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太陽の木 と 月の木⑬ 熊手八幡宮は月の神?



①熊手八幡宮hpまとめ

丹生酒殿神社摂社・鎌八幡宮、兄井の鎌八幡宮の元社ともいえる、香川県の熊手八幡宮のhpの記事については
過去にすでに部分的にご紹介したが
改めて目を通しておこう。



❶海岸寺の東700mほどの処に、空海の産土神社(生まれた土地を司る神)・熊手八幡宮がある。

❷空海の母、玉依御前のお屋敷が近所にあり、ここに安産祈願をした。

❸江戸時代、紀州藩の儒者・仁井田好古によって編された「紀伊続風土記」の記述
「人皇四十九代光仁天皇 宝亀五年六月十五日 弘法大師(空海)讃州屏風浦に御誕生あり。
日本の風俗に随ひ白方村の八幡宮を氏神と崇め給ひ、延暦廿三年入唐の砌深く大菩薩に祈誓ましまし云々」

❹弘仁十年(819)、空海が社殿を造営し、ご神体八体と釈迦尊像一体を刻み安鎮、嵯峨天皇の勅額を賜って鳥居にかかげた。ここに供僧坊舎四十八宇、宮仕えの巫女数十人が置かれた。

❺神功皇后が三韓征伐の帰途、風浪の難を避けて上陸されたという伝承に因む古社。
皇后は長鉤(熊手)と旗竿を土地の者に与えて、従者の渡辺一族の遠祖にこの地に留まって祭祀するよう申し付けた。

❻欽明天皇の頃、応神天皇(誉田別尊)を主祭神とする八幡宮が全国的に祭られるようになり、白方でも神功皇后(応神天皇の母)ゆかりの地であることから熊手八幡宮、もしくは白方八幡宮として祭られることになった。

❼空海は生前、八幡大菩薩と対面して、お互いの姿を写し合ったとする伝承がある。
八幡神は、「わたしとあなたはもと同一体であり、上人の居る所へは必ず影と形のごとく追い随うつもりである」といった。

❽空海が高野山の奥の院に入定すると、白方の八幡神は生前の約束を果たすため、ご神体である熊手と旗竿を白龍と化し、高野山へ向けて飛ばしたところ、ご神体は高野山の管内の伊都郡兄井村の松樹に掛かった。
ご神体は葛城の峰まで光を放った。

❾同郡大畑村の鬼五郎、次郎は、諏訪次郎右エ門へも相談して、これを高野山に報告した。
高野山はこのご神体を奉迎し、丁重にお祀りした。

❿高野山では、行人方の各院が持ち回りでご神体の祭祀を行った。(巡寺八幡宮)
萬治二(1659)年の記録では約六十ヶ院が参加していた。
担当の院では半年ほどの間、「梵焼供養一千座、尊法供養一千座、三時長日之修法不断之明燈」のように丁重に扱った。

⓫現在では、有志八幡講として十八ヶ院が二ヶ月毎に巡寺しているが、非公開の祭事で詳細は知られていない。

⓬明治二年(1869)の神仏分離令の際、同山から兄井村の諏訪神社へ仮殿を建てて遷座した。
その後、近隣の小社が合祀され、熊手八幡は三谷の丹生酒殿神社へ移さた。
ご神体の熊手があまりに長いため、社殿内に入れることができず、軒に掛けられていた。
さわると、しびれたり、火花が散ったりしたため、先端部は鉄製だったが、木製の柄を短く切って納めた。
ところが、台風で大木が倒れ社殿と熊手を納めた木箱が壊れた。

⓭その後、建て直された。(現在三つある社のうち左手の少し横長い社)社前に紀伊続風土記の碑が建てられている。

⓮同地では、紀伊続風土記の記述とは異なる伝承を伝える。
それによれば、凱旋された神功皇后が紀ノ川をさかのぼって兄井まで来られ、ここで熊手を川に沈めて奉納した。
のちに、大畑村の庄屋が朝日の昇るたび川が光るのを見つけ、川をさらったところ九尺もある熊手が見つかった。
これをお祀りしたのが兄井の熊手八幡宮で、空海が高野山を開かれる時、ご自身の産土神が八幡神であることからご神体を山上に持っていった。

