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土蜘蛛の謎⑯ 東国に飛び立った将門のドクロ と 東国へ旅立った空也


土蜘蛛の謎⑮ 空也はなぜ南無阿弥陀仏と唱えながら十一面観音を彫ったのか? より続きます~



空也堂 空也踊躍念2

空也堂 空也歓喜踊躍念仏


①空也が愛した鹿

空也堂の創建説話として次のような物語が伝えられている。

空也は毎夜鹿の鳴き声を聴くのを楽しみにしていたが、ある夜からばったりと鹿の声がきこえなくなった。
鹿は平定盛という猟師に殺されたのだった。
空也に諌められた定盛は殺生を悔い、空也の弟子となって空也堂を創建し、空也を空也堂の開基とした。
空也の没後、定盛は空也堂二世となった。

大仏殿 鹿

東大寺 鹿

②トガノの鹿

この創建説話は以前の記事・土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音
でご紹介した「トガノの鹿」の物語にそっくりである。

仁徳天皇が皇后と涼をとっているとトガノの方から鹿の鳴き声が聞こえてきた。
天皇はその鹿の鳴き声をしみじみと聞いていたが、あるとき急に鳴き声がしなくなった。
翌日、佐伯部が天皇に鹿を献上したが、その鹿は天皇が夜な夜な鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿だった。
気分を悪くした天皇は佐伯部を安芸の渟田に左遷した。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。


空也堂の創建説話はこのトガノの鹿の物語をベースに創作されたものだろう。

③空也が愛していた鹿とは平将門だった?

かつて謀反の罪で殺された人には塩をふることがあり、この物語に登場する鹿とは謀反人の比喩だとする説がある。

そして空也と同時代、平定盛と一字違いの平貞盛という武将がいたが、空也堂には平貞盛焼き捨ての兜なるものが展示されていた。
ということは、平定盛と平貞盛は同一人物なのだろう。

空也堂 平貞盛 焼捨の兜
空也堂 平貞盛 焼捨の兜

平貞盛は藤原秀郷とともに平将門の乱平定のため東国へ向かっている。
将門はこの戦いの中で流れ矢にあたって死亡した。

空也は平将門を慰霊するために念仏道場を建てるなど、将門を慰霊することに情熱を注いだ人物だった。
空也堂の創建説話に登場する殺された鹿とは平将門のことだと考えられる。

④空也忌は空也が東国へ旅立った日

空也堂 歓喜踊躍念仏

空也堂 空也歓喜踊躍念仏

本来、空也忌は旧暦11月13日である。
空也堂では11月の第2日曜日に空也忌を行っている。
おそらく、ご住職の仕事の都合などがあって日曜日に空也忌を行っているのだろう。

といっても空也の命日が11月13日なのではない。
空也の命日は旧暦972年10月20日である。
旧暦11月13日に空也は東国へ旅立ち、この日を開山忌とするようにと遺言したのだという。

また、本当にこの日に空也が東国に旅立ったのかどうか疑わしい。
13日は虚空蔵菩薩の縁日である。
この虚空蔵菩薩の縁日を空也出立の日とした可能性が大である。

⑤空也忌

空也は誰でも「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽浄土へ行けるととき、踊りながら南無阿弥陀仏と唱える踊り念仏を始めた。
これにちなみ、空也忌では空也歓喜踊躍(くうやかんぎゆやく)念仏が行われた。
また空也は京都の夏の風物詩・六斎念仏の祖ともされており、千本六斎会による六斎念仏の奉納もあった。

空也堂 千本六斎 六斎念仏2

空也堂 六斎念仏

空也堂 千本六斎 六斎念仏

空也堂 六斎念仏

六斎念仏はひたすら念仏を唱え続ける念仏系と獅子・土蜘蛛などの演目を行う芸能系の二系統がある。
六斎を行うためには許可を得る必要があり、念仏系は干菜寺、芸能系はここ空也堂より許可を得ていた。

