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「アイヌは先住民族ではない」はまちがい。 

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1904 photograph of a group of Ainu people


ミトコンドリアDNAのみ語ってY染色体DNAを語らないのは変では(竹田学校)

↑ この記事のつづきです。


①先住民族の定義は明治以前


ウヨ系の論者などが「アイヌは先住民族ではない」として「アイヌ新法」を批判している。

前回も述べたように、私は「アイヌ新法」を批判するな、などというつもりはない。

問題にしているのは

「アイヌは13世紀ごろオホーツク系民族が北海道にやってきて、成立した民族なので先住民族ではない」という点についてである。


それが、明確にまちがいだといえる理由が、国立アイヌ民族博物館の記事に書いてあった。


アイヌ民族はなぜ先住民族と認められているのですか?

日本政府は、2019(令和元)年、「アイヌ施策推進法」(略称)でアイヌ民族を「先住民族」と規定しました。

その意味については2009(平成21)年7月にまとめられた『アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書』が参考になります。

 それによれば、

「先住民族とは、一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、
その後、その意に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく同地域に居住している民族である
(下線は引用者が付加)

とされています。

アイヌの場合は、近代国家(明治政府)が形成される過程で、多数民族の支配を受け、

それでもなお独自の文化とアイデンティティを保持していることから、「先住民族」と考えることができるとされています。

つまり、アイヌ民族にとっては近代国家(明治政府)からの支配を受ける以前から、住んでいたことがポイントなのです。


https://nam.go.jp/inquiry/#q7-%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%83%8c%e6%b0%91%e6%97%8f%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e5%85%88%e4%bd%8f%e6%b0%91%e6%97%8f%e3%81%a8%e8%aa%8d%e3%82%81%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e3%81%ae  より引用

1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌの男性。


⓶「アイヌが先住民族かどうか」より、「先住民族をどのように定義するべきか」述べる必要があった。


つまり国が規定する先住民族の定義とは明治以前に存在していたかどうかであって

この定義に従う以上、アイヌが鎌倉期にやってきたといくら言っても、

「アイヌが先住民族である」という事実は変わらないということになる。

「アイヌが先住民族である」と言うことに反論するのであれば、

「明治以前に存在していたかどうかで先住民族を規定するのはおかしい。なぜならば~」と論を展開しなければならない。

しかし、竹田さんはそのような論理展開をされていない。


③占有に直接関係する証拠が必用かも


しかし私は、先住民族の定義を明治以前とするのは、妥当だと思う。

(アイヌ新法が妥当と言う意味ではない。先住民族の定義を明治以前に設定する点において妥当といっている。)


たとえば、あなたがこう言われたとしたら、困惑するのではないだろうか。

「あなたの先祖が鎌倉時代にわれわれの土地を奪ったので、あなたが相続して所有している土地はあなたのものではない。」


「そんなこといわれたって、そんな古いことは知らないし、

第一鎌倉時代のあとに戦国時代があって、土地取り合戦やってるじゃん。

仮に私の先祖が土地を奪ったというのが事実としても、鎌倉時代から800年もたってるじゃん。時効だよ!」


そう思う人が多いのではないだろうか。


https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/kenkyu/takeshima/chapter01_column_02.html


上記には次のような内容が記されている。


❶イギリスとフランスが、国際司法裁判所で、マンキエ・エクレオの帰属をめぐって争った。

❷両国間に係争領域の帰属を明記する条約がなく、互いに古くから当該領域を領有してきたと主張していた。

❸両国は、中世以降の歴史的事実に基づき、「古くからの権原」や「原始権原」を保持していると主張した。

❹ 裁判所によれば、決定的に重要なのは、中世の出来事から導かれる間接的な推定ではなく、占有に直接関係する証拠。

 (裁判記録、課税、土地の登記、関係法律の制定及び施設の構築)


この❹の規定を、むりやり北海道にあてはめれば、もっとも古く遡ったとしても松前藩成立ぐらいになりそうだ。


③アイヌの瞳は青いか


これについては

ミトコンドリアDNAのみ語ってY染色体DNAを語らないのは変では(竹田学校)

でも疑問を述べたのだが、こういう記事が見つかったので、追記しておく。

ただし、アイヌ人々の中に青い瞳の人はいないと結論づけたわけではない。


ロシア人探検家は古モンゴロイドであるアイヌ人の事を「毛深い」「浅黒い」「髪と目が黒い」と認識し、顎髭のあるロシアの貧農、もしくはロマに似ていると記している。

より引用


④擦文文化からアイヌ文化が繋がっていることを示す記事


前回も詳しく述べたように、

DNAハプロタイプには、父系(Y遺伝子DNA)と 母系(ミトコンドリアDNA)があり

Y1は母刑だが、父系でみると、アイヌ人は縄文系の80%が縄文系のハプログループD1a2aを持っているのだ。

母系のみ語って父系は語らないでもいいのだろうか。

やはり両方の遺伝子で語る必用があるように思う。


母系でみれば、たしかに現代アイヌ人には縄文人や弥生人にはないミトコンドリアDNA Y1を持つ人が20%いる。
おそらくオホーツク文化人との交流によるものだろうが、それがいつ入ったのか、わからない。
あくまでも、Y1を持っているのは、現代のアイヌ人の方々であって、古のアイヌ人ではないのである。


