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シドモアが見た明治期の日本 1


シドモア

エリザ・E・シドモア

シドモアは日本びいきなアメリカ人で、著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」の中でしきりに日本の事をほめている。
その一例をあげる。

※すべてではない。他にも日本や日本人をほめている個所はたくさんある。
※ピンク色の文字の部分が本よりの引用。灰色の文字は私が書いた。
※ピンク色文字の引用先は「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」

p60
また、どこででも湯水、茶、米、果物、茶碗、皿、グラス、コルク栓抜きが簡単に手に入ります。これが当たり前だと思い、清潔な日本の茶屋や居心地よく景色の見渡せる簡素な建て場に慣れ切った旅行者には、この後中国へでも追放されたら、その有り難みがよく分かるでしょう!

日本では必要なものがすぐに手に入ったようだ。

p109
[ロシア皇帝]やカイゼル[ドイツ皇帝]はここ東洋の統治者をさぞかし羨ましく思うことでしょう。この国の群衆は何千人集まっても、爆弾を投げたり、パンや資産の分配で暴動をおこすことはありません。ひたすら桜を愛で賛美し歌に表すだけが目的なのです。

p277
感性の鋭い日本人は、雨の滴が群葉の篩にかけられて湖へ落ちる音に特有の音楽性を感じます[唐崎の夜雨]。

日本人は暴力的でなく芸術を愛する民族ということか。

p256
東海道本線は湖の高い堤防上を走り、堤防には芝生がしかれ、藁束の格子細工で覆われていますが、これは鉄道の敷設される1年以上も前、割れ目に芝生の趣旨を蒔いた結果栄えたものです。付近を通過しながら、でき上がった鉄道線路の断面を見ると、全線が医師の基礎と砂利敷でしっかりと造られ、数世紀間はもちこたえられる構造になっています。日本人は公共工事をあまり急がず、鉄道建設でも熱狂的やり方で労働者を鼓舞したりしません。

日本の公共工事は労働者に無理をさせて突貫工事を行ったりはしない。

p257
親切な人力車夫が貼りだしたバルコニーへ案内し、特別美しい景色を指さしながら、無頓着に上着を脱いで横木に広げ私たちを座らせました。それは朴訥な日本人の優しさから生まれた無償の行為でした。

報酬を要求しない日本人車夫の親切な行為。


しかしシドモアは、明治期の日本のよい面ばかりを記しているわけではない。
彼女の記述が正しいかどうかは検証する必用があり、明治期の日本社会が彼女の記述どおりであったとは断言できないが、いくつかの記述を引用してみよう。

①チップ、ご祝儀

p31 
商店街の開いている魅惑的な通りをゆっくり進む場合は、車夫から特別手当の請求があります。

ゆっくり進むと時間がかかるので、特別手当の請求は当然かもしれない。

p74
ガイドは大勢いて、通常老人や少年が不案内な外人一行に付き沿って歩きます。彼らはとても親切で、礼儀正しく優しい人たちです。好意的に島の周りを一緒に歩くうちに、なんとなく付き添いの通訳として正式ガイドに昇格し、彼らは最終目的を達成します。

「頼みもしないのに勝手にガイドを始める人々がいる」ということだろう。
人によっては、こういう行為を嫌うだろうが、シドモアは「礼儀正しく優しい人たち」と好意的に受け取っている。
「正式ガイドに昇格し、彼らは最終目的を達成します。」とあるが、最終目的とは「ガイド料(チップ)をもらうこと」だと思われる。

p144
あるとき芝居に感激した外人が、帽子、上着、帯・煙草袋など贈り物の嵐を見ながら、自分も帽子を投げました。
その後、興行師と役者の付き人が帽子を返しにきて、10ドル請求したのです。いわば、観客からの贈り物と目されるこれらの品々は、人気スターの価格リストに照らし、現金で買い戻させるための単なる担保没収品にすぎなかったのです。

p147
彼は東京以外の劇場でも演じ続け、ほかの都市との予約もいっぱいで、至るところで本給以外の臨時手当、ご祝儀、贈り物をもらっています。

p146
楽屋にいる人気スター訪問は純然たる商取引です。役者はファンの訪問を受けるために固定料金を設定し、正規の収入源とします。団十郎の楽屋は新富座の舞台裏、大道具装置場付近の高いところにあって、そこから舞台を見下ろす窓があり、このため呼出係を置く必要はありません。ときどき大スターは自ら舞台に向かって怒鳴ったり、化粧準備や気まぐれで、芝居の進行を遅らせたり早めたりします。団十郎の楽屋訪問にお金を払ったファンの扱いほど冷淡で侮蔑的なものはありません。

