トンデモもののけ辞典㊾ 阿久良王
①阿久良王
吉備国喩伽山の阿久良王は東郷太郎、加茂二郎、稗田三郎という三人の家来を率いて村に出ては田畑を荒らし、物を盗み、女を拐うなどの悪事を働いて人々を苦しめた。
この事を聞いた朝廷は都で一番強いと言われた坂上田村麻呂を鬼退治に派遣した。
この事を聞いた朝廷は都で一番強いと言われた坂上田村麻呂を鬼退治に派遣した。
坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』より)
通生の浦へと船でやってきた田村麻呂は神宮寺八幡院で七日七夜に渡って鬼退治の祈願をした。
田村麻呂はわずかな家来と喩伽山へ進むと断崖に阻まれたが、神へ祈願すると白ひげの老人が現れて綱を降ろし、食料が尽きると再び現れて食べ物を出された。
いよいよ鬼退治となると「人が飲めば薬となり、鬼が飲むと毒となる。これで鬼退治をしてくれ」と霊酒を差し出して白ひげの老人は姿を消した。
田村麻呂一行は神の御加護として祈りを捧げ鬼の棲み家へと進むと、一匹の鬼が現れて切り合いになるも勝負がつかなかったが、瑜伽大権現に祈ると鬼は降参した。
いよいよ鬼退治となると「人が飲めば薬となり、鬼が飲むと毒となる。これで鬼退治をしてくれ」と霊酒を差し出して白ひげの老人は姿を消した。
田村麻呂一行は神の御加護として祈りを捧げ鬼の棲み家へと進むと、一匹の鬼が現れて切り合いになるも勝負がつかなかったが、瑜伽大権現に祈ると鬼は降参した。
降参した鬼は稗田三郎といい、元は人間であったという。
三郎の案内で鬼の棲み家へ着くと女の鬼が酒を飲んでおり、霊酒を飲ませて退治した。
それを知った阿久良王は東郷太郎、加茂二郎と共に田村麻呂へと攻めこんだ。
七日七夜に渡る激しい戦いの末に阿久良王は田村麻呂に敗れ、その死の間際にこれまでの悪事を悔い、罪滅ぼしとして瑜伽大権現の神使となり人々を助けたいと改心した。
息を引き取った阿久良王は田村麻呂に首を斬られると、金色の光を放って飛び散り、七十五匹の白狐になって瑜伽大権現のお使いとして人々を助けるようになった。
三郎の案内で鬼の棲み家へ着くと女の鬼が酒を飲んでおり、霊酒を飲ませて退治した。
それを知った阿久良王は東郷太郎、加茂二郎と共に田村麻呂へと攻めこんだ。
七日七夜に渡る激しい戦いの末に阿久良王は田村麻呂に敗れ、その死の間際にこれまでの悪事を悔い、罪滅ぼしとして瑜伽大権現の神使となり人々を助けたいと改心した。
息を引き取った阿久良王は田村麻呂に首を斬られると、金色の光を放って飛び散り、七十五匹の白狐になって瑜伽大権現のお使いとして人々を助けるようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%B9%85%E8%89%AF%E7%8E%8B より引用
⓶阿久良王は早良親王?
ウィキペディアには次の様にも記されている。
早良親王との関係
⓶阿久良王は早良親王?
ウィキペディアには次の様にも記されている。
早良親王との関係
『備陽国史』通生山神宮寺の項によると、阿久良王は桓武天皇の皇太弟早良親王であるとされている。藤原種継暗殺事件によって淡路国へと配流の途中で憤死したとされるが、実は児島へと来て名を隠し阿久良王と名乗ったという。あくまで言い伝えであり、史実とは異なる。
③早良親王、怨霊になる。
早良親王についてもう少し詳しくみておこう。
彼は光仁天皇の皇子で、母は高野新笠、桓武天皇の同母弟だった。
750年ごろ生まれ、761年に出家して東大寺羂索院・大安寺東院などに住んで親王禅師と呼ばれていた。
桓武天皇が即位すると父・光仁天皇に勧められて還俗し、立太子した。
750年ごろ生まれ、761年に出家して東大寺羂索院・大安寺東院などに住んで親王禅師と呼ばれていた。
桓武天皇が即位すると父・光仁天皇に勧められて還俗し、立太子した。
しかし785年に造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に連座したとして、廃され、乙訓寺に幽閉された。
早良親王は無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中、船上で憤死したと伝えられる。
早良親王は無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中、船上で憤死したと伝えられる。
桓武天皇は弟ではなく我が子の安殿親王を皇太子にしたいと考えており、その陰謀で早良親王に罪をなすりつけたともいわれている。
その後、安殿親王が発病し、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次いだ。
そして、それらは早良親王の祟りであるとして何度か御霊会が行われている。
④早良親王、征夷大将軍になる?
