①伊佐々王(いざさおう)
播磨国宍粟郡の安志(兵庫県姫路市)に出たという巨大な鹿です。
『峯相記』によれば、その昔、安志の奥には伊佐々王という大鹿が棲んでいたといいます。その身の丈は二丈余、角は七又に分かれ、背には笹もしくは苔が生え、目は日光のごとく輝き、数千頭の鹿を従えて人類を襲い食らっていました。
帝は勅使を遣わして国中の衛士を集めて伊佐々王を退治したといいます。
このことは物語として小盲たちが語り伝えていたと記されており、盲目の芸能者たちの演目として知られていたことがうかがえます。
伊佐々王が退治されたのは光仁天皇の時代、宝亀四年(773)であるともいい、足には水かきがあったともされています。鹿を率いて野山を荒らし人畜を害するので、国中の衛士らによって長い狩りの末に遂に滅ぼされたといわれています。
姫路市安富町にある鹿が壺と呼ばれる滝壺の連なりは、このときに伊佐々王が荒れ狂いのた打ち回ったために形作られたものといわれています。最奥部の鹿が横たわったような形をしている滝壺は、伊佐々王が最期に「このあと消ゆることなかれ」と己の姿を岩盤にとどめたものであるといいます。
また、「安志」という地名も、大鹿が退治されたことで人々が安堵して帰ってきたことが由来だと語られています。
「いざさおう」という名前や背中に笹が生えているという特徴は奈良の伯母峰などに出たと伝わる大猪「猪笹王」とも共通するもので、このような大猪退治の話が伝播の過程で変化した一例ではないかと思われます。
⓶伊佐々王は光仁天皇代の人物?
引用文には「猪笹王」との関連について記されているが、
❶イザサワケと名前を交換してイザサワケとなった応神天皇・・・猪笹王
❷応神天皇と名前を交換して応神天皇となったイザサワケ・・・・射馬兵庫
私も伊佐々王は猪笹王と関係があると思う。
どちらも「いざさおう」とよむ。
日本では同じ名前に異なる漢字をあてて表記することはよくあることだ。
しかし、伊佐々王のほうは、イザサワケのイメージと重ねられた別の人物の妖怪であるように思える。
というのは、物語に「伊佐々王が退治されたのは光仁天皇の時代、宝亀四年(773)」とでてくるからだ。
伊佐々王は光仁天皇の時代の人物ではないだろうか。
③鹿は謀反の罪で殺された人の比喩
日本書記にトガノの鹿という話がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢をみた」と言った。
雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩。あなたは殺されて塩漬けにされているのです」と答えた。
翌朝、雄鹿は猟師に射られて死んだ。
鹿の夏毛には白い斑点がある。
これを塩や霜に喩えたのだろう。
かつて、謀反の罪で死んだ人には塩が振られることがあった。ゆえに鹿は謀反人の比喩だとする説がある。
➂萩の白花は雄鹿、紫花は雌鹿
萩は別名を鹿鳴草という。
萩には白花と紫花があるが、白花もまた、謀反人にふられる塩に見立てているのだろう。
紫花のほうは雌鹿だろうと思う。
❶紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも/大海人皇子
(紫草のように美しいあなた。あなたが憎ければ、人妻と知りながら、こんなに恋い焦がれずにいられるものを。)
❷紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰/詠人知らず
(顔をぽっと赤らめた海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)
※紫色に布を染める際、媒染剤として椿の灰をいれると鮮やかに染まった。
この2つの歌を鑑賞すると、女が男に恋する様子を紫と表現していたのかな、と思える。紫は恋する女を意味しているように思えるからだ。
白毫寺 萩
④志貴皇子暗殺説
本のタイトルや著者名を忘れてしまったのだが(すいません!)
以前図書館で借りた本次のような内容が記されていた。
❶ 日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。
また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。
御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)
こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われる。
❷ 萩は別名を『鹿鳴草』というが、日本書紀に次のような物語がある。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。
笠金村は
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
と歌を詠んでいるが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているように思われる。
❸ のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないか。
❸で光仁天皇の名前がでてきた。
⑤春日王と志貴皇子は同一人物?
