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弥生時代、渡来人は大勢やってきていた。(長濱浩明氏 批判) 


1⃣長濱氏「遺跡を調査すると渡来人が大勢来たなんてのはどこにもない」



上記動画、21:44あたりで長濱さんは次のように発言されている。

例えば九州大学の学者ですね、中橋孝博ってたかな、
彼は、遺跡を調査すると渡来人が大勢来たなんてのはどこにもない。
どこにもないのに、骨の形が変わったっていうのはおかしいといって
どうしたかというと
じゃあちょっと人数は少ないんだけど、男は朝鮮半島から日本に侵略してきて
文明を築いた縄文人を蹴散らしてですよ、そして逃げ遅れた縄文女性と交わってですね、
男は女性がたくさんいると子供増やせますから、そうして日本を征服していしていったんだというロジックをのべた。
そうするとNHKなんかも そうだそうだといって・・・・(上記動画より引用)



2⃣土居ヶ浜遺跡から350体の弥生時代人の人骨が発見されている。


長濱さんが批判されている中橋孝博さんは、「日本人はるかな旅⑤」というNHKの番組に登場している。

番組の音声を一部書きだしてみる。


その日本列島にに今から二千数百年前、突如変化が起こります。
水田の稲作が列島各地に急速に広まり、それを基盤とした小さな国とも言うべきものが次々と生まれていきます。
この大きな変化の陰にはこの時期、日本列島に現れた新たな人々の存在があったのです。



古来中国大陸や朝鮮半島の進んだ文化を受け入れてきた九州福岡。この街の郊外で一つの集落が発掘されました。
およそ2400年前の板付遺跡です。個数10戸ほどの集落は深さ2メートル幅10メートルもある堀に囲まれていました。
こうした環濠集落は縄文時代には見られない新たなタイプの集落です。その傍からは水田の跡が発掘されました。
あぜや水路が完備され1枚の田の大きさが現在と変わらない本格的な水田でした。
焼けて炭になった米も大量に見つかっています。


縄文の遺跡には見られないこうした発掘結果から日本列島に新たな人々が現れた可能性が浮かび上がってきたのです。


1994年そのことを裏付ける人の骨が板付遺跡に近い福岡空港から発掘されました。およそ2300年前の人骨です。


水田稲作が始まった頃の集落から人骨が出土したのは初めてのことでした。
この発見によって日本列島で新たな文化を担った人びとの姿が明らかになってきたのです。



骨の分析は九州大学と名古屋大学の共同研究によって進められています。
損傷が激しかったため、研究チームは ct スキャンによって採取したデータをもとにコンピューター上で骨の修復を試みました。


人類学者の中橋孝博さんはこうして復元された骨の形を縄文人と詳細に比較しました。
その結果、新たな人々の顔つきは縄文人と大きく異なっていたことがわかったのです。
左の福岡の人骨はかなり面長な印象です。一方右の縄文人はエラの張った四角い顔に見えます。
計測の結果、顔の横幅はほとんど同じなのに縦の長さは福岡の人骨が2センチ以上も長くなっていました。
さらに横から見ると福岡の人骨の方が眉間から鼻にかけての隆起が小さく、扁平な顔をしていることが分かりました。


「単なる違いが大きいということだけじゃなくて内容的に断絶に近いような違いが見られるんですね。
ですから単純に文化的な影響で形が変わったというよりはですね、おそらく弥生時代に別の遺伝的な特徴を持った集団がやってきたという話を考えたほうが理解しやすいと思いますね。(中橋孝博さん)


2つの顔に見いだされた大きな断絶。
それは新たな文化を担った人々が、縄文人とはルーツを異にするまったく別の人々だったことを物語っているのです。

日本列島に新たに現れた人々は一体どこからやってきたのでしょうか。その手がかりが山口県で見つかっています。


山口県豊北町の土井ヶ浜遺跡です。
砂浜だったこの場所から福岡の人骨と同じタイプの骨が大量に発掘されました。
これまで見つかった骨は350体余り。
福岡の人骨のおよそ100年後、今から2200年前ここに埋葬された人々でした。

