土蜘蛛の謎⑬ 六波羅蜜寺にもあった土蜘蛛の塚
土蜘蛛の謎⑫ 蛙は髑髏をあらわしている? より続きます~
①六波羅蜜寺型燈籠
図書館で 六波羅蜜寺に関する古い本を借りた。
その本の中に六波羅蜜寺型燈籠の写真があった。
私は実際にその六波羅蜜寺型燈籠を見てみたいと思い、六波羅蜜寺を訪ねた。

六波羅蜜寺は951年に空也上人が開いたとされる寺で、かつて鳥辺野の風葬地だった場所にある。
このとき、京都は疫病が大流行し、鴨川は死体で溢れ返るほどの惨状であったという。
そこで空也上人は自ら十一面観音を刻み、念仏を唱えながら車に乗せてひきまわし、病人には梅干しと結び昆布の入ったお茶を飲ませて人々を救済したと伝わっている。

六波羅蜜寺 皇服茶 現在でも六波羅蜜寺では正月の三が日、参拝者に皇服茶を授与している。
その後、この六波羅蜜寺付近には平家一門が棲みつき、平家の邸宅が立ち並ぶようになった。
しかし平家滅亡のとき、平家自らが放った火によって焼野原となり、六波羅蜜寺の本堂のみが焼け残ったという。
本堂にあがると厨子があり、その手前に金色に輝く御前立が置かれてあった。
この厨子の中に空也が刻んだとされる十一面観音が安置されているのだが、辰年のみ開帳される秘仏でそのお姿を拝むことはできなかった。
宝物館には素晴らしい仏像彫刻が多く安置されていた。
その中には空也上人像や僧形の平清盛像もあった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Kuya_Portrait.JPG よりお借りしました。
作者 ASUKAEN [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
空也の口からほとばしりでる六体の小さなみほとけは『南無阿弥陀仏』の六字を示しているそうである。
宝物館を拝観したのち、私はくまなく境内を探したが、六波羅蜜寺型燈籠は見つからなかった。
境内はそう広くはないので、見落としはないと思う。
図書館で借りた本には「江戸時代につくられたもので、価値のあるものではないと思われる」と書いてあった。
たいして重要なものではないということで、撤去されてしまったのかもしれない。
②東向観音寺の土蜘蛛の塚

参道を多くの人が行きかっているが、ほとんどの人はそこに寺があることなど気にも留めずに通り過ぎていく。
東向観音寺の境内には舞妓さんがひとりいるだけでひっそりとしていた。
しかし、ここには有名な『土蜘蛛の塚』があり、オカルトファン必見の名所なのである。
本堂の向かって左の奥まったところに小さい祠が作られていて、中に燈籠の火袋が納められていた。
これが『土蜘蛛の塚』である。

東向観音寺 土蜘蛛の塚
↑ 上の写真は東向観音寺にある『土蜘蛛の塚』である。
東向観音寺の『土蜘蛛の塚』は清和院前にあった蜘蛛塚が発掘調査した際に出土した燈籠の火袋である。

清和院
③蜘蛛は頭部のない昆虫?
なぜ燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』とされたのだろうか。
昆虫は頭部・胸部・腹部の3つの部位から構成されている。
一方、蜘蛛は頭部と胸部の境がはっきりしておらず、頭胸部と腹部の2つの部位から構成されている。
古の人々は蜘蛛とは頭部のない昆虫だと考えていたのではないか。

