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小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

京都御所 平安装束の女性たち京都御所 


①三重の意味があった小町の和歌


古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が数多くある。
そして六歌仙(小野小町・遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康彦・大友黒主)とは古今和歌集仮名序の中で名前をあげられた歌人のことをいうが、古今和歌集仮名序を書いたのは紀貫之だった。
紀貫之が書いた日記『土佐日記』の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」だった。
紀貫之は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。
古今和歌集仮名序には次のようにある。
「小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし」
やけに小町が女であることを強調しすぎてはいないだろうか。
また小野小町は穴がない体だったという伝説がある。
穴がない体とは男であるということではないのか。
小野小町は男なのではないか。
惟喬親王は小野宮という広大な邸宅に住み、自身も小野宮と呼ばれていた。
小野小町とは小野宮=惟喬親王のことではないのか?

そんなことを考えながら、私は小野小町の代表作ともいえる次の歌を鑑賞してみた。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに

この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされている。
しかしよくよく味わってみると、この歌には二重どころか三重の意味があるではないか!

妙性寺縁起は次のような伝説を伝えている。

再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)


三重というのは地名だが、『三重に重なった中に隠れる』という意味にもとれる。
何が三重に重なっているのだろうか。
もしかしたらそれは和歌に三重の意味をもたせたという意味なのかもしれない。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌の3番目の意味は・・・
私はこんなに堂々とした男らしい歌を他にしらない。

髄心院

髄心院(小町の邸宅跡と伝わる)


②小町の歌の一般的な解釈

まずこの歌の一般的な2つの解釈について見てみよう。

『花』は古今集の排列からすると桜だとされている。

そして『色』には赤・青・黄などの色(英語のColor)と、容色のふたつの意味がかかる。

『世にふる』は『世にあって時を経る』という意味だが『世』には男女関係という意味もある。
『ふる』は『降る』の掛詞である。
『ながめ』は『物思いにふける』という意味で、『長雨』と掛詞になっている。

このような技法を駆使しているため、この歌には二重の意味があるとされる。。

①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。

髄心院 梅

髄心院 はねずの梅

③色褪せたはねずの梅

小町の邸宅跡と伝わる,京都・,随心院にはたくさんの「はねずの梅」が植えられている。
はねずの梅は遅咲きで3月ごろに赤やピンクなどの鮮やかな花をつける。
はねずの花が満開になるころ,随心院では深草少将百夜通いをテーマにした『はねず踊り』が奉納されている。

随心院 はねずおどり

髄心院 はねず踊


また鮮やかな赤やピンクのはねずの梅の色のこともはねずといい、色褪せやすいことから『はねず』は『移る』の枕詞になっている。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌に詠まれた花とははねずの梅のことだと考えたほうがぴったりくる。

そうであるのに、なぜこの歌は桜の歌として古今集に取り入れられているのだろうか。

惟喬親王との世継ぎ争いに勝利して即位した惟仁親王(清和天皇)の母親は藤原明子だが、明子の父・藤原良房が次のような歌を詠んでいる。

染殿の后のおまへに花瓶(はながめ)に桜の花をささせたまへるを見てよめる
(染殿の后の前の花瓶に桜の花をいけてあるのを見て詠んだ。)

年ふれば 齢(よはひ)は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
(年を重ねたので齢は老いたが、美しい桜の花を見れば、悩みなどありはしない。)


染殿の后とは良房の娘の明子のことである。
桜の花のように美しい娘の明子は文徳天皇の后となって惟仁親王を産み、その惟仁親王は皇太子となった。
惟仁親王が即位して清和天皇となると、良房は清和天皇の摂政となって政治の実権を握った。
娘の明子が清和天皇を産んだので良房には悩みなどなかったのである。

この歌から当時桜は栄華の象徴だと考えられていたということがわかる。

桜の花の色は淡いピンク色である。
一方はねずの梅は鮮やかなピンク色をしている。
その鮮やかなピンク色のはねずの梅の花の色が長雨のために色が落ち、淡いピンク色の桜になったということで桜の歌として取り上げられたのではないかと思う。

髄心院 八重桜

髄心院 八重桜

④ぎなた読み

言葉遊びのひとつに『ぎなた読み』というのがある。
『弁慶が なぎなたを もって』と読むべきところを『弁慶がな、ぎなたを持って』などのように、区切りを誤って読むことをいう。
宮沢賢治の『どんぐりと山猫』という物語に『たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。』という文章がある。
正しくは『どってこ どってこ どってこと』と読むのだが、それを『どって こどって こどって こと』と読んだ人がいた。
これなども『ぎなた読み』だといえるだろう。
『ぎなた』や『こどって』という言葉はないが、小野小町はぎなた読みをしても意味が通じるように歌を詠んでいるところがすごい。

もう一度小町の歌を鑑賞してみよう。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
『わがみよにふる』は『我が身 世に ふる』と読むが、ぎなた読みで『わが みよに ふる(我が御代にふる)』と読めるではないか。

