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トンデモもののけ辞典70 大嶽丸

歌川国芳画『東海道五十三対 土山』 左より鈴鹿山の鬼神、鈴鹿御前、坂上田村麻呂

歌川国芳画『東海道五十三対 土山』 左より鈴鹿山の鬼神、鈴鹿御前、坂上田村麻呂

1⃣大嶽丸

大嶽丸は室町時代中期~後期、室町物語『田村の草子』などに登場する妖怪である。

『田村の草子』あらすじ
藤原俊仁将軍の子・稲瀬五郎坂上俊宗(田村丸俊宗)が伊勢鈴鹿山の鬼神を退治、その鬼神は大嶽丸となる。
※『鈴鹿の草子』『鈴鹿物語』『田村三代記』などではそれぞれ名前が異なる。
桓武天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れ、鈴鹿峠を往来する民を襲い、都への貢物を略奪した。
帝は坂上田村丸に大嶽丸の討伐を命じ、田村丸は三万騎の軍を率いて鈴鹿山へと向かった。
大嶽丸は飛行し、峰の黒雲に紛れて姿を隠し、暴風雨・雷電を鳴らし、火の雨を降らせて田村丸軍に抵抗した。

鈴鹿山には鈴鹿御前という天女も住んでいた。
大嶽丸は鈴鹿御前を口説き落とそうと、童子や公家などに変身してな鈴鹿御前の館を訪れた。
しかし鈴鹿御前は神通力で正体を見破っており、大嶽丸に口説き落とされることはなかった。

ある夜、田村丸の夢の中に老人が現れて「大嶽丸を討伐するために鈴鹿御前の助力を得よ」と告げた。
田村丸は三万騎の軍をいったん都へ帰し、一人で鈴鹿山を登っていった。
すると十六歳ほどの美女。鈴鹿御前が現れ、誘われて館へ入り、彼女と契りを交わした。
美女は「私は鈴鹿山の鬼神を討伐する貴方を助けるために天下りました。私が謀をして大嶽丸を討ち取らせましょう」と告げた。

鈴鹿御前は「大嶽丸は三明の剣に守護されているうちは倒せない」と告げた。
夜、童子に変身した大嶽丸が鈴鹿御前の館にやってきた。
鈴鹿御前は大嶽丸にこういった。
「田村丸という将軍が私の命を狙っている。守り刀として貴方の三明の剣を預からせてほしい」
大嶽丸は三明の剣のうち、大通連と小通連を鈴鹿御前に手渡した。顕明連は天竺にあると告げた。

翌日の夜も大嶽丸は鈴鹿御前の館にやってきて、待ち伏せしていた田村丸と戦う。
大嶽丸は身丈十丈の鬼神となって日月の様に光る眼で田村丸を睨み、天地を響かせ、氷の如き剣や矛を三百ばかり投げつけた。
しかし田村丸の両脇に立つ千手観音と毘沙門天が剣や矛をすべて払い落とした。
大嶽丸が数千もの鬼に分身すると田村丸が神通の鏑矢を放ち、一の矢が千の矢に、千の矢が万の矢に分裂して数千もの鬼の顔をすべて射た。
そして田村丸が投げたソハヤノツルギに首を落とされた。

大嶽丸の首は都へと運ばれて帝が叡覧した。
田村丸は武功によりで伊賀国を賜り、鈴鹿御前との間には、娘の小りんが産まれた。
田村丸は近江国の高丸も退治した。

月日が経ち、魂魄となって天竺へと戻った大嶽丸は顕明連の力で再び生き返り、陸奥国霧山に住んで日本を乱し始めた。
田村丸は二百歳の翁から与えられた名馬に乗り陸奥へと向かった。
田村丸が大嶽丸の鬼が城に侵入したところ、蝦夷が嶋から戻ってきた大嶽丸が戻ってきた。
大嶽丸は三面鬼に命じて大石を雨のように降らせたが、田村丸に当たらず、田村丸は神通の鏑矢で三面鬼を討ち取った。
大嶽丸は田村丸に飛びかかったが、またしてもソハヤノツルギによって首を落とされた。
大嶽丸の首は天へと舞い上がって田村丸の兜に食らいついたが、田村丸は兜を重ねて被っていたので無事だった。
大嶽丸の首はそのまま死に、残りの鬼たちは晒し首となり、大嶽丸の首は宇治の宝蔵に納められた。



2⃣薬子の変と鈴鹿山

この物語の主人公・田村丸とは坂上田村麻呂をモデルとしたものである。

坂上田村麻呂は797年 征夷大将軍となり、蝦夷征伐をおこなったことで知られる。
802年には 造陸奥国胆沢城使となり、蝦夷の阿弖利為と母礼らを降伏させている。
その後、810年には 「薬子の変」を鎮圧している。

