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土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音 


三月堂と百日紅

土蜘蛛の謎④ 興福寺の阿修羅は土蜘蛛だった。よりつづく~

①三月堂

3月にお水取りが行われることで有名な東大寺二月堂の隣に、2つの建物を合体させたような不思議な形のお堂がある。 三月堂である。

東大寺創建以前、ここにた金鍾寺(きんしょうじ)という寺があったとされる。

『続日本紀』によれば、728年に聖武天皇と光明皇后が幼生した基皇子の菩提を弔うために若草山麓に山房を設けて9人の僧を住まわせたとあり、これが金鐘寺の前身と考えられている。

8世紀半ば、金鐘寺には羂索堂や千手堂が存在していたという。
この羂索堂が現在の東大寺・三月堂だと考えられている。

三月堂はもとは寄棟造正堂と礼堂の二つの建物であったものを、鎌倉時代に礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだそうである。
正堂は天平初期、礼堂は鎌倉時代の建築で、 三月堂は現存する東大寺最古の建物である。

三月堂 鹿 
 三月堂と鹿

②不空羂索観音と土蜘蛛

三月堂の堂内には日光菩薩、月光菩薩、金剛力士など天平時代に刻まれた美しいみほとけたちが安置されている。
中央に安置されているのは三月堂御本尊の不空羂索観音である。
像高3.6メートルもある巨大な像で、宝冠には約2万粒の宝石がつけられている。 

File:Todaiji Monaster Fukukensaku Kwannon of Hokkedo (232).jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ATodaiji_Monaster_Fukukensaku_Kwannon_of_Hokkedo_(232).jpg よりお借りしました。

作者 Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition

不空羂索観音は八本の腕をもっているが、下から二番目の左手には羂索を持っている。

コトバンクによれば、『羂索とは狩猟の道具である』と説明がある。
5色の糸をより合わせた縄の片端に環、もう一方の端に独鈷杵の半形をつけたもので、観音の慈悲によって人々を逃すことなく救うことを意味しているという。
不動明王や千手観音も羂索を持っている。

仏像ドットコムには『羂索とは、インドで猟や戦いに用いられる投げ縄状の網のこと』だと記されていた。

不空羂索観音はその羂索であらゆる衆生をもれなく救済する観音であるという。
私は不空羂索観音が羂索を投げる姿を想像してみた。
もしも羂索が網であったなら、網はぱあっと広がって、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようではないか。

六波羅蜜寺 追儺式3

↑六波羅蜜寺の追儺式に登場した土蜘蛛

  土蜘蛛とは奈良時代の記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことである。
まつろわぬ民とは、謀反人のことであるといってもいいかもしれない。

もう一度、不空羂索観音の写真をみてほしい。

珍しいデザインの光背はまるで蜘蛛の巣のようである。
そして不空羂索観音の腕は8本だが、蜘蛛の脚も8本である。

三月堂の不空羂索観音は土蜘蛛=謀反人を表現したものではないだろうか。

蜘蛛の体  

③トガノの鹿

不空羂索観音の肩にかけてあるケープのようなものは鹿の皮である。

不空羂索観音は野獣の毛皮を纏うところから、ヒンドゥー教のシヴァ神や、山岳信仰との関連づける説もある。
山岳信仰といえば修験道だが、修験道の山伏は鹿の皮を腰につけている。

日本書紀の仁徳天皇紀に『トガノの鹿』という物語が記されている。

仁徳天皇が皇后と涼をとっているとトガノの方から鹿の鳴き声が聞こえてきた。
天皇はその鹿の鳴き声をしみじみと聞いていたが、あるとき急に鳴き声がしなくなった。
翌日、佐伯部が天皇に鹿を献上したが、その鹿は天皇が夜な夜な鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿だった。
気分を悪くした天皇は佐伯部を安芸の渟田に左遷した。


この話のすぐあとに、次のような話が記されている。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

 大仏殿 鹿

鹿 東大寺 大仏殿付近

④志貴皇子暗殺説


以前、図書館で借りて志貴皇子暗殺説について記された本を読んだのだが、本のタイトルや著者の名前を忘れてしまった。(申し訳ありません!)

