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トンデモもののけ辞典㉞ 太郎坊天狗

①大原の里と愛宕信仰

大原の里に惟喬(これたか)親王陵がある。

惟喬親王 墓(大原)

惟喬親王陵

惟喬親王陵は大原だけでなく、滋賀県の木地師の里などにもある。
大原の里には多くの観光客が訪れていたが、惟喬親王陵を参拝する人の姿はなく、私はただひとり手を合わせた。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子(母は紀静子)で文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだが
異母弟の惟仁親王(清和天皇/母は藤原良房)が皇太子になった。
政治的に不運であった惟喬親王は、御霊(怨霊が祟らないように慰霊されたもの)として多くの神社に祀られている。

大原の里

惟喬親王陵付近より大原の里を望む。

大原の里には愛宕大神と記された燈籠があちこちにあった。

愛宕燈籠

大原 愛宕大神の灯篭

もしかして、惟喬親王と愛宕信仰は関係があるのだろうか。
そう思って調べたところ、どんぴしゃりで、次のような記事がみつかった。

火うち権現跡。京洛に火事が起こると社が鳴動するところから名付けられました。
右の写真の大杉の上には、天狗が集まったと伝承されています。

今は、天狗といえば鞍馬山が想起されますが、実は天狗信仰は愛宕山のほうが古く、
全国各地の天狗の惣領(長男)格として「太郎坊天狗」と呼ばれてきました。
天狗は、比叡山の天台系の僧たちによって、自分たちが広めようとする仏法を破壊しようとする邪悪な者たちの形象、
つまり「魔」として創り出されたらしい。

かつて、中国から渡ってきて比叡山延暦寺の高僧を亡き者にしようとした是害坊(ぜがいぼう)と名乗る天狗が
草鞋を脱いだのが愛宕山の太郎坊天狗のところであったとのこと。

太郎坊の来歴伝承は、空海の高弟であった知恵優れた僧が、惟喬親王と惟仁親王(後の清和天皇)の皇位争いの際に惟喬親王について、
惟仁親王についた天台僧と壮絶な呪詛合戦を繰り広げた末に敗北し、この恨みをはらすために天狗(怨霊)となって天皇家を脅かし続けた。
この天狗が、生前に修行を積んだ愛宕山に住み着いて太郎坊天狗となった。
天狗とは、比叡山を脅かすものの象徴でもあったのです。


大原の里に数多くある愛宕燈籠は、惟喬親王に対する信仰から設置されたものであるかもしれない。

この記事をよんで、実際に愛宕山を登り、愛宕神社を参拝してきた。
昔はケーブルがあったそうだが、戦時中に不要不急線に指定され、軍需物質不足からレールを軍に供出して廃線となった。
そのため、愛宕神社を参拝するためには歩くしかないのだが、4kmも続く階段の参道はかなりきつい。
そうではあるが、大勢の人が参道を登っていた。
参道が整備されているので、登山初心者にとってはちょうどいい山ということなのかもしれない。

火燧権現跡-2

火燧権現跡 

火燧権現跡

天狗が集まった大杉はたぶんこれだと思う。

⓶「大杉の上に集まった天狗」は流星群?

こういう記事もあった。

日本の8大天狗といえば、1番・京都愛宕山太郎坊(栄術太郎)、2番に滋賀比良山次郎坊、3番・京都鞍馬山僧正坊、4番・長野飯縄山三郎坊、5番・鳥取大仙伯耆坊、6番・福岡彦山豊前坊、7番・奈良大峰山普鬼坊、8番・香川白峰山相模坊をいう。愛宕山太郎坊はその筆頭で、神通力は天地をもひっくり返すと言われるほどのパワーを持つとされる。

