土蜘蛛の謎⑮ 空也はなぜ南無阿弥陀仏と唱えながら十一面観音を彫ったのか?
土蜘蛛の謎⑭ 六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛 よりつづきます~

①染殿地蔵
四条通寺町東入ル御旅宮本町に甘栗和菓子老舗・林万昌堂四条本店がある。
その店の奥にあるガラス戸を開けて一歩踏みこめば染殿院の境内である。
小さなお堂の傍らには「安産御腹帯 授與」と記されている。
染殿院のご本尊は2m余りの木彫裸形地蔵菩薩で、55代文徳天皇の皇后・藤原明子(染殿皇后)がこの地蔵菩尊に祈願して惟仁親王(のちの清和天皇)を授かったという伝説があり、「染殿地蔵尊」と呼ばれている。
藤原明子が地蔵菩薩に祈願して清和天皇を授かったという伝説は、染殿院のほか清和院・十輪寺、奈良の帯解寺にも伝わっている。

清和院

十輪寺
②染殿地蔵に惟喬親王のイメージ
文徳天皇には惟仁親王のほか、紀静子との間に惟喬親王という皇子があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談したが、源信は藤原明子の父・藤原良房に憚って文徳天皇を諌めたという。
立太子争いに敗れた惟喬親王は御霊として惟喬神社や玄武神社・大皇器地祖神社などに祀られている。

御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていた。
惟喬親王が御霊として祀られていることは、惟喬親王が怨霊として恐れられていたとことを示していると思う。
「末代までも祟ってやる」などと言うが、怨霊は自らを陥れた人物だけでなく、その子孫にも祟ると考えられた。
藤原良房や藤原明子の子孫は惟喬親王の怨霊の祟りを怖れたことだろう。
陰陽道では怨霊は祀り上げることで人々にご利益を与えて下さる守護神に転じると考えた。
藤原良房や藤原明子の子孫は地蔵菩薩に惟喬親王のイメージを重ね、自分たちの守護神に転じさせようと考えたのではないかと思う。
清和院の地蔵菩薩には、惟喬親王のイメージが重ねられているのではないだろうか。
「地蔵菩薩が清和天皇を授けて下さった」というのは正しくは「地蔵菩薩=惟喬親王が身を引いてくださったおかげで惟仁親王が即位して清和天皇となった」という意味ではないかと思ったりする。
③法然より200年も早く浄土教の教えを説いた空也
本堂の向かって右手はビルとビルに挟まれた参道となっており、歩いていくと新京極通商店街に出る。
ふりかえってみると、ビルに挟まれた狭い空間に染殿院の出入り口が設けられており、「時宗開祖 一遍上人 念仏賦算遺跡」と記された石碑が立てられている。
染殿院は鎌倉時代には四条京極の釈迦堂と呼ばれ、時宗の開祖・一遍上人がここで念仏賦算、念仏踊りをしている。
一遍は各地を遊行して六字名号(南無阿弥陀仏)を記した念仏札を配り、弟子らを引き連れて各地で踊念仏を行った。
平安時代の僧・空也が「誰でも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土へ行くことができる」と説き、踊りながら南無阿弥陀仏と唱える踊念仏を始めた。
一遍は尊敬する空也にならって踊り念仏を始めたのだという。
一遍聖絵を見ると、京都にやってきた一遍と弟子たちは四条釈迦堂・六波羅蜜寺・平安京の東市(現在の西本願寺付近)を訪れている。
六波羅蜜寺は空也を開基とする寺、東市は空也が市屋(いちや)道場を開いた場所であった。
一遍はその空也ゆかりの地で踊念仏を行ったのだ。

一遍聖絵 四条釈迦堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Ippen_Biography_3.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
また一遍聖絵を見ると四条釈迦堂は鴨川のほとりに建てられている。
現在の四条釈迦堂跡、染殿院は鴨川から少し離れたところにあるが、川の流れが変わったのだという。

一遍聖絵 四条釈迦堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Ippen_Biography_4.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
平安時代、平将門の首は鴨川のほとりに晒されたというが、四条釈迦堂があったのはちょうど将門の首が晒されたあたりである。
一遍が四条釈迦堂で念仏札を配ったのは、そこが将門の首が晒された場所であったからではないだろうか。

膏薬図子 神田神宮
なぜかあまり語られることがないが、空也は膏薬図子に平将門を慰霊するための念仏道場を設けるなど、地元住民に祟りつづける平将門の霊を熱心に慰霊した人物だったとされる。
一遍は平将門の霊を慰霊せねばならないと強い使命感を感じており、そのため将門を慰霊した空也を尊敬していたのかもしれない。

将門の首塚
そして東京の将門の首塚は時宗の進教上人によって慰霊されている。
時宗は平将門の慰霊に熱心な宗教だったようである。
●空也はなぜ南無阿弥陀仏と唱えながら十一面観音を刻んだのか。
しかし、疑問がある。
一遍は法然の孫弟子・聖達を師として浄土宗を学んでいる。
法然は「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行くことができる」と説いて1175年に浄土宗を開いた。
浄土宗の本尊はもちろん阿弥陀仏である。
951年、京の町に疫病が流行り鴨川は死体であふれかえるほどの惨状となった。
このとき空也はに自ら十一面観音を刻み、念仏を唱えながら車に乗せてひきまわしたという。
念仏とは南無阿弥陀仏と唱えることである。
そして空也は「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行ける」と説いて踊りながら念仏を唱える踊念仏を始めたという。
すると法然は空也の影響を受けたのかとも思われるが、法然が空也の影響を受けたという話は聞かない。
法然の孫弟子・聖達に浄土宗を学んで時宗を開いた一遍上人は空也を尊敬していたといわれているが。