昔はファンが憧れのアイドルに会う為の手段として、このような制度が存在していたのか?

p274
また明文化されていない習慣として、各出演者には夕食、ささやかなご祝儀、お土産が必用となります。

これは舞妓さん・芸妓さんに対するもの。


つまりご祝儀とは、もともとは相手への感謝の気持ちや配慮が「金銭」を贈る習慣として定着したものなのです。この点がよりビジネスライクな発想の、海外のチップの習慣との大きな違いと言えそうですね。
https://yolo.style/yolo/article/3806/ より引用

とあるが、ウィキペディアには次の様に記されている。

サービスしてくれる人をねぎらって、「これで一杯飲んでくれ」と小銭を渡したことがチップの始まりであると考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%83%E3%83%97_(%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9) より引用

ウィキの説明をよむと、チップのルーツは「ねぎらう心」であり、ご祝儀と同じである。
定価以上の金銭を支払うという意味ではご祝儀とチップは同じである。

「日本はチップを受け取らない文化」と言う人がいるが、ご祝儀をうけとる習慣があり、チップとご祝儀はさほど違いはないと思う。

⓶値段をつりあげる。

p102
商人が店から大勢出てきて、自分の背丈の倍もの商品を奥から出し客の前で広げます。それは見る者が抵抗できないほど魅惑的で、しかも低廉です。さらに客を鴨にして何度も値段を下げて言い寄る商売人には抵抗できません!

イザベラ・バードは日本紀行の中で次の様に書いていた。

『イザベラ・バードの日本紀行/イザベラ・バード(講談社学術文庫)』第一三信(つづきその二)186ページ
それからわたしか伊藤が品物の値段をたずね、女主人が値をいいますが、6ペンスで売る物に4シリング要求していそうなかんじです。(略)
最終的にこちらが1シリング差し出して値段の折り合いがつくと、女主人は実にうれしそうです。
何度もお辞儀と「サヨナラ」を繰り返し合って店をでるときの気分は愉快なものです!
勤勉な女性に本来の倍多く払い、しかもこちらは予算より安く済んだのですから!


イザベラ・バード

イザベラ・バード

シドモアに商品を売った店の主人もはじめはかなり高い値段をいい、徐々にさげたのかもしれない。
しかし、イザベラ・バードもシドモアも金持ちなので、高いとか損をしたとは思っていないようだ。

p235
八合目の基地で会計帳簿を作成し待っていた小屋の主人が、記録メモをたくさんめくり、三日間の外人部隊まかない請求を読み上げました。あらゆるものが品目ごとに箇条書きにされ、皇位で勧めたはずの日本酒や茸シチューさえも含まれていました。主人は本能的に頭をひょいと下げ、私たち七人に総額五八ドルの請求書を見せ、ひたすら言い訳を繰り返し、さらにポーターやボーイからの広義、避難には一切耳を塞ぎ、日本語や英語の脅迫、毒舌を延々と続けました。シャイロック[シェイクスピアの戯曲「ベニスの商人」の登場人物]のごとき宿主は、ついに半額の三〇ドルで同意し、起源より受け取る段となり、ようやく諍いは終わりました。

③船賃

p248
昔、旅人は大きな川を渡るのに小さな四角い台[輦台]に座り、人足四人の方に担がれ運ばれました。時々、人足はもっとも危険なところで止まり、渡し料金を釣り上げました。結局脅された旅人は不当な要求の言いなりになり、ゆすり取られたのです。

シドモア自身が経験した話ではないので、検証が必要。

④ガイドのピンハネ

p190
熟語会話集に頼りながら、単独で中山道や僻地を旅する外人は、現地での思いやりや安らぎは、まず期待できません。そういう人間は巡礼階層とみなされ、お客様扱いによる部屋の世話や特別料理からは、全く無縁となります。雇ったガイドが主人を少々騙したりするにせよ、得られる旅の快適さや便宜はコストに見合ったものになります。

p190
どんな旅行者でもガイドからぼられていることを敏感に感じますが、質の悪いガイドの割合は遠く離れた地方ほど多く、このため一人旅を強いられるのも事実で、そんなガイドに置き去りにされると、否応なく重荷を背負い、果てしない艱難辛苦を余儀なくされます。

