1⃣藤原秀郷の百足退治伝説
「俵藤太物語」にみえる百足退治伝説は、おおよそ次のようなあらすじである。
琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した[18][19]。
瀬田の唐橋にあった説明版より
私は瀬田の唐橋に行ったことがある。
そこには説明版があり、上のような絵が描かれていた。
瀬田の唐橋
しかし瀬田の唐橋から三上山を見ることはできなかった。天候のせいかもしれないが。
下は烏丸半島から見た三上山である。
烏丸半島より三上山を望む
2⃣猿丸大夫の百足退治
同様の伝説が栃木県の男体山にも伝わっている。
大谷川より男体山・女峰山を望む
昔、男体山の神と赤城山の神が領地争いをした。
男体山の神は白い大蛇に、赤城山の神は大ムカデに変身して闘った。
男体山の神は弓の名手・猿丸太夫に援助を頼んだ。
猿丸太夫は大ムカデの目を射抜いた。それで男体山の神が勝った。
瀬田の唐橋の話では俵藤太(藤原秀郷)が弓を射て大ムカデを退治したことになってるが、男体山の伝説では、大百足は猿丸太夫(小野猿丸)が百足退治をしたということになっている。
3⃣大百足退治伝説のルーツはどちらか
俵藤太(藤原秀郷)と猿丸大夫(小野猿丸)、オリジナルはどちらの話だろうか。
私は、猿丸大夫(小野猿丸)の話がオリジナルだと思う。
その理由。
かつて男体山があるあたりは、下野国といったが、下野国は俵藤太(藤原秀郷)の本拠地であったという。
そして瀬田の唐橋の東詰に雲住寺というお寺があるのだが、このお寺は1408年に城主・蒲生高秀が創建したと伝わる。
蒲生高秀は藤原秀郷の14代目の子孫だという。
その蒲生氏が、御先祖の俵藤太の伝説を近江の地にあてはめて創作したのが、俵藤太の百足退治伝説だと考えると
栃木と瀬田に同じような伝説が伝わっていることの筋が通ると思うのだが、いかがだろう。
雲住寺 百足供養堂
4⃣猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人(道鏡の弟)の総称?
猿丸大夫とは、志貴皇子・道鏡・弓削浄人(道鏡の弟)の総称ではないかと私は考えている。
ここではできるだけ簡潔にまとめておこうと思う。
①京都府宇治田原市には猿丸大夫を祀る猿丸神社があり、狛犬ならぬ狛猿が置かれていた。
猿丸神社の狛猿は能のルーツともいうべき「翁」の三番叟の姿に似ており、また能は明治まで猿楽といった。
猿丸大夫とは、能(猿楽)に関係のある人物ではないか。
奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
⓶能・翁のルーツは奈良豆比古神社の翁舞だと思われ、次のように伝わっている。
志貴皇子は天智天皇の第七皇子であったが、672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では大友皇子側についた。
壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害して果てた。
そのため乱後の志貴皇子は政治的に不遇であった。
その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養された。
春日王の二人の息子・浄人王と安貴王は熱心に春日王の看病をされた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
奈良豆比古神社 翁舞
③桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたというが、これは桓武天皇が浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。
浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。
弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
④地元ではハンセン病になったのは春日王ではなく志貴皇子と伝えられている。
志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになる。
2人は同一人物ではないか。
⑤春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。
桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。
さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
⑥道鏡は女帝・称徳天皇の寵愛を受けて権力を得たとされるが、称徳天皇が急死したことによって失脚し、下野国へ流罪となっている。
その下野国には猿丸大夫(小野猿丸)伝説がある。
⑦高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、説明板に
「元従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)は、位人臣を極めた兄弓削道鏡の失脚により、土佐の地に流され、ここ猿丸山に居住したといわれている。」と記されている。
⑧猿丸大夫の「大夫」は古には五位より上の高位の官人のことを称した。
弓削浄人は「従二位・大納言」で大夫といえる。
⑨猿丸大夫の正体については道鏡だとする説もある。(その理由についてはウィキペディアには記されていないが)
二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
小野猿丸とは下野国に流罪となった道鏡のことではないか?
