井原西鶴『西鶴諸国ばなし』より「身を捨て油壷」
①姥ヶ火
『諸国里人談』によれば、雨の夜、河内の枚岡(現・大阪府東大阪市)に、大きさ約一尺(約30センチメートル[5])の火の玉として現れたとされる。かつてある老女が平岡神社から灯油を盗み、その祟りで怪火となったのだという[2]。
河内に住むある者が夜道を歩いていたところ、どこからともなく飛んできた姥ヶ火が顔に当たったので、よく見たところ、鶏のような鳥の形をしていた。やがて姥ヶ火が飛び去ると、その姿は鳥の形から元の火の玉に戻っていたという[2]。このことから妖怪漫画家・水木しげるは、この姥ヶ火の正体は鳥だった可能性を示唆している[7]。
この老女が姥ヶ火となった話は、『西鶴諸国ばなし』でも「身を捨て油壷」として記述されている。それによれば、姥ヶ火は一里(約4キロメートル[8])をあっという間に飛び去ったといい、姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に死んでしまったという。ただし「油さし」と言うと、姥ヶ火は消えてしまうという[3][6]。
京都府にも、保津川に姥ヶ火が現れたという伝承がある[1]。『古今百物語評判』によれば、かつて亀山(現・京都府亀岡市)近くに住む老女が、子供を人に斡旋するといって親から金を受け取り、その子供を保津川に流していた。やがて天罰が下ったか、老女は洪水に遭って溺死した。それ以来、保津川には怪火が現れるようになり、人はこれを姥ヶ火と呼んだという[4]。
『画図百鬼夜行』にも「姥が火」と題し、怪火の中に老女の顔が浮かび上がった姿が描かれているが、「河内国にありといふ」と解説が添えられていることから、河内国の伝承を描いたものとされる[6]。
枚岡で神社から油を盗んだ老女は、その罪を恥じて、池に身を投げたという伝説もあり、大阪府東大阪市出雲井町の枚岡神社には、この伝説にちなむ池「姥ヶ池(うばがいけ)」がある[9]。これは、老女の悲嘆を後世に残すべく、大阪のボランティア団体が中心となり、土砂に埋まって失われた池を整備して、復元させたものである[10][11]。
⓶注連縄掛神事(お笑い神事)
姥ヶ火が現れたとされる枚岡神社では、12月23日に注連縄掛神事が行われる。
白装束の氏子さんたちが藁で新しい注連縄を作り、古い注連縄を外して新しい注連縄につけかえるのだ。
新しい注連縄につけかえたあと、神職さん、巫女さん、氏子さん、一般の参拝者の方々も注連縄の前に並び、一斉に「わっはっはー」と笑う。
注連縄掛神事は別名を「お笑い神事」というのは、これにちなむ。
次のような神話がある。
天照大神が天岩戸にこもったとき、アメノウズメがストリップダンスをし、それを見ていた神々が笑った。
天照大神はその笑い声を聞いて「何を笑っているんだろう」と思い、少し天岩戸をあけたところを引っ張り出され、再び世の中に太陽の光がさすようになった。
「お笑い神事」はこれを表したものといわれている。
上の神話が何を表しているのかについて、二つの説がある。
①日食をあらわしているという説。
②冬至になって勢いが衰えた太陽をあらわしているという説。
「お笑い神事」はもともとは冬至の日におこなっていたそうなので、天照大神が天岩戸にこもったという神話は、⓶の「冬至になって勢いが衰えた太陽をあらわしている」ではないかと思える。
③池の中に浮かぶ神社
枚岡神社のご本殿の玉垣から中をのぞいてみると、そこは池になっており、鯉が泳いでいた。
そして池の向こう側に4つの本殿が並んでいる。
つまり、拝殿があり、池を挟んで本殿が並ぶという配置になっているのだ。
本殿前に池があるというのは珍しくないだろうか。
少なくとも、私は本殿前に池がある神社はここ枚岡神社しか知らない。
枚岡神社 照沢池
本殿前に池がある神社は見たことがないが、弁財天を祀る摂社などが、水辺や池の中にある島に祀られているのはよくみかける。
枚岡神社の御祭神は天児屋根命・比売御神・経津主命・武甕槌命で、一般には比売御神は女神、比売御神以外は男神だと考えられている。
そうではあるが、枚岡神社の神は女神のイメージが強い神であるような印象をうける。
④姥の正体は年をとった天照大神?
