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トンデモもののけ辞典84 白粉婆 『白粉婆の正体は化粧地蔵?』


鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「白粉婆」

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「白粉婆」

①白粉婆

白粉婆(おしろいばばあ、おしろいばば)または白粉婆さん(おしろいばあさん)は、奈良県吉野郡十津川流域に伝わる老婆の妖怪。

概要
鏡を引きずってジャラジャラと音を立てつつ現れる、老婆の姿の妖怪といわれる[1]。

鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』には「白粉婆」の名で、ひどく腰の曲がった老婆が、大きな破れ傘を頭に被り、右手で杖をつき、左手には酒徳利を持っている姿が描かれている。同書の解説文には「紅おしろいの神を脂粉仙娘と云 おしろいばばは此神の 侍女なるべし」とあり、白粉婆が脂粉仙娘(しふんせんじょう)という白粉の神に仕えている侍女であることが述べられているが、奈良の伝承における白粉婆と同一のものかは不明[2]。顔一面に白粉を塗りたくっているが、この塗り方が厚ぼったい上にひどく雑で、見るだけで恐怖を覚えるともいう[3]。

民俗学者・藤沢衛彦の著書『図説民俗学全集』によれば、雪女と同種の妖怪であり、石川県能登地方で雪の降る夜に酒を求めて現れるとされるが[4]、実際には能登にはそのような伝承の存在が確認されておらず、藤沢が『今昔百鬼拾遺』から連想して創作したものと指摘されている[5]。

山中の女の妖怪である山姥や山女は、旅人に白粉をねだったり、山の麓に現れて酒を買ったなどの話があることから、白粉婆もそうした山姥や山女に関連しているとの指摘もある[2]。


⓶長谷寺の白粉婆

天文6年。長谷寺の座主・弘深上人の発案で、戦乱の世を少しでも良くするべく、本堂一杯の大きさの紙に寺の本尊である観音菩薩を描くことになり、全国から画僧たちが集まった。
しかしある日、足利将軍家の軍勢が寺に押しかけ、寺や町の穀物を根こそぎ徴発してしまった。噂を聞いた画僧たちは食事が出ないのではと不安がっていたところ、寺の小僧は事情を説明した上で、それでも観音の救いによって食事の支度ができると伝えた。
不思議に思った画僧たちが小僧の案内で井戸端へ行くと、1人の娘が米を研いでいた。桶で研いだ米をざるにあけると、桶に1粒だけ米が残り、それを水につけると米が桶一杯に膨れ上がり、それをさらに研ぐことで米はどんどん増えていた。
画僧の1人は、彼女が観音の化身ならば顔を見てみたいと、仲間の制止も聞かずに小石を投げつけた。すると浄土を思わせる光が差し、娘は顔を上げた。その顔は白粉を塗っていたが、画僧たちのために苦労を重ねたことで皺だらけの老婆のようになっていた。しかし画僧たちはそのまばゆさ、ありがたさを前にして1人残らずひれ伏していたため、誰1人その素顔に気づくことはなかった。
以来、画僧たちは仕事に打ち込み、見事な大画像が完成したという[6]。現在でも長谷寺の境内には白粉婆の堂があり、その老婆が祀られている。明治時代の頃までは、毎年正月の修正会でこの像に白粉を塗る行事が行われていたという[5]。


長谷寺 宵牡丹

長谷寺

③長谷寺の奇習、一箱べったり。

長谷寺にはもう何回も参拝しているが、白粉婆の堂があるのは気がつかなかった。
そこで長谷寺のホームページを見てみると次のような記事があった。

妖怪研究家の木下昌美さんが妖怪「白粉婆(おしろいばば)」を調べに長谷寺にいらっしゃったのですが、元々「白粉婆」と言うのは、破れた傘を頭に被り、右手に杖、左手に酒徳利をもち、顔には暑く、雑に塗った白粉をつけた妖怪です。