発掘が進むにつれて埋葬方法には奇妙な一致点があることがわかってきました。
皆なぜか同じ方向を見据えるようにして葬られていたのです。
発掘の結果に基づいて復元した埋葬の状態です。
遺体は西からおよそ20度北を向いた方角に顔を向けて葬られていました。
視線の先をたどっていくと朝鮮半島、そして中国大陸へと行き着きます。
このことから土井ヶ浜の人々が大陸方面からわたってきたと考えられるようになったのです。


NHK「日本人はるかな旅⑤」より引用


「山口県豊北町の土井ヶ浜遺跡です。
砂浜だったこの場所から福岡の人骨と同じタイプの骨が大量に発掘されました。
これまで見つかった骨は350体余り。
福岡の人骨のおよそ100年後、今から2200年前ここに埋葬された人々でした。」


とある点に注意してほしい。
長濱さんは「遺跡を調査すると渡来人が大勢来たなんてのはどこにもない」とおっしゃっているが、
土居ヶ浜では渡来系と考えられる人々の人骨が350体も発見されているのだ。


この350体の遺骨の中には日本で生まれた人も含まれているかもしれないが、渡来系であることに間違いはないだろう。


3⃣中橋さんが「断絶」といったのは、渡来系弥生人だったから。日本では民族の入れ替わりはなく混血した。


「単なる違いが大きいということだけじゃなくて内容的に断絶に近いような違いが見られるんですね。

ですから単純に文化的な影響で形が変わったというよりはですね、おそらく弥生時代に別の遺伝的な特徴を持った集団がやってきたという話を考えたほうが理解しやすいと思いますね。(中橋孝博さん)


と言う中橋さんの発言について補足しておきたい。


中橋孝博さんの発言は、「縄文人と弥生人は民族が入れ替わるくらい大きな変化があった」という意味ではない。


福岡の人骨は渡来系弥生人と考えられている。
だから中橋さんは、「縄文人とは断絶に近いような違いが見られる」と発言されているのだ。


弥生人は1種類しかないと思っていると、中橋さんの発言を誤解してしまう。
弥生人は1種類ではなく、縄文系弥生人、渡来系弥生人、渡来系と縄文系の混血の3パターンがある。
縄文系弥生人であれば縄文人と大きな断絶はないはずである。
しかし中橋さんが調査したのは渡来系と考えられる弥生人の人骨であったので、「断絶に近い」と言う表現を使っているのである。


また、番組ではこんなこともいっている。


❶2300年前、渡来系の人たちは水田稲作によって人口をふやす。数十年で縄文系の人々を上回ったと考えられている。 渡来系の人々は戦いに使う武器を作り、縄文系の人々と争った。

❷新方遺跡の縄文系の人の骨には17個もの矢尻がささっていた。

❸渡来系の人々は濃尾平野に達したが、それ以上東へはなかなかすすめなかった。

遺跡の分布の研究から縄文人の85%は東海・北陸以東の東日本に住んでいたことが分かっている。

水田を切り開くことは困難な深い森 そして縄文系の人々の高い人口密度が東へ進むことを妨げた。

このような状態が200年ほどつづく。

❹約2100年前、渡来系の人々は関東平野に姿をあらわす。

小田原の中里遺跡は水田があり、多いときは200人以上の人々が暮らしていた。

西日本の渡来系の集落を思わせるが、縄文系の人々も暮らしていた。(縄文系土器がみつかっている。)

渡来系の小さな斧に混じって縄文系の牛の鍬が見つかっている。

渡来系の人々は縄文系の人々の協力を得て、関東平野に進出した?

遺物の中には武器はほとんどない。

このような例はほかにもあり、日本では一方がもう一方を徹底的に滅ぼしてしまうようなことはなかった。

❺岩手県北上山地にあるアバクチ洞窟で、約2000年前の弥生時代中頃に葬られた人骨が発掘された。

目のくぼみが丸い・・・渡来系の人々の特徴

鼻の付け根太い・・・・縄文系の人々の特徴

縄文系、渡来系の混血?