六波羅蜜寺 空也像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Kuya_Portrait.JPG よりお借りしました。
作者 ASUKAEN [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
平安時代には阿弥陀仏信仰(浄土信仰)が流行ったが、それは一部の貴族のものであったとされる。
阿弥陀仏信仰が一般庶民のものとなったのは、一般に鎌倉時代の法然以降のこととされる。
空也が法然が浄土宗を開くより200年以上も前に、一般民衆に阿弥陀信仰を説いたとする無理があるのではないだろうか。
もちろん、空也は一般民衆に阿弥陀仏信仰を説いたが、時期尚早であった、と考えられなくもない。
しかし、それではなぜ空也は「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行ける」と説きながら、阿弥陀仏を刻まずに十一面観音を刻んだのだろうか。

六波羅蜜寺 秘仏の十一面観音に似せたみほとけが堂前に置かれている。
南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に帰依します、という意味だ。
南無阿弥陀仏と唱えるのならば、阿弥陀仏を刻むべきではないだろうか。
私は空也が南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行けると説いたというのは、史実ではないと思う。
もしも空也が本当にそう唱えたのであれば、十一面観音ではなく阿弥陀仏を刻んだはずだからである。
空也が南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行けると説いたというのは、のちの時代に創作された物語なのではないだろうか。
そうであるとすれば、なぜそのような物語が創作されたのだろうか。
一遍は各地を遊行して六字名号(南無阿弥陀仏)を記した念仏札を配り、弟子らを引き連れて各地で踊念仏を行った。
平安時代の僧・空也が「誰でも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土へ行くことができる」と説き、踊りながら南無阿弥陀仏と唱える踊念仏を始めた。
一遍は尊敬する空也にならって踊り念仏を始めたのだという。
一遍聖絵を見ると、京都にやってきた一遍と弟子たちは四条釈迦堂・六波羅蜜寺・平安京の東市(現在の西本願寺付近)を訪れている。
六波羅蜜寺は空也を開基とする寺、東市は空也が市屋(いちや)道場を開いた場所であった。
一遍はその空也ゆかりの地で踊念仏を行ったのだ。

一遍聖絵 四条釈迦堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Ippen_Biography_3.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
また一遍聖絵を見ると四条釈迦堂は鴨川のほとりに建てられている。
現在の四条釈迦堂跡、染殿院は鴨川から少し離れたところにあるが、川の流れが変わったのだという。

一遍聖絵 四条釈迦堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Ippen_Biography_4.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
平安時代、平将門の首は鴨川のほとりに晒されたというが、四条釈迦堂があったのはちょうど将門の首が晒されたあたりである。
一遍が四条釈迦堂で念仏札を配ったのは、そこが将門の首が晒された場所であったからではないだろうか。

膏薬図子 神田神宮
なぜかあまり語られることがないが、空也は膏薬図子に平将門を慰霊するための念仏道場を設けるなど、地元住民に祟りつづける平将門の霊を熱心に慰霊した人物だったとされる。
一遍は平将門の霊を慰霊せねばならないと強い使命感を感じており、そのため将門を慰霊した空也を尊敬していたのかもしれない。

将門の首塚
そして東京の将門の首塚は時宗の進教上人によって慰霊されている。
時宗は平将門の慰霊に熱心な宗教だったようである。
●空也はなぜ南無阿弥陀仏と唱えながら十一面観音を刻んだのか。
しかし、疑問がある。
一遍は法然の孫弟子・聖達を師として浄土宗を学んでいる。
法然は「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行くことができる」と説いて1175年に浄土宗を開いた。
浄土宗の本尊はもちろん阿弥陀仏である。
951年、京の町に疫病が流行り鴨川は死体であふれかえるほどの惨状となった。
このとき空也はに自ら十一面観音を刻み、念仏を唱えながら車に乗せてひきまわしたという。
念仏とは南無阿弥陀仏と唱えることである。
そして空也は「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行ける」と説いて踊りながら念仏を唱える踊念仏を始めたという。
すると法然は空也の影響を受けたのかとも思われるが、法然が空也の影響を受けたという話は聞かない。
法然の孫弟子・聖達に浄土宗を学んで時宗を開いた一遍上人は空也を尊敬していたといわれているが。
六波羅蜜寺 空也像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Kuya_Portrait.JPG よりお借りしました。
作者 ASUKAEN [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
平安時代には阿弥陀仏信仰(浄土信仰)が流行ったが、それは一部の貴族のものであったとされる。
阿弥陀仏信仰が一般庶民のものとなったのは、一般に鎌倉時代の法然以降のこととされる。
空也が法然が浄土宗を開くより200年以上も前に、一般民衆に阿弥陀信仰を説いたとする無理があるのではないだろうか。
もちろん、空也は一般民衆に阿弥陀仏信仰を説いたが、時期尚早であった、と考えられなくもない。
しかし、それではなぜ空也は「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行ける」と説きながら、阿弥陀仏を刻まずに十一面観音を刻んだのだろうか。

六波羅蜜寺 秘仏の十一面観音に似せたみほとけが堂前に置かれている。
南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に帰依します、という意味だ。
南無阿弥陀仏と唱えるのならば、阿弥陀仏を刻むべきではないだろうか。
私は空也が南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行けると説いたというのは、史実ではないと思う。
もしも空也が本当にそう唱えたのであれば、十一面観音ではなく阿弥陀仏を刻んだはずだからである。
空也が南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行けると説いたというのは、のちの時代に創作された物語なのではないだろうか。
そうであるとすれば、なぜそのような物語が創作されたのだろうか。
染殿院・・・ 京都市中京区新京極通四条上ル中之町562
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