そののち、大福茶の授与があった。
空也が創建したと伝わる六波羅蜜寺では正月に皇服茶といって梅干しと結び昆布を入れたお茶を授与している。
951年、京の町に疫病が流行りった際、空也はに自ら十一面観音を刻み、念仏を唱えながら車に乗せてひきまわし、病人には皇服茶を飲ませたという。
大福茶も皇服茶もお「おうぷくちゃ」と読み関係の深いものだと思われる。
ただし、大福茶は抹茶で梅干しや結び昆布は入っていない。
小さな茶椀でひとりひとりに授与される大福茶のほかに、直径30cmはありそうな大きな茶椀にお茶が点てられ、集まった人々が回し飲みしていた。

⑥空也像

全ての行事が終わり帰りかけたところ、お寺の方が「御焼香、まだの方はどうぞ」と勧めてくださったので、厨子の前に進み出て焼香をした。
そして手を合わせながら厨子の中を見ると、厨子の中には口から6体のみほとけがほとばしりでる僧の像が安置されていた。

空也上人!!

作風は全く異なるが、六波羅蜜寺で見た空也像とスタイルが同じである。

File:Kuya Portrait.JPG

六波羅蜜寺 空也像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Kuya_Portrait.JPG よりお借りしました。
作者 ASUKAEN [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

口からほとばしりでる6体のみほとけは「南無阿弥陀仏」の六文字を表すと言われる。

空也忌なのだから、空也を拝んでお焼香をするのは当たり前のことである。
しかし、空也堂は空也が愛していた鹿(平将門)を殺したことを悔いた平貞森が建てた寺だといわれているので
私は空也堂は平将門を鎮魂するための寺であり、厨子の中には十一面観音、阿弥陀仏などが平将門の怨霊封じ込めの像として安置されているものとばかり思っていたのだ。

⑦空也とは平将門の首なのか?

神田明神

膏薬図子 神田神宮(京に持ち帰られた平将門の首が晒された場所に立つ)

六波羅蜜寺の十一面観音は951年に疫病が流行った際に空也が刻んだものと伝わっている。
その11年前の940年、平将門は平貞盛らに討ちとられ、その首は鴨川で晒された。
六波羅蜜寺は平将門の首が晒された場所から近く、951年の疫病流行時、鴨川は死体であふれかえったという。
951年の参事は平将門の怨霊の仕業であると考えられたのではないか。
そこで空也は将門の怨霊を封じ込めた十一面観音を刻んだのではないかと私は考えた。

六波羅蜜寺 追儺式3

六波羅蜜寺 追儺式に登場した土蜘蛛


そして空也堂は平貞盛が鹿=将門の殺生を悔いて創建したものだという。
ということは空也堂のご本尊も平貞盛の霊を封じ込めた仏像だと考えられる。

空也像が平将門の霊を封じ込めた仏像だというのか?

のちに調べたところ、この空也像は空也が自ら刻んだものと伝わっていることがわかった。
しかしこれは事実とは思えない。
六波羅蜜寺にも空也が刻んだと伝わる秘仏の十一面観音がある。
本で写真を見たことがあるが、空也堂の空也像とは全く作風が違うのだ。

空也は東国へ旅立つ際に、この日を開山忌にせよと遺言したという。
そして平将門の首は鴨川のほとりで晒されたのち、故郷の東国へ向かって飛び去ったという伝説があり
東京都千代田区には将門の首塚がある。

将門の首塚

将門の首塚

もしかして空也とは将門の首のことなのか?

また空也忌は13日だが、④で述べたように、この日は虚空蔵菩薩の縁日である。
虚空蔵菩薩は金星を神格化したみほとけである。
記紀神話では金星の神は天津甕星、別名をカカセオといい、天照大神の芦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神とされている。
平将門はこの天津甕星にイメージがぴったりである。
空也が将門の首のことだとすると、なぜ空也忌が虚空蔵菩薩の縁日に行われているのかがわかる。
将門は虚空蔵菩薩のイメージに重ねられたのか?

空也堂・・・京都市中京区蛸薬師通油小路西入る亀屋町
(普段は拝観できないと思います。)
土蜘蛛の謎⑰ 空也搭はなぜ首桶の形をしているのか? へつづく~
トップページはこちら→土蜘蛛の謎① 亀石伝説(追記あり)


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03-31(Fri)10:47|土蜘蛛の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

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