➉小なぜ弓削猿丸ではなく、小野猿丸なんだ?といわれるかもしれない。
しかし小野姓というのは不思議である。
小野小町は小野氏ではなく、小野宮と呼ばれた惟喬親王。
霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とあるが
672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金で、中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面があって
鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物のように思える。
小野という言葉には、小野=オノ=オン=オニという意味が込められているのかもしれない、と思ったりもするがよくわからない。
⑪猿丸神社の近くの大宮神社には「田原天皇社舊跡」がある。田原天皇とは志貴皇子のことである。
説明板によれば、「施基親王(志貴皇子のこと)の薨去の地はこの田原と奈良春日との 二説がある。」とのこと。
宇治田原という地名は、田原天皇の田原からくるのではないか。
田原天皇社舊跡
⑫大宮神社の田原祭は平安時代、藤原藤太秀郷が平将門を滅ぼした恩賞として田原郷の領主となって以後、行われるようになったと伝わる。
藤原藤太秀郷とは、藤原秀郷(俵藤太)のことだろう。
彼は田原郷の領主だったのだ。
彼は俵藤太とも呼ばれているが、俵はもともとは田原天皇(志貴皇子)、宇治田原の「田原」だったのではないだろうか。
宇治田原は田原天皇(志貴皇子=猿丸大夫?)と藤原秀郷(俵藤太)ゆかりの地であり
下野は田原天皇(志貴皇子)の子と考えられる道鏡(猿丸大夫?)と、藤原秀郷ゆかりの地である。
そのような関連があって、藤原秀郷の子孫・蒲生氏が下野の猿丸伝説(百足退治)をベースにして、藤原秀郷(俵藤太)の百足退治伝説を創作した、と考えられるのではないだろうか。
5⃣志貴皇子=春日若宮?
奈良豆比古神社の翁舞では「とうとうたらりたらりろ」という謡いにあわせて翁が舞う。
そして奈良春日大社・若宮社の祭「春日若宮おん祭」で12月16日に若宮神社の前で奏される新楽乱声(しんがくらんじょう)の唱歌(しょうが/邦楽における楽譜のようなもの)は「『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』である。
私は翁の「とうとうたらりたらりろ」はこの唱歌であり、春日若宮様のテーマソングなのではないかと思う。
つまり、春日若宮とは翁・・・志貴皇子なのではないかと私は考えているのだ。
そして田原祭はこの春日若宮おん祭に似ているという。
たとえば「おん祭り」では「細男(せいのお)田原祭では「聲翁(せいのお)」が登場するほか、
田楽、日使など、田原祭は「おん祭」の影響をうけていると考えられているようだ。
田原祭の存在は、志貴皇子=春日若宮説をも裏付けてくれるような気がする。
6⃣百足は戦いの神
猿丸大夫や俵藤太が退治した百足とは何を表しているのだろうか。
武田信玄は毘沙門天を信仰しており、彼の精鋭部隊は百足衆と呼ばれていた。
百足は毘沙門天の使いとされていた。
また坑道のことをムカデ穴ともいい、鉱山と毘沙門天と百足には密接な関係があったものと思われる。
三上山や男体山は鉱山だったのか、とも考えて検索してみたが、わからなかった。
もしかすると三上山や男体山が百足に喩えられたのは、百足が毘沙門天の使いだからかもしれない。
武田信玄ら戦国武将が毘沙門天を信仰していたのは、毘沙門天が戦の神だからだ。
俵藤太は平将門を討伐しているが、その平将門との闘いに勝利することを毘沙門天に祈ったのだろうか。
そうすると俵藤太は戦いの神である毘沙門天を弓で射たという話になってしまう。
矛盾するようにも思えるが、アイヌの熊送りでは、神として育てた熊を殺す。
同様の信仰が本土にもあったのかもしれない。

朝護孫子寺
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