『御代』とは『天皇の治世』、『我が御代に』とは『私の治世に』という意味である。

惟喬親王は自分とは一字違いの異母弟、惟仁親王(後の清和天皇)との世継ぎ争いに敗れて小野の里に隠棲し、渚の院(現在の枚方市)などで歌会を開いている。
その歌会のメンバーの中に六歌仙の遍照、在原業平、喜撰法師(紀有常)らの名前がある。
また文屋康秀は小野小町に「三河に一緒に行きませんか」と誘っている。
小野小町が小野宮と呼ばれた惟喬親王のことであるとするならば、文屋康秀は惟喬親王と交流があったということで彼もまたクーデターのメンバーであった可能性がある。
クーデターに成功した暁には惟喬親王は即位して天皇になるつもりだったと考えれば、彼が『わが御代に』と歌を詠んだ意味が理解できる。
実際には彼らのクーデターは未遂に終わったようであるが。

高田祟史さんや井沢元彦さんが和歌とは呪術であるというような意味のことをおっしゃっていたと思う。
惟喬親王の歌会とは清和天皇のバックで政権を牛耳る藤原良房や藤原基経らを呪う目的で行われていたのかもしれない。


渚の院 淡墨桜
 渚の院跡 ここで惟喬親王の歌会が行われた。

⑤「ふる」の意味

『ふる』を古語辞典でひくと『降る』のほかに『触る』『旧る』『振る』という項目がある。

「触る」・・・①触る ②かかわりあう ③箸がつく ④男女が交わる
「旧る」・・・古くなる。昔と今とすっかり変わる
「振る」・・・①揺れ動く。②波や風が立つ。③震わす。④遷宮させる。⑤(男女関係などで)きらい捨てる ⑥割りあてる。

さて、『わが御代にふる』の『ふる』とはどの意味なのだろうか。
『旧る』で、『昔と今とすっかり変わる』という意味だろうか。
すると、『私の御代に世の中がすっかりかわる様子を見ることができるだろう』という意味になるだろうか。

髄心院 石楠花

小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院 石楠花

物部神道

私は『ふる』から物部神道を思い出す。
物部神道の本山・物部神社には「布留社(ふるのやしろ)』と呼ばれる振魂(ふるたま)神法が伝わっているのだ。

物部氏の祖神・ニギハヤヒは天から十種神宝(とくさのかむだから)と天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)を授かったとされる。
十種神宝とは、奥津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道反玉(ちかえしのたま)、蛇比礼(おのちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品々物比礼(くさぐさのもののひれ)のことをいう。

天璽瑞宝十種は、この十種神宝を用いて行う鎮魂の神法のことである。
「一ニ三四五六七八九十 不瑠部由良由良不瑠部(ひふみよいむなやこたり、ふるべふるべゆらゆらふるべ)」と唱え、死者を生き返らせる秘法であるという。

『ふるべ』は瑞宝を振り動かすこと、『ゆらゆら』は玉の鳴り響く音とされる。
『わがみよにふる』の『ふる』は物部神道の『ふる』と関係があるのではないだろうか。
すると『わがみよにふるながめせしまに』とは『私の御代に(死者を生き返らせるために)十種の神宝を振り動かす光景を見ることだろう。』というような意味なのかもしれない。

小野小町は男だった⑮ 『惟喬親王と髑髏本尊』 
↑ こちらの記事で私は惟喬親王は髑髏本尊になったのではないか」と説いたが、髑髏本尊は7年間抱いて寝ると8年目に命を持って語りだすとされている。
これは髑髏本尊が生き返ることだといってもいいだろう。

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け

五箇村村上家住宅に展示されていた鬼門除けの髑髏(猿の髑髏か?)

天(雨)の下

小野小町が雨乞いの際に詠んだといわれる歌がある。

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)

参照/小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』 


この歌の中で小町は天と雨をかけている。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに 
こちらの歌には「ながめせしまに」とあるが、これは「眺めせしまに」と「長雨せしまに」というふたつの意味をかけているとされる。
もしかして「長雨」の「雨」は「天」の掛詞になっているのではないだろうか?

そしてgoo辞書を調べてみると、次のように記されている。

くだ・る【下る/降る】
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/61845/meaning/m0u/より引用
初めて知ったが、降るは「くだる」とも読むのだ。

「わがみよにふる」は「わが御代に降る」→「わが御代にくだる」→「わが御代に下る」と変化するのではないだろうか。
「わがみよにふるながめせしまに」は「わが御代に降る長雨せしまに」→「わが御代に下る長天せしまに」と変化するということだ。
そうすることによって「下る長天」で、「長い天下」という言葉を導いているのではないか。

はねずの梅は長雨で色が褪せて栄華の象徴である桜となった。
私が天皇となって長い天下をおさめるときがきた。
昔と今はすっかり変わる。(死んだ私が生き返る?)
そんな眺めを私は見るのである。


古今和歌集仮名序で紀貫之はやけに小町が女性であることを強調していたが、一見女らしく見える歌の裏に、こんなに堂々とした男らしい意味が隠されていたのだ。

私は小野小町は男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えているが、(参照/小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
この歌は惟喬親王が詠むにふさわしい歌だといえると思う。

小野小町像 
髄心院の歌碑に描かれた小野小町像

後向きに描かれた小野小町。振り向いた小町の顔は・・・・。


end.

長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました!




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[2017/07/14 23:04] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)