姥ヶ火という名前なのだから、この妖怪(=神)は女神だ。
そして、鶏のような形をしているというのだから、この妖怪(女神)の正体は天照大神ではないかと思う。
というのは、天照大神の神使は鶏だからだ。
2⃣でのべた枚岡神社のお笑い神事も、天照大神が天岩戸に籠ったという神話を思わせるものだった。
姥ヶ池に身投げした姥の正体は年をとった天照大神なのではないだろうか。
お笑い神事がかつては冬至に行われていたということを思い出してほしい。
冬至とは太陽の南中高度が最も低くなる日のことで、その日を境に太陽は再び南中高度をあげていく。
つまり、冬至とは古い太陽が死んで、新しい太陽が生まれる日だともいえる。
姥が火になった老女は、冬至の古い太陽(年とった天照大神)を比喩したものだといえるかもしれない。
⑤日の神、語呂合わせで火の神に転じる?
こんな話がある。
晩年、小野小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
(妙性寺縁起)
五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる
このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけである。
小野小町は日の神(天照大神)であったが、河の神(水の神)に転じた物語であるとも考えられる。
姥ヶ火伝説の老女のほうは、もともと日の神(天照大神)だったが、語呂合わせで火の神=姥が火に転じたという物語のように思える。
⑥姥ヶ池は石油が湧き出る池だった?
『西鶴諸国ばなし』には「身を捨て油壷」と記されている。
「身を捨て油壷」とは「姥が身を捨てて油壷になったという意味だろうか。
油壺とは油を入れる壺のことかとおもったが、どうも油が湧き出るくぼみのことも油壷というようである。
上記ブログ写真2枚目に「油壷跡」の写真がある。
姥が池とはもしかしたらこのような石油が湧き出る油壷だったのだろうか。
姥ヶ池
日本でも新潟県などかつて石油が採掘されていた場所はある。
しかし枚岡神社近辺で石油が採掘されていたという話は聞かないが、どうだろう?
枚岡神社のhpにも
「ご本殿周辺また若宮社周辺には神の森から絶えず命の水が湧き出ています。」
とあり、姥ヶ池はご本殿からそう離れていないところから、油田ではなく、水がたまった池だった様にも思えるが。
⑦「油さし」というと、姥が火が消えるのはなぜ?
姥ヶ火は一里(約4キロメートル)をあっという間に飛び去ったといい、姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に死んでしまったという。ただし「油さし」と言うと、姥ヶ火は消えてしまうという。
なぜ「油さし」というと姥ヶ火は消えるのだろうか。
天ぷら油は360度以上になると発火するそうである。
火を消す方法のひとつに油をたして温度をさげるというのを聞いたことがある。
それで「油さし」というと姥が火は消えるなどと言う話が作られたのではないだろうか。
ただし、油をいれて温度を下げる方法は危険な場合もあるようなので、下記のような方法を試したほうがいいかもしれない。
※天ぷら油が発火したときの対処法
・鍋の全面を覆うふたをして、空気を遮断しましょう。油温が十分に下がるまで時間をかけましょう。
・炎が大きくなってしまったら、消火器を使用し、速やかに消火しましょう。
・濡れたシーツやバスタオル等で覆い、空気を遮断します。(引火しないように注意してください)。
⑧油壺は血で染まった池?
油壺という地名もある。
神奈川県三浦半島に存在する湾のことを油壺湾といい、その付近(三浦市三崎町小網代の一部)の地名も油壺というようだ。
この地を支配していた三浦氏は、北条早雲の軍と戦ったが、1516年三浦義同(道寸)らは討死にし、残る者は油壺湾へ身を投げたという。
その際、湾一面が血で染まり、まるで油を流したようであったところから「油壺」と呼ばれるようになったといわれる。
『西鶴諸国ばなし』に「身を捨て油壷」とあるのは「姥が身を捨てて血でそまって油のようにみえた」ところからのネーミングだろうか?
9⃣姥ヶ火はリンが燃えてできた人魂?