これについてはイザベラ・バードも同様のことを書いていた。

『イザベラ・バードの日本紀行/イザベラ・バード(講談社学術文庫)』第一二信 167ページ
入町―湯元を断つ前に、わたしはピンはねの手口を知りました。
清算を頼むと、請求書は私に渡されず、宿の亭主は二階へ駆け上がって伊藤にいくらにすべきか尋ね、
ふっかけて得た儲けをふたりで分けようと話をもちかけたのです。
何を買っても従者は「ピンはね分」を得ます。
宿代に関しては非常に巧みに行われるので、防ぎようがなく、納得のいく範囲で収まっているかぎりは気をもまないことです。

ここでバードが従者と書いているのはガイドの伊藤のことである。

伊藤鶴吉

伊藤鶴吉
彼はシドモアの日光の旅のガイドもつとめた。

⑤貧富の差

p71
しかも生活や環境に関する徹底した衛生観念は、裕福な家庭と同様、貧しい家庭の習い性となっています。

「貧しい家庭でも衛生的である」とほめる文章だが、貧富の差があったことをも示している。

p139
身分の高い日本人にとり、自ら劇場入口へ行き見物料を払って入場する行為は、かなり体裁の悪いことなので、そういう観客は少なくとも1日前、当日の切符手配のために劇場のそばの茶屋へ使いを走らせ、仲介を通して座席を確保します。つまり茶屋は切符売場と組んだダフ屋なのです!

このような座席の買い方をすると、どのぐらい余計にお金が必用になったのか気になる。

⑥天皇

p149
封建時代、天皇は臣下である将軍の実質的な捕囚として、京都御所の黄色の土塀(築地塀)の中で生まれ没しました。臣民の事は何もしらず、臣民に知られることもありませんでした。

同様の話は聞いたことがあるが、事実かどうかわからない。

p168
この東京の宮廷社会では、当然のごとく徒党や派閥があり、さらに内紛や争い、それに伴う勝敗があり、君主の寵愛をめぐって絶え間ない策動と陰謀が渦巻いています。

⑦華族

p169
日本の華族リストには、爵位の人数(公爵一一、侯爵三四、伯爵八九、子爵三六三、男爵二二一)と名前が載っています。

p169
華族リスト上位には、天皇の身内血縁の全親王を据え、次に爵位の授与さrた侯爵一〇名が続きます。この新設侯爵の一〇家のうち、五家は旧五摂家で、これは旧京都宮廷を構成する一五五家の中に筆頭公家です。旧五摂家は一条、九条、鷹司、二条、近衛の一門をさし、一八八三年[明治一六]から侯爵の地位にあります。残る侯爵五家は三条、岩倉、新津、毛利、徳川の一門で、皇位継承者に花嫁を捧げる特権が付与されました。

p171
東京の社交界はダンスを楽しみ、宮廷の誰もがダンスの名手です。上流社交界のリーダーたちは、カドリール・オヌール[四人一組で踊る表敬ダンス]をくまなく演舞でき、公式舞踏会はこれを皮切りにオープンとなります。

日本社会には身分制度、階級制度はなかったという人がいるが、そんなことはなかったのである。
公爵、侯、伯爵、子爵、男爵などの身分があり、特権をもっており、舞踏会を開くなどしていたのである。

乞食

p82(増上寺)
芝の巨大な山門[三解脱門]を抜け、愛宕山へ抜けて疾走。そこには緑深き険しい山頂へ向かって幅広い連続する直線階段の男坂や緩く中途半端な傾斜で曲がる一本道の女坂があり私たちは各自参道を選んで可愛らしい神社にたどりつきました。
近くには白い皮膚が鱗状になった潰瘍の酷い人がいて、悲しげに施しものに手を伸ばします。

乞食は私が子供のころにもいた。
最近は乞食をする人は見かけないが、ホームレスの人はいる。

⑨芸者

p125
芸者は日本女性の中でも教養程度がとても高く、多くの女性が素晴らしい結婚をしております。

芸者の中には政治家や実業家と結婚した女性は大勢いるが、「置屋の幼女にそのような自由は許されなかった」と芸妓・扇弥さんは語っておられる。
https://diamond.jp/articles/-/191076