長谷寺伝わる姥像は、その昔、長谷寺創建の際、僧侶の食事一切を一手に引き受けて、毎日の食事を過不足なく提供し続けた老女の像になります。その女性は化粧っ気のないみすぼらしい出で立ちであったのですが、情に厚く、慈母のように皆に慕われていました。しかし、ある日の夕刻を境に忽然と姿を消したそうです。誰もその女性の素性を知らず、行方を捜す術もなかったので皆、非常に悲しんだと言います。

そうして誰言うとなくあの老女は長谷観音さまの化身だと言われるようになり、そのご恩に報いるべく、綺麗な着物と白粉をせめてもの「志」として、供養したと言う事です。

毎年旧正月5日の深夜に長谷寺近くの白河という所(老女の出身地か?)から一箱にたっぷり入ったお白粉と白笠紙を姥像のある本長谷寺に持ち寄り、紙衣を着せ、お白粉をべったりと塗るまさに奇習が出来上がったと言います。

この行事は昭和三十年頃まで行われていましたが、以降、誰も拝むこともなくなり、お堂の隅に追いやられていたのですが、昨今の妖怪ブームと妖怪研究家の木下昌美さんがこの姥像に興味を持ち、ついには陽の目を見るようになりました。

この姥像の奇習「一箱べったり」の伝承と妖怪「白粉婆」がいつしか混同されるようになったということです。不思議なご縁ですね。


この記事には白粉婆像の写真も掲載されているが、それはお地蔵様である。

お白粉と白笠紙を持ち寄るのは、白河という所(老女の出身地か?)からだと書いてあるが、その場所は長谷寺の北あたりの地名である。


⓸化粧地蔵

お地蔵様の顔を白塗りにする習慣は各地にあり、旅先でもよく見かける。

京都周辺と青森に多く存在する。
~略~
毎年8月に行われる地蔵盆という行事で、地域の子ども達によって、少しずつ顔が描きかえられていくのが習わしなのだが・・・・


↑ こちらの記事では、8月の地蔵盆の行事であるとしている

長谷寺の「一箱べったり」は毎年旧正月5日の深夜に行われる行事とあって、地蔵盆の行事ではない。
検索しても正月に地蔵に化粧をする習慣があるという記事はみつからないが
正月にもお盆と同じく先祖の霊がかえってくるといわれることもあり
正月に「一箱べったり」のような行事を行う習慣のある地域もかつてあったのかもしれない。

京都 石上神社 化粧地蔵

京都・石上神社 化粧地蔵

⑤地蔵に化粧するのは、地蔵を若返らせるため?

なぜ地蔵の顔に化粧をするという習慣が生じたのだろうか。
それには地蔵を若返らせるという意味があったのではないかと思ったりする。

津守国基 (1023-1102)という住吉大社の神主が、和歌の浦に住吉のお堂の壇に用いる石を探してやってきて、こんな歌を詠んでいる。

年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫
(長い年を生きてきただろうに、年老いることもなく、和歌の浦に鎮座して幾代になるのだ、玉津島姫よ。)

玉津島姫とは和歌山県・和歌の浦にある玉津島神社の御祭神である。

玉津島

玉津島神社

和歌の浦

和歌の浦

この歌の詞書にはこんなことが書いてる。

「この歌を詠んだ夜の夢に、唐衣を着た女房が10人ほどあらわれて、ちょうどいい石はこれだよと教えてくれた。」

唐衣を着た女房が10人ほどあらわれたというのは、玉津島姫は10人いるということではいだろうか。
もしかして、歌舞伎役者のように、次々に新しい神が玉津島姫の名前を襲名するので、女神はいつまでも年老いることがないのかも?

これは神道の話であって、仏の話ではないといわれるかもしれないが
日本では神仏は習合して信仰されていた。
神仏習合のベースとなった考え方は、本地垂迹説である。

本地垂迹説とは
「日本古来の神々は、仏教の神々が衆上を救うため、仮にこの世に姿を現したものである」という考え方で
日本古来の神々のことを権現、日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神のことを本地仏といった。
たとえば、菅原道真という神の本地仏は十一面観音、天照大神の本地仏は大日如来である、のように考えられた。
つまり、菅原道真と十一面観音、天照大神と大日如来は同体、というわけである。

神が若返るのならば、仏である地蔵菩薩が若返ると考えられたのではないだろうか。

⑥白粉婆は衣通姫の年老いた姿?

