然、感情などから同様の伝説が必然的に生じるなどの説がある。


❹川和の菊


p58
豊顕寺から内陸へ一〇マイル[一六キロ]ほど行くと、小さな村・川和[都築区川和]があります。そこの村長は菊の蒐集マニアとして有名で、秋の巡礼の大きな目標となているくらいです。
p59
また長寿を祈り惨禍を未然に防ぐため、盃へ黄の花びらを落とす様子もうかがえます。

「盃へ黄の花びらを落とす」というのは重陽の節句の習慣である。

古には奇数は陽、偶数は陰の数字と考えられていた。

9は一桁の数字では最も大きな数字なので、陽が極まった数字であるとして、9月9日は「重陽の節句」とされていた。

「重陽の節句」は「菊の節句」とも呼ばれている。

菊は旧暦9月9日ごろに咲く、ということもあるが、菊は「クク」ともよみ、これが「九九」の掛詞になっていそうである。
例えば菊理媛命は、「ククリヒメのカミ」のようによむ。


重陽の節句の前夜、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、綿についた雫で体を撫でると長寿になると言われていた。

菊の被綿(法輪寺)


菊の被綿(法輪寺)


これを「菊の被綿(きせわた)」という。


「菊の被綿」の習慣は、700歳の長寿を得た菊滋童の伝説がルーツとなっている。

周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となった。

穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言った。

菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となった。

そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得たという。

法輪寺 菊滋童

菊滋童の舞


菊滋童が穆王の枕を超えた、という点に注意してほしい。


穆王は菊滋童を寵愛していたとあるが、これは単に「かわいがっていた」という意味ではなく、「BLの関係にあった」ということだろう❤


陰陽では男は陽、女は陰である。

♂と♂が重なることはまさしく重陽だといえる。

つまりBLは長寿の妙薬ということだと思う。

また菊は男色の象徴でもある。


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