奈良豆比古神社 三人翁
奈良市の奈良豆比古神社に次のような伝説が伝えられている。
天智天皇の第七皇子・志貴皇子は壬申の乱において大友皇子側についていた。
ところが壬申の乱では天武方が勝利して大友皇子は自害して果てた。
そのため、志貴皇子は壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮に葬られた。
志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は春日王をよく看病していた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)に長けており、ある日春日大社で神楽を舞い、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊された。
この伝説にも光仁天皇の名前がでてくる。
図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中にここ奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。
志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。
なんと、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。
志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。
志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。
神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
⑥浄人王は弓削浄人、安貴王は道鏡?
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。
桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。
さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
⑦宇佐八幡神託事件
護王神社絵巻に描かれた道鏡 御簾の中から着物の裾だけ見えているのが称徳天皇
769年宇佐八幡神託事件がおきた。
このころ、称徳天皇(女帝)は僧の弓削道鏡を寵愛し、道鏡は朝廷内で権力を持つようになっていた。
宇佐八幡宮で「道鏡を天皇にするべき」という神託があり、称徳天皇が確認のため和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣したのだが
和気清麻呂は「日嗣は、必ず天皇の血をひくものにせよ。血をひかないものは排除せよ」という別の内容の神託を持ち帰った。
これを聞いた称徳天皇は怒って和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させ、大隅国へ流罪とした。
しかし翌770年称徳天皇は崩御し、道鏡は失脚して下野国薬師寺へ流罪となった。
772年、道鏡は亡くなり庶民として葬られた。
道鏡の弟の浄人は土佐国へ流罪となり、781年に赦免されたが、平城京に入ることは許されなかった。
「⑥浄人王は弓削浄人、安貴王は道鏡?」をもう一度読んでほしい。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。
桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。
さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
もしかすると道鏡は志貴皇子の子で正当な皇位継承権があったなどということはないだろうか?
そうだとすると、和気清麻呂の奏上をきいて称徳天皇がかんかんになった理由もわかる。
「道鏡は志貴皇子の子で、天智天皇の孫である。道鏡は安貴王という名前だ。天皇の血をひいているではないか!」
そんな風に称徳天皇は憤ったのかもしれない。
⑧伊佐々王の正体は道鏡?
「①伊佐々王」の伝説を思い出してほしい。
伊佐々王が退治されたのは光仁天皇の時代、宝亀四年(773)であるともいい、足には水かきがあったともされています。
道鏡がなくなったのは、772年。伊佐々王が退治されたのは773年で1年ずれているが、1年ぐらいのずれはありえそうだ。
道鏡が流罪となったのは下野国薬師寺だが、薬師寺というからにはご本尊は薬師如来だろう。
薬師如来の手には縵網相といって、みずかきがついているケースがある。
伊佐々王の正体は道鏡ではないだろうか?
⑨道鏡はなぜイザサワケとイメージが重ねられたのか?
神功皇后は妊娠中に朝鮮征伐に出兵し、途中で応神天皇が産まれそうになったが、腰に石をおき冷やすことで出産を遅らせた。
その後日本に戻り、筑紫の宇美で応神天皇を産んだ。
建内宿禰は応神天皇を連れて敦賀に行った。
その夜、建内宿禰(タケノウチスクネ)の夢にイザサワケ神が現れて
「私の名前と、御子の名前を交換してほしい」と言った。
建内宿禰が了承すると、イザサワケは「明朝、浜にいくように」と言った。
言われたとおりにすると、海岸には鼻を傷つけられた入鹿が大漁にいた。
御子は「神が御食をくださった」と喜んだ。
これは「名(ナ)」と「魚(ナ)」を掛けた謎掛けで、角賀地域が大和朝廷の支配下に入ったことを意味するともいわれる。
しかし、私はそうは思わない。
名と魚を掛けた謎かけというのはありえるが、応神天皇は魚(入鹿)とひきかえに、相手に自分の名前を与えたのだ。
名前を与えるというのは、応神天皇の生まれ育ちや地位(神功皇后の御子)なども相手に与えたという意味ではないのだろうか。
応神天皇がイザサワケという神になり、イザサワケが応神天皇になったという話の様に思えるのだ。
これは政権交代を意味しているのかもしれない。
天皇家は万世一系といわれるが、実は政権交代があったのではないか、ということである。
そして道鏡は志貴皇子の子であり、皇位継承権があったのに、光仁天皇(父親は志貴皇子なので、道鏡とは異母兄弟かもしれない)に奪われたということで
道鏡はイザサワケと名前を交換した応神天皇とイメージが重ねられたのではないか。
それで道鏡は伊佐々王と呼ばれたのではないだろうか。
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