④土蜘蛛は謀反の罪で斬首された人?
土蜘蛛草子には、「飛行する髑髏のあとをつけていったところ土蜘蛛の巣があった」と記されており、土蜘蛛と髑髏は関係が深そうに思われる。
まつろわぬ民・土蜘蛛とは謀反の罪で斬首された人のことではないか。
⑤鉢はドクロを表す?
蘇我入鹿・玄昉らの首が飛んだという伝説があるが、『鉢合わせ』『鉢巻き』などのように頭のこと鉢と表現することがある。
信貴山縁起絵巻には飛行する鉢の物語が記されているが、これは飛行する髑髏を比喩的に表現したものではないだろうか。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。
そして東向観音寺にある土蜘蛛の塚と呼ばれている燈籠の火袋は笠の部分が鉢に似ている。
この鉢に似た火袋の笠が、土蜘蛛の頭部を思わせるため、東向観音寺にある燈籠は『土蜘蛛の塚』と呼ばれているのではないだろうか。
本で見た六波羅蜜寺型燈籠は笠の部分がやはり鉢のように丸い形をしていた。
それで六波羅蜜寺型燈籠とは土蜘蛛の塚なのではないかと私は考えたのだ。
⑥六波羅蜜寺は平将門を供養する寺?
私が六波羅蜜寺型燈籠を『土蜘蛛の塚』だと考えたのは、燈籠の火袋の笠の部分が鉢のような形をしているというだけではない。
さきほど私は六波羅蜜寺は空也が開いた寺だと書いたが、空也は阪急烏丸駅近くにある膏薬図子に平将門を慰霊するための念仏道場をたてている。

神田神宮 (京都)
なぜかあまり語られることがないが、空也は平将門の怨霊鎮魂に情熱を注いだ人だったのである。
951年、疫病が流行って鴨川は死体で溢れかえるような惨状になったというが、940年、平将門の首は鴨川のほとりの六波羅蜜寺からほどちかい場所で晒されている。

鴨川
人々は951年の疫病の流行を平将門の怨霊の仕業であると考えたのではないだろうか。
そして空也は膏薬図子に平将門を慰霊するための念仏道場を建てたのと同じく、平将門を慰霊するために六波羅蜜寺を創建したのではないかと思うのである。
⑦平清盛の先祖・平貞盛とトガノの鹿
その後、六波羅蜜寺周辺に平家の館が建ち並ぶようになった。
六波羅蜜寺は鳥辺野の風葬地にあって、邸宅を構えるのにいい立地であるとはいえない。
それなのに平家はなぜ六波羅蜜寺周辺に館を建てたのだろうか。
平清盛は伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男である。
伊勢平氏は平貞盛の四男・平維衡より始まるのだが、平貞盛は朝廷に命じられて平将門の乱を鎮圧した人物である。
空也堂に伝わる伝説によれば、平貞盛は空也が愛していた鹿を殺したことを悔い、空也の弟子となり、空也堂を創建したという。

空也堂 空也踊躍念仏
日本書紀にトガノの鹿という物語がある。
雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

東大寺 奈良の鹿
謀反の罪で殺された人は死体に塩が振られることがあり、雄鹿は謀反の罪で殺された人を比喩したものではないかとする説がある。
空也が愛していた鹿とは平将門のことで、平貞盛は将門を殺したことを悔いたということだろう。
六波羅蜜寺を創建したのは空也だが、平貞盛が資金援助などを行ったのではないだろうか。
そしてその後、平貞盛の子孫である伊勢平氏が六波羅蜜寺やその周辺の土地を相続したのではないかと思う。
⑧祇園には平将門に対する信仰があった?
六波羅蜜寺の近くに祇園と呼ばれる花町がある。
祇園の置屋さんやお茶屋さんでは『笑門』と記した札をつけた注連縄を1年中飾る習慣がある。
祇園には八坂神社があるが、八坂神社では7月の祇園祭の際に『蘇民将来子孫也』と記したお札を授与している。
この『蘇民将来子孫家門』を略すと『将門』となり、逆賊とされる平将門に通じるので、『笑門』になったとする説がある。

八坂神社 節分祭
祇園は平将門の首が晒された場所に近く、人々は平将門の怨霊をおそれていたことだろう。
そのため陰である『将門』を語呂合わせで陽である『笑門』とかえ、注連縄に記して飾っているのではないだろうか?
伊勢地方でも同様の注連縄を飾る習慣があるそうだが、それは伊勢が平貞盛の四男・平維衡より始まる伊勢平氏の土地であるためではないだろうか。
祇園には平将門に対する信仰があったと私は思う。
そしてその信仰の拠点はもちろん六波羅蜜寺である。
六波羅蜜寺・・・京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町
土蜘蛛の謎⑭ 六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛 へつづく~
トップページはこちら→土蜘蛛の謎① 亀石伝説(追記あり)
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