長谷寺付近には衣通姫伝説が伝えられている。

第19代允恭天皇(376?-453)には木梨軽皇子と軽大娘皇女(衣通姫)という同母兄妹があり、
二人は禁忌とされていた近親相姦に陥り、周囲にも二人の関係がばれてしまう。
群臣たちの多くは木梨軽皇子を次期天皇に立てたいと思っていたが、
この一件で群臣たちは木梨軽皇子・弟の穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)を支持するようになった。
允恭天皇崩御後、木梨軽皇子は大前小前宿禰(おおまえこまえのすくね)と共謀して穴穂皇子を討とうとしました。
しかし大前小前宿禰が裏切ったため木梨軽皇子は捕えられ伊予へ流罪となった。
軽大娘皇女は兄が帰ってくるのを待っていたが、待ちきれなくなって兄に会いにいった。
軽大娘皇女を迎えた木梨軽皇子は次のような歌を詠み、ふたりは自害して果てた。

こもりくの 泊瀬の河の 上つ瀬に 斎杙(いぐい)を打ち 下つ瀬に 真杙(まぐい)を打ち
斎杙には 鏡をかけ 真杙には 真玉をかけ 真玉如(な)す 我が思う妹(いも)
鏡如す 我が思う妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲ばめ

(泊瀬の河の上流に斎杙を打ち、下流には真杙を打ち、斎杙には鏡をかけ、真杙には真玉をかけ、その鏡のように我が思う妹、その真玉のように我が思う妻、おまえがいるからこそ家に帰りたいと思い、国を偲ぶのだよ。)

ここに出てくる伯瀬とは長谷寺付近の地名である。

白粉婆とはこの衣通姫の年老いた姿かも?

 


 ⑥十津川に化粧地蔵は見つからなかった。

白粉婆は奈良県十津川村にあらわれるというが、検索してみても化粧地蔵はみつからなかった。
十津川村の白粉婆は化粧地蔵とはちがうものかもしれない。
もう少し、違う角度からみてみよう。

ウィキペディアの文章が曖昧でわかりにくいが
「鏡を引きずってジャラジャラと音を立てつつ現れる、老婆の姿の妖怪」
「顔一面に白粉を塗りたくっているが、この塗り方が厚ぼったい上にひどく雑で、見るだけで恐怖を覚える」
というのは十津川の白粉婆について述べているのではないかと思う。

石燕が描いた白粉婆が、十津川に伝わる白粉婆と同じものかどうかわからないとも書いてある。
「わからない」ということは、「同じものかもしれない」よいうこよんsので、
石燕の絵に添えられた文章を読んでみると、次のように記されている。

紅おしろいの神を脂粉仙娘と云
おしろいばゝは此神の侍女なるべし
おそろしきもの、しはすの月夜女のけはひとむかしよりいへり

現代語訳すると、こんな意味になるだろうか。

紅白粉の神を脂粉仙娘(しふんせんじょう)という。
「おしろいばば」は此神の侍女である。
おそろしいものは、12月の月夜の女の気配であると、昔よりいう。

「しはす」は師走で旧暦12月のことを言っているの思う。
月夜とは月の明るい夜という意味である。月齢15日の夜のことだろうか。

白粉婆は、鏡を引きずって現れるとあるが、鏡とは月の比喩かもしれない。

ここで長谷寺の白粉婆と呼ばれる地蔵の石像に白粉を塗る「箱べったり」の奇習が1月5日に行われていたことを思い出してほしい。
地蔵の顔を白く塗る習慣はお盆に行われることが多いのだが、正月にも行われていたのではないかと私は考えた。
そして石燕が描いた白粉婆が現れるのは師走の月夜である。

白粉婆は1年たって古くなった神なのではないか。

「山姥や山女は、旅人に白粉をねだったり、山の麓に現れて酒を買ったなどの話がある」という記述も興味深い。

十津川は山深い土地だからだ。

白粉婆は山姥や山女と関係のある妖怪かもしれないが、これについてはまた改めて考えてみたいと思う。





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