(参考 NHK はるかな旅⑤)


つまり我々日本人は縄文人と渡来系弥生人の混血であって、決して民族が入れ替わったというわけではないのである。


4⃣渡来人は男女ともやってきた。


長濱氏は
「男は朝鮮半島から日本に侵略してきて

文明を築いた縄文人を蹴散らしてですよ、そして逃げ遅れた縄文女性と交わってですね、

男は女性がたくさんいると子供増やせますから、そうして日本を征服していしていったんだというロジックを(中橋氏は)のべた。」


と発言されておられるが、本当に中橋氏はそんな発言をされたのだろうか。

土居ヶ浜遺跡では、渡来系弥生人の男性だけでなく、女性の遺骨もあるようであるが。


長濱氏は、中橋氏がどこでそのような発言をしたのか、明らかにしてほしい。


検索したところ、中橋氏が執筆した記事が見つかったので内容をまとめておきたいと思う。


https://www.city.chikushino.fukuoka.jp/uploaded/attachment/2276.pdf


背が低くいかつい顔立ちの縄文人の遺骨が日本全国で数千体見つかっている。
約2000年前、弥生時代になると、九州地方で、長身・面長でのっぺりした顔だちの人骨が累々と出土する。


朝鮮半島や中国大陸の古代人にそっくりで、大陸を起源とする渡来人のように思われる。


筑紫野市一帯から出土する弥生人骨はその特徴が際立っている。


先年、発掘の終わった隅・西小田遺跡からは400体を超える人骨が出土したが、近隣の弥生人にくらべ、さらに面長で背が高かった。


隈・西小田遺跡や永岡遺跡からは斬首された遺骨、首だけの埋葬例、頭が割られたり、全身に傷を受けた人骨が出土している。


その一方で目覚ましい人口増加が起きて居たことも、骨や甕棺の分析からわかる。


渡来人たちは中国、近畿、さらに東へと進出した。現代日本人には渡来人達の遺伝子がはいっている。


これが弥生人研究からもたらされた現在の結論である。


中橋氏 グラフ2


中橋氏 グラフ

https://www.city.chikushino.fukuoka.jp/uploaded/attachment/2276.pdf より引用


上のグラフをみればわかるように、渡来人には女性も大勢いる。

中橋氏は、渡来人は男性のみがやってきた」と本当に発言されたのだろうか。


5⃣DNAの研究ではどうなっている?


渡来人がやってきたかどうかについては、縄文人と渡来系弥生人のミトコンドリアDNAおよびY染色体のハプログループを調べればわかるのではないだろうか。


検索してみたところ、次のような記事がみつかった。


(1)Y染色体ハプログループD1a2aの縄文系』と『(2)ハプログループO1b2の弥生系』を起源とする東京大学名誉教授埴原和郎が唱えた「二重構造モデル」が主流であったが、最新のゲノム解析で『(3)ハプログループO3a2cの古墳系』からなる「三重構造モデル」であることが証明された。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA#%E7%88%B6%E7%B3%BB%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84 より引用


現代の日本人は縄文人、北東アジア、東アジアの三つの祖先集団を持つことが遺伝情報の解析で判明したとする研究成果を、金沢大などのチームが発表した。弥生時代、古墳時代と進む間に縄文人と大陸系の渡来人が混ざった可能性があるという。論文が米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」に掲載された。


富山市の小竹貝塚から出土した縄文土器(左)と人骨(金沢大学の中込滋樹客員研究員提供)

 金沢大の 覚張がくはり 隆史助教(考古分子生物学)らのチームは、縄文、古墳時代の人骨計12体の遺伝情報を解読し、既に報告がある縄文、弥生時代の人骨計5体の結果と共に解析した。



 その結果、長崎県佐世保市で出土した弥生時代の人骨2体は、遺伝情報の約6割が縄文人由来で、約4割は中国・ロシア国境などの北東アジア由来だった。金沢市の古墳時代の人骨3体は東アジア由来が6割以上で、縄文人は15%まで下がり、現代の平均的な本州の日本人に近いという。


 チームは、縄文~古墳時代に大陸から複数回の集団の渡来があり、古墳時代以降は渡来が少なかった可能性があると分析している。


https://www.yomiuri.co.jp/science/20210918-OYT1T50186/ より引用


縄文 弥生 古墳 現代

https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abh2419# より引用


これらの結果を見る限り、弥生時代と古墳時代に渡来人がやってきたように思える。




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[2022/04/01 18:32] 誤情報では? | TB(0) | CM(0)

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