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トンデモもののけ辞典85 踊り首『馬の頭部を持つ大蛇の正体とは』2023/05/27 追記あり


↑ 素晴らしい舞台に感動!日本のミュージカルですね!

①踊り首

踊り首(おどりくび)は、日本の妖怪の一種で、人間の首だけが宙を舞う妖怪。
人間(主に落ち武者や女性)が死んだ後、怨念や愛憎の念があまりに強いため、その首が胴体から離れて巨大化して古びた寺などに現れ、そこを訪れた生者を脅かす妖怪である[2]。
元禄時代には、播磨国の佐用郡(現・兵庫県)で大きな女の首が目撃されたという事例がある。江戸時代の古書『絵本小夜時雨』には「平川采女異蛇を斬」と題し、永禄時代の江州(現・滋賀県)で、ある者が馬の頭を持つ大蛇の妖怪を退治したところ、首だけが空へ飛んで行ったという話がある[1](画像参照)。また民俗学者・岩井宏實の著書においては、江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある舞首も踊り首の一種とされている[3]。


⓶皇極天皇の御簾に食らいついた蘇我入鹿の首

首が宙を舞うという話は、日本ではよくある話である。

飛鳥時代には、蘇我入鹿の首が宙を舞ったとされる。

当事の権力者だった蘇我入鹿は、645年に中大兄皇子(のちの天智天皇)に首を斬られたとされる。(乙巳の変)
入鹿の首は飛び上がって皇極天皇の御簾に食らいついたといわれる。

距離は長くはないが、入鹿の首は宙を舞っている。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)

③大宰府から奈良まで飛んだ玄昉の首

奈良時代には玄昉の首が飛んだという話がでてくる。

藤原不比等の四人の息子(藤原四兄弟)が相次いで天然痘にかかって死亡してしまい、
一時的に藤原氏の勢力は衰えて、738年に橘諸兄が右大臣となった。
橘諸兄は吉備真備・玄昉を重用し、藤原宇合の長男・藤原広嗣(式家)は大宰府に左遷されてしまう。
橘諸兄は玄昉を重用していたのだが、
740年、藤原広嗣は「天地による災厄の元凶は吉備真備と僧正・玄昉であるので、二人を処分するべきである。」という上奏文を朝廷におくった。
『今昔物語集』や『源平盛衰記』には、玄昉が光明皇后と密通し、これを広嗣が咎めたとあり
『元亨釈書』『興福寺流記』『七大寺年表』『扶桑略記』には玄昉が藤原宮子(聖武天皇の母親)と密通したとある。
藤原広嗣は玄昉が密通しているので天地に厄災が起きたと訴えたという事だと思う。
しかし訴えは聞き入れられず、藤原広嗣は大宰府で挙兵するも破れ、処刑された。 (藤原広嗣の乱)

745年、藤原仲麻呂が権力をもつようになり、今度は玄昉が筑紫の観世音寺に左遷された。
746年、玄昉は筑紫で亡くなったが、玄昉の死は藤原広嗣の怨霊の仕業であると考えられた。
『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄昉を連れ去り、後日、頭のみが興福寺に落ちていたが、これは藤原広嗣の怨霊の仕業であるとの旨が記されている。

つまり玄昉の首は筑紫から奈良まで飛んだ(宙を舞った)ということである。

玄昉の首が落ちたのは奈良市高畑にある頭塔のある場所だといわれている。

頭塔

頭塔はピラミッドの形をしている。

④京から故郷へ飛びかえった平将門の首

平安時代、平将門は東国に独立国をつくったが、朝廷が派遣した藤原秀郷、平貞盛らの軍と戦い、流れ矢にあたって死んだ。
将門の首は京都の鴨川のほとりで晒されたが、ある日舞い上がり、故郷の東国を目指して飛び去った。
その首が落ちたところに、将門の首塚がつくられたとされる。

将門の首塚

将門の首塚

⑤高松塚古墳は蘇我入鹿の墓?

私は飛鳥の高松塚古墳は蘇我入鹿の墓、キトラ古墳は入鹿の父・蘇我蝦夷の墓ではないかと考えている。
その理由を簡単に説明してみる。

高松塚古墳とキトラ古墳には壁画が描かれており、四神図(玄武・青龍・白虎・朱雀の四柱の聖獣)などがよく似ているところから、同一人物あるいは同一グループによって、同時代に描かれたものと考えられている。

高松塚古墳・キトラ古墳のような壁画古墳は日本では他には例がない。
(九州の壁画古墳は抽象的なデザインで高松塚・キトラとは異質)
ただし天皇陵など宮内庁管轄の古墳は発掘調査が禁じられているため、石室内がどうなっているのか、よくわからないのだが。

