民家博物館 岩手の曲がり家
民家博物館 岩手の曲がり家 土間
1⃣土間にいるワラシ(童)の妖怪
座敷ワラシという妖怪がいる。
そのうち、家の土間にいる座敷ワラシとして、ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシなどがいるという。
民家博物館 岩手の曲がり家 かみざしき
後で理由を説明するが、座敷ワラシとノバタリコ、ウスツキコ、コメツキワラシを同じ妖怪と考えていいのかどうかわからないので、とりあえず座敷ワラシとは切り離して別の妖怪として考えることにするが、
あとで「やっぱり同じ妖怪だった」となるかもしれないw
2⃣ノタバリコは倒れてみじめに死んだ子?
「ノタバリコ」は内土間から這い出て座敷を這い回るワラシだという。
「座敷を這い回る」とあり、座敷ワラシと関係ありそうにも思えるが、これについてはいったん保留にするw
(よくわからないのでw)
「のたばる」という言葉がある。
意味は甲州弁で「倒れる」である。
「のたれ死ぬ」は「倒れて死ぬ」「みじめに死ぬ」などの意味となる。
「ノタバリコ」とは「倒れてみじめに死んだ子」という意味ではないか。
3⃣ウスツキコ、コメツキワラシは臼を搗くような音を立てる妖怪
ウスツキコは臼を搗くような音をたてるという。
臼とは餅をついたり、蕎麦を牽いて粉にするための道具で、木や石でできている。大きくて、大変重いものである。
コメツキワラシの「コメツキ」とは「米搗き」という意味だろう。
スーパーなどで販売されているの米は精米した状態で売られているが、かつて玄米は臼にいれて杵でついて精米していた。
上の動画は機械で杵を動かしているが、かつては人が手に杵を持って米を搗いていた。
ウスツキコとコメツキワラシは名前は違っても同様の妖怪と思われる。
4⃣臼殺
前述の佐々木喜善は座敷童子のことを、圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊ではないかと述べている[14]。東北地方では間引きを「臼殺(うすごろ)」といって、口減らしのために間引く子を石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所などに埋める風習があったといい、こうした子供の霊が雨の日に縁側を震えながら歩いていたり、家を訪れた客を脅かしたりといった、座敷童子に似た行為が見られたともいう[9]。特に、前述の「ノタバリコ」や「ウスツキワラシ」は座敷童子の中でも下等なものとされており、前者は内土間から這い出て座敷を這い回り、後者は臼を搗くような音をたてたりと、気味の悪い振る舞いをするといわれていることから[11]、これらの座敷童子に、間引かれた子供の埋められた場所が土間や臼の下などであることが関連しているとの指摘もある[2]。
かつて東北地方では口減らしのために子供を石臼の下にして間引き(殺した)、土間や台所に埋めたというのである。
そしてこのようにして間引かれた子供の霊が座敷ワラシではないかというのだ。
4⃣間引きと飢饉
↑ 間引き絵馬で検索するとたくさんでてくる。
弘誓院や徳満寺(茨城県)のもので、全国で間引きの風習があったようである。
東北においても間引きは行われていたのだろう。
間引きの背景には、飢饉があると思う。
江戸時代には凶作により元禄・宝暦・天明・天保の四大飢饉がおきている。
特に天明・天保の大飢饉は東北地方に甚大な被害をもたらし、多くの人がなくなった。
また人肉食の記録が残っている。
このような状態では間引きもやむをえないと考えられたのだろう。
堕胎と「間引き」即ち「子殺し」が最も盛んだったのは江戸時代である。関東地方と東北地方では農民階級の貧困が原因で「間引き」が特に盛んに行われ、都市では工商階級の風俗退廃による不義密通の横行が主な原因で行われた。
5⃣7歳までは神の領域なので、間引きは神に子供を返す行為
分娩後の間引きは残酷で、膝(ひざ)やふとんで窒息させたり、臼(うす)ごろといって石臼で圧殺したり、紙はりといってぬらした紙を顔にはって窒息させたりした。たいてい取上げ婆(ばば)(免許制以前の産婆)が処理した。霊魂信仰の考え方では、生児は成長に応じて次々に霊魂を付与し人間らしくなっていくので、胎児、嬰児、幼児の人権は重視されていなかった。妊婦、産婦の心情はいまも昔も変わりがないが、社会的な人権意識が足りなかった。間引いた子は自宅の床下や縁の下に埋める例もあり、生まれ変わることを期待する気持ちがあった。間引きのことを「返す」「戻す」などというのはそのためであり、桟俵(さんだわら)にのせて川に流す例もある。
ここにも臼ごろ(臼殺のことだろう)という言葉がでてくる。
また、間引きのことを「返す」「戻す」という、とも記されている。
間引き法としては濡紙を口に当てる、手で口をふさぐなどの直接的なものとネグレクトなど間接的方法があった。これらの根底には貧しさがあり、親たちが生きるためのやむにやまれぬ選択であった。そして、そこには「7歳までは神の領域に属するもの」として「子どもを神に返す」という古来の日本人の精神があった。また、七五三に見られる通過儀礼は、子どもが無事に生まれ、無事に育つことの困難な時代にあって不安定な時期を乗り越えた節目の儀礼であった。
「『7歳までは神の領域』と言って、日本人は子供をかわいがっていた。ヨーロッパでは子供を鞭でうつ。ヨーロッパ人は惨酷」
というような意味のことを武田邦彦さんがおっしゃっていたが、残念ながらこれは日本の文化の一面しか見ない発言だといわざるをえないだろう。
5⃣「座敷ワラシ」と「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」は同種?
「座敷ワラシ」と「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」を同種のものとしていいかどうか、私が迷う理由はいくつかある。
①「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」は生まれて間もない赤子の妖怪だと考えられる。
いかし「座敷ワラシ」は3歳から15歳ぐらいの姿をしていると伝えられている。
⓶「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」は土間に現れる妖怪である。
(ノバタリコは土間から座敷にあがってくるといわれるが)
一方、座敷ワラシはその名前のとおり座敷に現れる妖怪で、現れる場所が違う。
座敷とは「座具(畳)を敷いた部屋」のことである。
③静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されている。
桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになった。その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためである。
この話から、現れる場所が土間と座敷では妖怪の格がちがうのではないかと思われる。
例えば祇園祭の長刀鉾に乗る生き稚児は、移動の際、剛力さんと呼ばれる男性が肩に乗せて移動させる。
祇園祭 長刀鉾 生き稚児と剛力さん
米原子供歌舞伎でも、子供の俳優さんは成人男性が抱きかかえて舞台から移動させる。
米原子供歌舞伎
これらの例は、子供の足が地面につかないように気遣っているように思える。
海上皇子のように土にふれ、ハンセン病などの病を患ってはいけないと考えられたので、子供の足が地面につかないようにしているのではないだろうか。
つまり、座敷は清らかな場所で、土間は穢れた場所であると考えられていたのではないかと思うのだ。
そういうわけで、座敷にあらわれる「座敷ワラシ」と土間にあらわれる「ノタバリコ、ウスツキコ、コメツキワラシ」を同種とみなしていいものか、迷っている。
これについては、宿題とさせていただくw
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