その説の内容はだいたい次のようなものだった。

①かつて謀反の罪で殺された人には塩を振ることがあった。
トガノの鹿に登場する雄鹿は謀反人を喩えたものである。
②萩は別名を「鹿鳴草」という。
③笠金村が志貴皇子の挽歌を詠んでいる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

百毫寺に萩が植えられているのは、この挽歌にちなむものである。
④笠金村は志貴皇子の挽歌を二首詠んでいる。
a.高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
b.御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


aの歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせ、bの歌は志貴皇子の死は最近のことなのに、ずいぶん以前のことであったようだといぶかっているようである。
万葉集詞書によれば志貴皇子の薨去年は715年としている。しかし正史では716年となあっている。
志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年ほど伏せられていたのではないか。
⑤のちに志貴皇子の子である光仁天皇が即位していることから、志貴皇子には皇位継承権があったのではないか。

百毫寺 萩

百毫寺 萩

⑤鹿や萩が謀反人に喩えられた理由

この説を読んで、私はなるほど、そのとおりだろう、と思った。

①のトガノの鹿の物語は、鹿の夏毛には白い斑点があるのを、塩に見立てたものだと思う。
また白い萩も塩を振ったように見える。
萩には紫色の花もあるが、こちらは雌鹿をイメージしたものだと思う。
というのは次のような歌があって、恋する女性は紫色に喩えられていたように思われるからである。
紫は 仄(灰)さすものぞ つば市の 八十のちまたに 逢へる児や誰/詠み人知らず
紫色に布を染めるには灰を媒染として用いていた。
灰をいれると布が紫色に染まるように、男にあったとたん、女がぽっと赤くなった、というような意味だろうか。
紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも/大海人皇子
(草の紫色のように美しいあなたのことを憎く思っているならば、人妻だからといって恋心を秘める必要などないのに。)

という歌もある。

⑥志貴皇子には皇位継承権があった

⑤のちに志貴皇子の子である光仁天皇が即位していることから、志貴皇子には皇位継承権があったのではないか。
としておられるが、これを裏付ける伝説が奈良豆比古神社にある。

『平城津彦神社由来』にはこのようにある。
大友皇子側についていた志貴皇子は壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮に葬られた。 
志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は春日王をよく看病していた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)に長けており、ある日春日大社で神楽を舞い、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊された。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれたが、これは奈良坂に住んだ春日王のことと関わりがあるかもしれない。 


しかし『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは次のような語りを伝承しているという。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。


ここに「志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった」とある。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞


⑦志貴皇子を暗殺したのは誰?

志貴皇子が暗殺されたのが事実であならば、志貴皇子は誰に暗殺されたのだろうか。
私は元正天皇と舎人親王が怪しいと思う。

万葉集詞書によれば志貴皇子は715年に薨去したとされているが、この年、元正天皇が即位している。
奈良豆比古神社では志貴皇子は志貴親王と記している。
志貴皇子は親王であり、皇太子であったかもしれない。
それを元正天皇が自分が皇位につくために志貴皇子暗殺を企てたのではないだろうか。

元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)


山人とは『山に住む人』『仙人』という意味だが『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。

私はこの歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないかと思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、高円山には志貴皇子の墓がある。
高円山に住むむささびとは志貴皇子のことをいっているのだと思う。
志貴皇子は自分自身をむささびに喩えて歌を詠んだのだろう。

奈良大文字送り火

高円山 送り火

元正上皇がいう『山人』とは志貴皇子、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死』を意味しているのではないだろうか。

⑧不空羂索観音は志貴皇子の怨霊封じ込めの像?


元正天皇が女の身でありながら皇位についたのは、弟の首皇子(のちの聖武天皇)へ皇位をつなぐためであった。
首皇子を即位させることは、元正天皇の祖母・元明天皇の悲願だった。

724年、元正天皇の譲位を受けて首皇子が即位し聖武天皇となった。
727年、聖武天皇と藤原光明子の間に基皇子が生まれたが、基皇子は728年に夭逝してしまった。
聖武天皇や藤原光明子は基皇子が夭逝したのは志貴皇子の怨霊のせいだと考えたのではないだろうか。

そして三月堂は728年に聖武天皇と光明皇后が夭逝した基皇子の菩提を弔うために創建された金鐘寺の 羂索堂だった。

「蜘蛛の巣のような光背を背負い、手には羂索を持つ羂索堂の本尊・不空羂索観音。
手に持つ羂索を投げる姿を想像すれば、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようである。
また肩には謀反人のイメージを持つ鹿のケープを身に着けている。
この不空羂索観音はまつろわぬ民・土蜘蛛=志貴皇子の怨霊を封じ込めた像なのではないだろうか。

嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 
嵯峨狂言・頼光と土蜘蛛



※東大寺・・・奈良市雑司町


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[2017/02/16 19:17] 土蜘蛛の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)