しかし高松塚古墳は朝鮮にある高句麗壁画古墳壁画によく似ている。


3:09あたりから四神図、9:28あたりからの女性図は襟のデザイン、プリーツを畳んだようなスカートなど、
高松塚のものほとんど同じだ。


1:36あたりで高松塚古墳壁画の飛鳥美人と呼ばれる女子群像、
2:26あたりで高松塚古墳の四神図
5:43あたりでキトラ古墳の壁画が紹介されている。

645年の乙巳の変で中大兄皇子に斬られて入鹿は死亡し、その翌日入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺した。

このとき蝦夷は59歳だ。
蘇我入鹿は生年不祥だが、蝦夷が20歳のときにできた子供だとすれば39歳ぐらいになる。

高松塚古墳から出土した頭がい骨片や歯を鑑定した結果、被葬者は4、50歳代の男性、
キトラ古墳は熟年の男性とされていて、年齢はほぼあう。

そして入鹿の父・蘇我蝦夷は自分と息子の入鹿のために、生前から「今木の双墓」築いたと史料には記されている。
この「双墓」がどこにあるのか判明していないが、
高松塚古墳とキトラ古墳はよく似ていて、双墓と呼ぶのにふさわしいようにも思う。

乙巳の変の舞台となった飛鳥板葺宮跡また高松塚古墳・キトラ古墳は高句麗壁画古墳に似ていて、被葬者は高句麗と関係の深い人物だと考えられるが
蘇我稲目(蘇我蝦夷の父、蘇我入鹿の祖父)の父が蘇我高麗という名で、当時、高句麗は高麗と呼ばれていたので
蘇我氏は高句麗人ではないか、とする説もある。

⑥ドクロは呪術の道具だった。

高松塚古墳の被葬者は下顎の部分の骨はあったが、その上にあるはずの頭蓋骨がなかった。
梅原猛さんは、時間が経過して死体が白骨化したのちに頭蓋骨だけ除かれたのではないかとおっしゃっている。
梅原さんは高松塚古墳の被葬者は弓削皇子としておられて、私とは考えが違うのだが
「死体が白骨化したのち頭蓋骨だけ除かれた」とする見解はナルホド~、と思う。

ドクロは呪術の道具として用いられており、高貴な身分の人のドクロほど効力があるとされていたそうである。
実際にドクロが盗難されたという事件も起きている。

追記
「この皇極元年(642)蝦夷は、何か期するところでもあるかのように、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞(やつらのまい)を奉納する。さらに引き・続いて全国から大勢の人夫を徴発、今来の地に自分と息子入鹿のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼ぴ、入鹿の墓を小陵と呼んだ。蝦夷が、墓の建設は自分の死後人に苦労をかけないためだと言ったのに対して、上宮王家の春米(つきしね)女王は「蘇我臣は、国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ。」と非難したと伝えられる。」

↑ こちらの記事によれば、蝦夷の墓が大陵、入鹿の墓が小陵となっている。
高松塚・キトラ古墳が蝦夷・入鹿父子の今木の双墓だとすれば、大きい高松塚古墳が蝦夷の墓、小さいキトラ古墳が入鹿の墓となる。

蘇我入鹿の首が中大兄皇子に斬られて皇極天皇の御簾に食らいついた、という伝説から、頭蓋骨が発見されていない高松塚古墳を蘇我入鹿の墓と考えたのだが、考えなおしが必用ですね。すいません。

入鹿の死後、かなりたってから入鹿のドクロは呪術の道具として持ちだされたのかもしれない。

あるいは入鹿の魂が蘇らないように、頭蓋骨を持ちだしたのかもしれない。
というのは、次のような伝説があって、死体はバラバラにして埋めると蘇生しないという信仰があったと考えられるのである。

鬼八の死体をばらばらにして地中に埋めた。
ところが鬼八は一夜のうちに蘇ってもとの姿に戻り、土地を荒らしまわった。
そこで田部重高という者が鬼八を殺し、頭を加尾羽(かおば)に、手足を尾羽子(おばね)に、また胴を祝部(ほうり)の地にそれぞれ分葬した。
そうしたところ、鬼八は蘇生しなくなった。 



⑦首が巨大化する理由

人間(主に落ち武者や女性)が死んだ後、怨念や愛憎の念があまりに強いため、その首が胴体から離れて巨大化して古びた寺などに現れ、そこを訪れた生者を脅かす妖怪である」

とあるが、首が巨大化する理由については、大入道・大坊主の正体のうちのいくつかがあてはまりそうである。


すなわち、
①部屋を暗くして、灯りの前にものをかざすと影が壁に大きく映し出される。
⓶ブロッケン現象
③恐怖が実際よりも大きく見せる。
④アルコール依存症による幻覚

⑧三上山の馬の頭をした大蛇の正体は平将門だった?

