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トンデモもののけ辞典⑩ 狒々


狒々

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「狒々」

①狒々のモデルはゴリラ?

狒々はもとは中国の妖怪で、次のような記述が残されている。

『爾雅』釈獣・・・狒狒は人に似て、ざんばら髪で走るのが速く、人を食う。

郭璞(人物)の注・・・梟陽(きょうよう)のことである。
※「海内南経」には「梟陽国は人面で長い唇、黒い体に毛がはえており、踵は反対に反りかえっている。人が笑うのを見て笑う。これを捕らえるには左手に竹の管を持つといい。」とある。

『山海経』・・・その姿は人の顔で唇が長く、体は黒くて毛が生えており、かかとが曲がっている。人を見ると笑う。

マントヒヒという動物がいるが、これは伝説上の動物・狒々に似ているということで名付けられたようだ。
また、狒々が黒い体毛をもつとあるのに対し、マントヒヒの体毛は明るい灰色である。

狒々のモデルはゴリラかもしれない。

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ゴリラ

ゴリラはアフリカの熱帯雨林に生息しているようだが、そのゴリラの噂が中国に伝わって狒々という動物が創作されたのかもしれない。

⓶岩見重太郎の狒々退治

日本る、岩見重太郎が狒々を退治したという話が伝えられている。

岩見重太郎は小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男だった。
その父が広瀬軍蔵によって殺害され、岩見重太郎は敵討ちを決意して旅にでる。
その道中で彼は、狒々を退治したという。
その後の1590年に、天橋立で広瀬を討ち、叔父の薄田七左衛門の養子となり、薄田兼相(すすきだかねすけ)と名乗ったとされる。
薄田兼相は、小早川隆景の死後浪人となり、のちに豊臣氏に仕官した。
大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて陣頭指揮を取ったたが戦死した。

薄田兼相は薄田隼人正兼相とも呼ばれる。隼人正(はやとのしょう)とは役職のようである。

③野里住吉神社の狒々退治伝説

大阪市西淀川区 野里住吉神社にも石見重太郎の狒々退治伝説が伝えられている。

つて野里村は風水害と疫病の流行が相次ぎ、『泣き村』と呼ばれていた。
こういったことがおこるのは神様が怒っているからに違いない。
村人たちはそう考え、毎年一人の女性を生贄として神にささげていた。
ある時、この町に岩見重太郎という武士がやってきて言った。
「神は人を救うもので人間を犠牲にしたりしない。」
そして乙女の代わりに自分が唐櫃に入った。
翌朝、村人たちが神社に行くと、武士の姿はなく、境内は血まみれになっていた。
血痕は隣の申村まで続いており、大きな狒々が死んでいた。

野里住吉神社で毎年2月20日に行われている一夜官女祭は、かつて女性を生贄として神にささげていた習慣に基づくものである。

野里住吉神社

野里住吉神社 一夜官女祭 ※お稚児さんたちは人身御供役である。

④犬の早太郎が狒々退治をした

早太郎(はやたろう)とか疾風太郎とかいう名前の犬が狒々退治をしたという伝説もある。
この犬の早太郎とは薄田隼人正兼相(岩見重太郎)のことではないか、という説がある。
薄田隼人正兼相(岩見重太郎) の隼人正を語呂合わせで『早』として、『太郎』をつけたのではないかというのだ。

薄田隼人正兼相(岩見重太郎) =早太郎、というのはなるほど、と思うが、なぜ早太郎は犬にされているのだろうか?

隼人とは南九州の民のことである。
奈良時代、隼人は強制的に都につれてこられて宮門の警備をさせられていたが、
警備をするにあたり、犬の鳴き声をまねていた。

(鷹狩では鷹のかわりに隼を用いることがあり、鷹狩のさいには鷹狩犬と呼ばれる犬を用いることもあった。そのため隼人は犬の鳴きまねをしていたのではないかと思う。)

そのため薄田隼人正兼相は犬の早太郎にされたのではないだろうか。

あるいは、もともと犬の早太郎の話だったのを、隼人正という役職名から、薄田兼相が狒々退治をしたなどと言う話ができたのかもしれない。

⑤犬猿の仲?

