①幽霊の足跡
大阪府守口市佐太中町に来迎寺という寺がある。
この寺には幽霊の足跡と呼ばれる足形が伝えられている。
寛保3年(1743年)7月14日来迎寺35代慈天上人が夕方のお勤めをしておられる時に、1人の女の人が来て
「私はもと江戸に於て天筆如来さまのご縁にあいました小網町の大工の妻お石というものですが、病弱の為に主人が家をあけ臨終に葬いもしてくれませんので、このように迷っているのです。どうかご回向をして下さい。」
と言いました。
慈天上人は幽霊を見て座具を敷き「この座具はお浄土の蓮台です。ここへ来て座りなさい。」
お石は恐る恐る座具の上に立ちますと、慈天上人は、「心光清蓮」と法名を授けて念仏回向されました。
お石は
「今、お上人のご回向により迷いは覚め、仏さまのもとに参れます。何もございませんが、私の足跡を残しておきます。」
と言い、その姿を消したのです。
⓶小網神社は紀氏の神を祀る神社?
幽霊は、「江戸に於て天筆如来さまのご縁にあいました小網町の大工の妻お石」と名乗っている。
東京に小綱町という地名があるのかとぐぐってみたら、日本橋小綱町という地名があり
そこに小綱神社があることがわかった。
その由緒について、ウィキペディアには次のように記されている。
当地には元々恵心僧都源信が編んだ草庵があった。1466年(文正元年)、疫病が流行った折、この草庵に稲穂を持った老人が訪れ、数日間泊まった。
その夜、庵主は恵心僧都の夢を見、「この老人を稲荷神として崇めれば、疫病は退散する。」というお告げを聞いた。
翌朝、この老人の姿は消えていた。
さっそく稲荷神を祀る神社を建てたところ、疫病も収まったという。
次の部分については聞き覚えがある。
この草庵に稲穂を持った老人が訪れ、数日間泊まった。
その夜、庵主は恵心僧都の夢を見、「この老人を稲荷神として崇めれば、疫病は退散する。」というお告げを聞いた。
稲を持った老人の話は、稲荷神社の総本社・伏見稲荷にも伝わっているのだ。
伏見稲荷大社は、816年、空海が稲荷山三箇峯から現在地へ勧請した。
その際、紀州の老人が稲を背負い、杉の葉を提て、両女を率い、二子を具して東寺の南門に望んだ。
同じ稲荷神社だから、同じような話があるのは当然、と思うかもしれないが
そんなに簡単に切り捨ててはいけない。
単なる老人でなく「紀州の老人」とある点に注意してほしい。
伏見稲荷大社の創建は711年、秦伊呂巨(はたのいろこぐ))によるという話が広く知られている。
しかし、私はこれが史実だとは思えない。
伏見稲荷大社の南に藤森神社があり、もともと藤森神社は伏見稲荷大社の土地にあったのだが、土地を奪われ、現在地に移転したという伝説があるのだ。
今でも藤森神社の祭礼の際には、神輿を担いで伏見稲荷大社にのりこみ、「土地返せ」とはやし立てるという。
そして、藤森神社は紀氏の氏神であるという。
伏見稲荷大社は秦氏が祭祀する神社ではなく、紀氏が祭祀する神社であった可能性があるのだ。
すると小網神社の御祭神も紀氏の神である可能性が高い。
また小網町の大工の妻・お石もまた紀氏の神(女神)であるかもしれない。
伏見稲荷大社
藤森神社
③石清水八幡宮・来迎寺は紀氏が祭祀する寺社
来迎寺の由緒を見てみよう。
清和天皇の貞観元年(859年)に、奈良大安寺の行教上人が、九州は宇佐の八幡宮に国家の安全をお祈りされ、その満願の日に行教上人のお袈裟の上に、仏さまのお姿があらわれました。
そのお姿を写されたものが「天筆如来」で、石清水八幡宮のご神体とされたのです。
石清水八幡宮
その後康永元年(1342年)4月15日の夜、石清水八幡宮の宮司に夢告が、又深江の法明上人(融通念仏宗の中興)にも「天筆如来」を授けるというお告げがあり、両者が出会い、宮司より天筆如来を法明上人に渡されたのです。
その場所は、枚方市茄子作一本松で、史跡「本尊掛松」又「上人松」と名付けられています。
本尊掛松 (桜に気をとられて松の写真を撮るのを忘れたw)
法明上人は、弟子の実尊上人に「天筆如来」を授け、実尊上人は、自分の生まれた大庭の庄で正平二年(1347年)紫雲山来迎寺を建立されたのです。
石清水八幡宮(京都市八幡市)の創建は貞観元年(859年)で、
行教上人の袈裟の上に「天筆如来」が現れたのと同じ年であり、この天筆如来は石清水八幡宮のご神体だったのが
来迎寺に渡ってきたということで、来迎寺は石清水八幡宮と関係の深い寺であることがわかる。
そして、石清水八幡宮の別当職は代々紀氏の世襲だった。
稲荷神社につづき、ここでも紀氏がでてきた。
④石清水八幡宮は紀名虎または惟喬親王を祀る神社?
石清水八幡宮は859年に創建されたというが、859年は清和天皇が即位された年である。
清和天皇の生没年は850年~881年1月7日、清和天皇はわずか9歳で即位し、清和天皇の外祖父・藤原良房が政治の実験を握っていた。
清和天皇の父親は文徳天皇、母親は藤原良房の娘の藤原明子だったが
文徳天皇には紀静子との間にできた惟喬親王もあった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信(小網神社の創建説話に登場する恵心僧都源信とは別人)に相談したが
源信は藤原良房を憚って天皇を諫めたという。
こうして惟喬親王は世継争いに敗れ、清和天皇が即位した。
その清和天皇が即位した年に、石清水八幡宮は創建された。
八幡宮は宇佐八幡宮神託事件でわかるように、皇位継承に関する神託を告げる神のようである。
その石清水八幡宮の別当職が代々紀氏だったというのは、どういうことだろうか。
日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとされていた。
石清水八幡宮の御祭神は応神天皇だが、その応神天皇に紀氏の人間のイメージが重ねられているのではないか?
惟喬親王の外祖父は紀名虎である。
また惟喬親王自身も紀氏といってもいいだろう。
八幡八幡宮は紀名虎または惟喬親王を祀る神社であり(創建当時惟喬親王は存命しているが)
そのため、石清水八幡宮の別当職は紀氏の世襲だったのではないだろうか。
⑤お石の正体は惟喬親王?
小網神社もまた紀氏の神を祀る神社ではないかと思う。(稲荷神を祀ると言うが、稲荷神とは⓶ですでに述べたように紀氏の神だと思うので)
そして小網町の大工の妻・お石とは小網神社の女神だと思う。
さらに紀氏の神として祀られている可能性のある惟喬親王は、小野宮とも呼ばれており、私は小野小町とは惟喬親王のことではないかと考えている。
簡単にその理由をまとめておく
a 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
待ち針は穴のない針という意味で「小町針」だったのが、訛って待ち針になったといわれている。
d 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そういうことで小町なのではないだろうか。
e 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。
つまり、来迎寺に残る幽霊の足跡とは惟喬親王のことではないかと思うのである。
髄心院 小野小町像
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