平川采女異蛇を斬
(『絵本小夜時雨』一巻所収)
 永禄年間の頃、滋賀県南部の三上山に大蛇が住み、人々を苦しめていた。当時の領主に仕えていた平川采女という武人が命を受けて三上山に赴くと、その大蛇が現れた。
 その姿、頭は馬のごとく、口は耳まで裂け、紅の舌をひらめかし、火炎を吹きかけながら飛び来たったが、平川は「えいや」と太刀で斬りつけ、その首を刎ねた。しかし、大蛇は首だけになっても動くので再び斬り払うと、首は鏡山へと飛んでいき、不篠の池に落ちたという。

 この話は『淡海温故録』などの本に収録された話だ。三上山は俵藤太の大百足退治などでも知られているな。
 蛇と書かれてはいるが、挿絵では馬のような頭をしているなど、どちらかというと龍に似た特徴を有しているようだ。


速水春暁斎画『絵本小夜時雨』より「平川采女異蛇を斬」

速水春暁斎画『絵本小夜時雨』より「平川采女異蛇を斬」

永禄年間とは、1558年から1570年までの期間。天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭である。

上の文章にもあるように三上山は俵藤太の大百足退治にもでてくる。
しかし、俵藤太の物語では三上山に住んでいるのは大蛇ではなく、百足である。

「俵藤太物語」にみえる百足退治伝説は、おおよそ次のようなあらすじである。

琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した[18][19]。


瀬田の唐橋 説明板より

瀬田の唐橋 説明板より 俵藤太の百足退治

平川采女異蛇を斬・・・・三上山には大蛇が住む・・・平川采女という武人が退治した。
俵藤太・・・・・・・・・三上山には百足がすむ・・・藤原秀郷(俵藤太)が大蛇の依頼をうけて百足を退治した。

私たちはすでに藤原秀郷という名前を知っている。④のところで、私は次のように書いた。
「平安時代、平将門は東国に独立国をつくったが、朝廷が派遣した藤原秀郷、平貞盛らの軍と戦い、流れ矢にあたって死んだ。」と。

そしてこちらの記事には次の用に書いた。↓

「武田信玄は毘沙門天を信仰しており、彼の精鋭部隊は百足衆と呼ばれていた。
百足は毘沙門天の使いとされていた。
また坑道のことをムカデ穴ともいい、鉱山と毘沙門天と百足には密接な関係があったものと思われる。

三上山や男体山は鉱山だったのか、とも考えて検索してみたが、わからなかった。

もしかすると三上山や男体山が百足に喩えられたのは、百足が毘沙門天の使いだからかもしれない。
武田信玄ら戦国武将が毘沙門天を信仰していたのは、毘沙門天が戦の神だからだ。

俵藤太は平将門を討伐しているが、その平将門との闘いに勝利することを毘沙門天に祈ったのだろうか。
そうすると俵藤太は戦いの神である毘沙門天を弓で射たという話になってしまう。

矛盾するようにも思えるが、アイヌの熊送りでは、神として育てた熊を殺す。
同様の信仰が本土にもあったのかもしれない。」と。

もしかして、藤原秀郷が退治した百足(毘沙門天の使い)とは、平将門そのものではないだろうか。

平川采女が退治した大蛇は馬の頭部をしているというが、平将門の子孫を称する相馬氏の家紋は繋ぎ馬である。もう一つの相馬氏の家紋「繋ぎ馬」
相馬氏の家紋「繋ぎ馬」

関西では平将門は朝廷に逆らい「新皇」を名乗った逆賊だととらえるむきが強いが
関東では平将門は英雄視されているのだという。

平安京の貴族たちが安逸をむさぼっているために将門が乱を計画し、天もこれを認めて黒馬を将門に与えたという伝説が伝えられている。
ところがこの馬は将門しか乗りこなすことができないので、繋いであるというのだ。

 また「じゃじゃ馬に 常陸の伯父御 くいつかれ 」という川柳がある。
じゃじゃ馬とは平将門、常陸の伯父御とは将門の 伯父の平国香のことである。

このように将門自身が馬に喩えられることも多かった。

三上山に住む平川采女が退治した大蛇もまた、平将門の霊であり、
それで馬の頭部をしており、その首は飛行したと考えられたのではないだろうか。
(将門の首は京で晒されたが、飛び上がって故郷を目指して飛び去ったとされる。)



「元禄時代には、播磨国の佐用郡(現・兵庫県)で大きな女の首が目撃されたという事例がある。」

と記されているが、これについては調べてみたがわからなかった。
情報などお持ちの方は、ご一報いただけるとありがたいです。


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