愛宕山の古縁起や平安時代の説話集『今昔物語』によれば、山岳密教の開祖役行者と奈良時代の修行僧・雲遍上人が愛宕山を開山し、そこを行場に秘術を駆使して懸命に祈祷をしていると、そばの大杉に天竺(インド)から来た大天狗の日羅(ニチラ)や中国の天狗の首領であった是界(ゼカイ)とともに太郎坊が出現。その数、大小合わせて9億余り、愛宕山は天狗でびっしり埋め尽くされたと伝わる。
その場所が愛宕山表参道を登って十七丁目の四所明神(火燧権)で、太郎坊が姿を現した大杉が愛宕の山神の神籬(ヒモロギ)として現存している。


舒明天皇九年(637年)の記事に次のような記述がある。
大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がした。
僧旻は 「あれは流星ではなく天狗(アマツキツネ)だ」 と言った。

637年に観測されたものは火球もしくは彗星であるかもしれないが、
流星のようなものをみて、僧旻は天狗といっている。

鼻の高い天狗は近代になってから主流になったもので、もともとは嘴のある烏天狗が主流であったらしい。
烏天狗には羽が生えているので空を飛べるのだろう。

愛宕神社絵馬

愛宕神社絵馬 烏天狗

天狗

上の絵は鼻の長い天狗だが、羽根がはえていて空を飛んでいる。
天狗とは流星を擬人化したものではないかと思える。


すると、上の記事の「大小合わせて9億余り、愛宕山をびっしり埋め尽くした天狗」とは流星群ではないだろうか。
そして太郎坊天狗とは流星群の親玉ということだろう。

③ペルセウス座流星群からお盆が生じた?

広河原の松あげ

広河原 松上げ

上の写真はお盆の行事である「広河原の松上げ」を長時間露光したものである。
地面近くの小さな光の環は、氏子さんたちが小さな松明を手に持ってグルグル回している光の軌跡である。
こうして勢いをつけたのち、中央に建てられた燈籠木めがけて松明を高く放り投げる。
運動会の玉入れを、玉の代わりに松明を用いてするようなものである。
なかなか松明は燈籠木に命中しないのだが、ついに命中して火がつき、燈籠木が燃え始める。

1833年(右)と1866年(左)のしし座流星群の大出現の様子を描いた絵画

1833年(右)と1866年(左)のしし座流星群の大出現の様子を描いた絵画

上はしし座流星群を描いた絵だが、なんとなく松上げに似ている。

ただし、光が流れる方向は逆になっている。
流星群は放射点から広がるように星が流れるが、松上げは燈籠木に向かって松明を投げる。
それはあたかも流星群が逆向きに流れ、放射点に向かっているかのようである。

旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事だった。
新暦になってからは8月15日を中心として行われることが多い。
ペルセウス座流星群は7月20日頃から8月20日頃にかけて観測され、8月13日がピークである。
旧暦は新暦の約1か月遅れなので、今も昔もペルセウス座流星群が観測される次期にお盆は行われているといえる。

お盆にはお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のことを京都ではこう言う。)がこの世へ帰ってくると考えられていた。
なぜお盆にはお精霊さんがこの世へ帰ってくるなどと考えられたのだろうか。

昔の人々は死んだ人の魂は星になると考えていたようで、今でも亡くなった人のことを「星になった」などという。
ペルセウス座流星群でたくさんの星が降るようすを、死んだ人の魂がこの世に戻ってくると考えられたのではないだろうか。

そして松上げは精霊送りの行事だとされるが、この世に戻ってきたお精霊さん=流星を空に戻す行事のように思える。


さらにこの松上げは、京都~丹波~若狭(若狭街道)の山間部に伝承されるお盆の行事で、京都市右京区の愛宕神社の愛宕信仰からくるものだという。

こう考えると愛宕山に9億現れた天狗とはペルセウス座流星群の比喩のように思える。

④かわらけ投げは流星群のイメージ?