この薬子の変について、もう少し詳しく見てみよう。

810年10月7日、平城上皇、寵愛する藤原薬子とその兄・仲成の勧めをうけて平城京遷都の詔を出した。
嵯峨天皇、坂上田村麻呂らを造宮使に任命する。
810年10月11日、嵯峨天皇、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁後、佐渡権守に左遷する。藤原薬子の官位は剥奪した。
造宮使の坂上田村麻呂を大納言に昇任させる。
810年10月12日、平城上皇、薬子とともに東国に向けて平城京を発つ。
坂上田村麻呂、文室綿麻呂とともに、宇治橋・山埼橋と淀市の津に兵を配置。
夜、藤原仲成が紀清成・住吉豊継によって右兵衛府で射殺された。
10月13日、上皇一行、大和国添上郡越田村(奈良県奈良市北之庄町・東九条町付近)で坂上田村麻呂の軍に行く手を遮られる。
上皇は平城京に戻って出家し、藤原薬子は毒を仰いで自殺した。

一般的には上のように考えられているが、坂上田村麻呂が鈴鹿山で藤原仲成軍を討伐したとする記事も存在している。

『近江州甲賀郡頓宮之牧土山郷正一位高座田村神社・鈴鹿神社縁本記(1541年)』
「薬子の変」で、嵯峨天皇の命をうけた坂上田村麻呂はで鈴鹿山に向かい藤原仲成を滅ぼしたが、
坂上田村麻呂が死亡した弘仁2年の秋から疫病が流行った。
卜定の結果、田村麻呂が鈴鹿山で退治した「賊徒の執心」の祟り、鈴鹿山から吹き下ろした風が原因とされた。
鈴鹿山から吹き下ろす風を防ぎ止めるため、鈴鹿山の西にある二子山の峰に田村麻呂を祀る神社を建立した。
812年3月4日に遷宮を行い厄除神事も行ったところ疫病は治まった。
822年5月2日、神社は二子山から坂上田村麻呂が陣取った鈴鹿社に遷宮した。

『賀茂皇太神宮記』においても、田村麻呂が平城上皇の東国行きを阻止し、鈴鹿山で上皇側の藤原仲成の軍を討滅したと記している。

大嶽丸が鈴鹿山に住んでいるという話は、薬子の変において坂上田村麻呂の軍が鈴鹿山で藤原仲成軍を討ったとする記録をベースとしたものだったのだ。



3⃣大嶽丸は鈴鹿山を神格化した妖怪?

年平均気温は16度程度ですが、冬は養老山地と伊吹山の間を抜けてくる強風(通称「鈴鹿おろし」といいます。)のために寒くなります。山沿いにあたる市の北西部では比較的降雪量も多くなっており、まれに海岸部まで積雪が見られます。年に数回は台風が接近する地域でもあります。


大嶽丸は飛行し、峰の黒雲に紛れて姿を隠し、暴風雨・雷電を鳴らし、火の雨を降らせるのだった。

これは鈴鹿山の気候そのものではないだろうか。大嶽丸とは鈴鹿山を神格化した妖怪ではないか。

また、祇園祭に鈴鹿山という山があり鈴鹿権現(瀬織津姫命)をご神体としている。

鈴鹿山

祇園祭 鈴鹿山

福島県の宇奈己呂和気神社(うなころわけじんじゃ)の旧記にはこうあります。

光仁天皇の時代、東北では蝦夷がはびこり朝廷を困らせていました。朝廷は天応元年(781年)、陸奥出羽按察使として藤原小黒麿を向かわせましたが効果がなく、翌年、延暦元年(782年)、桓武天皇は、大伴家持を陸奥出羽按察使・鎮守府将軍に任命して向かわせました。

蝦夷の勢力は強健だったので、家持は高旗山に登り、神々に祈願すると、神霊(瀬織津姫)が現れ、安積の山々を指し示しました。

霊験を得た家持は軍を進め、蝦夷平定を成し遂げました。家持は、神恩に感謝し、高旗山の山頂に社殿・宇奈己呂和気神社奥宮を建立しました。その後、社殿は荒廃し、延暦3年(784年)、現在の鎮座地・山崎に遷座され、相殿神として八幡神が合祀されました。


坂上田村麻呂は蝦夷征伐も行っており、鈴鹿山の神・瀬織津姫が蝦夷征伐にご利益のある神でもあるというのは興味深い。

三重県鈴鹿市の片山神社は、鈴鹿峠の三子山を神奈備とし、瀬織津姫、伊吹戸主、速佐須良姫の三柱が祀られていました。火災が繰り返されるので、永仁5年(1297年)、現在の地に遷座され、倭姫命を祀る鈴鹿社と4柱が合祀されました。

この片山神社は、鈴鹿御前を祀る鈴鹿権現として有名です。


どうも鈴鹿権現(瀬織津姫)は坂上田村麻呂や鈴鹿御前とイメージが重ねられているようである。

そして、この鈴鹿権現(瀬織津姫)をご神体とする祇園祭・鈴鹿山は雷除けと安産にご利益があるとされている。

なぜ雷除けのご利益があるとされているのか。
それは鈴鹿権現(瀬織津姫)が鈴鹿山の暴風雨・雷から守ってくださる神だからだろう。

鈴鹿山の暴風雨・雷とは大嶽丸のことでもある。
鈴鹿権現(瀬織津姫)とは大嶽丸退治をした坂上田村麻呂に力をかした鈴鹿御前と同一神だといってもよさそうである。
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