秀吉はその容貌から「猿」と呼ばれており、たいへん女好きだった。
日本における狒々とは、大きな猿の姿をした妖怪で、人間の女性を襲うとされる。
狒々とは秀吉のことなのかも?

狒々が秀吉のことだとすると薄田隼人正兼相が秀吉を退治したということになるが
薄田隼人正兼相は秀吉の臣下で、薄田隼人正兼相が秀吉に逆らったなんて話もない。

事実ではないが、犬猿の仲(犬と猿は仲がわるい)ということで
秀吉を狒々、薄田隼人正兼相を犬として、野里住吉神社の伝説は創作されたのかもしれない。

薄田隼人正兼相=犬   豊臣秀吉=猿

しかし、この説は自信がないw

⑥源義平の狒々退治

金山町祖師野には源義平が狒々退治をしたという伝説も残されている。

昔、祖師野村(岐阜県下呂市金山町祖師野)に狒々が現れては村の若い娘を食べていた。
1159年、源義朝の嫡男、源義平(頼朝・義経の兄)が集兵のため祖師野村を通りかかり、村人たちを可哀想に思って狒々を退治した。
村人たちは源義平が狒々を倒して残していった太刀を「祖師野丸」と名づけ祖師野八幡宮で大切に保管していた。
200年ほどのちに、隣村の代官がその太刀を持ち出すと、村に天変地異がおき、神社に戻すとおさまった。

⑦親の仇討ちには狒々退治が必用?

岩見重太郎と源義平には共通点がある。

【岩見重太郎】
岩見重太郎の父親・岩見重左衛門(小早川隆景の剣術指南役)が広瀬軍蔵に殺されため、重太郎は仇討ちをするため各地を旅した。
旅の途中、狒々退治をするなどし、1590年、天橋立で広瀬軍蔵を討った。
その後、叔父の薄田七左衛門の養子になった。

【源義平】
源義平の父親・源義朝は1160年に長田忠致に殺された。
このとき源義平は飛騨で兵を集めていましたが、義朝が殺されたことが伝えられると、その多くは逃げ去った。
源義平は自害しようと考えたが、自害するくらいなら平清盛か平重盛と相討ちしようと京へ向かった。
石山寺に潜んでいたところ、難波経房の郎党に生け捕られ、六波羅で清盛の尋問を受けた。
源義平は難波経房に「上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言った。
難波経房が「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「雷になって蹴り殺してやる」といった。
こうして義平は20歳で斬首された。
8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津の布引の滝を訪れたとき、雷に打たれて死んだ。

岩見重太郎と源義平はどちらも親の仇討ちをしようとしている。
岩見重太郎が仇討ちを果たしたのに対し、源義平は仇討ちを果たせず亡くなってはいるが。
親の仇討ちをする際には、まず狒々を倒さなければいけないというような考え方があったのかもしれない。

⑧岩見重太郎は陽、源義平は陰

また、岩見重太郎と源義平には刀という共通点もある。

岩見重太郎は刀で親の仇を討ち取っている。

一方の源義平は「祖師野丸」という太刀を祖師野八幡宮に残していったとある。

⑦の伝説では獅子退治する前に、義平は飛騨で兵を集めていたとある。
そのあと祖師野村で狒々退治をして京へ向かい、捕らえられて殺されたと考えられる。

つまり、源義平は太刀をもたずに京へ向かったということだと思う。

実際には刀は持っていっただろう。
あくまで伝説として、の話である。

岩見重太郎は刀を持っていたので親の仇討ちをすることができた。(陽)
一方、源義平は刀を置いていったので親の仇討ちをすることができなかった。(陰)

ということではないだろうか。



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