古典落語 愛宕山では、愛宕山でかわらけ投げをするという話がある。
かわらけとは、江戸時代に祝事の際に用いられた土器の杯のことで、これに願い事を書き、高所から投げるもののことである。
発祥地は京都の神護寺とされる。
残念ながら、現在の愛宕山では行われていない。

なぜ愛宕山でかわらけ投げが行われたのか。
それは、山からかわらけを投げることに、流星群のイメージがあったからではないだろうか。

かわらけ投げ

和歌山県 救馬渓観音(すくまだにかんのん)の かわらけ投げ場
写真中央部の環にかわらけが入るようになげるのだろう。

⑤惟喬親王を偲ぶ「雲が畑の松上げ」

③で松上げの行事が愛宕信仰からくるものであると書いたが、その松上げの行事のひとつに「雲ヶ畑の松上げ」がある。
雲ヶ畑の松上げは文字の火をあげるもので、惟喬親王を偲ぶ行事であると伝えられている。
惟喬親王はお盆の行事・松上げと関係が深い。

松上げはペルセウス座流星群を逆にしたものであると同時に、愛宕神社に対する信仰、太郎坊天狗が支援した惟喬親王に対する信仰が混ざったもののように思える。

高雲寺 歌碑

雲が畑・高雲寺の歌碑
「親王へ 火の文字今も 里の盆」親王とは惟喬親王のことである。

雲ヶ畑 松上げ

雲ヶ畑 松上げ

⑤愛宕山の上から清和天皇を脅かし続けた太郎坊天狗

太郎坊天狗が「この恨みをはらすために天狗(怨霊)となって天皇家を脅かし続けた。」というのは、大変おそろしい。


 

上の地図で、愛宕山と清和天皇陵の位置関係に注意してほしい。
そう、清和天皇水尾陵の東北に愛宕山があるのだ。
まるで太郎坊が愛宕山の上から清和天皇を脅かしているようではないか。

⑥勝軍地蔵

愛宕神社はかつて白雲寺という寺で、781年に慶俊僧都、和気清麻呂らが創建したという。
そのほか、当事の山中には、中国の五台山に模した以下の五寺があったらしい。

日本の寺 対応する中国の五台山
白雲寺(愛宕大権現) 朝日峰
月輪寺 大鷲峰
神願寺(神護寺) 高雄山
日輪寺 竜上山
伝法寺 賀魔蔵山

9世紀ごろ白雲寺の本殿には勝軍地蔵(愛宕大権現の本地仏)、奥の院(現 若宮)に太郎坊天狗が祀られていた。

明治の神仏分離により、白雲寺は廃絶されて愛宕神社となり、勝軍地蔵は京都市西京区大原野の金蔵寺に移されたという。

金蔵寺 権現堂

金蔵寺 権現堂

神仏習合時代、日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわしたものと考えられていた。
そして仮に姿をあらわした日本古来の神のことを権現、日本古来の神のもともとの正体である仏教の神のことを本地仏といった。

愛宕神社の場合は、
衆上を救うため、仮にこの世に姿をあらわした日本古来の神・・・愛宕権現
日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神(本地仏)・・・勝軍地蔵

大宝年間、役小角と泰澄(白山修験の開祖)が愛宕山に登った時、龍樹菩薩、富楼那尊者、毘沙門天、愛染明王を伴い大雷鳴とともに現れ、天下万民の救済を誓った地蔵菩薩が、勝軍地蔵だという伝説がある。

『元亨釈書』には清水寺の延鎮が勝軍地蔵と勝敵毘沙門天の両尊に坂上田村麻呂の戦勝祈願を行ったと記されている。

軍旗、剣などを持ち、甲冑姿で、踏割蓮華に立つ立像と、神馬にまたがる騎馬像があるとされる。

鳥居本付近に勝軍地蔵を祀る祠が建てられていた。
この付近が愛宕神社参道入口に位置することから、ここに勝軍地蔵が建てられているのだろう。

勝軍地蔵

鳥居本付近 勝軍地蔵
 
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