⓾低階層の人々

p186
日本人全員がにぎやかにおしゃべりをし、低階層の人はそれにも増して多弁となり、さらに車夫仲間も加わって全員一度に元気になりました。

「低階層」という言葉があり、明治の日本が階級社会であったことをうかがわせる。

p203
このあたりには、世間から見捨てられた人たちの暮らす被差別部落があります。それは動物の屠られた死体を扱い、皮や毛皮で衣服をつくる人を蔑んだためです。差別の起源には彼らが朝鮮から渡来した人の子孫であるとか、皇室の鷹狩りの実行者や提供者として長く務めたという伝説的理由もありますが、むしろ動物の生命を奪うことを禁じた仏教戒律の影響と思われます。部落民の人たちは以前は、身分制度の中で、より身分の高い近隣住民とは孤立した生活を送ることを余儀なくされてきました。

⑪働くおかあさん

p442 茶焙じ労働者の話
さらに痛ましい光景は、夕暮れ時、婦人たちが赤ちゃんを背にし、作業倉庫から家路へとぼとぼ歩いて帰る姿です。赤ちゃんといえば、一日中倉庫の前庭で遊びまわる兄や姉の背中で跳ねたり、母親のいる炭火鍋に違い、片隅の安全なところに寝かせられたりします。
以前、とても教養のある婦人に「なぜ、託児所や全日保育の運営を慈善事業として考えないのですか?」と尋ねたことがあります。その答えは、「外人共同社会はあまりにも小規模なため、そのような制度を支えるのは財政的にとても無理です」とのことでした。各倉庫には大きな専用託児所を必要としますが、貧しい婦人たちは、稼ぎがわずかなため負担する余裕もなく、この問題は倉庫責任者地震が解決しなくてはなりません。

昔の女性は家にいて家事・子育てをしていたと思っている人がいるが、明治期に赤ん坊を職場につれてきて仕事をしていた女性がいたのだ。
日本で専業主婦が定着したのは戦後の1950年代とされる。


⑫泥棒

p97
半鐘が鳴ると近所のひとたちは被災した友人を助けるために突進し、泥棒はこのチャンスをできるだけ利用します?!

家事になると泥棒被害がふえたのだろうか。
アニメ「火垂るの墓」では主人公の青年は空襲警報のたびに泥棒行為を行っていたが。
大空襲の中 現れた火事場泥棒
こちらの記事では1945(昭和20)年5月の東京山の手大空襲で家が家事になった際、泥棒にあった経験がつづられている。

⑬表現の自由の制限

p147
日本政府は、新聞と同じように芝居にも一定の検閲を実施し、不快な演劇を禁止したり、必要なら興行師や劇団員を逮捕します。政治的事件を揶揄することは許されず、当局は人心を掻き乱すような表現を一切禁じています。かつて徳川幕府は「四十七名の浪人」の上演に対し検閲を行いました。なぜなら、その主な論旨と多くの場面は、将軍の腐敗した裁判手続きをはっきりと批判していたからです。このため維新まで、忠臣蔵(忠義同盟)と名前を変えて上演し、芝居内容は歴史的事実とは遠く外れていました。

日本には、表現の自由がなかったということである。

p178
威厳ある皇室情報誌はありますが、それは官報です。国内の出版物に対して、記事抹消を行う厳しい検閲があるため、東京には社交界のゴシップやスキャンダルを扱う面白い新聞がいまだにありません。もちろん皇室を回想した本もありません。

皇室の情報開示はタブー視されていたということだろうが、それは現在でも存在していそうである。


⑭廃仏棄釈

p196
しかし、維新後、神道が国家宗教となり、天皇が日光へ巡礼された際、家康の霊廟からは祭壇の壮麗な装飾、旗印、紋章が剥ぎ取られ、素朴な鏡と空なる神道の御幣に置き換わりました。

p313
たくさんあった徳川家の三葉葵は、どこも天皇家の菊の紋に取って変わりました。 

p313は京都・二条城の話である。

「廃仏棄釈はなかった。疲弊した寺の僧侶が寺宝や寺領を売りさばいたのだ。」という人がいた。
そういうこともあったかもしれないが、シドモアの文章を読むと、少なくとも日光と二条城では、天皇に対する配慮から家康をイメージさせる紋章などは取り除かれたように思える。

また伊勢神宮に明治天皇が訪問された際、伊勢神宮と関係のある多くの寺院は移転させられたり、廃された記録が残っているそうである。




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