坂上田村麻呂が退治した阿久良王が早良親王と聞いて、私は京都・藤森神社に伝わる伝説を思い出した。
早良親王が皇太子になった後、蝦夷の反乱がおこった。
早良親王は征夷大将軍となり、藤森神社に戦勝祈願をして出陣しようとしたが、蝦夷はこれを聞いて畏怖し、乱は戦わずして平定された。
これは史実とは思えない。
皇太子のような位の高い人が征夷大将軍になるとは考えられないし、ウィキペディアの「歴代征夷大将軍」を見ても早良親王の名前はない。
藤森神社
④8代目征夷大将軍・紀古佐美の大敗と死も早良親王の怨霊の祟りとされた。
征夷代将軍8代目に紀古佐美の名前がある。
789年、紀古佐美は征夷大将軍となって阿弖流為率いる蝦夷と戦うが、大敗している。
そして、この大敗は早良親王の怨霊の祟りとされた。
さらに紀古佐美は797年に亡くなっていますが、その死もまた早良親王の怨霊の祟りだとされた。
藤森神社は紀氏の氏神を祀るといわれるが、そういうわけで紀氏は早良親王の霊を鎮めるため御霊として祀り、
さらには征夷大将軍になって勝利をおさめたという作り話まで作ってしまったのかもしれない。
奈良に紀寺(璉珹寺)があるが、その隣には早良親王を祀る崇道天皇社がある。
よほど紀氏は早良親王の霊を怖れていたということだろうか。
さらには征夷大将軍になって勝利をおさめたという作り話まで作ってしまったのかもしれない。
奈良に紀寺(璉珹寺)があるが、その隣には早良親王を祀る崇道天皇社がある。
よほど紀氏は早良親王の霊を怖れていたということだろうか。
⑤早良親王のご加護を受けた坂上田村麻呂
坂上田村麻呂は10代目の征夷大将軍となり、蝦夷征討に成功している。
802年には大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等が500余人を率いて降伏した。
坂上田村麻呂は、朝廷に対し、阿弖利爲と母禮の助命嘆願したが
公卿らは「野蛮で獣の心をもち、約束しても覆してしまう。彼らを陸奥国の奥地に放ち帰すことは、虎を養って患いを後に残すようなものである」と反対し、
阿弖利爲・母禮は処刑された。
802年には大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等が500余人を率いて降伏した。
坂上田村麻呂は、朝廷に対し、阿弖利爲と母禮の助命嘆願したが
公卿らは「野蛮で獣の心をもち、約束しても覆してしまう。彼らを陸奥国の奥地に放ち帰すことは、虎を養って患いを後に残すようなものである」と反対し、
阿弖利爲・母禮は処刑された。
坂上田村麻呂の勝利は、早良親王=阿久良王の霊を味方につけ、ご加護を得られたため、と考えられたのだろう。
それで阿久良王の伝説は作られたのだと思う。
⑥祟道天皇社の北にある瑜伽神社
①阿久良王の伝説に瑜伽大権現とでてくる。
備前国瑜伽山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、行基が、天平5年に開山した
とウィキペディアには説明がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E5%A4%A7%E6%A8%A9%E7%8F%BE
④で奈良の紀寺(璉珹寺)の隣には早良親王を祀る崇道天皇社があるという話をしたが
その祟道天皇社の北に瑜伽神社がある。
瑜伽神社は崇道天皇社と何か関係があるのかもしれない。
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