弥生時代に渡来人が九州あたりにやってきて、渡来系弥生人、縄文系弥生人、両者の混血 などに寄って弥生人は形成された。

しかし北海道は稲作に適さないので、渡来人が及ばなかった。

この弥生時代にオホーツク文化人がやってきたのかもしれないし、擦文時代にやってきたのかもしれない。

13世紀ごろにオホーツク文化人がやってきたとは言い切れない。


また、13世紀ごろにオホーツク文化人がやってきて、縄文人と混血してアイヌが形成されたのだとしても

日本人だって、縄文人と弥生人が混血しているので、

アイヌが先住民族ではないと言うならば、日本人も先住民族ではないといわなければおかしいことになる。


竹田さんはオホーツク文化人が13世紀にやってきたとおっしゃっているが、
それは擦文文化とアイヌ文化の変わり目が13世紀となっていることから判断したに過ぎないと思う。

なぜなら、竹田さんはなぜ13世紀にオホーツク文化がやってきてアイヌになったといえるのか

一切の説明をされていないからだ。


そして、ウィキには次のように記されている。

・アイヌは、人類学的には日本列島の北海道縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。
・7世紀以降、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られる。
移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。
この頃より続縄文文化が変化して擦文土器に代表される擦文文化が始まっている。
古代の文書に記された「蝦夷」にアイヌが含まれていたかどうかには議論があるが、
これら擦文文化やオホーツク文化は、アイヌ文化の原型が見られるものである
13~14世紀頃には狩猟・漁撈・採集と一部の農耕を組み合わせ、交易を行うアイヌの文化的特色が形成された

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C#%E6%AD%B4%E5%8F%B2 より引用


石狩アイヌは、シュムクルの居住圏である千歳川流域を除く石狩川流域一帯(ほぼ石狩国に相当する)を居住地とする集団。
石狩川流域は擦文時代から鮭漁で栄えた地域であり、先住の擦文集団と後に移住してきた奥羽アイヌが交わる形で成立したのではないかと考えられている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C#%E7%9F%B3%E7%8B%A9%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%EF%BC%88%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%EF%BC%89

より引用


ウィキの記述が間違っている可能性もないとはいえないが、こんな記事もある。


擦文文化からアイヌ文化への雑穀農耕の継続性
研究機関 北海道開拓記念館
研究代表者

山田 悟郎 北海道開拓記念館, 総務部, 主任学芸員 (00113473)


13世紀から18世紀初頭にかけた石狩低地帯や日高地方、噴火湾岸のアイヌ文化期7遺跡から、コメを含めたヒエ、アワ、アサなど11種類の作物が出土している。
また、石狩地方や日高地方の1667年に噴出した樽前b火山灰や1739年に噴出した樽前a火山灰下から出土した鍬先や鋤先、鎌などの鉄製農機具や、
噴火湾岸で発見された1663年年に噴出した有珠b火山灰や1640年に噴出した駒ヶ岳d火山灰で直接埋積された畠跡の存在は、
アイヌ民族によって農具を使用して畝をもった畠が造られていたことを示している。
畠の規模は長さ10m前後の畝が10列前後からなる小規模なものだが、発見された砂丘上や台地上一面に広がっており、
小単位の畠が継続して造られていたことを示している。
畠跡の土壌からは寄生虫卵も検出されており、施肥を行っていたことも明らかになった。

また、アイヌ文化の遺跡で農耕活動の痕跡を辿ることができた8遺跡の内5遺跡では、
その下位から擦文文化の遺構や農耕活動に関わる遺物が発掘され、
擦文文化から近世初頭のアイヌ文化まで雑穀を栽培した農耕活動が継続していたことを示している。

石狩、日高と噴火湾岸には、交易品生産の傍らで農耕活動が行われ、擦文文化の要素が残存していた。

近世後半期の記録にはアイヌ民族によった農耕は、鍬や鋤などの農具を使用せず、畝をもった畠を造らず、施肥をせず、
除草もしない粗放的な農耕と記載されているが、自ら望んでそうしたのではなく、
1669年の「シャクシャインの戦い」後に松前藩によってアイヌ民族統治の強化や、
鉄製品の供給制限と粗製化の強行によって、アイヌ民族が鉄製農具を保持することが出来なくなった結果と考えられる。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-10610405/106104052001kenkyu_seika_hokoku_gaiyo/ より引用


あるいは、擦文文化を滅ぼした上にアイヌ文化を作ったのではないかといいう人がいるかもしれないが

遺跡に争ったあとがあれば、それについて書いてあるはずだと思う。

書いていないということは、争ったあとがないということだろう。


今後研究が進んで、新発見などがあり、アイヌは13世紀にオホーツク文化人がやってきたというようなことにならないとも限らないが、

現状は擦文文化とアイヌ文化は連続していると考えられているのではないかと思う。



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[2022/03/09 00:40] 誤情報では? | TB(0) | CM(0)

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