小野小町は男だった⑭ 『男神を女神に変える呪術』 よりつづく~
①惟喬親王は髑髏本尊だった?
五箇村村上家住宅に展示されていた鬼門除けの髑髏(猿の髑髏か?)
小野小町は男だった⑫ あなめ小町『小野小町は髑髏本尊だった?』 において、私は「小野小町は髑髏本尊だったのではないか」と書いた。
「あなめ小町」は小町の髑髏から薄が生えて髑髏が「あなめ、あなめ(痛い、痛い)」と言ったという話である。
真言立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作るが、仕上げにはお白粉を塗り、紅をさして美女か美少年のように化粧するそうである。
そこで絶世の美女といわれる小野小町とは髑髏本尊なのではないかと推理したのである。
そして
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 の記事で、「小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか」と書いた。
こう考えると小野小町が穴のない体だといわれていることの説明がつく。
また三国町や三条町は紀氏の女性であり、惟喬親王は三条町(紀静子)の息子であるため「小町」と呼ばれたのではないかと考えられ、なぜ「小町」と呼ばれたのかについての説明もつく。
小野小町=惟喬親王だとすると、髑髏本尊であったのは惟喬親王だということになる。
立川流は鎌倉時代に開かれた真言宗の宗派だが、経典は平安時代に空海が唐より持ち帰った理趣経だし、平安時代に立川流につながる信仰がなかったとはいえない。
また立川流は江戸時代に迫害を受けて消滅したとされるが、1270年に成立した『受法用心集』には『真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒となっていた』とあるほど、流行った宗教だった。
そこで惟喬親王の伝説をたどってみると、惟喬親王もまた髑髏本尊との関連性が伺える。
②惟喬親王とろくろ首
まず、惟喬親王が巻物が転がるのを見て、木地師が用いる轆轤(ろくろ)を発明したという伝説がある。

上の写真は許可を得て、木地師資料館(滋賀県東近江市蛭谷町)に展示されていたろくろの絵を撮影させていただいたものである。
ろくろ首という妖怪はこの木地師が用いる轆轤の付喪神だと考えられる。
轆轤を長く伸びた首に、轆轤の先端にあてた器を頭に喩えたのだろう。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hokusai_rokurokubi.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
葛飾北斎 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
ウィキペディアには次のように記されている。
「大別して、首が伸びるものと、首が抜け頭部が自由に飛行するものの2種が存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%8F%E3%82%8D%E9%A6%96 より引用
蘇我入鹿や玄昉、平将門らの首が飛んだという伝説があるが、彼らは首が抜け頭部が自由に飛行するタイプのろくろ首だといえる。
首が抜け頭部が自由に飛行するタイプのろくろ首https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sorori_wandering_soul.jpg?uselang=jaよりお借りしました。
作者 不明 (scanned from ISBN 978-4-00-302572-7.) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
惟喬親王がろくろを発明したというのは間違いである。
というのは、奈良時代に木製の百万塔が轆轤で制作されているのだ。
http://www.narahaku.go.jp/collection/d-823-0-1.html惟喬親王は平安時代の人物で、この百万塔は惟喬親王が生まれる以前に作られている。
それなのになぜ惟喬親王がろくろを発明したなどと言われているのだろうか。
それは惟喬親王がろくろ首であるという意味なのではないだろうか?
つまり、惟喬親王の頭部は胴体から切り離されたということなのではないだろうか?
③惟喬親王と漆次に、惟喬親王が京都嵐山の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩に漆の製法を授かったという伝説がある。
②で惟喬親王が轆轤を発明したという伝説をご紹介したが、轆轤を使って作るお椀などには漆を塗る。
法輪寺の伝説はそういったところから創作されたものではないかと、一般的には考えられている。
しかし、漆は立川流の髑髏本尊とも関係がある。
髑髏本尊を作るための髑髏は高貴な身分の人のものほどいいとされていた。
そしてその髑髏に漆と和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作った。
漆は髑髏本尊を作るのにかかせない材料だった。
そういったところから、惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったなどという伝説が生じたのではないかと思ったりもする。
惟喬親王の寵臣であった在原業平は多くの女性たちと関係を持ったプレイボーイとして知られているが、それは髑髏本尊を作るのに必要な和合水を手にいれるためだったのではないだろうか。
また髑髏本尊を作る作法に髑髏本尊の前で性行為を重ねるというものがあり、そのため在原業平は多くの女性と関係を持ったのだとも考えられる。
法輪寺
③惟喬親王と漆器
上の写真は木地師資料館に展示されていた惟喬親王の神像である。
惟喬親王は轆轤を発明したという伝承があるところから木地師の祖として信仰されている。
惟喬親王が茶碗を持っているのはそのためである。
黒田官兵衛ゆかりの地にいくと黒田官兵衛を描いたポスターが貼ってある。
見ると、官兵衛は茶碗をひっくり返したような兜をかぶっている。
確か大阪城にも同様の兜が展示されていたと思う。
https://matome.naver.jp/odai/2139711378115060501官兵衛の兜は茶碗そっくりだが、これを頭に被る兜としたのは、茶碗にどくろ=頭蓋骨のイメージがあったためではないだろうか。
「茶の湯の茶碗はドクロ杯をイメージしたものだ」とおっしゃっている人がいたが、全くそのとおりだと思う。
④『嵐=山+風』からイメージされる切り離された頭と体遍照・在原業平・喜撰法師(紀名虎または紀有常)・文屋康秀・小野小町・大友黒主のことを六歌仙といい、惟喬親王の歌会のメンバーにこのうちの遍照・在原業平・紀有常らの名前がある。
彼らは歌会と称して実は惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを計画していたのではないかとする説がある。
そして文屋康秀は小野小町に「一緒に三河へ行きませんか」と誘っている。
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 で考察したように、小野小町と惟喬親王は同一人物だと考えらえるので、文屋康秀もまたクーデター計画のメンバーであった可能性がある。
その文屋康秀は次のような歌を詠んでいる。
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしと言ふらむ
(吹くたびに秋の草木が萎れてしまうので、山風を嵐というのだろう。)嵐=山+風という言葉遊びである。
さきほど惟喬親王が法輪寺に籠って虚空蔵地蔵より漆の製法を授かったという伝説を紹介したが、この法輪寺は京都の嵐山にある。
そして山という漢字を用いた熟語に山頭、風という漢字を用いた熟語に風体がある。
嵐を山と風に分解するとことで、(山)頭と(風)体が分離するイメージを持ってしまうのだが、考えすぎだろうか。
法輪寺⑤針供養
惟喬親王とゆかりの深い法輪寺だが、12月8日には針供養の行事も行われている。
小野小町は『男を受け付けない体』=『穴のない体』だったので、穴のない針のことを『小町針』といい、それが訛って『待ち針』というようになったと言われている。
法輪寺で針供養が行われているのは、惟喬親王が小野小町と同一人物であるためではないだろうか。
法輪寺 針供養※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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