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トンデモもののけ辞典㊹ 雪だるま と 塗り壁




①昔の雪だるまは雪の達磨だった。

昔の雪だるまはどんなものだったのだろうか?
調べてみたところ、歌川広景が雪だるまの絵を描いていた。

『江戸名所道戯尽 廿二 御蔵前の雪』(歌川広景)

『江戸名所道戯尽 廿二 御蔵前の雪』(歌川広景)

これは達磨である。

すべての雪だるまがこのようなものだったのかどうかはわからない。

②鼻緒を結びなおす人は達磨の幽霊だった。

上の絵は小さくてわかりにくいが、拡大してみてみると雪だるまの口元には魚がお供えされているようである。
雪だるまの前にいる男性は左の下駄の鼻緒がきれたので、下駄をぬいで 鼻緒を結びなおしているように見える。

なぜ広景は鼻緒を結びなおす人を描いたのだろうか?

『景徳伝燈録』に次のような物語がある。

『景徳伝燈録』は達磨没後の道教の尸解に類した後日譚を伝える。
中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。
それは達磨の遷化から3年後、西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原の葱嶺という場所で達磨に出会ったというものである。
その時、達磨は一隻履、つまり履き物を片方だけ手にして歩いており、宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る」と答えたという。
また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。
宗雲は帰国してからこのことを話してまわった。
帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。
孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。


※遷化とは、高僧の死亡のことである。

つまり、広景の絵に描かれている鼻緒を結び直す男性は、達磨の幽霊だと思う。

四天王寺に置かれていた達磨の石像

四天王寺 達磨 石像(向かって左)

③天智天皇は達磨のイメージに重ねられた?

『景徳伝燈録』にある、達磨が履き物の片方を手にして歩いていたという伝説は、天智天皇の伝説を思わせる。
蹴鞠をしていた中大兄皇子(のちの天智天皇)の沓が脱げ、それを中臣鎌足が拾ってさしだしたというものである。

また、天智天皇陵のそばに沓石が置かれており、この沓石にこんな伝説がある。

天智天皇は騎乗して山林に入り、行方不明になった。
そのため、沓が落ちていた場所を陵とした。(『扶桑略記』)

中大兄皇子の伝説は達磨の伝説をもとに創作されたのではないだろうか。

達磨はインドの王の第三王子として生まれたのに、王位をつげず、出家して僧となっている。
出家したということは子孫も残せなかったのかもしれない。
仮に出家前に子をなしていたとしても、彼の子孫は王位につけなかっただろう。

天智天皇(中大兄皇子)は皇位にはついたが、崩御後、弟の大海人皇子(天武天皇)vs子の大友皇子が争い(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して即位したので、自らの血を皇位継承させることができなかった。

奈良時代末、天武系天皇の血筋が絶えてしまい、
天智天皇の皇子・志貴皇子の子である光仁天皇が即位したことで、天智天皇の子孫が皇位継承することになったのだが。

もしかしたらそのような点から、中大兄皇子と達磨は同一視されたのかもしれない。

④塗り壁は達磨の妖怪?

だるまは正しくは菩提達磨といい、150歳まで生きたといわれる。
嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされる
このため、手足が腐ってしまったという伝説が生じた。
縁起物としてのだるまはここから作られた。

勝尾寺 だるま

勝尾寺 だるま

達磨が9年座禅を続けて手足が腐ったという伝説は、達磨の壁観の誤解から生じたのではないかとする説がある。

壁観とは、「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことであるという。

塗り壁という妖怪がいる。

夜道を歩いていると、見えない壁が現れて進めなくなるが、棒で下の方を払うと消えるなどといわれる。
塗り壁はもしかして、壁観もしくは、達磨の妖怪だったりして?

『稲亭物怪録』より、『稲生物怪録』にある壁の怪異

『稲亭物怪録』より、『稲生物怪録』にある壁の怪異



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