あるいは姥ヶ火は人魂の一種と考えることができるかもしれない。
人魂の正体について、次のようにいわれることがある。
土葬が主流だった時代、異体から抜け出したリンが雨水と反応して青白く光ったのではないか、と。
しかし、人や動物の骨に含まれるリンは発光しないそうなので、人魂ではなさそうに思える。
➉長木を作った離宮八幡宮の神官は惟喬親王?
姥が火の伝説に
枚岡神社の御神燈の油が盗まれるという事件が相次ぎ、生活に困った老婆が油を盗んで売っていたことが発覚した。
とあるのに注意してほしい。
平安時代に離宮八幡宮の神官が長木を作ったという話がある。
長木の図
この長木の「棒に綱を巻き付ける構造」は、惟喬親王が発明したといわれるろくろに似ている。
ろくろ
離宮八幡宮は石清水八幡宮の元社である。
もともと離宮八幡宮の地に石清水八幡宮があったのだが、石清水八幡宮は淀川の対岸にある男山にうつり
この社は離宮八幡宮と神社名が改められたのだ。
私は搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないかと考えている。
惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したと伝えられるが、これと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのではないか?
清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となった。
そして858年、わずか8歳で即位した。政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていた。
石清水八幡宮の創建は860年、清和天皇の勅命によってとされるが、このとき清和天皇は10歳。
石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるものだと考えるのが妥当。
石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王(844-897)は異母兄弟である。
どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子である。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかった。
しかし、時の権力者は藤原良房。
源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めた。
こうして清和天皇が皇太子についた。
惟喬親王と清和天皇の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるのだ。
⑫八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神
八幡宮の総本社は宇佐八幡宮である。
奈良時代、この宇佐八幡宮は「道鏡を天皇とするべし」「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下している。
また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし/天皇の使い)が派遣される習慣があった。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのだと思う。
そして八幡宮の主祭神は応神天皇だが、この応神天皇が伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と名前を交換したという話が古事記にある。
応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、
伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思える。
これは政権交代を意味する物語ではないだろうか。
つまり、八幡神=応神天皇は自分の身をひくことによって、他者の皇位継承をもたらす神だといえ、
惟喬親王のイメージと重なるのである。
⑬離宮八幡宮の搾油機を作った神官(陽)と、枚岡神社の油を盗んだ姥(陰)は同じ神?
離宮八幡宮の神官は油を搾る道具をつくり、枚岡神社ではご神燈を盗んだ老女が姥ヶ火という妖怪になった。
そして枚岡神社は藤原氏の氏神だが、同じく藤原氏の氏神である大原野神社の狛鹿の雄島は巻物をくわえ、雌鹿はどんぐりの帽子をかぶっていた。
大原野神社 雄鹿
大原野神社 雌鹿
上の動画で、こんなことを言っている。
1:10あたり 惟喬親王はあるものを見てお椀の形を思いついた。そのあるものとは・・・・どんぐりの帽子。
3:55あたり 手挽きろくろも惟喬親王があるものを見て考案した。そのあるものとは・・・・巻物。
また大原野神社には文徳天皇(惟喬親王の父)が作った鯉沢池や、清和天皇(惟喬親王の異母弟)が産湯につかった瀬和井などもある。
私は大原野神社の御祭神には惟喬親王のイメージが重ねられていると考えた。
すると同じ藤原氏の氏神である枚岡神社の神にも惟喬親王のイメージが重ねられているのではないか?
そして油を盗んだ姥とは年老いた惟喬親王ではないか?
⑭小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王だった?
惟喬親王は男である。しかし、私は小野小町の正体とは男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王の事ではないかと考えている。
a 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そういうことで小町なのではないだろうか。
e 「花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。
とすれば、小野小町は100歳の老婆になったという話があり、枚岡神社の姥とは小野小町=惟喬親王をモデルに創作されたものだと考えられる。
⑮惟喬親王の乱
枚岡神社は千手寺に近く、直線距離で1.5kmほどしか離れていない。
そして、千手寺パンフレットにはこんな伝説が記されていた。
その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社
惟喬親王の乱が本当にあったとしたら、枚岡神社付近にもその影響は及んだことだろう。
千手寺
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