⓯神功皇后が旗を掛けたとされる松が「旗掛け松」として戦前まで残っていた。

⓰兄井と三谷に祀られている熊手八幡宮は、現在は鎌八幡宮として知られる。
その由来について。
草刈をしていた宮司さんが一休みしようとそばにあったイチイの木に鎌を打ち付けて、そのまま一晩忘れていた。
翌日、鎌を抜こうとしたところが、かなり深くめり込んでいて抜けなかった。
八幡神がこの木に乗り移られたのだろうということになり、願い事がある者は鎌を打ち付けるという奇風が始まった。
願い事がかなう場合はどんどんめり込んでいくが、かなわない願い事は鎌が押し出される。

⓱江戸時代の兄井には、奉納用の鎌を売る店が崇敬あった。
紀伊続風土記には絵がある。

⓲萬治二年七月二十一日のこと、往生院谷の本願院に鎮座された翌日の御旗懸法会の後、下総の正福寺から留学の客僧が荘厳を拝することを欲してひそかに神前に入った。
僧は神宝の矢を取り、「たとえ神物でも多勢には敵わないだろう。神力など怪しいものだ」といった。
その晩、神人が僧の前に現れ、こういった。
「吾はこの神の使いなり。汝みだりに神徳を軽んじ、霊器を汚す。いま現に一箭の弓勢を知らしめん」
 神人は僧にむかって弓を引いてきしぼったので、僧は叫び声をあげて気絶した。
僧が気が付くと、僧の袖を貫いて一尺五寸ほどの矢が席に突き刺さっていた。
僧はこの矢を持ち帰り社をたてて新八幡と称して祀った。

⓳天正十年(1582)三月上旬、織田信孝を大将とする軍が高野山を焼き討ちしようとしていた。
橋口隼人に命じて防御させ、一山の大衆は八幡宮(当時は宝積院)の神前に集い、五壇の法を修して怨敵退散を祈った。
すると、神前の御熊手が動揺し、数千の白鳩が山の四方から現われ、麓をめざし飛んだ。
その声はまるで鯨波のようで、敵兵は数万の猛勢が襲って来たと勘違いし、逃げ帰った。

⓶熊手八幡宮には御神木に鎌を突き立てる習慣はなかった。

熊手八幡宮では熊手をご神体としていて、御神木に鎌をつきたてて祈願する習慣はないようである。
そして熊手八幡宮のご神体の熊手と旗竿は、兄井→高野山→兄井→丹生酒殿神社と移され、
現在は丹生酒殿神社の向かって左の社殿に、収められているようである。
熊手の長い木製の柄は切断された形で。

そして、鎌を奉納する習慣については、次のように説明されている。

⓰兄井と三谷に祀られている熊手八幡宮は、現在は鎌八幡宮として知られる。
その由来について。
草刈をしていた宮司さんが一休みしようとそばにあったイチイの木に鎌を打ち付けて、そのまま一晩忘れていた。
翌日、鎌を抜こうとしたところが、かなり深くめり込んでいて抜けなかった。
八幡神がこの木に乗り移られたのだろうということになり、願い事がある者は鎌を打ち付けるという奇風が始まった。
願い事がかなう場合はどんどんめり込んでいくが、かなわない願い事は鎌が押し出される。

③月の輪熊は月の神?

私は羽田空港においてあった牛の像を思い出した。

mooon.jpg

千住 博さんの「mooon」という作品で、説明板には次のように記されていた。
「大古の昔、月の形に似た角を持つ牛は天体の運行を司る使者として、人々から崇められてきた。」

興味を持って調べてみたところ、古代メソポタミアで月の神・シンが信仰されていることがわかった。
ウィキペディアには次のように記されている。
シンボルは三日月で、三日月に似た角を持つ牡牛と深い結びつきを持つとされた。
より引用

このように、動物のある部分が何かに似ていれば、その何かの神とする信仰があったのである。
そして、熊といえば、月の輪熊だ。

ツキノワグマ

月の輪熊と言う名前は、胸に三日月型の白い模様が入っていることに由来する。
熊は月の神として信仰されていたことだろう。

また熊の手をみると、爪の形が三日月型をしていて、鎌に似ている。

熊の爪

日本にはヒグマと月の輪熊が生息しているが、ヒグマの生息地は北海道で、本州に生息しているのは月の輪熊のほうである。


↑ 上のページによれば、四国と紀伊半島ノツキノワグマは遺伝子が同じグループに属し、
四国の個体群は十数頭から多くても数十頭と推定され、絶滅が心配されているなどと記されている。

四国にも熊が生息していたのだ。
つまり、熊手八幡宮は、月の輪熊=月の神を祀る神社であると考えることができる。

舞妓さんと月



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